陳倉の戦い
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陳倉の戦い(ちんそうのたたかい)は中国の三国時代228年、蜀と魏の陳倉での戦い。蜀右将軍の諸葛亮の率いる大軍が郝昭、王生らが防衛する寡兵の陳倉城を包囲したが落城させることができなかった戦い。
[編集] 事前の経過
228年、第一次北伐においては街亭で蜀軍先鋒馬謖を張郃が打ち破ったため、蜀軍は雍州から撤退したが、魏の大将軍曹真は再び諸葛亮が北進すること、その際に陳倉道を使用するであろうことなどを予測し、郝昭に命じ陳倉城の修築・増築を進めさせていた。『三国志』魏書明帝紀の注に引く『魏略』によれば、兵力自体は僅かに千人あまりしか配置させることができなかった。
さらに同年8月、石亭に置いて魏の曹休が孫権の仕掛けた謀略に嵌り、陸遜らが指揮する軍に大敗した。
[編集] 戦いの経過
12月、諸葛亮は漢中より数万の軍勢を率いて出撃し、曹真の予測通り陳倉道を北上し陳倉城を包囲した。諸葛亮は衝車を始めとした各種の攻城兵器を用いた攻撃をしかけたり、トンネルを掘ったり、郝昭と同郷の人間を使って郝昭を説得するなど各種の攻勢を二十数日にわたり試みたが、郝昭はよく防衛して陳倉城はなかなか落城しなかった。
魏は陳倉城へ張郃、費耀らを援軍として派遣したが、張郃は出陣に先立って、陳倉城の防衛の堅さと蜀軍は食料をあまり携帯してきていないことを指摘して、援軍到着前に諸葛亮が撤退することを予測した。
果たして諸葛亮は食料が尽きたので陳倉攻撃を諦め撤退した。この時、蜀軍を追撃した魏の将軍王双は蜀軍の反撃を受け敗死した。