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ノート:慰安婦 - Wikipedia

ノート:慰安婦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事は一度削除されています。削除に関する議論はWikipedia:削除依頼/慰安婦をご覧ください。


このノートページでは、しばしば激しい論争が起きています。コメントを書くときは冷静さを保つように努めてください。

ここは、記事「慰安婦」についての議論や意見を出すためのノートページです。

基本方針

目次

[編集] 過去ログ

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[編集] 外部リンク・内部リンク

プロバガンダサイト等もありますので、

  • 外部リンクについては公的機関(GO.JP,GO.KR等)、学術研究機関(AC.JP,AC.KR)、NPO、の順
  • 資料、原資料については査読者がある学術雑誌、研究者(学術研究機関に所属、また元所属)によるもの

とちゃんと区別するべきではありませんか?査読者がいないようなものは論文としてはC級です。

パンプレットのマンガ等は参考文献というべきではないのではないですか?--Lulusuke 2007年4月9日 (月) 10:00 (UTC)

マンガはここにあったので私はそのままに分類しましたが、創作だから資料ではないですね。文献類は、おっしゃるとおりだと思います。また、ろくに評価されなかったマクドゥーガル報告書が国際法の資料にはならないと思うし、これも査読者に評価されなかったに類することですね。「(国際法について)」は(国際宣伝活動)、と題すべき程度です。 --如月の弥 2007年4月9日 (月) 15:20 (UTC)

[編集] 外部リンク

“日韓基本条約で解決済み”→政府間合意のみで解決したと解釈するのは誤り。個人に対する補償は未だに一切為されていない。--202.208.158.141 2007年3月9日 (金) 01:14 (UTC)

個人に対する保証は韓国側が拒否しています。韓国政府が補償するということで日本はお金を渡しているんですけど・・・。そういう内容が書かれているのが日韓基本条約難ですが。219.97.186.33 2007年3月17日 (土) 01:08 (UTC)

もう一度生まれたら、花に 以上の署名の無いコメントは、133.1.28.247(会話/whois)さんが[2006-06-26 11:07:27 (UTC)]に投稿したものです(ikedat76 2006年6月30日 (金) 17:49 (UTC)による付記)。

なるほど。1926年、昭和初年、大正と昭和の境界に設定した物語。如月の弥 2007年3月18日 (日) 06:45 (UTC)

最近の報道から

この記事での新たに発見の部分はその後の報道で否定されている。Lulusuke 2007年4月17日 (火) 00:15 (UTC)
「日本海軍占領期にオランダ領東インド西ボルネオであった強制売春に関する報告書」
オランダ政府記録物保存所 --GOLDEN BAT 2007年4月16日 (月) 16:59 (UTC)
いずれも既知の資料ですよね。これらの資料はAWFの資料収集の中に含まれています。またOzuYasu3rou氏が押す某D論の資料もすべて既知で独自の調査にもとずく新資料の発見はありません。。
以上Wikiは実況放送とは違うのでリンクに値しないと考えます。--Lulusuke 2007年4月17日 (火) 00:15 (UTC)

[編集] 内部リンク

慰安所」、「強制連行」、河野談話→「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」、軍票→「軍用手票」、「奴隷—以上の署名の無いコメントは、如月の弥(会話履歴)さんが 2007-04-04 16:10 (UTC) に投稿したものです。

[編集] 参考文献

<慰安所に関する参考書一覧>

(基礎史料)

  • 原書房「岡村寧次大将史料」1984:第四編十(二)「昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。/現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。」

(全体を詳しく説明した基本研究書)

  • 従軍慰安婦 吉見義明 岩波新書 1995:初めて国の関与証拠資料を発見した学者の決定版研究書、全貌の視点から記述
  • 慰安婦と戦場の性 秦郁彦 新潮選書 1999:慰安婦問題強調派と同じ資料から異なる見方で、多様詳細に記述。背景の公娼制、他国の慰安婦、論議の流れ、国連のクマラスワミ報告、等が具体的詳細。

(初期の告発書)

  • 従軍慰安婦 正続 千田夏光 双葉社 1973:最初の告発書、挺身隊と慰安婦の混同の始まりとされ、従軍慰安婦という名称を普及させた、売春婦のイメージ
  • 天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦 金一勉 三一書房 1979:戦時中の体験者の話により慰安婦像をよく示す、性交の様子を詳述、厳しい告発、朝鮮民族虐殺を告発
  • 私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行 吉田清治 三一書房 1983:強制連行を告白した。後に秦により嘘を指摘された

(研究書)

  • 従軍慰安婦問題の歴史的研究 倉橋正直 共栄書房 1994:からゆきさん研究者によるもの、吉見と同じ意見で強制性に注目し詳述、売春婦型と奴隷型に分類。吉田清治や千田夏光から引用し、また慰安婦たちが多く虐殺されたとする。
  • 性の奴隷従軍慰安婦 ジョージ・ヒックス 三一書房 1995:日本滞在の長い研究者、英語版は海外でよく引用される、吉田清治を証言として採用した。
  • 共同研究日本軍慰安婦 吉見義明・林博史他 大月書店 1995:吉見らの研究の進化版、軍による組織的関与を明らかにされている。
  • 慰安婦戦時性暴力の実態1:日本・台湾・朝鮮編、池田恵理子他 緑風出版 2000:日本人・台湾人・朝鮮人慰安婦の証言、地域に絞った研究調査、吉見の最新の研究、
  • 慰安婦戦時性暴力の実態2:中国東南アジア太平洋編、池田恵理子他 緑風出版 2000:中国・東南アジアでの調査・証言、地域に絞った研究
  • 日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 尹明淑 明石書店 2003:'90年代から発表されたものを2000年に博士論文として提出した大著。慰安所の形成過程、朝鮮人慰安婦のぜ形成要因を詳述、今までの朝鮮人慰安婦の全証言リスト。社会学研究であり、朝鮮の貧困から慰安婦にならざるを得なかった要因を説明。慰安婦の社会的背景、学歴、前の職業、貧困、被支配状況、徴用に対する意識、など調査。
  • 黄土の村の性暴力:大娘たちの戦争は終わらない 石田米子・内田知行 創土社 2004:中国山西省の日本軍暴行のくわしい調査、証言9人、天津慰安所の中国人研究の訳を含む
  • 台湾総督府と慰安婦 朱徳蘭 明石書店 2005:台湾での慰安所設置業者・設置会社の調査、軍の関与、元慰安婦約40人の証言リスト。

(強制連行関係)

  • 「半島女子勤労隊」について」高崎宗司

(政府関与の証拠資料集)

  • 従軍慰安婦資料集 吉見義明/編集・解説 大月書店 1992:政府関与を示す資料集、同時に吉見の最初の研究結果。時期的に当たり前だが、政府発表の資料と比べると収録されていないもの少なくない。
  • 政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成1-5 女性のためのアジア平和国民基金 龍溪書舎 1997-1998:政府による調査の報告資料。発表は'92'93年。現在でも日本の公式資料のほぼすべてに近い。
  • 台湾慰安婦関係資料集 第1巻・第2巻 朱徳蘭 不二出版 2001
  • 日本軍「慰安婦」関係資料集成 上下 鈴木裕子 明石書店 2006

(海外歴史家の見方)

  • A modern history of Japan:from Tokugawa times to the present, Gordon, Andrew, Oxford University Press, 2003(日本の200年、アンドリュー・ゴードン、みすず書房、2006):同時代の横並び見方での日本近代史、先述のジョージ・ヒックス他を引用し慰安婦を説明、吉見と同様の見方

(証言集)

