金日成
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キム・イルソン 金日成 |
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任期: | 1972年12月28日 – 現職 |
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任期: | 1949年6月30日 – 1993年4月9日 |
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任期: | 1948年9月9日 – 1972年12月28日 |
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出生: | 1912年4月15日 平壌(万景台) |
死去: | 1994年7月8日 平壌(廟:錦繍山記念宮殿) |
政党: | 朝鮮労働党 |
配偶: | 金正淑(第一夫人) 金聖愛(第二夫人) |
金日成 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 김일성 |
漢字: | 金日成 / 金一星 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
きん・にっせい |
片仮名: (現地語読み仮名) |
キム・イルソン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語表記: | Kim Il Sung |
金日成(キム・イルソン、きん・にっせい、1912年4月15日 - 1994年7月8日)は、朝鮮の抗日運動家・革命家、朝鮮民主主義人民共和国の政治家。1948年から1972年までは同国の首相であり、1972年から死去まで国家主席であった。また朝鮮労働党の創立以来、死去まで一貫して最高指導者の地位にあった。
称号は朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄(三回受称しており「三重英雄」と称される)。本貫は全州金氏。
朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と表記)においては「偉大な指導者」「首領」等の賛辞とともに崇拝され、彼の死後1998年に改定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、「永遠の主席」とされ、事実上、主席制度は廃止された。現在、遺体は平壌近郊の錦繍山記念宮殿に安置・保存されている。
目次 |
[編集] 姓名と呼称
少年時代まで「金成柱」(キム・ソンジュ(김성주))(「金聖柱」という説も)という名であったが、活動家となって以後は「金一星」(キム・イルソン(김일성))と名乗り、さらに「金日成」(発音は「金一星」と同じ)と改名した。
北朝鮮の公式伝記では、当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。
但し、1910年代頃には彼とは別の金日成と名乗る人物が抗日運動を組織し、伝説の英雄として一般にも知渡っていた事実から、この逸話は北朝鮮当局とそれを後押ししたソ連軍による捏造の可能性が高い。
日本では1980年代以降、漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされる傾向が増している。ただし現音どおりに発音すれば連声が起きるため「キミルソン」(Kim Il Sung)がより現地語の発音に近い。
[編集] 経歴
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
[編集] 出生
金日成は、1912年4月15日、平壌西方にある万景台(マンギョンデ)で生まれた。
金日成の父母はキリスト教徒であったとも、父は牧師であったとも言われるが、北朝鮮の公式文献では両親の信仰については触れられていない。彼の家族は抗日派もしくはそのシンパであったためか、1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)直後1920年に、金日成を連れて朝鮮を出て南満洲(中国東北部)に移住した。
金日成は吉林の中学校に通いながら抗日青年運動に参加した。彼は抗日活動で逮捕されたため、中学校を退学になった。
[編集] 中国共産党入党
金日成は、南満洲における他の朝鮮人共産主義者たちと同じように、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて1931年、中国共産党に入党した。1932年4月、抗日武装闘争を開始。中国共産党の指導する東北抗日聯軍で、朝鮮人パルチザン部隊を率いるに至った[1]。
東北抗日聯軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)[2]。
当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。にもかかわらず、金日成は粛清を免れた。
[編集] 抗日パルチザン活動
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は抗日パルチザンの英雄として有名となった。国境を越えて朝鮮領内を攻撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、何より、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にした。
その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように討伐部隊に追われる困難な状況のなかで、1940年3月には金日成部隊は、日本軍討伐隊・前田部隊を事実上「全滅」させている [3]。 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
[編集] ソ連への退却
最終的に、金日成部隊は討伐作戦を逃れてソ連領沿海州へと越境・退却する。日本による大規模討伐作戦によって東北抗日聯軍は壊滅状態に陥ったが、金日成部隊は早期の決断で比較的、勢力を温存し得た。また朝鮮人パルチザンの勢力温存の背景には間島地域の朝鮮人移住民の支援も影響したと思われる。
