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慰安婦 - Wikipedia

慰安婦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

慰安婦(いあんふ)とは日中戦争太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍軍人の性行為の相手になった婦女の総称である。戦後、人により従軍慰安婦とも呼ばれる。制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり、旧日本軍のケースでは慰安婦を強制連行したのか否か、強制的なものであったか等の点に疑問が呈されており、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。

旧日本軍の慰安施設にいた中国人少女と連合国兵士 (1945年8月8日、ビルマ、ラングーン)
旧日本軍の慰安施設にいた中国人少女と連合国兵士 (1945年8月8日、ビルマラングーン

目次

慰安婦の概要

呼称

当時の呼称

日中戦争や太平洋戦争当時、主に戦地に設置された「慰安所」と呼ばれた施設において、旧日本軍の軍人に対して数多くの婦女が売春に従事し、または従事させられていた。当時、これらの婦女を総称して、「慰安婦」という呼称が用いられていた。当時の文献によると、「慰安婦」という呼称のほかに「(料理店の店員を名目として)酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦(売春婦)」などという呼称[1]が存在していた。また現地の軍人は、慰安婦のことを(売春婦の中国語の蔑称で)「ピー」、慰安所のことを「ピー屋」と呼んでいたとも言われている。[2][3]慰安所に限らないが「娘子軍(=からゆき=海外出稼ぎ娼婦)」という言い方も多い。また、海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたとも言われている。[4][5] 

「慰安婦」か「従軍慰安婦」か

1980年代以降、旧日本軍が戦地の女性を慰安婦にするため、強制連行したという主張がなされ、社会問題となった当初は、千田夏光が自著の題名を自身の造語である『従軍慰安婦』(双葉社 1973年)としたことの影響もあり、「従軍慰安婦」と呼ばれることが多かった。しかし、“従軍”という言葉を巡り、「旧日本軍が強制連行した証拠はない」、「当時、『従軍慰安婦』という言葉はなく、『慰安婦』と呼ばれていた」という主張や、また反対の立場においても、女性団体などから、「従軍という言葉は自発的なニュアンスを感じさせる」との批判や抗議などがなされた[6]。そのため近年、マスメディアの報道では概ね「慰安婦」という呼称が用いられるようになった。ただし、現在でも一部では「従軍慰安婦」という呼称が用いられる例もある。

海外における呼称

韓国では、慰安婦問題が起こった当初から、「女子挺身隊」との混同から呼ばれてきた「挺身隊정신대)」という呼称が一般に定着している。[7][[8],第12章 「七つの争点」][9]
慰安婦問題の代表的団体である「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし、「日本軍慰安婦」と呼んでいる。[10]
英語圏では、「慰安婦」を直訳した”Comfort Woman”という呼称が用いられている場合が一般的である。しかし近年、慰安婦制度を人権問題や戦争責任問題などとして告発する立場などにおいては、性奴隷の訳語に当たる”Sex Slave[11]の用語が用いられることもある。

その他の呼称

慰安婦制度に批判的な者の中には、「慰安婦」という言葉は実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している者もいる。[12]

総数

政府調査(1991年1993年)では、慰安婦の総数を示した資料も、それを推認するに足りる資料もなかったので、総数を確定することは困難であるが、長期かつ広汎に慰安所が設置された数多くの慰安婦が存在したものと認められるとしている[[13], 「いわゆる従軍慰安婦問題について」内閣官房内閣外政審議室(平成5年8月4日)第二(4)]。 もっとも、国内海外を問わず、研究者によってその総数を推定する作業がなされており、様々な説が存する。主要なものとしては、中央大学教授吉見義明は、総数を8万人から20万人と推定したのに対し、日本大学教授秦郁彦は総数2万人程度と推定している。詳細は、以下の経緯を参照。

諸説

総数についての諸説

1969年、韓国の日刊紙が挺身隊動員を受けた女性が20万人[14][15][16]、その内、朝鮮人が5~7万と報じる。[17][18]
1973年1974年千田夏光。慰安婦に関する著作の中で、慰安婦35人に対し朝鮮人は1人の比率で計算し、慰安婦8.4万人、朝鮮人が6.5万人と推計[8]。 他に韓国の資料が「挺身隊20万の内、5~7万が慰安婦とされている」ことに言及。(慰安婦と挺身隊との混同の始まりとされる。)[19]
1976年、在日朝鮮人作家、金一勉 (キム・イルミョン)。業者が29:1が好ましい数字だと語っていたことから慰安婦17~20万人。内、8、9割が朝鮮人。[8] 
1984年、元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)。朝鮮人挺身隊が20万人のうち、慰安婦が5~7万人 (1969年の報道記録からと見られるという)。[17] (業者が貧しい娼婦に声をかけたり、顔役を通じてだまして慰安婦にしたという)。[8]
1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授。「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」と書いており(独自根拠不明)[20]詐欺を強制に含めている。 
1993年日本大学教授秦郁彦。50:1の比率から、6万、交代して9万。(のちに変更)
1995年1990年代後半、中央大学教授吉見義明上海1939年性病防止のために「陸軍は上から兵100人に1人の「慰安婦」と言われた」ことと、それに現地の軍が独自に(犯罪を含めて)集めた数を加えた数字の範囲で、29:1の比率(交代率2)から8~20万人と推定。[21][8]

 (これらの説では当時の下級兵士の回想から、朝鮮人女性が多かったと見ている)

1999年日本大学教授秦郁彦。華南での兵力と慰安婦の比率、慰安所の数、経営上の計算、コンドーム使用量、国内公娼の客と娼妓の比率、どれからしても3万以下が妥当で、交代率をかけずに2万人程度と推定している。[8](泰郁彦の計算は、狭義の慰安婦であり、民間の娼婦が別に数千人程度いたと想像している。また、在中国領事館のこの業種全体の統計から、朝鮮人は意外と少ないと見、また南方現地人、中国系の多さを指摘している。)
1996年上海師範大学教授蘇智良(Su Zhiliang)。中国・天津の慰安所研究により、慰安婦の総計を40万人として朝鮮人20万人を引いて中国人と日本人が10万づつとしていた。(のち変更)
1998年、国連に提出の「マクドゥーガル報告書」の付属文書。20万人以上。朝鮮人14万人が死亡。→根拠 [22]
1999年2003年、再度、上海師範大学教授蘇智良。総数36万~41万人、朝鮮人14万人[22]、強制連行されて慰安婦にされた中国人が20万人に及ぶとしている。[23] 
2004年、アジア女性基金では、100:1が妥当な数字とし、マクドゥーガル文書における朝鮮人慰安婦の人数・死亡者数に根拠はないとしている。[22]
2005年4月、北朝鮮の国連代表部金永好書記官がジュネーブの国連人権委員会で、慰安婦の数は20万人で、強制連行された人数は840万人だと主張。この頃の韓国の高等学校の教科書は慰安婦の数を「数十万人」と、「強制的に連れて行かれた」人々を「650万人」と教えている[24]
  • 慰安婦の総数を推定する上で、当時の朝鮮半島の人口、日本軍の総数等が参照される場合があるので、以下に参考として記述する。
全体: 陸軍は慰安施設を、1942年9月頃に400箇所(満州を除く)作ったとされる[25][26]
当時の朝鮮半島の総人口は『朝鮮総督府統計年報 明治42-昭和15年度』によれば約2500万人前後であった。[27]
日本の女子挺身隊の結成率は1944年5月では7%。[15]:内地での公娼は、第二次上海事変以前の1937年の21万をピークに減少し、太平洋戦争初期の1942年には14.5万人になっている。中国(本土)に日本人娼婦約1.2万人の増加(1935年1940年)([8],p30,p48,p399)。 
その他 [28][8],p41)。
  • 韓国政府に元慰安婦として登録されている女性は合計215人で、内88人が亡くなっている。(2005年1月現在)[29]

民族別の内訳

  • 政府の調査においては、慰安婦には、日本人朝鮮人台湾人中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人がいたことが確認されており、日本人を除けば、朝鮮半島出身が多いとされている。
  • 1940年昭和15年)1月時の性病に感染した兵士が相手にした女性の内訳の記録として、日本人26.3%、朝鮮人45.3%、中国人28.4%というデータが残っている。[30]また、同様に1940年(昭和15年)10月時の性病の感染相手の女性別の記録として、日本人16.4%、朝鮮人29.8%、中国人20.7%というデータが残っており、朝鮮人が多くなっている旨の言及も残されている。[31]  
  • 吉見義明らは、これらのデータから、慰安婦で最も多いのは朝鮮人であり、これに次いで中国人の割合が多かった推定している。このような割合は、元慰安婦の証言や、兵士の回想録とも概ね整合しているが、他面、当時中国人娼婦の感染率が高いとされていたこと、回想者は末端の慰安所を利用することの多かった下級兵士が多いとの指摘もある。
  • 一方、渡航目的等を記録した公的な資料等によれば、慰安婦の出身者としては日本人が多かったことも分かっている。秦郁彦は、日本国内の遊郭などから応募した者が40%程度、現地で応募した者が30%。朝鮮人が20%、中国人が10%程度としている。残存している公的な資料に記録されていない場合もあるため、正確な内訳を把握することは困難となっている。

慰安所の設置と背景

政府調査によれば、慰安所は、日本、中国、フィリピンインドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア(当時)、香港マカオ及びフランスインドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。その他、慰安所を中心とした視点と詳細については、「慰安所」の記事を参照。

募集

(※軍の関与・強制性、強制連行の有無の点については論争となっている。詳細は論点の節を参照)

  • 1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた[[13],1・14頁]」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁[32][33]や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
  • 慰安婦問題の研究者秦郁彦は(女衒)と呼ばれるブローカーが親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だと語っている。[34]
  • 海軍省潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている。[35]
  • 1944年に、朝鮮の最大手の新聞『京城日報』や 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』などに、好条件の斡旋業者の慰安婦募集の広告が掲載された。( 「慰安婦問題」の節の論点「公娼か性奴隷か?」を参照)

現地への輸送

  • 旧日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという。[13]
  • 吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあったという。[36][37][38]

慰安所の管理・運営

  • 1993年、弁護士の高木健一らが日本政府を訴える元慰安婦を探しにインドネシアを訪ねた模様を紹介したドキュメンタリーで「あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです」との証言があり、慰安婦の経営は朝鮮人も行っていたことが明らかになっている。[39]
  • 太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという。[2]

生活状況

  • 慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の数は不足気味であった。元慰安婦らの証言によれば、戦況次第では一日に十人以上の兵士との性行為に従事する場合も少なくなかった。そのような場合に慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった。[40]吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったと書いている。[36]
  • 慰安婦との性行為の際には、主として軍が作成した慰安所規程において、避妊具(当時は、「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていた[[13]4巻,p293]。ただし、元慰安婦らの中には、慰安所での性行為によって妊娠したと訴えている者も存在する。
  • 慰安婦の多くは故郷から戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが[41][42]。多くの場合、軍機密や安全等の必要から制限を課されていた。しかし、ビルマ中部のマンダレーでは経営者の許可証があれば外出でき、セレベス島では原住民慰安婦ばかりで外出自由であったという。また、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであった[36]との報告もあるが、米軍情報部の日本人の慰安所経営者及び慰安婦からの聴き取り調査によれば、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)の慰安婦らは、1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされたという。そこでは個室を与えられており、接客を断る自由もあり、週一日は検診のため休日であり、生活はかなり豊かで町へ買い物に行くこともゆるされ、娯楽やスポーツやパーティを楽しんだりしたという。[43]もっとも反論もあり、他に慰安婦の待遇が良かったという実例記録は見当たらず、これをもって全慰安婦らの生活がすべて良好であったという証拠にはならないという指摘もある(後記)。実際の慰安所での待遇は、各地域と戦況さらに部隊の質によって千差万別であったと推測されている。
  • 1938年から終戦まで七年間の中国北部で兵士を務め、戦後作家になった伊藤桂一は慰安婦達の相談係りのような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている。[44]

