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元寇 - Wikipedia

元寇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

元寇(げんこう)とは、日本鎌倉時代に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国)及びその属国高麗によって2度にわたり行われた日本侵略の、日本側の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。中国語では元軍侵日戦争と称する。

『蒙古襲来絵詞』より。文永の役における戦闘。「てつはう」による攻撃の場面。
『蒙古襲来絵詞』より。文永の役における戦闘。「てつはう」による攻撃の場面。
玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)。弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。写真は当時のものを再現したもの(2005年5月撮影)
玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)。弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。写真は当時のものを再現したもの(2005年5月撮影)

目次

[編集] 経緯

[編集] 外交交渉から侵攻まで

1260年モンゴル帝国大ハーン[1]に即位した後のいわゆる「」(大元ウルス、大元朝、元朝)の皇帝クビライ・カアンは、1268年日本文永5年・大元朝の至元5年)に南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗は航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライはこれを却下、再び高麗に命令し、1268年正月に大宰府へと到着。大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)[2]と高麗王書状[3]を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。

鎌倉幕府は5代執権北条時頼没後その嫡男北条時宗が若年のため傍系の6代北条長時、ついで7代北条政村が執政し、これを漸く成年に達した連署北条時宗らが補佐する体制が敷かれていたが、この危機を前に1268年3月には時宗が8代執権に就任。幕府では関東申次西園寺実氏に託して蒙古国書を朝廷へ改装し、黙殺を決定させる。さらに幕府は後嵯峨上皇没の直後の2月騒動で時宗の庶兄北条時輔等を粛正し統制を強化、さらに諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。

同年には再び派遣された使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[4]が来訪したがこれも黙殺した。

1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。

『元史高麗伝』によると当初より3つの案が検討された。

  1. 日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
  2. まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。
  3. 高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。

『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定されたとされる[5][6]

クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。この時の建造費は高麗が負担し、大小900艘と言われる船をわずか半年の突貫工事で完成させた。これらの動向を察知していた鎌倉幕府は、1272年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じた。元は1273年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。

[編集] 文永の役

文永の役
戦争元寇
年月日1274年10月3日~21日
場所九州北部
結果:元側の撤退
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 高麗連合軍
指揮官
少弐景資 征東都元帥 忻都→忽敦
諸将
  • 右副元帥 洪茶丘
  • 左副元帥 劉復亨
中軍
  • 都督使 金方慶
    • 知兵馬事 朴之亮・金忻
    • 副使 任愷
左翼?
  • 右軍使 金侁
    • 知兵馬事 韋得儒
    • 副使 孫世貞
右翼?
  • 右軍使 金文庇
    • 知兵馬事 羅裕・朴保
    • 副使 潘阜

(『高麗史』より)[7]

戦力
不明 モンゴル・漢軍20000人

高麗軍5600人

高麗水夫6700人

計32,300人

損害
不明 不明(戦死は日本の十分の一)ビジュアル日本の歴史より
'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門
'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門

1274年10月(日本の文永11年・元の至元11年)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。

10月5日対馬10月14日壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。

壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。

元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道浜つづいて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸した。博多湾西部から上陸した兵は、麁原(現在の祖原山)、別府に陣を構えた。

日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』によると、百道浜より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の元軍を撃破した。『竹崎季長絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より500メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。

博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが殿軍の少弐景資が追撃してきた劉復亨を射倒すなどして、内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。

一方、元軍は博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

『高麗史節要』巻十九、二十五に撤退決定の軍議の様子がある。

元軍司令官 忽敦「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
高麗軍将軍 金方慶「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
元軍司令官 忽敦「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」[8]

撤退は決定したが、当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。

夜中、炎上する筥崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。[要出典]

定説では、日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。詳しくは後述の神風を参照。

元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。

なお、文永の役は侵攻というより、威力偵察ではないのかとの説もある。根拠として、元史日本伝には元軍の矢がすぐに尽きたという記述が見られることと、3万人程度(中には非戦闘員もいる)という少ない兵力からこの説も根強い。元史日本伝は元側の記録であり、自分達で矢が尽きたと記録しているため信憑性は高い。本格的に侵攻し領土とする、または服属させるには、3万人程の人数で、当時の主力武器である弓の矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくい。元軍は大陸での野戦でも、騎馬兵の機動力を生かし、敵と一定の距離を保って馬上からの騎射で相手を損耗させる事を主な戦法の一つにしている。[要出典]

[編集] 弘安の役

弘安の役
戦争元寇
年月日1281年5月21日~7月7日
場所九州北部
結果:暴風雨により元軍壊滅
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 高麗連合軍
指揮官
北条実政 総司令官