  • 中国に連行された朝鮮人慰安婦 韓国挺身隊問題対策協議会 三一書房 1996:慰安所のあった漢口に今も残った朝鮮人慰安婦10人の証言、詳しい、強制を述べる
  • 証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993:韓国で研究者が集まって本格的に調査された結果の慰安婦19人の証言集。大部分は詐欺、暴力による連行は3件。詐欺も強制のうちということで、大部分が強制とする。
  • 証言従軍慰安婦・女子勤労挺身隊 伊藤孝司 風媒社 1992:挺身隊7人と慰安婦6人の証言集
  • 朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」 尹貞玉他 三一書房 1992:河野談話以前に朝鮮の新聞に連載された朝鮮人慰安婦取材記録、曖昧、日本に厳しい見方
  • 従軍慰安婦:元兵士たちの証言 西野留美子 明石書店 1992:日本人慰安婦、金学順ら、元兵士による証言など
  • 赤瓦の家:朝鮮から来た従軍慰安婦 川田文子 筑摩書房 1987:朝鮮人慰安婦の証言
  • 漢口慰安所 長沢健一 図書出版社 1983:漢口慰安所の軍医の体験記
  • 武漢兵站 山田清吉 図書出版社 1978:漢口慰安所の管理係長の体験記

(論争について)

  • 歴史の事実をどう認定しどう教えるか 吉見義明他 教育史料出版会 1997:吉見らの歴史修正主義者への反論、要点解説、弁護士による事実認定の説明あり
  • 「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実 吉見義明・川田文子 大月書店 1997:コンパクトなQ&A集
  • 「慰安婦」問題Q&A アジア女性資料センター編 明石書店 1997:厳しい見方のQ&A
  • 慰安婦強制連行はなかった 大師堂常慰 展転社 1999:強制連行の証拠がないことを主張、慰安婦関係の朝日・産経両新聞の多くの記事を収録
  • 日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり 阿部晃 夏目書房 2005:典型的な国への批判書、引用は秦のみ、吉見は批判対象として引用
  • 日本軍性奴隷制(「従軍慰安婦」)問題と最近の動向 上野輝将 女性学評論 20,43-67,2006(神戸女学院大学):論争史というより運動を総括した演説、批判に答えCiNiiのサイトからweb上で読める
  • 「慰安婦」関係文献目録 女性のためのアジア平和国民基金編 ぎょうせい 1997:1996年12月までの慰安婦関係の本、雑誌記事の総目録

(国際法について)

  • 戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳 マクドゥーガル 凱風社 2000:慰安婦が日本国の犯罪であることを明記、強姦所と呼び、14万人の朝鮮人慰安婦を虐殺したと書く。賠償を勧告している。マクドゥーガル報告書参照。
  • 国際法からみた「従軍慰安婦」問題 国際法律家委員会 明石書店 1995:NPOによる戦争犯罪性の分析
  • 裁かれた戦時性暴力 VAWW-NETジャパン編 白沢社 2001:女性人権団体の見方、厳しい
  • Q&A女性国際戦犯法廷 VAWW-NETジャパン編 明石書店 2002:上記にもとづくQ&A
  • 戦犯裁判と性暴力:日本軍性奴隷制を裁く 内海愛子 緑風出版 2000:慰安婦がなぜ東京裁判で裁かれなかったか
  • 加害の精神構造と戦後責任:日本軍性奴隷制を裁く 池田恵理子 緑風出版 2000:軍の側の分析

—以上の署名の無いコメントは、OzuYasu3rou会話履歴)さんが 2007-03-29 14:04 (UTC) に投稿したものです。

—以上の署名の無いコメントは、如月の弥(会話履歴)さんが 2007-05-14 14:55 (UTC) に投稿したものです。

Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/OzuYasu3rouによる資料紹介及び個人的感想の併記。但し、如月の弥さんやその他の方による資料追加及びOZU感想の修正が行われている為打消し線挿入は遠慮しました。--Klsasa 2008年4月6日 (日) 06:40 (UTC)

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[編集] 慰安婦の定義について

慰安婦いあんふ)とは日中戦争太平洋戦争当時に、旧日本軍軍人の性的相手をする施設にいた婦女の総称である。従軍慰安婦じゅうぐんいあんふ)とも呼ばれる。

とありますが、ただ居ただけの女性が慰安婦と呼ばれていたわけではないと思われます。そこで私は、

日中戦争太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれる場所で、旧日本軍の性の相手をさせられた女性の総称である。[1] 従軍慰安婦じゅうぐんいあんふ)とも呼ばれる。

と辞書という定義を語るにはもっともな出典元を明記したわけですが、それが中立性を欠いているのであれば、中立性を保った定義に関する出典元を明記していただければ幸いだと思います。--125.31.104.101 2007年5月20日 (日) 16:37 (UTC)

125.31.104.101さん、初めまして。よく誤解されやすいことなのですが、ウィキペディアの公式方針である「中立的な観点」とは、「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」ということです。ですから、特定の辞書を出典として定義を記述したからといって、「ウィキペディアの言う中立的」であることにはならないことを御理解下さい。「旧日本軍の性の相手をさせられた女性」との表現は明らかに、強制されたということを意味しています。もちろん、いろんな経緯で“性の相手をさせられた”と表現してよい同情すべき悲惨なケースがあったことを否定するつもりは毛頭ありませんが、現実にはすべての慰安婦が強制させられたのではないことを示す資料や証言もあります。通常の仕事より稼げるということで応募したという証言などもありますし、慰安婦は「性的奴隷」であったとする主張に対し、慰安婦制度を公娼制度の元での商行為であったとする反論があります。軍による強制性を認めた「河野談話」に対しても、根拠がないとして見直しを求める声も少なからずあります。ですから、一概に「性の相手をさせられた」と表現することは辞書百科事典としての正確さを欠きますし、「あらゆる観点からの描写を平等に扱い」とするウィキペディアの方針からも外れてしまうことをどうか御理解下さい。「2007年5月21日 (月) 01:41」の版で慰安婦の定義に「要出典」のテンプレートが貼られましたが、定義自体は特定の出典により記述するものではないと思います。議論があることに関しては、「○○という議論がある」という事実を出典と共に記述するのが、ウィキペディアの方針であると思います。--モトカル 2007年5月20日 (日) 23:09 (UTC)— 2007年5月20日 (日) 18:29 (UTC)

[編集] 慰安婦の定義の試案

現在は慰安婦の定義を、「旧日本軍の性の相手をさせられた女性」など、強制的なものだとする表現の編集がこれまで何度かありました。確かに慰安婦が性的奴隷であったとの主張があり、慰安婦がほとんど報酬をもらっていなかったとする主張も実際にありますが、慰安婦は公娼制度が存在していた時代において、その延長上にある商行為(「売春」)であるとする見方もあり、激しい議論があるのは衆知のことです。

ウィキペディアにおいては、様々な観点を公平に扱い、特定の観点から記述しない「中立的な観点」という公式の方針があり、論争のある問題においては殊更この方針が重要になってきます。 現在のところ、慰安婦を一律には定義できないので、“軍人の性的相手になったということが、自発的であるか強制的であるかを示唆しない”「旧日本軍の軍人の性的相手になった婦女」と表現し、 “様々な議論があるという事実”を明記し、一つの思案として次ぎのように記述することを提案します。個人的見解からではなく、辞書百科事典としてのウィキペディアの方針を元に議論され、一定の合意が得られ、より妥当で洗練された記述が生まれることを望みます。

慰安婦(いあんふ)とは日中戦争や太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍の軍人の性的性行為の相手になった婦女の総称である。従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)とも呼ばれる。

旧日本軍が慰安婦を強制連行したのか否か、慰安婦は、商行為であったのか、強制的なものであったのかや、慰安婦制度は他国にも見られるものであるのか、日本独自のものであるのかなど、様々な主張があり、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐり、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。--モトカル 2007年5月20日 (日) 23:09 (UTC)—2007年5月20日 (日) 18:28 (UTC)