報酬

  • 吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。[45]。その背景としては、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、実際に慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかったことが挙げられる。
  • 慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票(軍用手票)という特殊な紙幣によってなされていたが、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同様になってしまい、払戻しが受けられなくなったケースが多かった。また、戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は、「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[36]
  • もっとも、慰安婦が高い報酬を受け取っており、豊かな生活をしていたのではないかとの主張もみられる。そのような主張に関連して、以下のような事実が指摘されている。
    • 当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[8][2]
    • 元慰安婦の1人文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した。裁判で明らかにされたところによると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っていたという[[46],P138]。この元慰安婦自身の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[[47],p301]。上野千鶴子の慰安婦裁判の取材によれば、郵便預金返還訴訟を起こした文玉珠の貯金は、性交労働の代償ではなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであるという。
    • 米軍作成の日本人慰安所経営者及び慰安婦に対する尋問レポートによれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは売り上げの半分を報酬としてもらい、稼ぎは月に1000~2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もいる。[48]兵士の月給は15円~25円。[8],p270]
    • フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円・・・・日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という[[49],P487] [8]
    • 中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという。[2]
    • 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由で、ラバウルへ行き、慰安婦となったといい、「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[50]
    • スマラン事件(「白馬事件」のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言しているる。[51]
  • からゆきとの労働条件比較[52]
からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、
一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」 といい、それは最少で月110人に相当する。
(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)
普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。
泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)
当時の物価だが、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったと言える。[53]
現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。
しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

兵士との関係

  • 近衛師団の通信隊員であった総山孝雄の回想録によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという。(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)[54]
  • 元兵士の伊藤桂一は慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである。」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している。[44]
  • 吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[37]
  • 北ビルマのミートキーナーの慰安所においては、日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚したものがいることが報告されている。[43]
  • このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある。[13]

「慰安婦」問題

概要

1970年代に、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本が数冊出版された。[55]中でも、元陸軍軍人吉田清治(本名:吉田雄兎)は『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白。そして、日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、新聞やテレビなどのマスメディアに精力的も出演し[56]、裁判の証人としても朝鮮人の奴隷狩りを証言したり、1990年代には国連人権委員会に働きかけるなど、この問題を世の中に大きく広めた。

韓国においては、吉田のこの著書は翻訳して出版され、史実としてドラマ化もされた。これらを受けて1990年、10年前から慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉 (ユン・ジョンオク)がこの問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体がこの問題に取り組み慰安婦問題が大きな運動になる。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数出、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる。

日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。吉田の証言を紹介し、韓国の元慰安婦が名乗り出たこと、慰安所に対する旧日本軍の関与を示す資料が見つかったことなどと大々的に報じた。それらの報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。 1992年反日デモが高まる中、訪韓した宮澤喜一首相は盧泰愚大統領との首脳会談で慰安婦問題について謝罪し、真相究明を約束する。政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、反日世論の中で韓国政府が受け入れなかったため、1993年、第二次の調査を行ない、その結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表。慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、旧日本軍による強制連行を認め、反省とお詫びの意を示した。これにより、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、やがて、中学校の歴史教科にも及び、ほとんどの歴史教科書で慰安婦についての記述が掲載されるようになって行った。

1995年、日本政府は慰安婦問題を認めた責任から、民間(財団法人)からの寄附という形で元慰安婦への支援を行うため、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立したが、特に韓国ではあくまでも国家として賠償すべきと政府や元慰安婦支援団体の反対運動により、多くの元慰安婦が基金からの支援を拒否した。

1996年、国連人権委員会に提出されたいわゆる「クマラスワミ報告書」と呼ばれる女性への暴力を取り上げた報告書において、慰安婦制度が国際法違反であると指摘され、日本政府は慰安婦に対する賠償すべきと勧告したのを初め、国際機関などにおいても、慰安婦問題への批判がなされる動きも出てきた。

1992年から、現代史家の秦郁彦(元日本大学教授)を初めとする歴史学者などが、吉田の証言やその経歴や著書において嘘や矛盾があると指摘していたが、1996年、吉田清治が自身の証言における「時」と「場所」はフィクションであることを明らかにしたことで、慰安婦の強制連行の大きな根拠とされて来た吉田証言への信憑性が揺らぐこととなる。そして、慰安婦の強制連行を認めない保守系の論客や、メデイアは、吉田証言を大きく取り上げて来た『朝日新聞』に対して、それまでの慰安婦報道において事実の歪曲があった[57]ということを含め、厳しい批判を浴びせた。このように軍による強制的に連行を裏付ける根拠が弱まった頃から、吉見義明が「強制連行」という「狭義の強制性」に対し、甘言や詐欺により慰安婦にされたことや、旧日本軍が慰安婦の某集や慰安所の慰安所での生活が強制的であったことも問題であるとし、これらを「広義の強制性」問題だとして批判し出したのをはじめ、そのような観点からの慰安婦制度への批判がなされるようになった。同年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていた。これらを問題とした有識者らが同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)を発足、それらの教科書を「自虐史観」であると批判し、それらに対抗する新しい歴史教科書をつくる運動を精力的に進めることとなり、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。「自民党」においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かした[58][32][33]ことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判[59][60]もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、ときおり、自民党の議員が強制連行を否定する発言をしたことが報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。

2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかった。一方、同年に検定通過した他の教科書においては慰安婦の記述が減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
2006年、総理就任後間もなく、安倍晋三は内閣として「河野談話」を引き継ぐことを公言したが、後に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したことが「河野談話」を否定するものではないかと国内外で大きな波紋を呼んだ。2007年、アメリカの下院で慰安婦をめぐる対日非難決議案の提出[61]が注目を集め、これを巡って日米間の政治問題ともなって来ている。

経過

戦時中の朝鮮(挺身隊)

  • もともと朝鮮では徴用を忌避する傾向があり、太平洋戦中には挺身隊に行くと慰安婦にされるという噂があった。ただし1960年代までは、その噂を事実と認める韓国の研究者はいなかった。[7][62]

慰安婦本の出版

  • 1972年(前史)
    • 女性史研究者 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』が刊行され、ベストセラーとなる。社会の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」を取材。
  • 1973年
    • 元「毎日新聞社記者でノンフィクション作家千田夏光が『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』を出版(1974年に続編の『続・従軍慰安婦』を出す)。これらの本では「挺身隊」の名の元に動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が慰安婦にさせられたとしている。
  • 1975年
    • 禾晴道『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』が出版。
  • 1976年
    • 1月 『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉 『三一書房』)が出版。
  • 1977年
    • 3月 吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)が出版。
    • 12月 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(金一勉 『現代史出版会』)が出版。
  • 1978年
    • 12月 山田清吉 『武漢兵站 -支那派遣軍慰安係長の手記-』(図書出版社)が出版。
  • 1982年
    • 9月・11月 第二次世界大戦の戦前、戦中に、当時日本領だった樺太(現サハリン州)に渡った朝鮮人の韓国への帰還を日本政府に対して請求する「樺太裁判」(樺太残留者帰還請求訴訟)で、吉田清治が原告側の証人として朝鮮人の「奴隷狩り」(強制連行)を証言。

吉田証言以降

  • 1983年
    • 1月 吉田清治が『私の戦争犯罪-朝鮮人連行-』において韓国の済州島において慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白。初めての加害証言となる。韓国天安市に「謝罪の碑」を建立。韓国のテレビが「謝罪の旅」として1時間番組を放映。日本、アメリカなどで謝罪講演をして回る。
    • 11月10日 『朝日新聞』が「ひと」欄で、吉田清治が「謝罪の碑」を韓国に建てたことを写真入で紹介。
  • 1989年
    • 吉田の著書が韓国語翻訳され、韓国で出版され、史実としてドラマ化され、韓国で「従軍慰安婦問題」への関心が高まる。
    • 5月 大分市の主婦で「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」[63]の事務局員、青柳敦子 [64]が『朝日ジャーナル』(1989年5月19日号)に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という意見広告を出す(同年12月まで隔週で15回)。
    • 8月14日 吉田清治の記述内容に疑問を持った『済州新聞』の許栄善記者が現地調査したルポを『済州新聞』(8月14日付)に発表。慰安婦狩りの話を裏づける証言する人はほとんどおらず、島民たちが吉田の本の信頼性に疑問を呈していること、郷土史家の金奉玉が追跡調査した結果、吉田の本が事実でないことを発見し、「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨したことなどを報告。
    • 11月19日 青柳敦子と在日朝鮮人の宋斗会[65]が日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こすため、韓国で訴訟費用を負担する条件を付け「慰安婦裁判の原告募集」のビラをまく。[66]数週間後にソウルの「太平洋戦争犠牲者遺族会」から協力したいという申し入れが来る。
  • 1990年
    • 1月 4日~24日 『ハンギョレ新聞』(現:ハンギョレ)紙上で、韓国の梨花女子大学教授の尹貞玉が「"挺身隊"怨念の足跡取材記」と題する4回に渡る連載で慰安婦問題を告発し、韓国で大きな反響を呼ぶ。
    • 6月6日 参議院予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の朝鮮人の強制連行に関する質問において、政府(労働省職業安全局長)は「国家総動員法に基づく業務として慰安婦の強制連行は行っていなかった」、「古い人の話等からも、民間業者が慰安婦を軍と共に連れ歩いていたらしく、実態調査はできかねる」という旨の答弁をする[67]
    • 7月10日 韓国において、慰安婦問題の真相究明と問題解決のために「挺身隊研究会」(現:「韓国挺身隊研究所」)が結成される。
    • 10月17日、韓国の37の女性団体が日本の海部俊樹首相に慰安婦問題に関する政府への6項目の要求[68]を示した公開書簡を送付。6月6日の国会で慰安婦の強制連行を否定した労働省職業安全局長の発言を「歴史的事実に反する無責任な発言」と糾弾。
    • 11月 韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会挺対協)」が発足。ソウルの日本大使館前で日本軍による「慰安婦問題」に対する抗議デモを行なう。(以降毎週水曜日にデモ(水曜デモ)を行なうことが恒例となる)
  • 1991年
    • 4月1日 参議院予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の従軍慰安婦に関する質問において、労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。
    • 4月24日 ソウルの日本大使館が尹貞玉韓国挺身隊問題対策協議会代表を呼び、「日本軍が強制連行した証拠はない」、「補償日韓協約で解決済み」と伝え、挺対協からの六項目の要求[68]を拒否すると回答。
    • 5月22日 『朝日新聞』大阪版が「木剣ふるい無理やり動員」との見出しで吉田清治の慰安婦狩りの証言を写真入で紹介。
    • 10月10日 『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビュー記事を掲載。 吉田は「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引きはがして連行した」、「政府は資料を隠している」などと述べる。[69]

