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朴憲永 - Wikipedia

朴憲永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朴憲永
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各種表記
チョソングル 박헌영
漢字 朴憲永
平仮名
(日本語読み仮名)
ぼくけんえい
片仮名
(現地語読み仮名)
パク・ホニョン
ラテン文字転写: {{{latin}}}
英語表記: Park Hun Yung

朴憲永(パク・ホニョン、1900年 - 1955年12月15日以降)は、朝鮮の抗日運動家・革命家政治家。朝鮮の共産主義運動黎明期以来の活動家でエスペランティスト日本語読みは「ぼくけんえい」。

[編集] 来歴

忠清南道礼山出身。1919年三・一独立運動に参加。日本側の官憲に目を付けられ、上海亡命する。上海では高麗共産党イルクーツク派に参加し、1922年に、モスクワで開催された極東諸民族大会に参加した。1925年には朝鮮に帰国し逮捕、投獄される。出獄後、東亜日報記者を務める傍ら、第1次朝鮮共産党の創建メンバーとなった。その際、高麗共産青年会を組織して、責任秘書となった。同1925年末、第1次朝鮮共産党事件によって逮捕されるが、精神錯乱を装って病気保釈され、ソ連に逃亡、モスクワ共産大学で学んだ。1932年、上海にて逮捕。1939年に出獄し、光州の煉瓦工場の労働者として身分を隠しながら、地下組織「ソウル・コム」グループを指導した。

太平洋戦争における日本の敗戦を迎えると植民地時代の民族運動家は一斉に組織活動を開始した。植民地時代末期まで運動を継続していた者の多くは社会主義者だった。社会主義者たちは無数の組織を作り上げた。

米ソ両軍の軍政下に置かれると朴憲永は朝鮮共産党再建準備委員会を結成した。この前に、十数名の共産主義者によって朝鮮共産党が結成されていた。彼らはソウル・長安ビルに看板を掲げたことから長安派共産党と呼ばれた、朴憲永による共産党は再建派共産党と呼ばれた。長安派は朴憲永を指導者に迎えようとしたが、朴憲永はこれを拒否し、長安派に解散を求めた。激しい論争の末、長安派は解党し再建派に加わるに至った。

朴憲永がソウルにおける共産主義者を統合するまでに、平壌では朝鮮共産党北部分局を発足させたため、朴憲永は南半部におけるリーダーとなった。のち、朝鮮共産党北部分局は名称を北朝鮮共産党と改める。この段階では、朝鮮共産主義のみならず、朝鮮における政治運動の主流はすべてソウルでの活動にあるとみなされていた。

その後同党は他の左派・共産主義政党と合併し「南朝鮮労働党」(南労党)を結成。しかし米国をバックとする韓国政府の弾圧を受け、1946年夏に、米軍政府から逮捕命令が出ると、朴を含む指導部はソ連をバックとする朝鮮民主主義人民共和国へと越境する。一説では、1946年2月に、新生北朝鮮の指導者に、金日成と朴憲永のどちらが相応しいかを決める面接がモスクワスターリンにより行われ、金日成に軍配が上げられたとも言われる。

北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し、朝鮮労働党が成立するとその中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任。その後は副首相や外相を務めた。

国内系共産主義者たち(以下、国内系)、とりわけ朴憲永に代表される南朝鮮労働党系(以下、南労党系)と、金日成派(満州派)とは長く対立していた。朝鮮戦争が事実上、中国人民義勇軍司令官・彭徳懐の指揮によって遂行されたことで金日成は国内の政敵に集中できる環境にいた。朝鮮戦争が膠着状態に陥ったころから、金日成は党の掌握に専念し、政敵の追い落としを準備していたと考えられている。

朝鮮戦争が失敗に終わると、その責任を巡って国内系と金日成派(満州派)との対立が激化した。朴憲永を押し立てた国内系は組織的に金日成に挑戦した。1953年の初頭に国内系はクーデターを企てたとされている[1]。朴憲永以下南労党系はクーデタ容疑で一斉に逮捕された。同1953年8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、李承燁・李康国・林和・裵哲ら南労党系の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝のスパイ」「政権転覆・南労党系のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された[2]

朴憲永だけが他の被告と分離され、裁判も遅れて開始され、1955年12月15日に死刑判決を受けてまもなく処刑された(処刑の日時は不明)。容疑は1919年三・一独立運動)から「米帝の廻しもの」になり、植民地時代からスパイ活動を行い、解放後は南半部で意図的に無謀なデモストライキを組織して多数の共産主義者を殺戮し、ついには北朝鮮政府の転覆を狙ったという、他の被告に対するものにもましてばかげた内容であった。朴憲永はこれらの容疑をすべて認めた。彼の訴追が遅れたのは、これらの容疑を認めさせるのに時間がかかったのであろうと考えられている。

[編集] 注釈

  1. ^ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、147頁。クーデタ計画が実際にあったのかどうか、真偽のほどは明らかではない。ただし、戦争の混乱のなかで国内系が自前の遊撃隊を組織しはじめていたのはたしかである。
  2. ^ 小此木政夫(編著)『北朝鮮ハンドブック』講談社、1997年、148-149頁。このとき、延安系(延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった金武亭も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。


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