あなたの言いたいことは分かりましたので、wikipediaの方針である出典の明記にご協力ください。あと、wikipediaは辞書ではありません。(参照:Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)私からは以上です。--125.31.104.101 2007年5月20日 (日) 18:35 (UTC)
wikipediaは辞書ではなく、百科事典でしたね。事典という意味のつもりで言葉を間違えていました。御指摘ありがとうございます。訂正しました。あと、「出典の明記にご協力ください。」というのは冒頭の定義のことでしたら、現在の「慰安婦(いあんふ)とは日中戦争や太平洋戦争当時に、旧日本軍の軍人の性的相手をする施設にいた婦女の総称である」という定義は、その定義が妥当かは別にして、「日中戦争や太平洋戦争当時という時期」や「慰安所が旧日本軍の性的行為を行なう施設であったこと」、「慰安婦がそこにいて、軍人の相手をしたこと」などは衆知の事実であり、議論のない事柄なので、出典の明記の問題はないと思います。ウィキペディアとしてどう定義するかということをウィキペディアの方針を元に議論すべきと思います。--モトカル 2007年5月20日 (日) 23:09 (UTC)
「そこにいた婦女」では、経営者のおかみさんや、全くの飯炊き係の女性がいた場合も含んでしまいかねず、「娼婦」の方がいいと思います。都市にある大規模な慰安所ではいただろうと思います。
それにしても「定義」という言葉は事典には似合いませんね。ことがらを事典の側が定義するというのは。「そのような事として扱われている区分け」ということでしょう。その意味の一つに、辞書的に事典を引く読者のための解説があったりするわけでしょう。定義と言うなら「(事柄や用語でなく、事典の体系上の)項目の定義」というべきでしょうか。--如月の弥 2007年5月21日 (月) 03:54 (UTC)
娼婦では売春をする女性という意味になり、中立性を欠くと考えられます。慰安婦がそこにいて、軍人の相手であったことは事実であるとして、『した』という表現では強制は無かったという意味に取られかねないと思います。最低でも『させられた、あるいはした。』ぐらいの表記は必要だと思います。
ところで、中立性も大事ですが、重要なのは出典の明記だと思うのですが・・・Wikipedia:検証可能性が満たされないと意味がありません。ここで言う慰安婦とは、広辞苑大辞林での慰安婦とは違うものなのでしょうか?そうであるならば、そのことも明記するべきだと思います。--125.31.104.101 2007年5月21日 (月) 11:44 (UTC)

私は概論以下が充実していれば定義は細かく気にしませんが。しかし、出版社も商売ですから、批判しそうな人におもねりかねないですね。信頼できる情報源にはなりません。

あるサイトで見たのは、「従軍慰安婦:日中戦争や太平洋戦争中、朝鮮などアジアから「女子挺身隊」の名で動員され、兵士相手に慰安所で性の相手となることを強要された女性たち。1990 年代に入って韓国、中国、フィリピンなどの元従軍慰安婦から補償と謝罪要求が提起された(三省堂の大辞林)。」 ですと。 「従軍慰安婦」という合成熟語の用法の定義としてならわかりますが、それなら事典の「慰安婦」には、この定義は関係ないということです。

さらに、こういういかにも定義めいたものは、それ以外のあり方を消し去ります。それは完全に中立に反します。そんなものの孫引きを検証可能性だとの言葉だけで従えますか?――現に、大辞林のその説明はばかばかしいものになっているでしょう。中立のない、事実としての客観性のない、ただコピーのような検証可能性というのは、その検証方法自体がまちがいです。それだけなら、無責任な切り貼り作業でしかありません。

およそ、情報というものはすべてがイミテーションです。だからその信頼性はオリジナル(事実)とどれだけ近いかによります。コピーとしてしか根拠を持たないものを基本にしてしまうなんて、もはや真実(客観的)は関係ない存在になります。それでは事典ではなく、同語反復のことば遊びです。そんな編集でも人が集まってくるから意味があると思うのは、戦時中やバブルの中にいるのと変わりません。

私も百科事典を調べたことがありますが、「強制された」という言葉はなかったと思います。ただ短すぎて使えなかった。別名娘子軍とも呼ばれたとあったのだけど、出典が千田夏光とのみされていたのが問題。材料として信頼できるのは、問題化以前の事典辞書と考えていますが、それ以前の事典がなくて。より古い辞書には、確か、外地で軍の相手をした娼婦、だったかと思う。また従軍には、二つの意味がある、というのはありました。そんなことは読まなくてもわかる。――訂正――赤十字の看護婦も軍看護婦と同じに従軍看護婦と呼ぶというのは辞書を見てわかりました。--如月の弥 2007年5月21日 (月) 14:10 (UTC)

追伸。ネットで調べるとこんなのを見付けました。
「従軍慰安婦[広辞苑] 日中戦争・太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」
誰が、「広義の強制性」だと読めるでしょうか?つまり、125.31.104.101さんの望みはこういう記述だと。もしも今記述が変わっているなら、しょっちょう記述の変わるものをまねして書き込め、と。--如月の弥 2007年5月21日 (月) 14:39 (UTC)
逆に考えられないでしょうか?将兵の性の対象となることを強いられた女性以外は慰安婦ではなかったのかもしれないということです。慰安婦は居なかったという説もあるぐらいですからそれはありえるわけです。--125.31.104.101 2007年5月21日 (月) 16:10 (UTC)
(挿入)わざとでないなら失礼しました。しかし「慰安婦は居なかった」という説は、事柄でなく言葉への主観なのではないのでしょうか。--如月の弥 2007年5月23日 (水) 03:48 (UTC)
厳密に「定義」と考えても、ここにいる編集者がすべて同意するような定義はありえないでしょうし、そうやってわざわざ定義する意味もあまりにないように思います。冒頭に何を書くかの問題だと思っておけばよいのではないでしょうか。そうしないとそこだけで編集合戦、保護になってしまいます。--火の鳥 2007年5月21日 (月) 22:30 (UTC)

モトカルさん、「旧日本軍の軍人の性的相手をする施設にいた婦女の総称である」では、性行為の部分が全て排除されてしまっていて、逆にNPOVに反すると思います。それに、例えば、壕にいた慰安婦はどうなるんだとか、そういう議論になってしまい、行き着く果ては「女性」でしか括れなくなります。「強制性が全くなかった」という主張はあり得ないことはないかもしれませんが、少なくとも秦も含めてまともな歴史学者はそのような主張はしていないと思いますし、そこがこの問題の出発点でもありますので、そこまで配慮するというのは行き過ぎかと。--火の鳥 2007年5月21日 (月) 22:42 (UTC)