元慰安婦の登場以降

    • 8月11日 『朝日新聞』が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(韓国特派員植村隆のソウル発記事)との見出しで、[70]で、「日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で[57]戦場に連行され[71]、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。」と報じる。
    • 8月14日 元慰安婦の金学順がソウルで記者会見。14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウス(売春宿)に売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に華北にある日本軍の慰安所に連れて行かれた[72][73]事などを述べる。[74]
    • 12月6日 金学順を初め3名の元慰安婦を含む35人の原告(主任弁護士:高木健一)が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め提訴。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件
  • 1992年
    • 1月11日 宮澤喜一首相訪韓の5日前のこの日、『朝日新聞』は一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」との見出しで、「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万人とも20万人ともいわれる」と報じる。
    • 1月14日 韓国の多数のマスメデイアが、前年に日本のテレビで女子児童が挺身隊として勤労動員されたという報道を誤解し、「国民学校の生徒(小学生)まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」などと報道[75]
    • 1月16日 韓国を訪問した宮沢首相は慰安婦問題の報道により反日デモが高まる状況に、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束する。韓国国会においても「実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っています」と述べる。盧泰愚大統領は、記者会見で「韓日が同伴者関係を構築するためには、日本が過去の歴史を正しく認識し、過ちを謙虚に反省する土台が必要」と語る。
    • 1月23日 『朝日新聞』夕刊の「窓」欄で、「強制連行した女性は950人」、「強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」との吉田清治のインタビューを掲載。
    • 2月17日 日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。
    • 2月25日、韓国政府が被害者申告センターを設置し、被害の申告と証言の受付を始める。
    • 5月25日 『朝日新聞』が7月、吉田清治が韓国に「謝罪の旅」に出ること、吉田は強制連行した体験を「国会でもどこでも行って話す」つもりと語っていることなどをを紹介。
    • 6月 『正論』(1992年6月号)の「昭和史の謎を追う-第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題するルポで、千葉大学教授の秦郁彦は済州島での実地調査により、吉田が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したという事実はないことが判明したと主張。
    • 7月6日 日本政府が吉見教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表。100を超える関係資料を公開。加藤紘一官房長官(当時)は「朝鮮人女性の強制連行を裏付ける資料は発見されなかった」としながらも、「慰安所の設置や運営・監督などに政府が関与していた」ことを初めて公式に認める。
    • 7月7日 『朝日新聞』が日本政府が上記慰安婦問題に関する調査結果の資料を改変していたことが見つかる。[76](『朝日新聞』 1992年7月7日付 31面 )
    • 7月 韓国政府が「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表し、「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張。「強制連行なし」とした日本政府に追加調査を求めるとともに、日本の歴史教科書への記述と学校教育を通じた「過去の正しい認識」の周知を要請。
    • 12月  中央大学教授吉見義明が『従軍慰安婦資料集』(大月書店)を刊行。その中で「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは『狭義の強制連行』であり、詐欺などを含む『広義の強制連行』の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と「広義の強制性」という主張を始める。
    • 12月25日 韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟
  • 1993年
    • 2月1日 韓国で元慰安婦らの証言集『強制連行された朝鮮人「慰安婦」たち』(韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会編)が刊行される(2001年末現在第5集まで刊行。日本ではその10月に『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として刊行)。
    • 現代コリア』(1993年2・3月号)紙上で、現代史研究家の加藤正夫が、千田夏光の『従軍慰安婦』(講談社文庫 1984年)の中の嘘を暴露。
    • 3月 韓国政府が国内の元慰安婦135名に対して500万ウォン(約74万円)の支給などの支援策を発表。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするよう求める。
    • 4月2日 フィリンピンの19人の元「慰安婦」らが日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴。原告は、最終的には46名となる。1998年10月9日、地裁で慰安婦側の請求を棄却、2000月12月6日、控訴棄却、同年12月25日、最高裁判所への上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定。
    • 4月 元慰安婦の宋神道(ソン・シンド)が、二次大戦中約七年間にわたりいわゆる従軍慰安婦とされ肉体的精神的苦痛を受けたとして、日本政府を相手取り、国際法及び民法に基づき、日本政府に謝罪のみを求め(後には損害賠償を求める)、東京地裁に提訴。(1999年10月1日、一審で請求棄却、2000年11月30日、控訴審の判決も請求棄却)
    • 6月 高校日本史検定済み教科書7社9種類のすべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載されることが判明。
    • 6月11日 韓国で「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」が制定、同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。

河野談話以降

    • 8月4日 日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表。それに関連し、河野洋平内閣官房長官が旧日本軍の強制連行を認める「河野談話」を発表。 「慰安所設置等に旧軍が関与し、慰安婦の募集も本人の意思に反して集められた事例が数多かった」とし、慰安婦に対し、「心からお詫びと反省を申し上げる」と謝罪。談話発表後の記者会見で「強制連行の事実があったという認識か」との記者の質問に、「そういう事実があったと。(それで)結構です」と答えた。これを受けた韓国外務省は「全体として強制性を認め、被害者に謝罪と反省を表明し、今後の歴史の教訓としていく意思を表明したことを評価する」との声明を発表。
    • 8月4日 NHK教育テレビジョンが『50年目の"従軍慰安婦"』を放映。元慰安婦らが共同生活している「ナヌムの家」を紹介し、日本の反省や償いについて論じる。
    • 8月31日 村山富市首相が、談話「平和友好交流計画」に関する談話の中で 、「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。」と謝罪。[77]
    • 高木健一ら、日本の弁護士3人がインドネシアの地元紙に「日本政府に対して補償を求める裁判のために元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出す。
  • 1994年 
    • 国際法律家委員会」(ICJ)が「慰安婦」報告書において、幼い少女たちを含む多数の女性たちが戦時中、日本の軍事施設に監禁されたのみならず、殴打や拷問を受け、繰り返し強姦されたと指摘。
    • 5月3日 羽田内閣永野茂門法務大臣が記者会見で「慰安婦は当時の公娼 であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別 とかは言えない。」と述べたことが中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任から僅か10日で引責辞任。
  • 1995年
    • 1月 『週刊新潮』(1995年1月5日号)が取材の結果、吉田清治の証言が事実無根である事が判明したとの記事を掲載。
    • 1月24日 「日本弁護土連合会」が「従軍慰安婦問題に関する提言」を政府に提出。立法措置などにより、元慰安婦らに補償するよう求める。
    • 7月19日 元慰安婦への償い金を民間から募ることなどを目的として、日本政府の主導で財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」が発足。
    • 8月15日 社民党の村山富一首相(当時)が過去の日本の侵略戦争や植民地支配について公式に謝罪した村山談話を発表。
    • 8月15日 「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)を総括する目的で自民党が1993年8月に立ち上げた「歴史・検討委員会」(委員長:山中貞則)が『大東亜戦争戦争の総括』(展転社)を出版。「『大東亜戦争』は、自存・自衛のアジア解放戦争であり、侵略戦争ではなかった」、「『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』は事実ではない」、「加害・戦争犯罪はなかった」と総括。
    • 8月22日 韓国で、元「慰安婦」および支援35団体が「民間基金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表。
    • 11月22日 「国際法律家委員会」(ICJ)が、慰安婦被害者には個人補償請求権があるとする報告書を発表。
  • 1996年
    • 2月6日 スイスジュネーヴで開かれた国際連合人権委員会スリランカの著名な法律家であるラディカ・クマラスワミ(Radhika Coomara-swamy)が特別報告者として「女性への暴力特別報告」と題する報告書(通称:クマラスワミ報告書)を提出。この報告書は主に家庭内暴力についてであったが、付属文書で日本の慰安婦問題を取り上げ、「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を「『人道に対する罪』、奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する」と断定し、平和国民基金等で道徳的責任を果たしつつあることは評価しながらも、日本が法的責任を取って犠牲者に補償すること、公訴時効に関係なく責任者を処罰すること、さらに日本は教育課程にこの歴史的事実を含めることなどを勧告した(クマラ スワミ勧告)。[78]同年4月20日、「クマラスワミ報告書」は、評価基準は最下の"take note"[79](留意)ながらも全会一致で採択される。(「報告者の活動」に対する評価は"welcome"(歓迎)であった。)
    • 5月29日付の『週刊新潮』でのインタビューで、吉田清治が『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』中の記述において、人間狩りをしたという主張は否定しなかったが、「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と認める。
    • 6月4日 自民党の奥野誠亮元法相が「従軍記者や従軍看護婦はいたが、『従軍』慰安婦はいない。商行為に参加した人たちだ。戦地で交通の便を(国や軍が)図っただろうが、強制連行はなかった」と発言。中国や韓国の政府から抗議を受ける。
    • 6月4日 来日中の韓国人元慰安婦(73歳)が自民党の板垣正参院議員と面会。「一部の日本人が強制がなかったとか妄言を吐くので、胸の中がかきまわされる思いだ。私が発言しないとわからないのか、と名乗り出た」と訴える。対価としてお金をもらっていないとの元慰安婦の話しに板垣は「そういう例があったとはまったく信じられない。」と疑問を呈した。
    • 6月末 橋本龍太郎首相が金泳三韓国大統領との首脳会談後、慰安婦間題を謝罪。
    • 中学校用歴史教科書の7年度検定結果が発表され、教科書を発行する7社が一斉に「強制連行」の一環として「慰安婦」問題を掲載していることが明らかになる。
    • 8月 雑誌『SAPIO』連載の『新・ゴーマニズム宣言』第24章で、小林よしのりが慰安婦問題を取り上げ、大きな反響を呼ぶ。