金日成は1940年8月頃、ソ連に越境するが、スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後周保中が彼の身元を保障して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊はソ連極東軍傘下の第88特別旅団(旅団長は周保中)に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる[4]。
[編集] 解放後
[編集] 帰国
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクから元山港に帰国した。
10月14日、平壌でソ連軍の歓迎集会が開かれ、集まった朝鮮大衆の前に金日成が姿を現した時、有名な金日成将軍とは別人ではないかという噂がたった。「金日成将軍」は既に1920年代から抗日英雄として、朝鮮半島北部の住民達の間で伝説的な存在になっていた(一部には義兵闘争以来の英雄であるとの噂も広がっていた)ため、「金日成将軍」が白髪の老将軍だと思い込んでいた人々も多かった。しかし、実際に現れた「金日成将軍」は、長い活動歴の持ち主にしては余りに年齢が若過ぎ、出迎えた大衆を驚かせた。金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれ、ソ連の最高指導者スターリンと会談しており、ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立すべきと考えていた共産党政権の指導者として認定されていた。ソ連は金日成を凱旋者として華々しく演出し盛り立てようとしていたと思われる。しかし集会では金日成が偽者ではないかという疑う声が多かったため、あわてたソ連軍は平壌郊外の万景台に“金日成将軍の親類”なる人物が存在すると宣伝し民衆をツアーに招待して面会させ、疑いを晴らそうとしたという。
[編集] 日本人女性が見た金日成
当時の朝鮮半島には、まだ多くの日本人が残留しており、避難民に対してはソ連軍や朝鮮人から使役と表して強制労働を強いられていた。このころ金日成は二人の日本人女性を女中として働かしていた。日本人の元女中の回想[5]によると、金日成は、接収した日本人の邸宅に住んでおり、夫人とユーラ(長男。後の正日)・シューラ(次男。万一ともいう)という名の息子と一緒に住んでいた。食事方式はロシア式を採用し、朝食10時、昼食3時、夜食が9時~10時だったという。金正淑夫人も日本人女中二人に、邦人避難民の平均的な食事からすれば豪華な白米や鶏肉等を食べさせていた。しかし、食事以外では金家の生活程度は高くは無く、トイレはチリ紙ではなく新聞紙で用を足し、時にはボール箱で用を足してトイレを故障させてしまうこともあったという。
ある日、金日成は二人に『アカハタ』を見せ、野坂参三を立派な男だという手つきをしてみせた。二人は「ついに日本も共産党の国になってしまったのか」と悲しい表情をしてみせた。金日成は「共産党は嫌いですか?」と問うと二人がうなずいたため、驚いた表情をしたあと笑って黙っていた。それから数日後に金日成は二人にマルクスやクロポトキンの本を渡したという。このような金日成であったが、身辺は不安だったらしく自宅へ至る道の要所に警備兵がおり、門前には番兵が立っていた。また枕の下には常に護身用のピストルを潜ませていた。
このころ、金日成の弟である金英柱が自宅に出入りするようになった。ある時、二人のうちの一人の姉が朝鮮人の集団にリンチされ重傷を負った。以前、仲間が姉の訴えで共産党本部によって厳罰に処せられたとことの報復だった。 このことを知った英柱は共産党本部から兵を連れ、リンチを行った朝鮮人を捕まえて痛めつけ、牢に入れた。そして、被害者に「朝鮮人民が迷惑をかけた」と謝ったという。翌日、英柱は二人に「共産党は日本の帝国主義、軍国主義に排撃するのであって日本人を憎むのではない。」と語った。その場にいた金日成は二人に共産党が好きになったかと問うと、二人は少しうなずくと「でも、天皇陛下の方が好き」と答えた。すると金兄弟は笑い出し、それ以後は二人の日本人に再教育するとは言わなくなった。その後、二人が南から日本へと帰国したいと申し出たため、金日成は南への通行証を渡し、今までの礼を述べた。最後は一家で二人を見送ったという。
[編集] 指導者へ
12月17日、金日成は朝鮮共産党北朝鮮分局(1946年6月に北朝鮮共産党と改称)の責任書記に就任した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、1946年11月3日に南北朝鮮全域を選挙区とする総選挙が行われ、北朝鮮臨時人民委員会が北半部の政府として成立し、ソ連の後押しで金日成がその委員長となった。
しかし、金日成派は、北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は、1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入に怯えなければならない要因となった。
[編集] 朝鮮戦争
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻する(朝鮮戦争の開始)。理由としては諸説あり、スターリンの指示によるものであったという説、朝鮮人民軍の一部が暴走して始まったとする説、金日成自身の指示があったとする説がある。当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、9月15日、アメリカ軍が仁川上陸を開始すると、一転して敗走を重ねるようになった。金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹)[6])を疎開させた後、10月1日には部下に戦争の指揮を任せ、自らも逃亡した。その頃、南側では金日成が行方不明になったので平壌で戦死してしまったとか事故死して影武者が立てられたとする噂が立った。しかし、1953年6月の休戦後、何食わぬ顔で平壌に帰還した。
[編集] 粛清
金日成派は満州派とも呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。当時、満州派は、外部からはソ連派との区別がついていなかった。ソ連派は、金日成を中心とする親ソ共産主義政権を作らせるために送り込まれたソ連国籍の朝鮮人(高麗人)たちによって構成されていた。