火の鳥さん、私の試案は「慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍の軍人の性的相手になった婦女の総称」です。おっしゃる通り、「性的相手をする施設にいた婦女」との表現は、議論のある「性的相手をした」のか「性的相手をさせられた」のかについての記述をうまく避けているとは思いますが、「慰安婦自身が性的相手をした」という一番肝心なことがぼやけているので、よくないですね。しかし、「軍人の性的相手をした」という表現は、それが自発的なものであることだけを意味するわけではありません。以前にも書きましたが、「3年間の服役“させられた”人」は、もちろん自分で望んで服役したわけではなく、法による強制を受けたわけですが、「3年間服役”した”人」とも表現もできます。しかし、「軍人の性的相手をさせられた」という表現は、それが強制的であったことのみを意味し、自発的に相手をしたという要素は少しも含みません。実際に、当時の「公娼制度」における仕事として自発的に慰安婦になることを選んだ人もいるのですから、「させられた」という表現は正確さを欠き、偏った観点からの記述として、あらゆる観点を公平に扱うべきとする「中立的な観点」という方針に反する記述だと言えます。しかし、「性的相手をした」という表現だけでは、「慰安婦制度は強制的なものであった」と批判する側の観点を置き去りにすることになるので、慰安婦が「商行為」であったとする側と強制的に性的奴隷とされたものだとする側の間で議論があることを記述すればよいと思います。
それから、「出典の明記」は「検証可能性」という公式な方針にとって欠かせないものではありますが、これは書かれた“情報”のソースを明らかにするというものであって、衆知の事実で、特に異論がないものにまで出典を付ける必要はないと思います。そうでないと、脚注は出典で恐ろしいほど膨れ上がってしまいます。今、問題となっているのは、“情報の明示“という問題ではなく、百科事典として、どう記述するかという“記述”の問題で、特定の出典により決めるものではありません。ウィキペディアの「中立的な観点」という方針をよく理解すれば、『広辞苑』や『大辞林』などの辞書の定義であっても、様々な観点の内の一つに過ぎないことがわかると思います。最初、これらの辞書が慰安婦を強制的なものであることが自明のように定義していることに驚きましたが、よく考えると、結局、辞書(字引)というもは使われている“言葉の意味”を示すものであって、“事柄の説明・解説”をする「事典」ではないということに思い至りました。ですから、主に使われている言葉の意味を示した辞書の定義を出典として、慰安婦を定義することはそういう観点からも相応しくないと思います。それより、このノートで、ウィキペディアの方針に基いて議論すべきと思います。--モトカル 2007年5月21日 (月) 23:11 (UTC)
モトカルさん、丁寧に有り難うございます。仰るとおりで、慰安婦自身が性行為の相手となったという点がぼやけない方がよいかと思います。しかし、「性的相手」というのは少し婉曲すぎる気がしますので、「性の相手」「性行為の相手」くらいでよいのではと思います。少し内容的な話になりますが、「自発的に慰安婦になることを選んだ人もいるのですから、「させられた」という表現は正確さを欠き・・「中立的な観点」という方針に反する」という点には少し違和感があります。別に表現自体は「した」でもかまわないのですが、そもそも私の認識では、自発的に辞めることができない場合がほとんどで(物理的なもの、借金・業者との関係等理由は様々)、「慰安婦であり続けることを強制されている」のが圧倒的多数であるので、「させられた」という表現の方が適切だと思っています。売春婦の雇用の際に求められるべき必要な手続もとられておらず、客観的にも、当時の法認識に照らしてでさえ必要な人権保障がない状態だったと。日本人の売春婦だった女性が望んで慰安婦になった例もあると思いますが、回想録でも、やめたくてもやめられなかったとか、想像以上にひどい、という例があがってきているわけです。そういうことや、他の証言と併せて考えると、慰安婦になるキッカケのところだけ取り出して、強制性の全体を否定しようとするのは少しおかしいと思っています。それに、仮に性行為の部分でも「満足している慰安婦」が存在したとしても、その存在するかどうか分からない例だけを必要以上に持ち上げて、強制性の全体を否定しようとすることは問題だし、本来はそれは「中立的な観点」ではないと思っているわけです。これが私の認識ですし、多くの歴史学者の認識だと思っています(秦以外)。残念ながらマスメディアの多数の認識にはならないわけですが。このように、大きな認識の溝があることをご承知いただければと思います。--火の鳥 2007年5月22日 (火) 01:16 (UTC)
火の鳥さんのおっしゃる通り、慰安婦の説明は「性行為の相手」をしたという表現の方がいいですね。ただ、「慰安婦であり続けることを強制されている」のが圧倒的多数であるのかそうでないのかという点に正に論争があるので、圧倒的多数であるということを事実として定義するわけにはいかないと思います。個人的な認識自体を表明することはかまわないのですが、ノートでの議論は慰安婦に対して様々な観点があることをふまえ、“個人的に”このように記述したいという観点からではなく、“ウィキペディアとして”どういう記述をするべきかを話し合ってほしいと思います。「(強制連行されたかされていないかという)慰安婦になるキッカケのところだけ取り出して、強制性の全体を否定しようとするのはおかしい」というご意見はよくわかります。ですから、私の試案では「性的相手になった婦女」とだけ書くと、自発的なものととられかねないので、強制されたという主張と商行為だったとする主張の間で議論があることも直後に言及しているので、決して「強制性を否定する」ようにはなっていないので、その点はご理解下さい。--モトカル 2007年5月22日 (火) 10:56 (UTC)
では、モトカルさんの試案については、私からは特に異論ありません。一点、ご理解頂きたいのは、この問題に関しては、ネットでの言論も含めて事実が正しく伝わっていないということがあまりにも多いことです。例えば、産経新聞の古森氏は、慰安婦「契約の下で雇用」米陸軍報告書、大戦時に作成」と記事を書いていますが、読んでみると何のことはない、これは本記事中にもあるミッチーナ関連の文書なのです。しかし、ここでは、偽りの説明で集められたとか、慰安婦の生活が困窮していたとか、契約の原文にある「forced」などは意図的に避けられているわけです。そうすると、前提知識のない読者は、新証拠が発見され、彼が報道している内容だけが記載されていると思いこんでしまうわけです。この手法は、反対側の立場も同様で、朝日新聞でも似たり寄ったりのところがあります。そうなってくると、一体どこに認識の違いがあるのかが分からなくなってくるわけです。しかし、それは対話を重ねていくことで、ある程度明確にすることもできます。特にモトカルさんのようなまともな対話が可能な方とは、できるだけ話して、相違点を明らかにしておきたいと思っています。少々前置きが長くなりましたが、私とモトカルさんとの認識の違いは、「「慰安婦であり続けることを強制されている」のが圧倒的多数であるのかそうでないという点にまさに論争がある」という点にある事が分かりました。しかし、この部分は価値観の違いではないような気がします。私はこの点は論争はあまりないと思っています。それは、「慰安婦であり続けることを強制されている」という言い方の問題かも知れませんが、少なくとも、慰安婦が自由に帰郷できたり、自由に就労を拒否できた(ミッチーナは読み方に議論があるのでそれ以外)例が大半であったという説は、まともな学者では見たことがないからです。私が無知なだけかもしれませんので、何か根拠があれば教えてください。ブログの類でありふれているのは承知しています。--火の鳥 2007年5月22日 (火) 19:42 (UTC)

メデイアが右左それぞれの立場から自身の主張に沿うように報道するということはその報道や主張に対する批判を載せることで浮き彫りにされることがありますね。それは様々な観点を取り上げるウィキペディアならではの長所であると思います。ただ、私と火の鳥さんとの認識の違いは、「慰安婦であり続けることを強制されているのが圧倒的多数であるのかないのかという点にある」というのはちょっと違います。私は「慰安婦であり続けることを強制されているのが圧倒的多数ではない」と思っていると述べたのではありません。「強制されているのが圧倒的多数ではない」との見方がはっきりとある以上、圧倒的多数という観点で記述するのはウィキペディアの方針に適っていないことを述べたまでです。わたしは個人的な見解をウィキペディアにおいて述べ合う必要はあまりないと思っています。それより、憲法論議のように、ウィキペディアの公式方針やガイドラインなどに基いて、ウィキペディアとしてどう記述すべきかということがもっと話し合われるべきだと思います。残念ながら、編集合戦が起こるような論争のある記事のノートにおいては、個人的見解を戦わせることが多いのではないかと思います。ウィキペディアの方針に基いて議論することで、基本理念である方針の解釈や適用が洗練され、明確になってゆくのが本来あるべき姿ではないかと思うようになりました。ですから、個人的な見解の相違点を述べあうのではなく、ウィキペディアの記事があらゆる方面からより洗練され、充実したものになるために、情報を持ち合い、より妥当な編集がどういうものであるかを話し合いたいと思っています。--モトカル 2007年5月23日 (水) 12:52 (UTC)