歴史教科書問題以降

  • 1997年
    • 1月3日 『朝まで生テレビ!』に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認める。
    • 1月30日 慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長は、参議院予算委員会において、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかったが、「総合的に判断した結果、一定の強制性がある」との判断で「河野談話」の表現になった旨を答弁。河野談話の根拠となった韓国の遺族会がまとめた元慰安婦の証言集に対する裏付けは取っていない旨を述べる。[32] 
    • 2月27日 自民党の安倍晋三の主導で自民党の当選5回以下の議員を中心に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(事務局長:安倍晋三、幹事長:平沼赳夫、現・「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」)が結成される。
    • 3月 韓国の中学校、高校用の国定歴史教科書に従軍慰安婦に関する記述が今学期から掲載される。中学校の教科書では、、「女性までも挺身隊という名でひいていかれ、日本軍の慰、安婦として犠牲にもなった。」、高等学校の教科書では、「女性たちまで挺身隊という名でひいていかれ、日本軍の慰安婦として犠牲にもなった。」と説明される。
    • 3月9日 元内閣官房副長官の石原信雄が『産経新聞』のインタビューで、募集の文書や担当者の証言を初め、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはなかったことや、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるように強行に要請していた韓国政府に対し、「強制性を認めれば、問題は収まる」という判断で、元慰安婦らの証言だけで強制性を認めたという「河野談話」発表に至る経緯を明かす[58]。河野官房長官は、産経新聞のインタビューは断ったが、同年3月の朝日新聞のインタビューには応じた。[80]
    • 3月10日 ジャーナリスト櫻井よしこが『文藝春秋』4月号の「密約外交の代償」と題する論文で、加藤紘一元官房長官、石原信雄元官房副長官、谷野作太郎元外政審議室長などに対する直接取材の結果として、証拠に基づかずに、政治的判断て強制連行を認めた政府の外交を批判。
    • 3月12日 参議院の予算委員会において、平林博外政審議室長は、「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、総合的な調査の結果についての総合判断により、一定の強制性を認めた」旨の答弁をする。[33]
    • 河野洋平元官房長官が自身の講演会で、「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書があったかといえば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかったということは申しあげていいと思うんです。『資料がなかった』ということは事実としてはっきりさせておかなければいけない」と語る[81]
    • 3月31日 『朝日新聞』が2ページの慰安婦問題の特集記事を掲載。吉田証言に関し、「間も無くこの証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」と、これまでの主張を修正し、「吉田証言の真偽は確認できない」とした。河野洋平元官房副長官のインタビューも掲載。
    • 5月 中学校教科書の慰安婦の記述削除を求める請願が各地の地方議会で相次ぐ。その問題に対して、「日本弁護士連合会」が「二度と過ちを犯さないため、事実を歴史教科書に記載して子供たちに伝えていくことが必要」と、請願を採択しないように地方議会に呼びかける声明を発表。
    • 6月27日 1997年度用中学校社会科教科書の検定に合格した7冊すべてに慰安婦に関する記述があることが判明。
  • 1998年
    • 4月27日 元慰安婦3人と元挺身隊員7人の計10人の韓国人女性が日本政府に総額5億6400万円の損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟(関釜裁判)で初の司法判断。山口地裁下関支部は請求の一部を事実認定し、河野談話の後、国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し、「慰安婦」一人あたり30万 円の支払いを命じる。河野談話が強制連行の証拠と認定される。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、最高裁への慰安婦側の上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定)
    • 4月28日 『産経新聞』(1998年4月28日付)が「主張」の欄で、「慰安婦訴訟 禍根を残した『河野談話』」との記事で、慰安婦側の訴えた認めた前日の判決を批判。裏づけとなる証拠がない「河野談話」を根拠に強制連行を認めたこと、河野談話によって、国会での立法義務が生じたとされたこと、戦後補償問題を清算した「日韓基本条約」締結との関係が不明確である点を批判。[59]
    • 7月31日 小渕内閣中川昭一農林水産大臣就任直後の記者会見で、「中学校の教科書に従軍慰安婦に関する記載があるのは疑問」、「強制連行があったかどうかは分からない」などと述べ、中国、韓国からの強い反発を受け、翌日、発言を撤回した。
    • 8月 国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で、アメリカのゲイ・マクドゥーガル国連人権委員会特別報告者の「武力紛争時における組織的強姦、性奴隷及び奴隷類似慣行に関する最終報告書」(「マクドゥーガル報告書」)が採択され、付属文書で、日本の慰安婦の制度は「奴隷制」であり、慰安所は「強姦収容所」、慰安婦は強姦、性暴力を受けた「性奴隷」であるとし、慰安婦の日本政府に対する賠償請求権を認め、政府、軍関係者、兵士個人も訴追し、裁くべきであるとした。これは人権小委員会の勧告としては採択されず。
    • 8月 韓国で、「ナヌムの家」の隣に建てられた「日本軍慰安婦歴史館」がオープン。
    • 8月4日 『読売新聞』が「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題した社説で、「わざわざ韓国の反発をそそのかしているような報道がある」、中川農相が発言を撤回したのは、「歴史を捏造していた一部マスコミが、捏造への反省も訂正もないまま、重ねて問題発言だとして騒いだからだ。」と『朝日新聞』を暗に批判する。
    • 8月11日 読売新聞が「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し、「慰安婦強制連行説」を捏造した者とそれを追認した「河野談話」を厳しく批判。
    • 11月 月刊雑誌諸君!』(1998年11月号)において、秦郁彦が吉田清治本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる。
    • 11月 改定版として出版された『広辞苑』第五巻(岩波書店)に、初めて「従軍慰安婦」の語が収録される。「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」と説明。
  • 2000年
    • 7月 中学校歴史教科書の検定申請本8種の内容が公開され、「慰安婦」についての記述が3社に減少することが判明。
    • 12月8日から12日 東京で慰安婦制度など戦時中の旧日本軍による性暴力を裁こうと、VAWW-NETジャパンを初め、日本とアジアの非政府組織(NGO)が東京で民間の模擬法廷、「女性国際戦犯法廷」を開く。最終日には四人の裁判官が「性奴隷化を図った慰安婦制度は当時の国際法に違反する犯罪」とする判決を発表。
  • 2001年
    • 2月17日 元職員(女・43)からセクハラを告発されていた『ナヌムの家』の園長が、女性職員らとの性関係を認め、園長職から退き、僧籍を離れることを表明。[82]
    • 3月1日 『読売新聞』は社説で慰安問題が捏造であると指摘。「特定マスコミが、戦時の勤労動員だった女子挺身隊を強制的な"慰安婦狩り"制度だったと歴史を捏造した結果、一時、日韓関係を極度に悪化させた。歴史を捏造してまで日本を比類のない悪の権化に貶めようなどというのは、「自虐史観」の極みである。中韓両国は、 こうした特定マスコミの報道に便乗して対日外交カードとするようなことがあってはなるまい」と主張。
    • 5月8日 韓国政府が日本政府に対して中学校の「つくる会」の歴史教科書などに対し、記述修正を要求。
    • 5月16日 中国政府が日本政府に対し、「つくる会」の歴史教科書教科書の8項目について記述修正を要求
    • 7月9日 文部科学省が韓国・中国政府の修正要求に対して、「つくる会」歴史教科書に対する訂正は求めない方針を示す。
  • 2002年
    • 韓国女性省は、新学期から使用される中学2年と高校1年の歴史教科書の慰安婦関連の記述について「多数の女性を強制動員して、日本軍が駐屯するアジア各地に送り、慰安婦として非人間的な生活を強要した」などと、詳細且つ具体的な表現にする方針を発表、教育省に提案。[83]韓国女性省は「慰安婦が強制動員だったことと、性の奴隷としての生活を強いられたことを明確にする」、「慰安婦問題についてのビデオCDを教師向け教材として全国の中・高校に配布する」などの方針を示す。  
    • 2月24日 立命館大学で開かれた「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援)において、韓国・ 慶南大学客員教授(社会学)の金貴玉(キム・ギオク)(40)が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったと発表。 
    • 3月28日 在日韓国人で唯一元慰安婦であると名乗り出た宋神道(80)が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求めていた訴訟で、最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)は宋側の上告を棄却し、宋の敗訴が確定。
    • アメリカとイギリスで田中ユキという正体不詳の著者による”Japan's Comfort Women”(日本の慰安婦)という英文の書が出版される。400人を超える女性への聞き取り調査に言及。
  • 2003年
    • 3月25日 「関釜裁判」の上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定。 
  • 2004年
    • 9月2日 「過去史真相究明論争」をテーマにした「MBC100分討論」において、ソウル大学李栄薫教授(経済学部)が、慰安婦を売春業になぞらえたかのような発言をしたことに対し、インターネット上で抗議が殺到し、「韓国挺身隊問題対策協議会」が教授職辞任を要求する声明書を出す。同年9月6日、李教授は「ナヌムの家」を訪問し、元慰安婦らに謝罪。
    • 11月27日 中山成彬文部科学省大臣[84]大分県別府市でのタウンミーティングの席上で、歴史教科書について「極めて自虐的で、やっと最近、いわゆる従軍慰安婦とか強制連行とかいった言葉が減ってきたのは本当に良かった」と述べたことが、反発を招く。
    • 『親日派のための弁明』の著者、金完燮が7年前に19万部のベストセラーとなった『娼婦論』に慰安婦制度を肯定する最終章を加えた日本版『娼婦論』(日本文芸社刊)を出版。韓国の女性団体が主張する「日本軍用女性奴隷」という用語は、「日本の国家的イメージを失墜させようとする意図が見え隠れする」と指摘、「慰安婦制度は戦場となった住民の安全を守るために必要不可欠だった」と肯定、「韓国の教科書で教える10万とも20万とも言われる女性が連行されたとする内容も情報操作された数字だ」とした。
    • 12月3日 細田博之内閣官房長官が民主党の岡崎トミ子副代表(当時)の求めで、衆院第2議員会館において、閣僚として初めて元慰安婦(韓国人の李容珠(75)とフィリピン人のベアトリス・トゥアソン)と非公開に面談。「(慰安婦問題)は父親の世代の罪。心から反省し、おわびする」と謝罪。
  • 2005年
    • 3月27日 安倍晋三自民党幹事長代理が講演会で、「従軍慰安婦は作られた話」と述べる。[85]
    • 4月 中学歴史教科書では、「慰安婦」の記載は申請段階で1社となる。
    • 6月 中山文科相が「従軍慰安婦という言葉はその当時なかった」と発言したことが、韓国などから反発を招く。
    • 8月10日 第二次世界大戦終結60周年世界60都市同時集会・デモが東京、ソウル、マニラ、サンフランシスコなどで日本政府や在外公館に対する集会やデモとして取り組まれた。日本政府に対し、国連勧告に従い元「慰安婦」への賠償を訴える。
      アムネスティ・インターナショナル」が、第二次世界大戦終結から60年を迎える直前のこの日の「水曜デモ」を機に、慰安婦とその支援者らに賛同することを発表。[86]

安倍政権以降

  • 2006年
    • 10月5日 安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいくことを明言する。
    • 10月25日 内閣官房副長官の下村博文が東京・有楽町の日本外国特派員協会における講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、時間をかけて、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。
  • 2007年
    • 1月末 マイク・ホンダら6人の 民主党の米下院議員が共同署名で米下院に慰安婦問題に対する日本政府の謝罪要求決議案(H.Res.121)を提出。戦時中に日本が、アジアの女性たちを強制的に「性奴隷」にしたことに対する首相の公式謝罪などを求める内容。
    • 2月15日 米下院院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙金君子ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。
    • 2月19日 衆院予算委員会において、麻生太郎外務大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」という記述について「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を表明。麻生外相は同年3月11日、フジテレビの番組で、この対日非難決議案をめぐる動きについて「日米(関係)を離間させる有効な手段だ。」として、第三国による対日工作の可能性を指摘。司会者の「北朝鮮や中国による工作か」との質問に同意する[87]
    • 2月25日 フジテレビ系列の『報道2001』に中継で出演したマイク・ホンダは、「謝罪要求決議案は、反日の決議案ではなく、和解・平和ということを意識した決議案である」、「国会において、総理大臣が正式にきちんと陳謝するというプロセスが重要である」という旨を述べる。また、強制連行があった根拠を問われ、「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」がなされたこと自体が根拠だと主張。
    • 3月1日 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を明らかにし、政府に慰安婦問題に対する調査を要求。[88]
    • 3月1日、安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。
    • 3月5日 参院予算委員会において、安倍首相が、「(米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪することはない」と答弁する。
    • 3月14日 自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬 元文部科学相と下村博文官房副長官との会談で、当面は慰安婦問題に関する再調査しないことで合意。
    • 3月16日 日本政府は閣議において、社会民主党辻元清美の慰安婦問題に関する質問主意書[89]に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書[90]を出す。
    • 3月23日 「日本外国特派員協会」(東京・有楽町)で記者会見した中曽根康弘元首相に慰安婦問題に関する質問がなされる。海軍将校だった中曽根がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及。中曽根は「私は飛行場を作る施設部隊にいた。(相当な期間を要するので)、徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」と説明。「『娯楽』とはどんな娯楽か」「強制はあったのか……」との質問に「海軍におったのでその点は知らない」とし、慰安婦問題については「河野談話を踏まえて謝罪すべきは謝罪する……」と答える。[91]
    • 3月24日 米紙『ワシントン・ポスト』が「安倍晋三の二枚舌(Shinzo Abe's Double Talk)」と題する社説を掲載。歴史的な記録により、日本が慰安婦を強制連行したことは「北朝鮮が日本の市民を拉致した証拠に劣らず説得力がある」、「拉致問題で国際的な支援を求めるなら、彼は日本の犯した罪の責任を率直に認め、彼が名誉を傷つけた被害者に謝罪すべきだ」とし、「河野談話」を後退さてはならないと主張。
    • 3月28日 アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い:過去に対する世界的 展望(Tradition & Encounters: A Global Perspective on the Past)」に、日本軍が当時、最大 30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明。[92]
    • 3月31日 元従軍慰安婦への償い事業を十二年間行ってきた「アジア女性基金」が解散。
    • 3月31日 米の『ニューヨーク・タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見教授のインタビューを掲載。「軍の関与を示す資料発掘によって論争に終止符が打たれたのに、安倍晋三に先導された若い民族主義者の政治家らが河野談話の撤回に向けたロビー活動を行った。」という旨の批判。
    • 4月3日 アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する議員の審議用資料とする報告書を作成。「軍による女性の強制徴用」について、「日本軍はおそらくほとんどの徴募を直接に実行はしなかっただろう。特に朝鮮半島ではそうだった」との見解を示す。また、「アジア女性基金」の設立や「河野談話」など、日本政府が謝罪や賠償の努力を重ねてきたことを指摘、日本へ更なる謝罪や賠償を要求することに疑問を呈す。[93]
    • 4月17日 林博史関東学院大学教授が外国特派員協会における記者会見で、「従軍慰安婦」問題に関する新資料七点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が慰安婦を強制連行し、性行為を強要したたことを示していることを指摘。
    • 4月26日 米紙『ワシントン・ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国系団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載。、「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは一度もない」と非難、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。
    • 4月27日 総理として初の訪米した安倍晋三は連邦議会においての上下両院幹部との会談で、「慰安婦問題について「私の真意が正しく伝わっていない」、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、個人として首相として心から同情するとともに、極めて苦しい状況に置かれたことに申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」と元慰安婦らに対する同情とおわびを表明。[94]

論点

強制連行の有無

実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。強制的に連れ去られた事実が存在したのか、また存在したとしてそれを行い売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのかで意見が分かれる。

  • 2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案(H.Res.759)は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」としており、2007年1月31日に提出された同様の決議案(.Res.121)は「日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」としている。
  • 中央大学教授吉見義明は、秦郁彦が済州島での実地調査で吉田証言がウソであったことが判明したと報告して間もなく、人狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」というものも問題であると主張するようになった[49]。後に吉見教授は、自身の見解を質された際に、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めている。[95]
  • 小林よしのりは、吉見義明をはじめとする慰安婦制度批判派が、旧日本軍による強制連行を批判してきたのに、証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」だとして批判している。[96]
  • 秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「狭義の強制性」論に異議を唱えている。[73]また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の「国際女性法廷」において、配られた60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかといういう主語が一切省かれていたと指摘している[34]
  • 『朝日新聞』は1997年3月31日付の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張。
  • 親日的で知られる日本国籍を取得した韓国出身の日本評論家呉善花は自身がインタビューした「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という当時を知る日本人の証言を紹介し、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味が、ようやくわかったと自著で述べている。 [97]
  • 慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、政府の調査おいて、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような証拠も証言もなかったと国会答弁[32][33]や新聞[58]、雑誌[98]等のインタビューにおいて語っている。
  • インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘[99]がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある。[100]