阿塔海

諸将
范文虎
李庭
忻都
洪茶丘
金方慶

戦力
約40,000人 142,029人
損害
不明 110,000人戦死・溺死(「ビジュアル日本の歴史」より)

1275年(日本の建治元年・元の至元十二年)、クビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使者を日本に送る。北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場(江ノ島付近)で杜世忠以下5名を斬首に処した(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる)。

史跡元寇防塁東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する(2004年8月撮影)。
史跡元寇防塁
東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する(2004年8月撮影)。

1279年(日本の弘安二年・元の至元十六年)、元は江南軍司令官である南宋の旧臣范文虎の進言により、使者が殺されたことを知らないまま周福を正使とする使者を再度送ったが、大宰府にて全員斬首に処される(総計、5名という説が有力)。

この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった(後項参照)うえ、クビライは逃げ出した水夫より使者の処刑の報を知り、特に、通常の使者よりも高位(礼部侍郎)であった杜世忠の処刑に腹を立て、日本への再度の侵攻を計画し、1280年には侵攻準備のため征東行省を設置している。

1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍10万、計14万の軍が日本に向けて出発した。

しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである(現代戦においては上陸側は守備側の3倍の兵力がなくては勝てないと言われている)。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3メートル、幅2メートル以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが、日本軍の斬り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を周知していた日本軍は優勢に戦い、元軍を海上に撤退させた。さらに小舟での襲撃などにより元軍を悩ませる武士も少なくなかった(なかには河野通有などのように石弓によって重傷を負った武士もいた)。

『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における竹崎季長らによる元の軍船への斬り込みを描いたもの
『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における竹崎季長らによる元の軍船への斬り込みを描いたもの

江南軍は、総司令官右丞相阿刺罕が病気のため阿塔海に交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえず殺害したが、交流のあった南宋人は捕虜として命を助け、大切に庇護したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。

なお、弘安の役における両軍の兵力は、元・高麗軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約4万だとされる。

[編集] 日本の被害

「伏敵編」所取の「高祖遺文録」に次のように残っている。この「遺文録』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。

《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》

「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれている。壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。この史料を取めている「伏敵編」には、「按(あんずるに)」として、編者のコメントがある。 ここでは、高麗の前身の国家である「百済」を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している

『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」《皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。》(「類纂高祖遺文録」、改題「類纂日蓮聖人遺文集平成版」)

また他所で、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。「八幡愚童記」(伏敵編」所収)に は、《同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。》 とある。「男女」が「捕らる」のだから、捕囚され強制連行されたことにほかならない。

その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」とおどす風習などとなり全国に広がった。モッコの子守唄(青森県 木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。

[編集] 影響

クビライは本格的に3度目の日本侵略を計画し、1287年に一旦解散した征東行省を再度開設し、高麗忠烈王丞相に就任したが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、クビライの死と共に完全に頓挫した。なお、正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。

文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。

弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされなかったため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。

一方、当時の日本に「元に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏(しゃくぶく)や祈祷による結果である」との認識が広く存在していた。実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。

当時の日本国内では、対元戦争を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識されていた。これを天人相関思想というが、日本を救った暴風雨を神風と呼ぶこととなったのも、この天人相関思想に起因するという説が有力となっている。また、神風によって日本が救われたという出来事は「神国思想」(=日本は神国なのだから負けるはずがないという考え)を日本人に広く浸透させ、それが太平洋戦争末期の日本軍や国民思想の非合理性の温床となり、神風特別攻撃隊をはじめ数々の悲劇を生んだとも言われている。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。

[編集] 元寇の諸相

[編集] 日本侵略の理由

文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本侵略を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。

それは、

  • 日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。
  • ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。

これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。

威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。

一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。

有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまう。

近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。このため、戦争に勝利した暁には屯田を目的としていたと考えられている。これをもって侵略の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、南宋の10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている。元にとっては忠誠心のない軍を侵略に使用し、遠い日本に所払いするという一石二鳥の作戦であったと思われる。

[編集] 高麗の関与

高麗史』によると1272年に、高麗王世子の諶(しん、後の忠烈王)が、大元朝クビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」[9]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある[要出典]。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた[10]。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の3策のうち、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

[編集] 蒙古国書・元使殺害

元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね他の歴代中国王朝の国書と比べて驚くほど低姿勢であると見ているのに対して、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。wikisource:蒙古皇帝国書を参照のこと。ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。

また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。

元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙であると評価する論者と、元の2回目の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。

[編集] 神風

文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されている。高麗の史料、『高麗史』などには、撤退途中に風雨が起きて多数が座礁した事が記されている。しかし日本側の史料にその記載が無い。 気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。