いやいや、私は別に個人的見解を戦わせようとしているのではありませんし、ウィキペディアにおいて自分の個人的見解のみを記事にしたいと思っているわけでもありません。むしろバランスを取りたいと思っている点では共通していると思います。
そこで、「『強制されているのが圧倒的多数ではない』との見方がはっきりとある」のは、根拠がどこにあるのかをお尋ねしたのです。つまり、本来歴史学者の間にほとんど論争がないはずのところを、論争があると誤認していませんかと問いかけているわけです。それは見解の問題ではなくて、具体的なソースがあるかどうかという問題です。モトカルさんは「中立」を強調されますが、私からすると、モトカルさんの編集は、お言葉を借りれば、「強制連行を問題視しない立場」からの編集に偏っていると思われます。それは恐らく反対側の立場からの編集が多い私に対しても同じ事がいえるのでしょう。この対立は、以前申し上げたとおり、歴史学者の認識をベースにするか、ジャーナリスティックな意見(代表的なものが産経、朝日等)をベースにするかという問題が絡んでいると思っています。私は、学者あるいはそれに準ずる者以外のもの、特に当事者以外の論評ものは、重視されるべきでないと思っています。建設的に議論を進めるとすれば、この部分を話し合った方がいいかもしれませんね。--火の鳥 2007年5月23日 (水) 19:32 (UTC)
便乗でちょっとだけ書かせてもらいますが、事実認識を正確に表現するなら、どちらの側の学者でも大差ない内容になるでしょうが、それを表現する姿勢が違うのだと思います。その表現を認識と取らせたい、まるで印象操作を目的にしているような学者の活動も見えるので、私はそれを認識の考慮にいれたくない。するとそれは認識の対立だと思うと人も出てくる。結局、学者にだまされないように、微妙な部分を積み上げるしかないのでは、と思います。(付け加えると、何が多数であるかは、統計学の分野でしょう。統計学者ならば口にできないことを、研究者は感情の重みをつけてあいまいに表現していることが多いと思います。直接経験者でないのに理的に整っていない文、資料がわかりにくくしてあるような論文、などの学者も見えますし。)--如月の弥 2007年5月24日 (木) 04:19 (UTC)
確かに如月さんのおっしゃることも一理あると思います。ただ、「学者にだまされないように」ではなくて、「ジャーナリストやメディアにだまされないように」した方がいいとは思いますが。といっても、この問題ではもう区別が難しいのかも知れませんね。何が多数かは統計学の分野での立証が必要というのは、ありうるとは思いますが、現代ならともかく当時の正確な数字を把握するのは無理ですし、時代の特殊性もありますから、批判としてならともかくこの分野でそのまま適用するのは無理でしょう。そうでないと何も語れなくなります。残っている資料と証言と時代背景から、何が多数であったかを推定していくのがまさに歴史の分野だと思います。いずれにせよ今後具体的な場面で議論した方がいいですね。失礼しました。--火の鳥 2007年5月24日 (木) 12:14 (UTC)
火の鳥さんの「個人的見解のみを記事にしたいと思っているわけではない」、「バランスを取りたいと思っている」という見解を聞いて安心しました。
「『強制されているのが圧倒的多数ではない』との見方がはっきりとある」との表現は正確でなかったかもしれないですね。特定の学者の見解ということではなく、慰安婦がすべて性の奴隷のように強制されたとは考えず、基本的には公娼制度の元での商行為であったという反対の見方があることを述べたまでです。「歴史学者の間にほとんど論争がない」という事実関係はよく知りません。論争のある問題では特に、どちらかが多数であるとか少数であるとかと記述することに慎重でないといけないと思います。しかし、それが自明のことであれば記述してもいいと思いますが、一般の人は学者の研究の動向はほとんどわからないでしょうから、やはり、どういう見解が多数であるとかは何らかの出典がそう述べているという形で、出典を伴って記述されるべきと思います。
また、私の編集が「強制連行を問題視しない立場」からの編集に偏っていると思われているとしたら大変残念なことです。確かに加筆する内容は慰安婦制度を弁明する側の内容が多いのですが、だからといって、その見解を事実のように書いたり、大多数の意見であるかのように書いたり、ウィキペディアの方針上問題のない反対意見を意図的に排斥するようなこともしていないつもりです。○○が××と主張(批判・反論)しているという事実そのものを端的に書いているまでです。それにそちら側の記述にも正確さや公平さが欠けていることがわかれば、妥当な記述に修正したりもしています。吉田証言を強制連行についての捏造と表現していたのを吉田は「時と場所だけは事実ではないことを認めた」という表現に修正したりもしています。それに普通の人より反対側の主張や見解をも加筆していることも知っていただけたらと思います。慰安婦を性奴隷だとする湯浅謙や「日本の戦争責任資料センター」の見解を加筆したり、「日本軍慰安婦」という挺隊協が使う呼称や、慰安婦が海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたことの証拠として挙げられた軍の資料を載せたのも私です。どちらの意見も過不足なく充実させたいと思っています。
あと、「学者あるいはそれに準ずる者以外のもの、特に当事者以外の論評ものは、重視されるべきでない(真実に近づくためには重要ではないという意味からでしょうか?)」という見解は個人的なものであってウィキペディアには反映させるべきでないと思います。「中立的な観点」や「検証可能性」という方針をよく読めば結局ウィキペディアは真実を明らかにするものではないと思います。ウィキペディア自体はこれが事実だ、真実だと示すものではありませんが、そこで公平に提示された様々な観点を元に、人それぞれが自身の考えを持てばよいのですから、当事者以外の論評も重要でないとしないで、それらの見解もまんべんなく載せるのがよいと思います。
それから、慰安婦が売春を行なったという観点のみで定義している冒頭の記述はウィキペディアに相応しくないので、異論がなければ、「性の相手となった」を「性行為の相手をした」に修正した試案の記述に変更したいと思いますが--モトカル 2007年5月24日 (木) 13:03 (UTC)

少し私の言い方が強すぎたかもしれませんので、その点お詫びいたします。私の編集との相対的な意味でお考え下さい。上記のモトカルさんの編集も拝見しております。本記事が保護にならずにここまで充実してきたのは、バランスを取ろうとされている姿勢があるモトカルさんや如月さんの貢献が大きいと思っております。学者の認識を重視した方がいいというのは、この問題に関しては、明らかに誤っていたり恣意的だと思われる解釈が多々あり、政治的に利用しようという要素がかなり強いからです。何をもって「中立」を考えるべきかは非常に難しい問題で、例えば、「中立的観点」の、「疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。」というあたりが参考になるでしょうか。本記事では「疑似科学」とまでは言いませんが、しかし、学者の意見と、専門外のジャーナリストやメディアの意見は、区別しなければならないと思います。それは真実に近づくという目的というよりは、ウィキペディアの存在意義の問題だと思います。--火の鳥 2007年5月25日 (金) 02:13 (UTC)