「公娼」か「性奴隷」か

  • 中国の山西省南部の陸軍病院の軍医として従軍し、朝鮮人慰安婦の性病検査なども行なった湯浅謙(中国帰還者連絡会会員)は、当時の軍人にとって慰安婦は料金も払うし、愛想もよかったので、「公娼」に見えたが、植民地支配下にあって、彼女たちは抵抗することも「強制され連れて来られた」と異議を唱えることもできない状況下にあったので、「性的奴隷」であった旨を語っている。[101]
  • 日本の戦争犯罪・戦争責任を追及しているNGO「日本の戦争責任資料センター」は、「『日本軍慰安婦』制度は、慰安婦たちに居住の自由、廃業の自由、外出の自由や慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった」、「故郷から遠く離れた占領地から逃亡することは不可能だった」などの理由から、「公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、『日本軍慰安婦』制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった」旨を主張している。[102]
  • 米会員の対日決議案(H.Res.121)は「強制軍売春という『慰安婦制度』は“残忍さという点で前例のないもの”と認識されており、“20世紀における最大の人身売買の一つ”である」と主張している。
  • 秦郁彦は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべきだ」と主張している。
  • 商社員として約三年半の間、中国漢口の慰安所について見聞きして来た小野田寛郎は自著[2]で、慰安婦制度の背景について、「兵士も、やはり(女性を求める)若い人間であり、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在した」とし、「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」と述べている。
  • 親日的な著作で知られる韓国の作家、金完燮は「軍隊という血気さかんな若者の集団にどうやって性欲を発散させるかは、どの国の軍隊にとっても重要な問題であり、“性奴隷”というのは反日キャンペーンのために発明された用語だ」と批判している[103]
朝鮮半島の新聞に載せられた慰安婦募集広告
朝鮮半島の新聞に載せられた慰安婦募集広告
  • 1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。これらの募集の待遇が非常に好条件であることから、慰安婦が強制連行され、悲惨な生活を強いられたとする主張に疑問を投げかけられており、連絡先に朝鮮人らしき名前も見られることから、朝鮮人自体も慰安婦募集に関わっていたことが指摘されている[104]
  • 『京城日報』(1944年7月26日付)「慰安婦至急募集」
    • 年齢 17歳以上23歳まで
    • 勤め先 後方○○隊慰安部
    • 月収 300円以上(前借3000円まで可)
  • 『毎日新報』(1944年10月27日付)「軍慰安婦急募集」
    • 行先    ○○部隊慰安所
    • 応募資格  年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
    • 募集期日  10月27日より11月8日
    • 契約及待遇 本人面接後即時決定
    • 募集人員  数十名
    • 希望者   左記場所に至急問議の事 
      京城府鍾路区○園町195   朝鮮旅館内光○2645   (許氏)
  • 産経新聞は米軍が1944年にビルマにおける慰安所経営者と慰安婦20人を尋問した報告書では、「すべての慰安婦は以下のような条件で契約を交わして雇用していた」とあることから、商業ベースでの契約に基づいて雇用されていた実を率直に記されているとし、「慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と指摘している(報告書の詳細はの#証言・証拠資料の節の「米軍作成の捕虜尋問報告書」を参照)[105]

政治的背景の指摘

  • 軍人に対する売春に従事した婦女は日本に限らず、米国韓国ドイツを含む他国にも存在しており[106][107][108][109]、自国にも存在したにもかかわらず日本のケースのみを韓国[110][111]や中国が殊更取り上げることについては、政治的なカードとして利用するプロパガンダであると日本の右派・保守派は主張している。[111][112][113][114]また、特定の政治的意図を持った日本国内のマスコミや団体や人物などの工作と指摘する声もある。[115][[116],p314][117]また、当時は国が売春を認める「公娼制度」があった時代であり、性に対する倫理感覚、女性に対する人権感覚は現在と違っているのに、過去の歴史の出来事を現在の基準で裁くのは間違いだとの指摘もある。[118]
  • 日韓基本条約で日韓の戦時中の問題は解決を見ているのに、韓国や北朝鮮などが未だにこの問題を非難するのはおかしいという指摘もある。

証言・証拠資料

著作

  • 現代コリア』(1993年2・3月号)紙上で、現代史研究家の加藤正夫が、千田夏光に、『従軍慰安婦』(講談社文庫 1984年)の中の矛盾点を問い詰め、島田俊彦(武蔵大学教授)の『関東軍』(中央公論社 1965年)に載っていた話を引用したとの答えを引き出し、「関東軍特別演習に備え、慰安婦を集めたとことを後方担当参謀だった原善四郎元少佐より直接聞き取った」という旨の記述は嘘であったことを暴露した。その島田の著作も出典はなく「慰安婦を集めた」と記載されているだけであった。
  • 女医の天児都は2001年に出版した自著で、千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと指摘した。千田は1996年4月、軍医だった天児の父、麻生徹男が自身の論文で娼楼でない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)の設立を希望したのに、娼婦が不可欠のものと主張していると誤解し、父親を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に謝罪したが、その後も出版元の三一書房と講談社はその部分を改訂しなかったという。天児は「慰安婦問題」は千田の誤りを検証しないまま、それを事実として書かれた後の著作によって誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して日本叩きの材料とされた事件だ」という旨を述べている[106]

加害証言

現在の所、慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言は吉田証言のみとされているが、その吉田証言はその信憑性が問題視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつある。

吉田証言

自著で、韓国の済州島において、慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白し、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載していた。初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲板倉由明上杉千年らの歴史学者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると指摘された[48][119][120]ため、旧日本軍による「強制連行」を否定する側からは捏造だと批反されている。

  • それらの証言に対する検証にやがて、吉田本人も慰安婦狩り自体を行なったということまでは否定していないが、時と場所だけは創作を交えたので事実ではないことを認め、その後も真実は明かしていないため、慰安婦制度を批判している吉見義明[121]上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)[122]も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。
  • 秦郁彦によれば、1998年9月2日、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら・・・・このままにしておきましょう」との返事だったという。[8]
  • 付属文書で、当時の日本の慰安婦制度を国際法違反であるとした国連人権委に提出された「クマラスワミ報告書」は吉田証言を強制連行の証拠として引用している。
  • 米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書(2006年4月10日付)に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記されていた。改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された。

元慰安婦の証言

  • 韓国で初めて慰安婦であったことを証言した金学順を初め、慰安婦と名乗り出た者の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである[123](秦郁彦は雑誌『諸君』(2007年5月号)などで氏名不明の旧軍人との証言の突合せなどにより疑問を提起している。
  • 吉見義明は1997年、研究者も強制連行であるとしていない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上では意味をなさないとしている。[37]
  • 1993年の韓国の挺対協などによる調査において、文玉珠の証言はそのときの最も明白な強制連行証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている。
  • ハイナンNET[124]による台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行らの著作[125]によれば、最近の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。
  • 河野洋平は官房長官として慰安婦に対する軍の強制性を認めた談話を発表した後、1997年3月31日付の『朝日新聞』のインタビューにおいて、「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と語っている。
  • 1992年、ソウル大学教授の安乗直ら「挺身隊研究会」が慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった。このとき一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談、を経てまとめられたという。結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている。([20] p26p27)
  • 現代朝鮮研究者の西岡力は、雑誌『WILL』で上記の証言集に掲載できた19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が自分が連行されたと語った慰安所は実際には実在しないことが判明。残りの金学順と文珠珠の二人は両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったことを述べており、西岡が『文藝春秋』紙上でこのような指摘した後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えたという。[66][126]
  • NHK職員(当時)の池田信夫1991年にNHKの終戦に関する番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという。[60]
  • 1993年、宮沢内閣は「河野談話」発表の前に、韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いた。この元慰安婦の人選は韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」が行い、証言書には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った。日本政府はこの証言に対しては質問することも、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされたという。[127]

日本政府・軍関係

河野談話

日本政府が慰安婦に対する強制性を公式に認めた談話ではあるが、その意義や根拠について賛否両論を呼んでいる。

  • 慰安婦裁判において、1998年4月の「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話の発表後、国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し、「慰安婦」側の損害賠償の訴えを一部認めた。(結果的には控訴審で棄却されることになる。)
  • 秦郁彦は「日韓基本協約」において、日本は韓国に経済協力を支払ったが、当時の韓国政府は慰安婦に対する補償はまったく念頭になかったが、後に元慰安婦の補償を求める声が高まったため、補償はするが日本は慰安婦に対する「強制連行」を求めよとの要請に、(日本が「強制連行」したともしなかったとも取れる)玉虫色の「河野談話」が出されたと主張している[34]

(詳細は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照)

軍関係者の証言

  • 宮沢内閣の慰安婦に関する二次に渡る調査において、元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがなかったと元内閣官房副長官の石原信雄は語っている。[58]
  • 「クマワスワミ報告書」においても、「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけである」旨を記している。[8]

資料

  • 1934年3月、陸軍省兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁した『軍慰安所従業婦等募集に関する件』とする通牒が北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠である[128]と吉見教授が主張し、『朝日新聞』が1992年に一大スクープとして取り上げたが、これに対して、漫画家小林よしのりは「慰安婦を誘拐まがいの募集を行なう業者がいるから注意せよという「関与」を示すものだ」と「よい関与論」を唱え反論した。しかし後に、これは、これに先立つ警察資料「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」(警保局長通牒)1938-2-23などのそれ以前の流れから読むべきであるという指摘がなされている。[129]
  • 1938年内務省が各庁府県長官に宛てた通達では、中国に渡航させる慰安婦は満21歳以上の、現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し、軍の名をかたったり、募集の広告宣伝をする者、虚偽や誇大なことをいう者も厳重に取り締まるよう命じている。[130][131]
  • 旧日本軍の慰安婦に関する関与を認めた「河野談話」発表に至る経過をめぐり、1997年1月と3月に、調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長は、国会において「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁。同年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も『産経新聞』のインタビューで、「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。」と明かした。
  • 朝鮮半島・台湾などでは国家総動員法に次ぐ国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当人の証言以外には証拠は見つかっておらず、命令書等の公文書も存在しない。
  • 慰安婦問題を批判する側からは、「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が証拠資料を既に処分したという主張がなされている。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は「処分されていたと推定もできる」と指摘している。[132]吉見義明は焼却された政府資料があり、まだ公開されていない資料もあるとしている[21]
  • 「日韓基本協約」の締結に至る過程での日韓の懸案事項についての話し合いにおいて、「慰安婦問題」は一切持ち出されていない。

 海外の資料

米軍作成の捕虜尋問報告書

日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする目的で、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)で捕虜となった慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対して、米国陸軍の戦争情報局心理作戦班が”UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”[133](「戦闘地域の日本軍の売春所」 米国立公文書館所蔵)と題する報告書を1944年9月に作成、同年11月、米軍の東南アジア翻訳尋問センターが作成した尋問報告書の中に含まれていたこの報告書は、29年後の1973年に公開された。[105]