文永の役に関しては、台風の可能性はほぼなかったと、今日では見なす者が多い。弘安の役に於いても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。

なお、軍歌の「元寇」の歌詞にも『弘安四年夏の頃』という一節があるが、文永の役に関しては何も触れてはいない。

[編集] 軍事面

かつては元の集団戦術に対して、当時の日本は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われており、また元軍には毒矢、てつぽうなどの最新兵器のために各地で日本軍は苦戦したと言われていてた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出し、日本の武士達も集団戦術に対応したと考えられる。

日本側の弘安の役での戦術や対策としては、

  1. 先述の防塁に楯を用いた防御。
  2. 夜間、日本側からの小舟に分乗して、元船を奇襲。狭い船内での斬り合いでは、日本の武士の方に分があった。
  3. 合流するはずだった江南軍は、総司令官の交替と多人数による混乱により統率が取れず、東路軍との合流が1ケ月半ほど遅れた。
  4. 一方、東路軍は度重なる日本軍のコマンド作戦により、博多沖の海上で釘付け状態となり、やがて食料や水不足と発生した疫病により「兵糧攻め」と同じ状態になって疲弊していた。
  5. 江南軍が遅れて出発したが、そのために台風時期と重なり、合流前にほぼ壊滅状態。博多沖の東路軍も時間差で、同じ台風ないしは熱帯低気圧によって壊滅したと見なされている。

その他、敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて、日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し、連戦連勝を重ねてきた得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていた。また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため、士気が低かったと思われる。江南軍のほとんどが嘗ての南宋の兵であり、放っておけば社会不安の要因となる彼らを厄介払いする目的もあったと言われる[11]。(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず、江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない。)

[編集] その他の説

なお、国家によっては異なる歴史解釈を行なっている。例えば、韓国の高等学校歴史教科書(国定)[12]から引用すれば、

元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵器の供給、兵士の動員を高麗に強要した。
こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。
元は日本遠征のため、高麗に征東行省という役所を置いた。
征東行省は日本遠征が失敗した後には高麗との公的連絡機関として運営された。

と記述されており、高麗は元に強制されて日本へ兵を送ったという解釈を行なっている。

[編集] 史料

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ 1271年(同国の至元8年)に国号を漢語で「大元」と改められた。「元」とは後世の略称。
  2. ^ 南都東大寺尊勝院所蔵で東大寺宗性筆の蒙古國牒状『調伏異朝怨敵抄』には「上天眷命大蒙古國皇帝、奉書日本國王、朕惟自古小國之君、境土相接、尚務 講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之 民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦 已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚 恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相 通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣、至元三年八月日」とある。なお同一の記載が「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」にもある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。
  3. ^ 「右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」
  4. ^高麗史節要』には「初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頥指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。」とある。
  5. ^ 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
  6. ^ 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」とある。
  7. ^高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王元宗十五年冬十月乙巳(1274年11月2日)条より。
  8. ^高麗史節要』巻十九、二十五頁 元宗十五年十月十一日条「(前略)倭兵大敗、伏屍如麻。忽敦曰、「蒙人雖習戰、以何加走」。諸軍終日戰。及暮、乃解。方慶、謂忽敦・茶丘曰、「我師雖少、巳入敵境。人自爲戦、即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰」。 忽敦曰、「兵法『小敵之堅、大敵之擒』。 策疲兵戰大敵、非完計也」。
    高麗史金方慶列伝にもほぼ同一の文章が載る。
    『高麗史』巻百四 列伝十七 「(前略)倭兵大敗、伏屍如麻。忽敦曰、「蒙人雖習戰、以何加走。諸軍、與戰」。 及暮、乃解。方慶、謂忽敦・茶丘曰、「兵法『千里縣軍、其鋒不可當』。我師雖少、已入敵境。人自爲戦、即孟明焚船、淮陰背水也。請復戰」。 忽敦曰、「兵法『小敵之堅、大敵之擒』。 策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也。不若回軍」。
  9. ^ 『高麗史』元宗十三年 三月の条 「惟彼日本 未蒙聖化。 故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師」 『高麗史』世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥(1272年3月11日)に大元朝の中書省が発送した牒にある世子 諶(後の忠烈王)云の箇所。
  10. ^ 森平雅彦「駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察- 」『東洋学報』79-4, 1998.03.
  11. ^ 杉山正明の一連の著作。『中国史3』P449など(山川出版社
  12. ^ 新版 韓国の歴史 第二版 -国定韓国高等学校歴史教科書- (大槻健、君島和彦、申奎燮訳)(明石書店) ISBN 4750312738



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