性の相手をさせられたで良いとおもいますけど。「レジを打たされた」とか「買い物に行かされた」と同じニュアンスになりますし、(この表現は中立的ではないかも知れませんが、)慰安所で働いていたということは、恐らく誰かの指示のもとで動いていたのではないかと思います。--125.31.104.101 2007年5月24日 (木) 23:14 (UTC)
125.31.104.101さんは、慰安婦の定義についての節で、小学館発行の国語辞典、『大辞泉』の定義を元に、「旧日本軍の性の相手をさせられた」と慰安婦を定義することを提案された方かと思いますが、「性の相手をさせられた」という表現は慰安婦はすべて強制されたということになり、何度も述べているように、「商行為」か「性奴隷」かということが論争になっており、事実関係が明らかにもなっていない現状において、「慰安婦はすべて強制された」という“特定の観点からのみの記述”となり、「特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱うべきとする中立的な観点」という方針に明らか反するものです。慰安所で働いていたということは、恐らく誰かの指示のもとで動いていたのではないかという個人的な推測を記述の根拠にすることはできないと思います。
火の鳥さん、私の編集方針を理解して下さってありがとうございます。「疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介する」ということは間違った「フェア」の概念であるということはよくわかります。しかし、学者の意見と、「専門外のジャーナリストやメディアの意見は、区別しなければならない」というのはどう区別するとおっしゃってるのかちょっとわかりません。学者の中にもイデオロギーが先にあり、意識的か無意識的かは別に、それに沿うような調査・研究をしていることもあり得るでしょうし、ジャーナリストは学問的研究はしませんが、慰安婦問題をめぐる様々な動向に対し、関係者への取材により、重要な真実を伝えてくれることもあります。
火の鳥さんは慰安婦問題ではなく、慰安婦や慰安所についての実情を知るという点でおっしゃってるのかも知れませんが・・・ただ、学者の意見をどれほど信じるかどうか、学者の中の誰を信用し、しないかなどは人それぞれの判断があるので、学者といういうだけでその意見に重きを置くというのもどうかと思います。実際、意見の持ち主が、学者であるのか、ジャーナリストであるのか、弁護士であるのか、政治家であるのかは示されるわけですから、その肩書きや、人物により、人それぞれが判断するのがよいと思います。それに、それぞれの主張や見解に大きな問題があれば、誰かから異論や反論が出ていると思われるので、それを載せることである程度のバランスは取れてくると思います。--モトカル 2007年5月26日 (土) 11:09 (UTC)
ちょっと待ってください。強制されて無い人は唯の売春婦ではないのですか?というより、慰安所に居なかった人でも慰安婦になるのですか?慰安婦とは何ですか?唯の売春婦ですか?しっかりと定義ができていないと意味がわかりません。--125.31.104.101 2007年6月14日 (木) 04:18 (UTC)

[編集] 韓国軍の慰安婦

韓国軍にも慰安婦がいたようですし、日本に限って話すものではないでしょう。これの記述も必要です[2]。210.231.12.30 2007年10月24日 (水) 08:38 (UTC)

保護解除後、コチラも使ってください。

  • 「朝鮮戦争時に韓国軍の慰安婦存在」(中央日報)韓国の新聞が「慰安所」という言葉を使っています。
  • 韓国は朝鮮戦争時だけでなく、ベトナム戦争時にも慰安婦制度を行なっている。例えば、東亜日報1961年9月1日,9月14日日付の紙面上で慰安所で従事する慰安婦を登録制度とし、その内容を伝えている。
  • 「韓国政府資料「後方戦史(人事編)」の資料もある。ここには慰安婦、慰安所を設置した目的(強姦や性病の予防)、慰安所の場所と管理(性病防止のための軍医の配置等)、慰安婦の慰安行為回数等が載せてあり、慰安所廃止理由として、「公娼廃止の潮流に従って檀紀4287年(1954年)3月早々 これを一斉に廃止した」と記載されている。つまり日本は売春合法の時に慰安所設置制度があったが、韓国は売春違法の時代に慰安所を設置していたことであり、そのためにその後、設置を廃止するに至っている点である。--210.252.201.4 2007年12月6日 (木) 17:03 (UTC)
/ [開く][ウォッチ ](subpaged)

[編集] 冒頭文――実態は商行為、その他

実態が商行為、について。 2007年6月3日 (日) 04:16 (UTC)の版で、冒頭の所で「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ」という記述に変更されましたが、慰安婦制度が「売春」という商行為であったのか、強制的に性奴隷にされたのかということが大きな議論になっているのに、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」と書くことは、「特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱うべき」とする「中立的な観点」という公式方針から外れるものです。#慰安婦の定義について#慰安婦の定義の試案の節でも、慰安婦は強制されたという観点からの記述に対しても「中立的な観点」という公式方針上問題があることを指摘しています。ウィキペディアはいろんな見方、意見があるものについて断定するのでなく、そういう様々な意見があること、論争があるという事実を記述すべきなのです。また「慰安婦達に報酬が払われていた」という記述も、「報酬」という節に「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」との記述があるので、矛盾してしまいます。慰安婦をウィキペディアとしてどう定義するかはこれまで長い議論があり、最近の記述に落ち着いたので、無益な編集合戦を招かないためにも、冒頭の部分を変更したい場合は是非ノートで意見を述べて下さるようお願いします。--モトカル 2007年6月3日 (日) 17:17 (UTC)

[編集] 冒頭文(保護解除に向けて)

IP氏の編集の版で保護されてしまったのは遺憾ですが、やむを得ません。今回は論点ははっきりしていますので、ノートでの合意を形成し、保護解除に向けて努力しましょう。私の案は、以下です。

慰安婦(いあんふ)とは日中戦争太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍軍人の性行為の相手になった婦女の総称である。従軍慰安婦とも呼ばれる。吉見義明らによれば、慰安婦は、日本軍の管理下で無権利状態のまま拘束され、将兵の性交の相手を強制させられた「性奴隷」とでもいうしかない境遇に追い込まれた存在とされているが、これに対しては秦郁彦らをはじめとした異論もあり、旧日本軍が慰安婦を強制連行したのか否かや、慰安婦制度は「売春」という商行為であったのか、さらには、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって、今日まで、政治的・社会的にも大きな議論を呼ぶ問題となっている。

ひとまず案を出しましたが、反応によってはシンプルなものにすべきという意見になるかもしれません。詳しく書くならこれくらいでしょうか。なお、性奴隷という言葉はこの問題では一般的に使われていますのでそれでよいと思いますが、性的奴隷でも別に構いません。いかがでしょうか。(なお、ご批評の際には、ご自身の案も出していただければと思います。)--火の鳥 2007年6月5日 (火) 03:20 (UTC)

(※補足)現状の保護版では、「制度は・・商行為であった」「慰安婦達に報酬が払われていた」などとありますが、当然そこは争いがあります。これらの事実が共通の認識になっているかのように書かれているのは、明らかにミスリーディングだと思います。--火の鳥 2007年6月5日 (火) 03:26 (UTC)

[編集] 冒頭文(保護解除の反対に向けて)

理由は、「争いがあることにしたい」との目的が見て取れるからです。その姿勢があるうちは保護解除はしない方が良いです。以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月5日 (火) 04:33 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