満州派はまず、ソ連派と共同して警察と軍を押さえることに専念した。当時、植民地時代から朝鮮で活動していた共産主義者たち(国内派)が最大の勢力を誇っていた。金日成と満州派はまず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を、“朝鮮戦争がおこれば南朝鮮の国民が立ち上がり祖国統一が達成できる”と説いた「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。
中国から朝鮮に戻った延安派(中国共産党の援助で抗日闘争を展開していた)は、南労派の粛清を黙視していたが、その後、フルシチョフのスターリン批判を受け、ソ連派とともに金日成の批判を試みた。これは失敗に終わり、自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。
さらに満州派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆ら甲山派なども粛清し、満州派が主導権を握るに至った。この頃までに満州派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。
[編集] 独裁体制の確立
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満州派=金日成派独裁体制を完成させた。
1969年以降、満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化された。しかし、1972年以降になっても粛清が展開され、金日成の後妻の金聖愛(1993年復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年失脚、1993年復帰)、叔父の娘婿の楊亨燮(1978年復帰)など身内にも失脚者が出た他、1977年には副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。
1972年以降は金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の生理であるとする立場、満州派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。
[編集] 朝鮮労働党 初代政治委員
- 金日成(政治委員 満州派)
- 朴憲永(政治委員 南労派) - 処刑
- 許哥而(政治委員 ソ連派) - 変死
- 金斗奉(政治委員 延安派) - 獄死
- 李承燁(政治委員 南労派) - 処刑
- 金三龍(政治委員 南労派) - 処刑
- 朴一禹(政治委員 延安派) - 追放
- 金策(政治委員 満州派) - 変死したとも、朝鮮戦争で戦死したとも言われる
- 許憲(政治委員 南労派) - 事故死
- 崔昌益(組織委員 延安派) - 獄死
[編集] 1972年憲法以降
1972年5月から6月にかけ南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
1972年4月15日に金日成は還暦祝賀行事を盛大に催し、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。12月28日には新憲法を公布し、新しく新設した国家主席の座に自ら就き、独裁体制を固める。諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。
1977年、金日成は国家の公式理念をマルクス・レーニン主義から「主体(チュチェ)思想」に変更した。
1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。
1980年10月に第6次朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。
1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
1991年12月6日咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可無しに電撃訪朝した統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるが故に世界を驚かせた。(注)[7] 会談では離散家族再開に取り組むこと、核査察を受けること自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意。 文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的窮地を救われる。
それらの成果か1992年1月30日に金日成は「国際原子力機関」(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも1993年3月には「核拡散防止条約」(NPT)を脱退し、1994年3月にはIAEAまで脱退し、査察拒否を表明し、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、ジミー・カーター元米大統領を北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。
[編集] 後継者問題
経過は不明ながらも、結果として金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。
金日成及び北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。
北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。
後継者選定については
- 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
- 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
- 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない
と言うプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。
このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。
金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。