主な内容
  • 「慰安婦」とは、日本軍に特有の語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower)に過ぎない。日本軍は1942年にこのような朝鮮人慰安婦を703人ほどビルマに向けて出航させたと報告されている。
  • 1942年5月上旬、日本の斡旋業者が、日本が新たに勝ち取った東南アジアの属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を徴募するために朝鮮に赴いた。この「奉仕」の中身は明らかにされていなかったが、病院で負傷者を見舞ったり、包帯を巻いたり、一般的に兵士を慰労すること考えられていた。、「多くの収入が得られる」、「家族の借金を返すことがでる」、「簡単な仕事」、「新しい土地(シンガポール)で新しい生活が出来る」などの斡旋業者の偽りの誘い文句によって、多くの少女達が海外での仕事に応募し、前金として数百円が与えられた。
  • 彼女らの大半は無知で教育も受けていなかった。以前から「地球最古の職業」(売春)に関係していた者もわずかながらいた。
  • 彼女らは、家族の借金返済の為に前借りした借金額に応じて6ヶ月から1年、軍の規則と慰安所の経営者のための仕事に従事する契約に署名した。
  • 約800人の少女達が集められ、日本人の慰安所経営者と共に1942年8月20日にラングーン入りした。彼女らは8人から22人のグループに分けられ、大抵はビルマの各地の軍拠点の近くの街に派遣された。
  • ミッチーナでは、彼女らは通常2階建ての大きな建物に住んでおり、個室で生活し、仕事をした。食事は慰安所経営者が準備した。
  • 彼女らはほしいものを買えるだけの多くのお金を持っており、暮らしぶりは良好であった。彼女らは、服、靴、タバコを買えたし、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人からの多くのプレゼントで化粧品をまかなえた。
  • 将兵と共に、スポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等を楽しんだ。蓄音機も持っており、買い物に行くことも許された。
  • 接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったった。
  • 彼女らの健康状態は良く、各種の避妊用具を十分に支給されていた。
  • 決まった日本軍医が週1回訪れ、病気が見つかった女性は全員治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。
  • 日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚した者もいた。
  • 慰安所経営者は彼女らが契約時に借りた借金額に応じて、彼女らの総収入の50~60%を受け取っていた。すなわち、彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済した。さらに、多くの経営者は慰安婦の食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を大変厳しいものにした 。
  • 1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされた。
  • 連合軍の爆撃のため、慰安婦らは捕らえられる直前には、ほとんど壕の中で過ごした。1~2名の慰安婦はそこでも仕事を続けた。慰安所は爆撃に遭い、何人かの慰安婦は負傷したり、死亡したりした。

同報告書を巡る議論
  • 秦郁彦は、同報告書を「資料的価値は高い」と評価としている。[48]
  • 小林よしのりらは、『新ゴーマニズム宣言』において、同報告書の内容は、それまでに伝えられていた慰安婦の生活状況が悲惨であるということとは程遠く、むしろ恵まれていたのではないかと主張している。
  • これに対して京都大学(永井和研究室)の白石秀人[134]は、「慰安婦の容姿が水準以下であるとか、無知でわがままであるとか、慰安婦自身が答えている」[135]、「『彼女たちの暮らし向きはよかった』とある一方で、『彼女たちは生活困難に陥っていた』との記載もある」。[136]などと、報告書自体の不自然さや矛盾と思うものを指摘し、また慰安婦の待遇が良かったという例はこれ一つ位しか見あたらず、これをもって全慰安婦らの生活が良好であったかのように主張するのは論理が飛躍していると反論している。
また、白石はその中で、吉見が「秦氏らが比島軍政監部の慰安所規定などの「一次資料」を無視して、前記米軍の資料を使用している」と批判しているとも言う。
  • 旧日本軍には:ビルマ・マレー・インドシナ・フィリピン・オセアニアなど様々な方面軍があり、最終配置としては南方8方面が知られ、1992年、1993年発表の政府資料には、マレー、ビルマ方面の慰安所規定がある。
その一つ、1943年の中部ビルマのマンダレー(2007年現在のビルマの首都)の駐屯地慰安所規定1938-5-26によれば、「慰安婦の他出に際しては、経営者の証印ある他出証を携行せしむるものとす」([13]4巻,P290) とあり、 料金時間は下兵30分、他に「慰安所における軍人軍属など使用者の守るべき注意事項」として、 「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員(慰安婦を含む)に対し粗暴の振る舞いをなさざること」「サック」(・・)を必ず使用し確実に洗浄を行い性病予防を完全ならしむること」([13]4巻,p293など)「違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながりうる」([13]4巻,286頁)という規定が存在する。[137]

その他の資料

「慰安婦」訴訟

韓国人、中国人などを中心に、元慰安婦であると名乗り出た人々がこれまでに強制的に慰安婦にされたとして、日本政府に対し、謝罪と賠償を求める訴訟を起こして来たが、時効除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。

  • 慰安婦側の請求が唯一認められたのは、「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」(関釜裁判)における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)であり、原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、「慰安婦」一人あたり30万円の支払いを命じ、一部ながら国の責任を認めた判決として注目を集めた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、原告に対して、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に慰安婦側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定した。
  • 在日韓国人女性が1993年4月に東京地裁に提訴した謝罪・補償請求訴訟で、2000年11月に東京高裁は原告の請求を棄却する判決を出した。この際、判決効力に関連のない傍論[138]において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。原告は「国際法違反であるとの判断を示したこと」については僅かながら評価したが判決を不服として上告したもの敗訴した。なお、この傍論をもってVAWW-NETジャパンなどの一部勢力は「国際法違反であると認定された」と解釈しているが、日本同様に国際社会においても、この慰安婦問題に対する評価は確定していない。

「慰安婦」と外交問題

日本政府の対応

  • 1965年日韓基本条約により、日本と韓国の間の請求権の問題は法的に解決されたとことになっている[139]ため、日本政府は、医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、1995年、「女性のためのアジア平和国民基金」を設立。運営経費や活動資金を負担した。歴代総理からのお詫びと反省の手紙[140]を各慰安婦に送った。フィリピン、韓国、台湾において、計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を贈るほか、医療・福祉支援事業を実施。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に対し援助。元慰安婦の特定が困難であるとするインドネシアに対しては、同国政府の行う高齢者社会福祉事業を援助した。韓国や台湾では日本政府に対し、「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動体の影響が強く、「アジア女性基金」を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられたり、政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。[141]

慰安婦に対する海外の認識

韓国

  • 2004年2月、韓国国内で挺身隊(韓国では慰安婦の意)をテーマにした映像・写真集が民間業者によって企画・撮影されたが、被写体の女性が上半身裸であったことから「商業的ヌードに挺身隊のイメージを利用するのは冒涜だ」と市民から猛抗議が起きた。結果、企画は中断されることとなったが、未だに韓国で慰安婦問題が大きな問題として存在していることを象徴する事件であった。

欧米

    • 欧米の研究者は慰安婦を“性奴隷”として捉えている人物が多い。ジョージ・ヒックス(George Hicks)の著作”The Comfort Women”はその信憑性が破綻している吉田証言に依拠していると言われ、アンドルー・ゴードンはヒックスを重視してまとめたという。国連報告をまとめたクマラスワミ報告も参考文献はヒックスのみに依拠しているという[8]。また同じく国連で報告書をまとめたマクドゥーガル報告書は慰安所を等しくレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち3分の4の朝鮮人慰安婦が死んだとしていることについて「アジア女性基金」は自民党代議士の放言に過ぎず、まったく根拠のない主張と批判している。[22][142][143]
      英語版ウィキペディアなどの欧米言語版では性奴隷の訳語に当たる「sex slave」等が用いられている。国連の他の問題においても性奴隷という言葉が用いられるが、1992年以降、日本弁護士連合会は、NGOと共に国連において慰安婦問題を性奴隷として扱うように働きかけ、1993年のウィーンの世界人権会議において性的奴隷制という用語が国連で採用されたのが始まりであると語っている。[144]

参考文献

政府資料

慰安婦制度の批判論者の文献

  • 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編集)、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク (翻訳)  『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 (1993年11月) ISBN 9784750305486
  • 千田夏光 『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』(双葉社1973年)、三一書房 1978年 9月 ISBN 9784380780127
  • 吉田清治 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年1 月 ISBN 4380832317
  • 吉見義明 『従軍慰安婦資料集』 大月書店 1992年12月 ISBN 9784272520251
  • 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月 ISBN 4004303842
  • 吉見義明 ・川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 1997年 6月 ISBN 4272520504
  • 吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995
  • 倉橋正直 『従軍慰安婦問題の歴史的研究』 共栄書房 1994年
  • ジョージ・ヒックス 『性の奴隷従軍慰安婦』 三一書房 1995
  • 池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態1:日本・台湾・朝鮮編』 緑風出版 2000
  • 池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態2:中国東南アジア太平洋編』 緑風出版 2000
  • 朱徳蘭 『台湾慰安婦関係資料集』第1巻・第2巻 不二出版 2001
  • 尹明淑 『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』 明石書店 2003
  • 鈴木裕子 『日本軍「慰安婦」関係資料集成』上下 明石書店 2006
  • アジア女性資料センター編 『「慰安婦」問題Q&A編―「自由主義史観」へ 女たちの反論』 明石書店 1997
  • ゲイ・J. マクドゥーガル他著、バウネットジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳』凱風社 2000
  • 国際法律家委員会著 『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 明石書店 1995
  • VAWW-NETジャパン他著『裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか 』白沢社 2001

慰安婦制度を問題視することに否定的な論者の文献

  • 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年6月 ISBN 4106005654
  • 西岡力 『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』 PHP研究所 2005年6月 ISBN 9784569643168
  • 阿部晃 『日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり』 夏目書房 2005年5月 ISBN 9784860620394
  • 大師堂常慰 『慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない』 展転社 1999年 2月 ISBN 9784886561633