218.44.81.60さん、初めまして。私は、「争いがあることにしたい」と思ったわけではなく、記述として問題があると考えただけです。ですから、そちらの編集の意図をお聞きしたいのですが、最初に「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、」という記述をされましたが、この「実態は・・・」という表現はもしかしたら、表面上の形態はという意味で書かれたのでしょうか?それとも、文字通り、「慰安婦制度は「売春」という商行為であった」と断定しているという意味で書かれたのでしょうか?--モトカル 2007年6月5日 (火) 23:24 (UTC)
悪いが「争いがあることにしたい」との目的の人とは合意形成は無理だよ。理由は目的自体が「争いがあることにしたい」だから。まずその姿勢を根本から取り払わないとその先には進めるわけがない。以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月6日 (水) 02:07 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
218.44.81.60(60.36.126.40)さんが、最初「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、慰安婦達に過酷な性労働を強いた性奴隷制度であったとする主張もあり」と記述されました。私は「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」と断定する記述に問題があるとの考えからそれを元の記述に指差し戻しましたが、それに対し、「慰安婦制度の実態は「売春」であった」というご自分の版に2度差し戻されました。
しかし、如月の弥さんがその部分を「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であった」と修正された後は、如月の弥さんの版に3度差し戻されました。最初の「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」という記述と「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であった」という如月の弥さんの記述はまったく意味が違うものです。
わたしは要約の欄やノートで「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」と断定する記述に問題があることを指摘しましたが、途中から「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であった」という版の方にリバートされたのは「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」と断定することはやはり妥当でないとご理解していただいたのでしょうか?
この「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」ということやその次に加筆された「慰安婦達に報酬が払われていた」という記述は私も、火の鳥さんも、如月の弥さんも妥当な記述でないと考えていることが今回改めて表明されました。
慰安婦の定義部分ではこの部分が大変重要なので、218.44.81.60(60.36.126.40)さんも、ご自分の編集がより妥当だと思うそれなりの理由があったったからこそ何度もリバートされたのだと思いますから、その理由を明らかにして下さい。
また、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」、「慰安婦達に報酬が払われていた」との記述に対しての今のお考えをお聞かせ下さい。あと、ノートページでは署名するのがウィキペディアのマナーとなっているのでよろしくお願いします。(半角チルダを4つ(~~~~)で名前と投稿日時になります。または、投稿用のテキストボックスの上部にある時刻付き署名のボタンをクリックすると(~~~~)がコピーされます。)--モトカル 2007年6月11日 (月) 02:53 (UTC)

<横から>(2007年6月6日 (水) 09:29 )
218.44.81.60さんへ。モトカルさんの言ってきてるのは、中立のためというより、中立に気を使うため、と取った方がわかりやすいかと。気の使い方が、争いがあることに「しようとしている」志向があるように見えても、「したい」ということは違うと思います。気にしすぎでは。
モトカルさんへ。218.44.81.60さんは、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、」を書いた人とは一見IPが違いますが? このIPで書いたのは、私の仕上げた文をリバートした最後の一回だけでしょう?--如月の弥 2007年6月6日 (水) 09:29 (UTC)

> 気にしすぎでは。 違います。気にしすぎてはありません。「争いがある」を金科玉条のように使い、定着していた(文言)もどんどん削除されてきました。この事態はもう見過ごす事はできません。残念ながら「争いがある」との言葉が(出てきた)時点で、その姿勢に対してそれを根本的に取り払わない限り、当方としてはとても保護解除に向けて賛意を示すつもりはなく、あくまで今後同様な事態に陥ることを避ける為にも反対を意を(唱え続けます)。あと、別にモトカルさんについて論っているのではありません。あしからず。以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月6日 (水) 11:27 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

他人様のコメントを勝手に改変しないで下さい。上記はモトカル氏により勝手に改変されましたので下記に新たに書きます。
>気にしすぎでは。
違います。気にしすぎてはありません。「争いがある」を金科玉条のように使い、定着していた文言もどんどん削除されてきました。この事態はもう見過ごす事はできません。残念ながら「争いがある」との言葉が出た時点で、その姿勢に対してそれを根本的に取り払わない限り、当方としてはとても保護解除に向けて賛意を示すつもりはなく、あくまで今後同様な事態に陥ることを避ける為にも反対を意を唱えます。あと、別にモトカルさんについて論っているのではありません。あしからず。 6/6以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月6日 (水) 12:20 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
失礼ながら218.44.81.60(60.36.126.40)さんはウィキペディアにまだあまり慣れてらっしゃらないようにお見受けします。署名なしでコメントを書くと誰が発言しているのかがはっきりせず議論しにくいので、ノートに署名することがウィキペディア日本語版の公式方針となっており、署名しない利用者に対し、他の利用者が履歴を調べて代わりに署名することが慣わしとなっており、代わりに署名をつけた利用者の名前も責任を明確にするために付記することになっています。
ですから、わたしは変わりに署名を付記しただけで、コメント自体少しも改変しておりませんので、誤解のないようにお願いします。Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をするを参照して下さい。ご理解いただきましたら、ご自身の重複したコメントの一方は削除されてかまいませんので・・・
それと、上記にまだ回答していただいていない218.44.81.60(60.36.126.40)さんに対する質問を再度させていただきましたので、よろしくお願いします。--モトカル 2007年6月6日 (水) 12:47 (UTC)
> コメント自体少しも改変しておりません
とぼけるのもいい加減にしてさい。他人様のコメントを勝手に改変するとは無茶苦茶するにも程がある。おそらく他人様の書き込みに対して全てがこんな扱いで行ってきたのだろう。6/6以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月6日 (水) 13:13 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
それは、218.44氏の(2007年6月6日 (水) 11:27 )の書き込みについて、モトカル氏が名前とIPを書き加える際に、直前の(2007年6月6日 (水) 10:56の版)を上書きしたことを指すのですね。
メモ帳などから転写するときに、操作しやすいように、まとめてやってしまうとそういうミスが生じるでしょう。そういうケアレスミスをモトカル氏には何度か見ている気がしますが、疑う人から見れば、人を軽んじているように見えるかもしれませんね。
私としては、そんなことより、「「争いがある」を金科玉条のように使い、定着していた件もどんどん削除されてきました。」ということに興味を持たせていただいてます。モトカル氏に限らずということは、ウィキペディアの傾向を憂いておられるようだし。--如月の弥 2007年6月6日 (水) 14:37 (UTC)

218.44.81.60(60.36.126.40)さん、原因がわかりました。218.44.81.60(60.36.126.40)さんが今日6月6日の19:17に「違います。気にしすぎてはありません。・・・・」というコメントを投稿され、その後同じ箇所を、19:18、19:18、19:25、19:56、20:27にかけ、短時間の間に部分的にコメントを修正されていたのですね。 わたしは19:56時点のコメントを見て、自身のコメントを書き初め、20:57に218.44.81.60(60.36.126.40)さんのコメントに代わりに署名をつけて投稿したのですが、実は218.44.81.60さんは私が投稿する前の20:27に再度、自身のコメントを修正されていたようですが、私がそれに気づかず、20:57に、19:56時点のコメントに署名をつけて投稿したため、結果的に20:27に更新された218.44.81.60さんコメントを19:56時点のコメントに差し戻した結果になってしまったようです。同じ箇所のコメントをここまで短時間に修正するというのを今まであまり見かけたことがなかったため、コメントが修正されていることを想定していなかったため、投稿の時間差によって、218.44.81.60さんのコメントを一つ前のコメントに差し戻した結果になってしまいました。

改変するつもりなど毛頭なかったのですが、結果的には差し戻した結果になってしまったこと自体は事実でしたので、この点に関しては心よりおわび申し上げます。ただ、決して218.44.81.60さんのコメントを改変するつもりはなかったことだけはご理解いただきますようお願いします。 それで、一応、どう変わってしまったかを一度明らかにするために、結果的に差し戻した形になった部分に取り消し線を引き、20:27 (UTC)]の投稿という署名のとおりのコメントの文書を()で囲んで記しました。これもご理解いただいたらその重複したコメントは削除されて結構です。それから、署名の方はウィキペディアの公式方針ですので、是非御自身でお付け下さい。--モトカル 2007年6月6日 (水) 15:03 (UTC)

