女真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
女真(女眞、じょしん)は、女直(じょちょく)ともいい、中国東北部の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南のロシア極東地域および朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族。10世紀ごろから記録に現われ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになった。[1]民族の聖地を長白山としている。
目次 |
[編集] 概要
もともとは、女真以前に満洲に居住していた黒水靺鞨が女真と称されるようになったものとされる。主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を貿易していた。略奪遠征にも従事し、1019年に船で対馬・壱岐・九州に刀伊の入寇と呼ばれる侵入をして藤原隆家ら大宰府官人に撃退された集団は、女真族によって構成されていた。
歴史に現れて以来、遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれていた。12世紀はじめに完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。金の時代に、漢字や契丹文字の影響で女真文字をつくったが、元・明の間に忘れ去られた。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、中原から女真の集団は消滅した。
一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に従属することになった。元代の女真は満州から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本遠征(元寇)にも女真兵が加わっている。元の滅亡後、女真は小集団ごとに明に服属し、モンゴルから離れていった。また、元の滅亡に前後して朝鮮半島北部の女真居住地域は李氏朝鮮に併合され、その支配を受けるようになった。15世紀から16世紀にかけて、満州最南部から朝鮮半島北部の女真人たちは、明と朝鮮に両属して朝鮮に朝貢することもあったが、やがて次第に半島北部から女真人の姿は失われていった。
明は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。明代後半には、女真は大きく2つのまとまった集団である建州女直(自称は「マンジュ」(満州))5部・海西女直(自称は「フルン」)4部と、それより東方に住んでまとまりの弱い野人女直(この当時の野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった)と呼ばれる4部からなっていた。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年に後金を建てた。
1635年にホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含む上に、モンゴル高原の契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満州族(満州民族の項参照)に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔として「後金」と名乗っていたが、民族名の変更に伴って翌1636年に国号も「清」に改めた。
[編集] 脚注
- ^ たんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。
[編集] 参考書籍
- 孟森『満州開国史』上海古籍出版社、1992 ISBN 7532512983