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年)によれば、1909年12月、日本政府は中国(当時は)における日本の租借地である関東州において日本人と中国人女性に対して「娼妓取締規則」により「娼妓遊女、娼婦)」として管理してきたそれまでの方針を変更し、対外関係を考慮して日本人女性に対してだけは娼妓家業を認めないことにし、芸妓、酌婦が公娼的行為をすることは黙認することにしたため、関東州、満州においては「酌婦」が事実上、日本人娼妓を差す用語となったという。この後、内地(日本本土)や朝鮮において「酌婦」という仕事の名目で女性を「満洲」に連れ出しておいて、実際には「娼妓」と同様の「売春」を強要する詐欺事件がしばしば起こったという。慰安婦業に従事する契約書においては、仕事内容は稼業婦や酌婦などと記されていた。
  2. ^ a b c d e 小野田寛郎氏による「私が見た『従軍慰安婦』の正体」(『正論』2005年1月号)
  3. ^ 北支那方面軍伍長をしていた金子安次の証言(「女性国際戦犯法廷」 2000年12月)
  4. ^ 1942年5月30日付の海軍省軍務局長・兵備局長から南西方面艦隊参謀長宛に出された「兵備四機密第一三七号」「第二次特要員進出に関する件照会」と題する文書で、「準特要員」として和歌山県海南市から50人をペナンに送るとされているが、この「準特要員」は慰安婦のことだという指摘もある。(出典↓)
  5. ^ 「日本の戦後処理問題に関するピョンヤン国際討論会」 1993年11月7日・8日
  6. ^ 吉見義明林博史(編著) 『共同研究・日本軍慰安婦』 大月書店、1995年8月
  7. ^ a b 挺身隊: 日中戦争の頃、挺身隊という語は男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」 という意味で1940年から使用されていた。韓国においては未婚女性を挺身隊として勤労動員することは、「処女供出」とも呼ばれた(朝鮮語の「処女」とは未婚女性とか若い女性とかいう意味)。 朝鮮では元もと未婚女性は戸外労働を忌避する伝統があり、徴用を逃れるために、家から離して隠したり、早く結婚させることがしばしば起こっていた。韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた尹貞玉(1925年生)も同級生らと共に1943年度後半に退学している。
    元慰安婦の証言によれば「女子挺身隊」は詐欺の名目に使われたりもしていたという。 挺身隊に動員されると慰安婦にされるとの噂があることを政府も認識していたため、1944年8月、内地(日本本土)では強制動員である「女子挺身勤労令」が出されたときも、朝鮮総督府は、朝鮮では強制動員はしないことを明言し、10月時点でもあくまで官の斡旋であるとしていた。それでも、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため、学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になった。(尹明淑 『日本の軍隊慰安婦制度と朝鮮人軍慰安婦』p296-298)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年6月
  9. ^ 日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる。(「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」の「控訴人最終準備書面」)
    女子挺身隊」の記事の「朝鮮の挺身隊」の節を参照
  10. ^朝鮮日報』(2004年10月22日付)
  11. ^ ”Sex Slave”との表現を使っているものとしては、『ジャパンタイムズ』などがある。
  12. ^ 2000年の「女性国際戦犯法廷」の正式名は「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」であった。
  13. ^ a b c d e f g h 「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 龍溪書舎  1997年3月20日
  14. ^ 日本における挺身隊の結成率は1944年5月でわずか7%であり、挺身隊の結成率があまりにも低かったため、1944年8月の女子挺身勤労令で挺身隊は強制動員になった。1944年以降の12歳以上の生徒や学生の動員は300万人だったという。(1940年当時の日本の人口は7,000~7,500万)
  15. ^ a b 毎日新聞社(編)『決定版・昭和史--破局への道』 毎日新聞社 1983年 第11巻P190)1944年8月に勅令で女子挺身勤労令を公布、即日施行
  16. ^ 国家総動員(たむたむページ) 
  17. ^ a b 韓国の経済史学者の李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学教授は、この時の報道が、元『東亜日報』編集局長、宋建鎬 (ソン・ゴンホ)の『日帝支配下の韓国現代史(1984年)』(風濤社 1984年)という本で、「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5~7万人が慰安婦として充員された」と人数が多くされたのを初め、韓国の学者や北朝鮮 の代表などが、日本の収奪像を過度に誇張していることを批判した。李栄薫教授「国史教科書、日本収奪を膨らませ過ぎ」
  18. ^ (『中央日報』2005年4月26日付)
  19. ^ 千田は、韓国の推計として、「挺身隊」として集められた女性20万人のうち、5~7万人が慰安婦、と書くが、在日朝鮮人運動史研究者金英達 (キム・ヨンダル)は、千田は『ソウル新聞』(1970年8月14日号)の記事を誤読したと推測している。 実際の記事は、「1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおおよそ20万。そのうち韓国の女性は、5~7万人とされている」で、5~7万人の根拠は不明。( 「半島女子勤労隊」について」高崎宗司 p1/20、 1999 年)
  20. ^ a b 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編)『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 1993年
  21. ^ a b 1997年12月15日、東京地方裁判所713法廷 で行なわれた「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」の口頭弁論における鑑定証言(福島瑞穂弁護士が質問)
  22. ^ a b c d 1965年(昭和40年)6月、日本は韓国との間で締結した「日韓基本条約」 において多額の援助を約束した。その援助は、無償援助が政府年間予算の1割、極めて長期で無償に近いと言われたものを入れると、年間予算の1/4に相当した。 荒船清十郎代議士は条約締結の半年後、自身の選挙区の集会において、日本が朝鮮に対して大変なことをしたのに、補償額を大幅に負けさせたという話をした。 
    荒船は、「強制連行の中から兵士にして戦死したのが56万7千人、慰安婦を消耗品にして14万2千人、貯金として、1100億円、その他、文化財を役人が奪ったものをすべてで50億ドル請求していたのを3億ドル(1100億円)にまけさせた」と語った。
    この発言が後に、1998年の「マクドゥーガル報告書」において、旧日本軍が慰安婦を性奴隷にし、大虐殺したことの根拠とされた。これについて「アジア女性基金」は、韓国政府は、韓国人労務者、軍人軍属のうち10万2603人が負傷ないし死亡したと指摘したが、「慰安婦」のことは一切持ち出しておらず、数字などすべては荒船の嘘であるとしている。(また、文化財も民間所有であり、3億ドルとは別に寄付ということで韓国に引き渡されている)(「「慰安婦」問題とアジア女性基金」 (11頁=p12/100)、荒船清十郎 を参照)
    また、中国では金一勉の論文から荒船発言を知り、自身の推定した36万~41万人の慰安婦」総数のうち14万2千人を引いて、中国人「慰安婦」は20万人とする研究も出ているという。
    なお、「荒船清十郎」代議士は運輸大臣、衆院副議長経験者であるが、放言と地元への利益誘導などで有名である。
    またさらにこの報告書は、1965年の荒船発言を、1975年の声明として引用している(『マクドゥーガル報告書(citing a 1975 statement by Seijuro Arahune, Liberal Democratic Party member of the Japanese Diet, that 145,000 Korean sex slaves had died during the Second World War)』)
  23. ^ 2004年初めのアジア女性基金の文書で数字が出されているので、学術発表は2003年以前と思われる。上海に始まる日本軍慰安所 上海師範大教授が調査 (『人民網』日本語版 2005年6月17日付)
  24. ^中央日報』2005年4月23日付
  25. ^ 慰安施設の地域別の内訳は、華北100、華中140、華南40、東南アジア100、南西太平洋10、樺太10である。 400箇所というのは、計画、新設、施設の恒久化、予算の割り振り、などのうち、どの意味なのか不明とされる。陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。慰安施設がすべて慰安所であったかも不明。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけである(秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』p400,p105)。
  26. ^ 外地の日本軍・軍属は、満州(40~66万人)を別として、太平洋~ビルマ(現:ミャンマー)に展開した時期で140~150万人、「大陸打通作戦」の末期においては280万人程度とされている(同p401)
  27. ^ (参考)  人口増大も含めて、発展途上国のように人口ピラミッドが形成されていれば、実質最高寿命60歳とすると、20±5歳の間の女性の人口は、世代平均(30歳)の4/3倍であり、全体の10/60 × 1/2 × 4/3=1/9という計算が可能。総人口を2500万人とすれば、約280万人となる。[1]
  28. ^ 朝鮮での公娼は1930年代から1942年までは日本人を含めて約1万人。
  29. ^朝鮮日報』 2005年1月11付
  30. ^ 「北支派遣多田舞台冨塚舞台副島隊調査」(昭和15年1月)
  31. ^支那事変ニ於ケル軍旗風紀ノ見地ヨリ考察セル性病ニ就テ」(1936年(昭和15年)10月)
  32. ^ a b c d 第140回国会 参議院 予算委員会 第2号 平成9年(1997年)1月30日
  33. ^ a b c d 第140回国会 参議院 予算委員会 第8号 平成9年(1997年)3月12日
  34. ^ a b cたかじんのそこまで言って委員会』2005年4月10日放送
  35. ^ 井浦祥二郎 『潜水艦隊』 学習研究社 (2001年6月)
  36. ^ a b c d 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月
  37. ^ a b c 吉見義明、川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店1997年 7月
  38. ^ 1962年の国会において、厚生省(現:厚生労働省)は「慰安婦は、軍属にはなってないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いをしているはず」と答弁している。第040回国会 衆議院 社会労働委員会 第27号 昭和37年(1962年)4月11日
  39. ^ Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(下)~仕掛けられた情報戦争~によれば、 中京テレビ製作の『IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には』において、元慰安婦の話に対する日本語のテロップは「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。」となっていたが、実際には、元慰安婦はインドネシア語で「あの朝鮮人は誰だったろう。・・・」と語っていたという。
  40. ^ 戦争犠牲者を心に刻む会 (編) 『アジアの声(第11集) 私は「慰安婦」ではない』 東方出版(大阪) 1997年8月
  41. ^ 文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという。
  42. ^ 韓国挺身隊問題対策協議会『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(明石書店 1993年)
  43. ^ a b 米国立公文書館所蔵の米軍のレポート”UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”(1944年夏、北ビルマのミートキーナーにおいて捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と雇い主の日本人夫婦に対して行なった尋問の内容が報告されている)。
  44. ^ a b 金一勉 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(徳間書店 新装改訂版版 1992年2月)
  45. ^ 吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995年
  46. ^ 文玉珠 『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎 1996年)
  47. ^ 西岡力 『闇に挑む!』(徳間文庫 1998年9月)
  48. ^ a b c 秦郁彦 『昭和史の謎を追う 下』文藝春秋社  1999年12月
  49. ^ a b 吉見義明(編)『従軍慰安婦資料集』I大月書店 1992年12月
  50. ^ 高安やえ「女のラバウル小唄」(『戦中派の遺言〈続〉』 櫂書房1979年)
  51. ^ 日本占領下インドネシアにおける慰安婦---オランダ公文書館調査報告 山本まゆみ、ウイリアム・ブラッドリー・ホートン
  52. ^ 山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文藝春秋  1975年1月)
  53. ^ 日本の円の価値は、この時期は安定していたが、ブロック経済(又は満州事変)と前後して急低下して日華事変の頃まで6割のレベルが続き、欧州戦争開始以後さらに低下している。 「国際金融」第9回 「円の歴史、PPP」 p13
      また、当時日本の大正中期から昭和の第二次大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、米価は上下変動があり、第二次上海事変からとくに欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。なお、北川サキの前借りは、10歳で売られた時で300円だったが、3年経って娼婦になるまでの渡航費用と食事代と利息で2,000円になると聞かされたが、北川サキ自身は疑っている。
  54. ^ 総山孝雄 『南海のあけぼの』叢文社 1983年1月
  55. ^ 『従軍慰安婦』(千田夏光著: 双葉社 1973年)、『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉著:三一書房  1976年)などが出版されたが、大きな反響には至らなかった。
  56. ^ 『朝日新聞』とその系列の「テレビ朝日」にしばしば登場した
  57. ^ a b 植村隆記者は「朝日新聞社」から韓国に派遣され、語学留学までしているので、韓国語に詳しいはずなのに、金学順の韓国語での証言に含まれていた「キーセン」(公娼)出身ということは書かずに、実際に発言していない「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との記事を書いたことは意図的な情報操作だという指摘もある。 (救う会西岡力副会長が 2005年1月24日に発表した「朝日新聞にまず問いたいこと」という一文、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第4巻(小学館 1997年)、これらの批判を受けてか、『朝日新聞』の縮刷版は同じ記事を12日付けにし、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行された」という部分を削除した。
  58. ^ a b c d産経新聞』1997年3月9日付
  59. ^ a b 『産経新聞』(1998年4月28日付)「主張」
  60. ^ a b 河野談話は見直しが必要だ 池田信夫BLOG
  61. ^ この動きについては、麻生太郎外務大臣の民放での発言を初め、北朝鮮、韓国、中国などによる日米分断のための反日工作だとの指摘もある。
  62. ^ 終戦後にアメリカ占領軍相手の女性達を警察が取り締まりの区別上、「特別挺身隊」と呼んでいたという話もあるが、このことは慰安婦と女子挺身隊混同の一因とは見られていない。(いのうえせつこ『占領軍慰安所』 新評論 (1995年8月31)
  63. ^ 「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」は、半年後には五十嵐広三田英夫などの国会議員や、橋本大二郎橋本龍太郎元首相の弟)を含む120人以上の個人と10以上の団体の賛同を得る。
  64. ^ 宋斗会に私淑し、在日二世の日本国籍確認訴訟に取り組む。2005年5月には『朝鮮人徴兵・徴用に対する日本の戦後責任―戦後日本の二重基準』という著作を出版した。
