間島
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間島(かんとう、간도(カンド))は豆満江以北の旧満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。
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[編集] 名称
当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島(カンド)と呼んでいたが、豆満江を越えて南満州に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになったものである。また鴨緑江以北の朝鮮民族居住地が西間島(ソカンド)と呼ばれることもあった。
[編集] 越境
もともと満州族の清朝は白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、人煙稀な土地にいつのまにか朝鮮農民が入り込んでしまったものである。清朝が1881年琿春に招墾局を設置して可耕地を調査したところ、すでに多くの朝鮮農民が入り込んでいた。清朝は朝鮮に越境民をすべて引き上げさせるよう要求したが、越境農民の数が多く、どうすることもできなかった。このため、清朝ではこれら朝鮮人農民を領民と認め課税することにした。清朝の招墾局では朝鮮農民を募集し、食料を与えて開墾させるようになったので、さらに多くの朝鮮農民がこの地域に入った。
[編集] 間島問題
一方、朝鮮では豆満江(中国名、図們江)北方の土門江(松花江支流)こそ中朝国境であると主張し、中国と朝鮮は国境線画定のために何度も現地で会談を行った。1885年には中国がこの主張を認めたこともあった。日清戦争で中国が敗北し、中国の勢力が弱まると、朝鮮は1903年間島管理使を任命して現地に派遣した。このため間島問題は中朝間の国境問題に発展した。
[編集] 間島協約
日露戦争後、朝鮮を保護国として外交権を握った日本も当初、朝鮮政府の主張を継承し、間島に警官派出所を設置し、朝鮮人に対する中国政府の裁判権や課税権を認めない方針を採った。これに反発した中国は奉天(瀋陽)から一個連隊を間島に駐在させるなど強硬な態度を見せた。1909年(明治42年)9月4日、日本と中国の外交交渉の結果、日本は中国における他の権益を譲歩させるため中国の間島領有を認める「満州及び間島に関する日清協約」(間島協約)を締結し、間島問題はようやく解決された。外交権の無かった韓国はこの協約に抗議することはできなかった。ただ、その後も朝鮮人農民の間島移住は続いた。
[編集] 間島パルチザン
日本の韓国併合後、朝鮮人が多数集住しながら、日本の主権下にない間島地域は独立軍など抗日パルチザンの絶好の根拠地となり、これらパルチザンは朝鮮北部にしばしば出撃を繰り返した。1920年(大正9年)には独立軍が鳳悟洞戦闘や青山里戦闘で日本軍のゲリラ掃討部隊と戦った。
一部の朝鮮系パルチザンは満州国成立後、1933年(昭和8年)には中国共産党系の武装抗日組織である東北人民革命軍に編入され、1935年(昭和10年)には国共合作により東北抗日連軍となった。この第1路軍第6師長は金日成で、1937年(昭和12年)6月5日金日成部隊は警察官7名を殺害し鴨緑江国境の町普天堡を一夜占領した。現在の北朝鮮では間島パルチザンを朝鮮革命の起源としている。 槇村浩に「間島パルチザンの歌」(1932年)(昭和7年)がある。
[編集] その後
間島は、1932年(昭和7年)に成立した満州国では延吉を首府とする間島省とした。満州国崩壊後に満州の地の覇権を手にした中華人民共和国は、間島は中国領とするものの1952年には延辺朝鮮族自治区(1955年自治州に降格)を設置して朝鮮族の一定の自治を認めている。
しかし現在の韓国では、日本が勝手に締結した間島協約は国際法違反であり、認められないとする声もある。またこの問題の発端は日本に責任があるとする主張も強まっている。今後、南北朝鮮が統一されると、この地の帰属をめぐる領土問題が再燃する可能性がないわけではない。その例として現在中国社会科学院は中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト、「東北工程」(1996年重点研究課題に決定、2002年から本格的に開始)を進めているが、これにより高句麗は中国の一地方政権として中国史に編入されつつあり、韓国国内の民族派からは「満州地方にルーツと多くの領土を持っていた高句麗を韓国史から排除することによって、満州を南北統一後の韓国が領有することの正当性をあらかじめ排除しようとするもの」との推測がうまれ、高句麗史をめぐって中国と韓国の衝突がすでに始まっている。