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光復節 - Wikipedia

光復節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

光復節(こうふくせつ)は、大韓民国および台湾祝日である。

  1. 8月15日。大韓民国の祝日で、同国が日本の支配から解放されたとされる日。(광복절、Gwangbokjeol)
  2. 10月25日。台湾の祝日で、台湾が日本から中華民国に復帰した日。

目次

朝鮮の解放

朝鮮半島は1910年韓国併合以来、植民地支配下にあったが、アジア・太平洋戦争で日本の敗戦が決定的となり1945年8月15日昭和天皇玉音放送を行うや、日本の無条件降伏と朝鮮解放(光復)のニュースが駆け巡った。朝鮮軍(在朝鮮・日本軍)は事実上、機能しなくなり、朝鮮半島は外国の軍隊がないまま「解放」を迎えた。

朝鮮人は解放の喜びにわきたった[1]。各地では日章旗が降ろされて太極旗が掲げられたと言われている。また、日本では10月10日まで政治犯が釈放されなかったにもかかわらず、朝鮮では政治犯のほとんどが8月16日8月17日に釈放された。その多くが共産主義者であった。8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。しかし、それ以外には日本人に対する暴力事件はほとんど起こらず、朝鮮総督府の懸念は現実化しなかった[2]。また、解放のニュースに呼応して朝鮮のさまざまな地域で人民委員会が自然発生的に結成されたと言われている[3]

9月2日、日本は連合国への降伏文書に調印した。連合国は朝鮮を米英中ソ4ヶ国による信託統治下におく予定だったが、予想よりも日本の降伏が早かったことが朝鮮の運命に大きな影響を与えた。米ソは互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが日本軍の降伏を受諾する役割を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、ソ連の満州攻略と南下は急速だった。関東軍が早々に壊走したためだった。実際にはソ連に朝鮮全土を支配する意思も可能性もなかったが、アメリカはソ連が朝鮮全土を占領することをおそれてソ連と交渉をもった。この結果、急遽、北緯38度線を境に以南をアメリカ合衆国軍が、以北をソビエト連邦軍が占領することになった。

米軍による日本の占領やソ連軍による東欧の占領に比べると、朝鮮占領については米ソとも準備が足りなかった。占領軍が朝鮮の内情を把握していなかったことや、その占領政策が一貫しなかったことは、特にソウルに激しい政治的混乱を生む一因となった。このことは、その後の分断のみならず南北朝鮮の統治に大きな影響を及ぼした。

8月24日、日本が降伏文書に調印するよりも早く、また分割占領線が確定するよりも早く咸鏡南道咸興に到着したが、北部朝鮮の中心地が平壌であることを知るや平壌へと移動した。このこともソ連軍の南下が早すぎたことと米ソの準備不足を物語っている。8月26日までにソ連軍は平壌進駐を終える。ソ連占領軍は日本の行政機関の存続を認めると布告したが、これが朝鮮人の不興を買っていることや実際に行政機能が失われていることを知ってすぐに取り消した。ただし、38度線以北については反発の度合い等、わからないことが多い。占領軍は在ソ朝鮮人またはソ連生まれの朝鮮人を投入して占領を遂行しようとした[4]9月19日にはソ連領内に撤退していた金日成ら元・満州パルチザンたちが元山に到着した。彼らは各地に分散し、地元の共産主義者と対立するか、主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた役割を担えなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争がつづき何度にも渡って粛清キャンペーンが繰り広げられた。

9月7日、アメリカ占領軍がソ連に遅れて上陸した。9月11日、アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカが軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構およびその人員を引き続き用いたことが、大きな反発を生んだ。このことはソウルの政治情勢が乱戦模様を呈したことに影響した。

分割占領がきっかけとなって、その後、朝鮮の南北分断は固定化されるに至った。1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月13日大韓民国の建国が宣言された[5]。 これにつづいて、同年9月9日朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された。

注釈

  1. ^ 敗戦すなわち植民地解放を意味しないにもかかわらず、「解放」として捉える見方が急速に伝播したことから、日本の敗戦が朝鮮支配からの撤退につながることを自明視する風聞が事前に飛び交っていたと推測されている。
  2. ^ 和田春樹『北朝鮮―遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、61頁。
  3. ^ 人民委員会の結成が自然発生的または自発的だったという点には疑義が呈されてから長い。特に北部については、東欧の事例から事前にソ連との接触があったのではないかとの推測もある。しかし、この点を検証し得る情報はなく、ソ連崩壊後にもなお38度線以北の人民委員会についてはわかっていないことが多い。
  4. ^ ソ連が占領政策のために投入した朝鮮人たちは後に排除対象となった。彼らをソ連系ないしソ連派と呼ぶことがある。金日成を参照。
  5. ^ 韓国では8月15日が光復節とされ、1948年8月15日に建国されたことになっている。8月15日としている理由について複数の推測があるが、決定的な理由は明らかではない。

参考文献

金学俊『北韓50年史』東亜出版社、ソウル、1995年。

関連項目

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