燕 (春秋)
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燕 | |
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国姓 | 姫姓 |
爵位 | 伯爵 |
国都 | 薊 (北京市) |
分封者 | 武王 |
始祖 | 召公 |
存在時期 | 紀元前11世紀 - 前222年 |
滅亡原因 | 秦により滅亡 |
史書の記載 | 1史記 (巻34 燕世家) 『春秋左氏伝』(襄公28年に初見) |
燕(えん 紀元前1100年ごろ - 紀元前222年)は中国に周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した国。戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 燕の建国
燕の始祖は周建国の元勲である召公奭(召の公である奭の意。しょうこうせき)(奭は大の字の両脇に百)である。しかし周代初期の燕については解らない事が多く、実際には召公の建てた国ではないとの説もある。
春秋時代の燕については史書に記述が極めて乏しい。北方の山戎に攻められた際、当時の君主・燕の荘公は隣国の覇者・斉の桓公に援軍を乞い、山戎軍を撃退したことがあった。この戦いの後、燕の荘公は桓公に感謝の意を表する為に斉まで桓公の軍を送っていった。その際に軍は燕と斉の国境を越えて斉国内に入ってしまっていた。その当時の通念上、自国まで軍を見送らせることができる者は、天子(いわゆる周王)しかおらず、それについて時の名宰相・管仲に指摘された桓公は一部自領を切り取って燕に授けたという。これにより桓公は諸侯の信頼を集め、益々名声をあげたとされている。記述が少ないのは、燕と中原との間に周に服属しない民族が多数いたために情報が届かなかったためと思われる。
戦国時代に入り、紀元前323年に王(左飛)を名乗るようになった。二代目王の噲(檜の偏を口に変えた字)は宰相の子之を盲信し、堯舜に倣うと言って禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となった。ここに斉が付けこみ、兵を出して侵攻し、一時は滅亡状態となった。その後、太子平が子之を倒して、斉軍も撤退したので、太子は即位して昭王となった。なお太子平は子之に殺されたという説もあり、昭王は趙の武霊王が擁立した公子職という説もある。
[編集] 燕の興隆
昭王は燕を亡国寸前まで追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っていた。しかし当時の斉は秦と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題であった。昭王は人材を集める事を願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを入れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。郭隗の言う通りに燕には名将楽毅・蘇秦の弟蘇代など続々と人材が集まってきた。これらの人材を使い、斉包囲網を形成し、紀元前284年に楽毅率いる五ヶ国連合軍が斉軍を大破し、更に楽毅は斉の首都臨淄を陥落させ、莒(キョ)と即墨を除く斉の都市を占領した。
一躍、表舞台に躍り出たと思った燕だが、昭王が死に、子の恵王が即位すると楽毅を疑って趙に走らせてしまった。占領していた斉は楽毅がいなくなると田単によってあっという間に取り返された。
[編集] 燕の滅亡
その後は秦が圧倒的に強勢となり、紀元前228年に趙が滅ぼされると、燕は直接秦の圧力を感じる事になった。この状況を覆そうと太子丹は秦王政に対して荊軻と言う刺客を送ったが失敗し、激怒した政に燕は攻められて、首都は陥落した(紀元前226年)。太子丹は殺され、王は遼東に逃れたが、紀元前222年に秦の王賁将軍に攻められて王が捕虜となり、燕は滅んだ。
燕都・薊城の遺蹟は北京市宣武区に所在する。
[編集] 倭との関係
『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」という一節がある。後の高句麗領にあった蓋馬に相当すると思われる蓋国の位置について述べた文であるが、そこに倭についての言及がある。それによれば、倭は燕の属国であったというのである。その真否はともあれ、『山海経』の中でも海内北経は紀元前後の成立と推定されており、倭に関する最古の記録として注目される。