[編集] 金日成の死
金日成は、1994年7月8日に死去した。この年、子息の金正日が病気治療中であった為、死去までの間、様々な課題の解決に向けて、自ら精力的な陣頭指揮に当ることになる。内政では、低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では、一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、クリントン大統領の密命を帯びたカーター元大統領の招朝実現と、直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるとの彼特有の「円環の理論」に基づく賭でもあったが、交渉の結果、米朝枠組み合意を実現した。その次には当時の韓国大統領金泳三との南北首脳会談の話が持ち上がっていた。そのために、死去は世界に大きな衝撃を与えた。
北朝鮮政府の公式発表では、執務中の心臓発作が死因とされている。長く心臓病を患っており、82歳と高齢であったことからも、一般には病死は事実と考えられている。死去前日にも、経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。「セメント」生産が成否を握ると叱咤した上で(この映像と音声は記録映画『偉大な生涯の1994年』に収録)党官僚の「形式主義」を声を荒らげて非難しながら「やめていた」はずの煙草を吸った後に寝室に入ったとの情報がある。このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし、米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。
また、韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し、北朝鮮は激しく抗議した。同日、金正日は金日成に会っていないことが記録上明らかである。
死後、遺体は保存され(エンバーミング)、主席宮殿を改造して錦繍山記念宮殿が設けられた。
[編集] 別人説
普天堡(ポチョンボ)の事件によって東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。
彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、日本陸軍士官学校卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている。これに対する和田春樹などによる反論もある [8]。
元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである[9] 。
[編集] 注釈
- ^ 長らく北朝鮮の公式プロパガンダでは金日成が指揮した部隊は「朝鮮人民革命軍」であったとされ、東北抗日聯軍という名称や中国共産党の指導には言及されていなかった。但し1958年に書かれた李羅英「朝鮮民族解放闘争史」では金日成が中国共産党に入党したことを仄めかしている。 金日成は死去の直前に自身によって記した自伝『世紀とともに』(未完)において、中国共産党指導下の東北抗日聯軍に在籍していたことを率直に吐露している。またそこでは、李立三の下で極左路線に流れた中国指導部との間に、路線上、民族上の葛藤があったことも記している。
- ^ 1933年から「反民生団闘争」が始まったことによって400名余の朝鮮人が粛清され、抗日闘争の継続に大きな障害をもたらしたとされている。
- ^ 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』、平凡社、1992年、272-273頁。金賛汀『パルチザン挽歌』、御茶の水書房、1992年、189-190頁。前田部隊145名のうち戦死者数は日本側資料で50名、北朝鮮側資料では120名とされている。
- ^ 但し、北朝鮮の公式文献では40年代に金日成らがソ連領内に退却していたことについて触れておらず、金日成の息子である金正日も、ハバロフスク近郊のビヤツコエやウラジオストク近郊のオケアンスカヤではなく白頭山で生まれたことになっている。
- ^ 小林和子(旧姓:萩尾)著『私は金日成首相の小間使いだった』(奥村芳太郎編『在外邦人引揚の記録』1970年 毎日新聞社)
- ^ 次男シューラは1947年に事故死している。
- ^ 文鮮明は1980年代後半頃から「神主義」、「頭翼思想」といって、サタンの側にある共産主義の国家や人も最終的には神の愛で救うと言う思想を協調しているので、その思想に矛盾はないと教会側では説明している。
- ^ 後に朴金喆、朴達らが恵山事件により逮捕され、彼らから金日成は普天堡襲撃当時36歳の人物だと言う供述が引き出された。しかし、満州国の朝鮮人治安関係者は金日成は事件当時27歳平壌近郊の平安南道大同郡古平面南里出身の人物で、既に日満側に帰順していた金英柱の実兄であるといった情報を集め、金日成の祖母や金英柱を連れて来て投降を呼びかけている。その後の朝鮮総督府の記録でも、「金日成の身許に付ては種々の説があるが本名金成柱当二十九年平安南道大同郡古坪面(原文ママ)南里の出身」(思想彙報20号(1939年9月))と記されている。こうした事情から、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長と、後に北朝鮮政府首班として登場した金日成とは別人ではないかと疑う意見が出た。李命英は聴き取り調査などに基づいて金日成複数説を提起した。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではなく、結局は朝鮮総督府がその他の情報・供述を排して「本名金成柱当二十九年」としていることなど、李命英の日本に保存されていた資料の読み落としが指摘され、両者は同一人物で間違いないという反論(和田春樹など)がなされている。
- ^ 『朝鮮半島最後の陰謀」』 p85, 李鍾植 幻冬舎 (2007年) ISBN 978-4344013230 その「本物」とされる金日成はスターリンに粛清されたと各国諜報機関で通説となっており、ソビエトが朝鮮人を糾合のために金日成を作り上げたとしている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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