  65. ^ 戦後、「浮島丸」事件の訴訟を起こしたり、指紋押捺を義務づけていた外国人登録制度に抗議をして、霞が関で自らの外国人登録証を焼き捨てたり、慰安婦問題に対して日本政府に謝罪を求める意見広告を新聞に出したりするなど、在日の立場から発言した。
  66. ^ a b 西岡力 「すべては朝日新聞の捏造から始まった」(『WILL』2007年5月号)
  67. ^ 第118回国会 参議院 予算委員会 第19号 平成2年(1990年)6月6日
  68. ^ a b 要求した六項目とは
    1・日本政府が朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認める。
    2.公式謝罪する。
    3・蛮行の全てを自ら明らかにする。
    4・慰霊碑を建てる。
    5・生存者・遺族への補償。
    6・歴史教育で(慰安婦問題に関する)事実を教える。
    (後に責任者処罰が加えられる。)
  69. ^ 朝日新聞社 『女たちの太平洋戦争(3)---暗い青春の日々』 朝日新聞社 1992年3月
  70. ^ 記事を書いた植村記者は、慰安婦問題で訴訟を起こした「太平洋戦争犠牲者遺族会」の女性幹部の娘と結婚していおり、義母からの情報提供で、韓国よりも先にスクープを書いた
  71. ^ この元慰安婦金学順の同年8月14日の韓国ソウルでの記者会見の話によると、17歳の時、義父によって、華北の日本軍部隊に連れて行かれたことになるが、この1939年(昭和14年)に「女子挺身隊」は未だ存在していなかった。
  72. ^ 秦郁彦との対談で、千田夏光は「訴訟を起こした金学順さんの講演記録を読むと、軍による強制連行だったかどうかは不明確なんです。」と述べている。(出典↓)
  73. ^ a b 「歴史論争を総括する」(『論座』 1999年9月号)
  74. ^ 『ハンギョレ新聞』(現:『ハンギョレ』)1991年8月15日付
  75. ^ 『日韓新考』(黒田勝弘 産経新聞出版/扶桑社 2005年 2月)によれば、前年の日本のテレビで、教え子の6人の女子児童を「女子挺身隊」として日本の軍需工場に派遣したソウルで国民学校の教師をしていた日本女性が、戦後、韓国で教え子たちの消息をたずね歩き、全員が無事だったことを確認したという美談が、慰安婦として強制連行されたと誤解されたという。
  76. ^ 「パナイ島接客業組合」という資料において、「事業内容」の部分で、酒場、映画などの六項目のうち、最後の「慰安所」という項目だけが、白く消されて公開されていた。その後に公刊された政府資料には、「慰安所」という項目名が復活するが、その下にある責任者の名が黒く消されている。ここは、事業種と事業者・責任者のリストである。(「政府調査「従軍慰安婦」資料集成」2巻202頁)
  77. ^平和友好交流計画に関する村山内閣総理大臣の談話」」
  78. ^ 同年3月、日本政府は報告書に対する非公式な反論文書を各国に配布したが、強い反発を受けたため、「従軍慰安婦問題」は国際法的には解決済みだとして、「女性のためのアジア平和国民基金」への理解を求める内容に修正した文書を国連に提出したが、各国の理解は得られなかった。
  79. ^ 国連における評価基準は上から”commend”(賞賛)、"welcome"(歓迎)、"take note with appreciation"(評価しつつ留意)、"take note"(留意)。
  80. ^ 河野・慰安婦談話と石原元官房副長官の証言(『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』 2006/08/28 15:48)
  81. ^ 『WILL』2007年5月号
  82. ^朝鮮日報』2001年2月19日付
  83. ^ この当時の韓国教科書では「女性まで挺身隊の名で連れ去られ慰安婦として犠牲にもなった」と記述されている。
  84. ^ 当時、中山文科相は、歴史教科書の見直しを推進する自民党内の「日本の将来と歴史教育を考える若い議員の集い」での代表であった。
  85. ^中央日報』 2005年4月2日付2面
  86. ^ 60年もの間求め続ける正義:2005年8月10日の「水曜デモ」を機に、元「従軍慰安婦」とその支援者に連帯を表明する。
  87. ^ 「時事ニュース」 2007/03/11-10:49
  88. ^中央日報』 2007年3月2日付
  89. ^ 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書
  90. ^ 衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書
  91. ^ 慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相(『JanJan』 2007年3月24日付)
  92. ^ "日本軍、慰安婦強制動員" 『聨合ニュース』(韓国語)
  93. ^ 「組織的強制徴用なし」 慰安婦問題 米議会調査局が報告書(『産経新聞』2007年4月12日)
  94. ^ (『時事通信』2007年4月27日)
  95. ^朝まで生テレビ!』1997年1月3日放送
  96. ^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 5』 小学館 2002年9月
  97. ^ 呉善花 『「反日韓国」に未来はない』(小学館 2001年9月)
  98. ^ 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『文藝春秋』4月号)
  99. ^ 『共同通信』2007年5月12日付
  100. ^慰安婦問題 対日非難は蒸し返し」(Sankeiweb 2007/03/10 06:09)
  101. ^ 私が知る「従軍慰安婦」湯浅謙 (季刊『中帰連』第五号 1998年6月)
  102. ^ 「日本軍「慰安婦」問題に関する声明」  日本の戦争責任資料センター 2007年2月23日
  103. ^ 『親日派のための弁明2』 扶桑社 2004年11月27日
  104. ^ 『日本文化チャンネル桜』2005年6月15日放送
  105. ^ a b 『産経新聞』2007年5月18日付
  106. ^ a b 天児都 『「慰安婦問題」の問いかけているもの』 石風社 2001年7月
  107. ^ 2002年、韓国・ 慶南大学客員教授(社会学)の金貴玉が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことを明らかにした。1956年に陸軍本部がに編纂した公式記録や目撃者たちの証言がある。韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約 3年間不法に公娼を設置・運営していた(『朝日新聞』2002年 2月24日付)
  108. ^ 米人女性ジャーナリスト、スーザン・ブラウンミラー(Susan Brownmiller)は自著”Against Our Will”(1975年)で、ベトナム戦争中、米軍がベトナム人女性がいる軍公認の慰安所を利用していたことについて詳細なルポを書いている。また、戦後の日本において、「パンパン」などと呼ばれていた進駐軍相手の日本人娼婦がいたことはよく知られている。
  109. ^ 2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution(戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春)」は、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドウクライナの女学校の生徒を騙して連れて行き、慰安婦にしたことなどを数多くの報告書や指令文書を元に報じた。
  110. ^ 韓国に対しては、ベトナム戦争時に、韓国軍が現地の女性を多数強姦し、私生児を残したことが社会問題になったことなどが指摘されている。
  111. ^ a b 『正論』2005年3月号
  112. ^ 世界各国にもあった慰安婦・慰安所(『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』 2007/03/09 16:54 )
  113. ^民族的快感、沸く韓国 米の慰安婦決議案 ホンダ議員、英雄扱い」(『Sankeiweb』 2007/03/14 03:24)は日本に対する道徳的優位を誇示するために韓国は慰安婦問題を日本の国家的強制によるものとすることに力を注いできていると指摘している。
  114. ^ 「日豪安保宣言が中国『慰安婦カード』を無効にする」 浅川晃広(『諸君!』2007年6月号)
  115. ^ 「河野談話」発表に関わった当時、内閣官房副長官だった石原信雄は、国会議員との会合において、初期の段階では韓国政府が慰安婦問題をあおるということはなく、むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたが、ある日本の弁護士が韓国で、慰安婦問題を掘り起こして大きくし、それに呼応する形で国会で質問を行うという連携プレーのようなことがあり、「韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけない」という状況があったこ語っている。
  116. ^ 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(編) 『歴史教科書への疑問』 展転社 1997年12月23日
  117. ^ 韓国の盧泰愚大統領は慰安婦問題の発生について、「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。」と語っている。(『文芸春秋』1993年3月号 )
  118. ^ 『正論』 2003年3月号
  119. ^ 『諸君!』1992年7月号
  120. ^ 中川八洋 『歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本』 徳間書店 2002年4月
  121. ^ 1993年5月に吉田を訪ね、積極的に反論するよう勧めたが、「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」、「回想には日時や場所を変えた場合もある」と言われ、吉田の回想は証言としては使えないと確認したという。
  122. ^ 1997年1月28日 「日本の戦争責任資料センター」 上杉聰 「『慰安婦』は商行為かという問いに答えつつ 」
  123. ^ 「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」(『諸君!』1996年12月号)
  124. ^ 「ハイナンNET」は大学生やフリーターなど、10代から20代の若者が、中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援を行なっているネットワーク。
  125. ^ 石田米子・内田知行『黄土の村の性暴力』 創土社 2004年
  126. ^日本文化チャンネル桜』2005年6月15日
  127. ^ 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『 文藝春秋』1997年4月号)
  128. ^ 通牒の最後には「依命通牒す」とあり、杉山陸軍大臣の委任を受けて発行されたことが明記されている。
  129. ^ Ⅳ.「地方警察の反応と内務省の対策」 (永井和「日本軍の慰安所政策について」)
  130. ^ 支那渡航婦女の取扱に関する件(秘) 内務省警保局長 各庁府県長官宛 (1938年2月23日)
  131. ^ (全文)軍慰安所従業婦等募集に関する件
    支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集するに当り、
    故らに軍部了解等の名義を利用し 為に軍の威信を傷つけ 且つ一般民の誤解を招く虞あるもの、
    或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し 社会問題を惹起する虞あるもの、
    或は募集に任ずる者の人選適切を欠き 為に募集の方法 誘拐に類し警察当局に 検挙取調を受くるものある等、
    注意を要するもの少なからざるに就ては 、
    将来 是等の募集に当たりては 派遣軍において統制し 募集に任ずる人物の選定を周到適切にして、
    その実施に当たりては 関係地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、
    以て軍の威信保持上 並に社会問題上 遺漏なき様配慮相成度、  依命通牒す。
    (ウィキペディア内参照、ノート:軍慰安所従業婦等募集に関する件慰安所>「慰安所政策の背景とその影響」)
    • この当時、陸軍省は「従軍慰安婦」の果たす「役割」を高く評価しており、その認識にたち、慰安婦の意義を説く教育参考資料『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布している。その内容は、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている。
    『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』(原文)
    事変勃発以来の実情に徴するに、赫々たる武勲の反面に略奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、 為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とするところなり。・・(中略)・・ 犯罪非行生起の状況を観察するに、戦闘行動直後に多発するを認む。・・(中略)・・事変地においては特に環境を整理し、慰安施設 に関し周到なる考慮を払い、殺伐なる感情及び劣情を緩和抑制することに留意するを要す。・・(中略)・・ 特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指導監督の適否は、志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の 予防等に影響するに大ならざるを思わざるべからず。
    • [1942年][9月3日]の陸軍省課長会報で倉本敬次郎恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
    • 台湾軍が南方軍の求めにより「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある。
    「台電 第602号」(全文)
    陸密電第63号に関し、「ボルネオ」行き慰安土人50名、為し得る限り派遣方、南方総軍より要求せるを以て、 陸密電第623号に基き、憲兵調査選定せる左記経営者3名渡航認可あり度、申請す。
    • [1944年][6月27日]、内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」(抜粋)
    勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、 未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、 労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。
  132. ^ 『asahicom 』 2007年3月27日付
  133. ^ UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma TheaterAPO 689
  134. ^ 京大 白石秀人「従軍慰安婦問題に関する自由主義史観からの批判を検証する」 (この白石秀人の参考文献は、日本政府の発表の資料の直接でなく、「戦争責任資料センター」のものや「解放社」の内容抜粋である。)
  135. ^ 尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。
  136. ^ 彼女たちは1942年に上陸し、1943年には特にに生活状態が良く、1944年には敗色濃い中で爆撃も受け、捕虜となった。(吉見資料集)(註: 軍票の価値の下落によって生活困難が生じることはすでに、他の研究者によって指摘済み)
  137. ^ これらの政府文書発表は1993年であり、一般公刊(セット定価10万円)は1997年7月20であるが、吉見によるその秦郁彦批判は、雑誌『世界』(1997年3月号)「歴史資料をどう読むか」(吉見 義明)と言われている。
  138. ^ 判決としては被告の勝訴なのに、傍論で原告側の主張に沿う憲法判断を示すことを「ねじれ判決」(国学院大学大原康男教授の命名)と言い、これまでにもいくつかそのような判決が出ており、上告を封じるものになるなどの点で専門家からも批判がある。
  139. ^ 2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。
  140. ^ 元慰安婦の方々に対する小泉内閣総理大臣の手紙
  141. ^ 1996年10月18日、挺対協の尹貞玉共同代表はKBS(韓国放送公社)ニュースでのインタビューで「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを初めから売春婦扱いすることだ」として、「受け取ってはなりません」 と呼びかけた。韓国政府は当初、歓迎の姿勢を見せたが、このような挺対協の強い反対運動によって態度を変えた。
  142. ^ 吉見義明はマクドゥーガルが政府調査に基づくと報告した中で実際に政府資料にない箇所を本人を前に指摘したが、マクドゥーガルは無視したという。(出典↓)
  143. ^ 日弁連主催のゲイ・マクドゥーガル講演会(1999年6月2日 東京都千代田 弁護士会館)
  144. ^ 会長声明集 Subject:1995-11-16 従軍慰安婦問題への政府の対応に関する声明 「日本弁護士連合会」または、性奴隷参照


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