台与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台与(とよ、235年頃?-没年不詳)(あるいは壱与か)は日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国の女王卑弥呼の親族にて卑弥呼の跡を継いだとされる女性である。台与の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。
目次 |
[編集] 表記と発音
台与の表記に関しては「臺與」(とよ・だい(ゐ)よ・たい(ゐ)よ=台与)と「壹與」(い(ゐ)よ=壱与)の二通りがある。
[編集] 壹與
『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。発音は、い(ゐ)よ=壹與?。
[編集] 臺與
『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述。 [1]
[編集] 発音に関する議論
「臺與」を「とよ」と読むのが通説となっているが、これには議論がある。
- 「台」であれば、「と」と読めるということに異論は無いようである。しかし、「臺」と「台」は異なる文字である[2]。
- 「臺」を「と」と読む根拠は、例えば藤堂明保『国語音韻論』[3]に、「魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」と記載されていることに求められているが、これはすなわち「邪馬臺=ヤマト」という当時の通説に基づいた記述に過ぎないことが読み取れると言う指摘がある[4]。もしこの意見が妥当なら、漢和辞典の記載を根拠に「『邪馬臺』はヤマトと読める、『臺與』はトヨと読める」と言ったところで、大元にある通説の同義反復に過ぎないことになるが、「臺」の発音に関する中国語音韻論による議論はこの意見とは無関係である。
- 邪馬臺の発音をヤマドとする説がある[5]。
魏志の編纂が後者二書に比べ大きく先立っているが、三書はいずれも『魏略』[6]を元にしていると考えられる。『魏略』には他の書に引用された逸文[7]が残っているが、そこには該当部分は存在しないため正確にはどう書いてあったのか不明である。しかし、魏志以外に「壹與」の表記が見られないことから、『魏略』の元の表記は「臺與」(とよ)であろう、という見解が広まっている。また当事、臺は晋の皇帝のことであるため避諱されており、三国志の記述の字を替えたという説もある[8]。
これに基づき、『古事記』『日本書紀』に登場する「豊~」という表記や北九州の「豊の国」と言う古名は、「臺與」に由来するのではないかという説がある。
[編集] 事跡
魏志倭人伝によると、
女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國[9]の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡[10]の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。
とされる。このことから、卑弥呼の死と壹與の王位継承は、張政が倭に渡った248年からそれ程年月が経っていない時期と思われる。その後、
壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
とされる。
『日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられる。この年は、中国では曹操に始まる魏王朝の曹一族に世継ぎができなかったため、親族の幼少の皇帝が3代続いた時代で、外戚の司馬氏が建てた晋に禅譲革命が行われてゆく途上の年であった。
この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。
台与と後のヤマト王権との関係は諸説あってはっきりしない。人物の比定については諸説ある(#人物の比定についての議論を参照)。
[編集] 人物の比定についての議論
台与を神話上の誰に比定するかという議論は、現在後述の理由により、学界では行われていない。邪馬台国を参照のこと。
[編集] 二人のアマテラス説
一説には、「日本神話の天の岩戸伝説の前後の天照大神は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与である」として「アマテラスを誰に比定するか」という議論とともに考えようとするものがある。卑弥呼をアマテラスに比定する場合に多くみられ、卑弥呼没年前後の皆既日食[11]によって岩戸隠れの故事を説明しようとする説である。
[編集] 万幡豊秋津師比売を台与とする説
卑弥呼をアマテラスに比定する場合の説。万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。アマテラスの息子アメノオシホミミと結婚し、アメノホアカリとニニギの母となった。アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり[12]、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。
[編集] 天豊姫命を台与とする説
尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を臺與とする説。この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命がある。[13]
[編集] 豊鍬入姫命を臺與とする説
崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に比定する説である。天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が臺與に相当するという説。卑弥呼をヤマトトトヒモモソヒメノミコトとする場合にみられる。
[編集] 台与=台与とする説
しかしながら、現在の学界では、台与を記紀の神話や系譜上の誰かに当てて邪馬台国論を理解しようとする方法論そのものに懐疑的である。なぜなら、それらは同時代史料でも良質の編纂史料でもないし、そもそも継体天皇以前の記紀の記述に、あまり正確さが期待できないためである。[14]
[編集] 台与(壱与)が登場する作品
[編集] 小説
- 定金伸治『kishin -姫神-』(集英社/集英社スーパーダッシュ文庫、2001年)
[編集] 漫画
[編集] 注釈
- ^ 外部リンク梁書諸夷伝
- ^ 漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)のため教科書等では使用せざるをえない。
- ^ 江南書院 1957年
- ^ 『邪馬一国への道標』古田武彦、講談社 1978年
- ^ 長田夏樹「邪馬台国の言語」等
- ^ 魏代に編纂
- ^ 通称、逸文魏略
- ^ 『邪馬台国はなかった』古田武彦
- ^ 魏志倭人伝の写本での表記。邪馬台国参照。
- ^ 朝鮮半島にあった魏の領土
- ^ 別項卑弥呼参照
- ^ 伊勢神宮#祭神参照
- ^ 台与の系譜
- ^ 別項卑弥呼・日本書紀・史料批判参照