では、私の事でしょうか。「争いがある」というのは、「見解が対立している」ということです。 そうであれば、対立している見解を公平に示さなければ、NPOVではありません。「争いがあることにしたい」というのは、「本来は見解が対立していないのに、対立しているように見せかけたい」ということでしょうか。そうであれば独自研究ですが、本記事でそのような編集をしているつもりはありません。もう少し具体的なレベルでご指摘頂ければと思います。そうでないと先に進めません。先に進まないようにすること自体が目的かもしれませんが。--火の鳥 2007年6月7日 (木) 11:35 (UTC)
218.44.81.60(60.36.126.40)さんにとって、本当に見過ごす事はできない編集がこれまでなされて来たとお考えなら、「争いがある」を金科玉条のように使って、定着していた文言を削除したという例を是非、具体的に示して下さい。それに何度も投げかけている質問にまだ答えていただいていません。2007年6月3日 (日) 13:16の版で、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」、「慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ」という記述に変更された理由や、途中から「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であった」という版の方にリバートされたのは「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」と断定することはやはり妥当でないと思われたのか?という今後の編集ために必要な質問をさせてもらっています。“先に進まないようにすること自体が目的だ”と思われないためにも是非、誠意ある回答をお願いします。--モトカル 2007年6月7日 (木) 12:10 (UTC)
あなたが個々の件で考えているんだったらそれはまったく見当違いです。何度も何度も書いて(答えて)いますが、私は「姿勢」を問題視しているのです。今後あなたが同じ質問を繰り返すようでしたらおそらく永遠に分かりあえないでしょう。再度申し上げますが、私はその「姿勢」を取り払わない限り、保護解除に対して反対を意を唱えます。あしからず。218.44.81.60 6/8 以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月7日 (木) 15:43(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
ノートで問題点を整理して一つ分かったことは、この様な事態をもたらしているの二つ要素の合併症だということ。一つは何でもかんでも「争いがある」と言い立てる人。もう一つは「争いがある」と言われたら何でもかんでも安易に両論併記にすりゃイイと考えている人。問題を取り除いてこの先に進みたいのなら、この二つの要素の関係をどうにかしないと先には進めないだろうね。指摘と云えばこれが指摘です。218.44.81.60 6/8以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月7日 (木) 16:21(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

A) まあ、たぶんわかります。たしかに、モトカル氏の「対立がある」という認識は浅い想像の押しつけに思えることもありましたよ。が、そのレベルがウィキペディアだと思います。モトカル氏が気を遣いすぎの間違いだとしても、どんな変な人が現れたり、知らぬ間にどんな行き違いが生じたままになっているかわからないのだから、それも一つの方法だと見ています。あまり純粋に良い、というのはかえって根本的にひっくり返される不安があるし。 B) それとは別に、―――これはまだ気が早くて、2, 3日後にすべきことかも知れませんが―――それが投降ブロック覚悟の抗議でなくてただ保護をあまり長く続けるつもりとしたら、そのやり方は、判断基準を明確にしないのが間違いであり、かつ手法が乱暴です。

  1. 似た主張はあなたの逆の立場からもできるわけで、たとえば偏った編集方針を正義やルールだと主張されることもあるわけですが、あなたの基準がそれよりいいものであっても、「何でもかんでも」と書くだけの不明確な説明なら同じ事です。
  2. 現在、たまたまあなたの編集で止まっていますが、逆の形だったらあなた自身そのやり方を不正だと思うはず。そして、慰安婦以外の項目で保護を悪用する手法を、結果的に正当化しているようなものです。たまに得られた幸運にしがみついて、広い視点ではもっと悪いものを強化しているようなものです。
  3. あなたの指摘の問題について、私は最悪を避けるためには、ある程度鈍くてもいい、と思っています。もめるようなら、「冒頭は簡略に、それ以後は充実」していけば大きなずれは防げるのではとおもいます。

(そして、悪意によって生じているとはいえないなら、それは編集者のレベルが足りない故ということであり、気付いた者が議論するしかない、と思っているわけです。編集者は常に入れ替わりますから、レベルを向上して固定化させるには、議論の形を明確に残すしかないだろうとおもっています。めんどうなので、避けたいですがね。) 早いかもと思いつつ、別の方向に流れることもあるかと思って、今の内に書いておきます。 --如月の弥 2007年6月8日 (金) 11:46 (UTC)

別に問題さえクリアになればいつでも良いです。
で、前回の記述の後にまた問題を整理したのですが、現在、大多数がAと云う見解で、ある1人がBと云う見解であっても、「AであったかBであったか論争がある」で締めているわけです。前回私は「安易に両論併記にすりゃイイ」と書きましたが、これはちょっと不正確でした。正確には「安易に折衷にすりゃイイ」です。つまり、現在は何でもかんでも“折衷”しているわけです。これでは「1人が異の声を挙げる」→「争いがある」→「安易な折衷」になり、それまで定着していた文言すら簡単に削り、→「AであったかBであったか論争がある」としてきたわけですね。
ココの辺りは私は大変不満があり、特に「文言を削る」と云う行為を「争いがある」と名の下で“安易に”行う姿勢はとても看過できないわけです。「XはAである。但しBとの見る者もいる」と、争いがあるところをキッチリ両論併記するならともかく、何でもかんでも“折衷”にして文言を削るのは見過ごせないと云うわけです。以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007-06-08 13:00 (UTC)]に投稿したものです。
あなたの編集に照らして具体的に考えると、要するに、大多数が「商行為であった」という見解なのに、ある一人(吉見の主張を引いた私でしょうか?)が異の声を上げたため、モトカルさんが安易な折衷をした、ということになるわけでしょうか。だとすれば、「大多数が「商行為であった」という見解」という前提認識を、まず検証する必要がありますね。また、冒頭は別の要素が入ることは以前に議論したと思います。いずれにしても、Wikipedia:中立的な観点を一読されることをお勧めします。--火の鳥 2007年6月8日 (金) 14:11 (UTC)
何度も何度も何度も繰り返しますが、私が問題視しているのは「姿勢」であって、個別の件はどうでも良いです。
> Wikipedia:中立的な観点を一読されることをお勧めします。
何度も読んでおります。218.44.81.60 6/8以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月8日 (金) 14:31 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
「争いがあるところをキッチリ両論併記するならともかく、何でもかんでも“折衷”にして文言を削るのは見過ごせない」という言葉自体はもっともです。具体例と方法については、別として。 --如月の弥 2007年6月8日 (金) 14:33 (UTC)

私はキッチリ答えました。問題点も挙げました。上記の点がクリアされていれば、記事内容に何が書かれていようとも私は反対の意は唱えません。以上です。218.44.81.60 6/8以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月8日 (金) 14:53 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

218.44.81.60(60.36.126.40)さん、「1人が異の声を挙げる」というのはウィキペディアの執筆者という意味ですか?それとも慰安婦問題について一人が異論を述べているということですか?「個別の件はどうでも良いです」とこれまで具体的な指摘を避け、抽象的指摘ばかりされていますが、誰がそうしているのか、どういう箇所のことなのかなどについて具体的な例をきちんと示さないため、議論がスムーズに進みません。:本来ならあなた自身が示すべき内容を火の鳥さんが代わりに想像して「あなたの編集に照らして具体的に考えると、・・・ということになるわけでしょうかということになりますか」と質問させてしまっていること自体があなたが少しもきちんと答えていないことの表れではないでしょうか?
あなたの主張は誰に対する指摘なのか、具体的にどの編集なのかなど、重要な点が示されておらず、すべて曖昧で抽象的な批判になっています。
「見過ごせない」とまで言われるのならば「何でもかんでも“折衷”にして文言を削った」という箇所を具体的に示すのが道理というものです。それに抽象的な批判に終始することはフェアでないことにもなることをご理解下さい。
なぜなら、抽象的批判に対してはきちんとした弁明や反論もできないし、たとえその批判が的外れであったり、不当なものであったとしても、批判されたことだけが印象づけられるからです。これまでのノートを見れば、おわかりになるように、誰しも具体的な箇所を提示して議論を行なっていますし、自分の文案を提示したりしています。
あなたは(「争いがある」と言い立てる)「姿勢を問題視している」と言われますが、「争いがある(異議がある、論争がある)」と主張すること自体はウィキペディアの方針上は問題ではないのです。一つの記事の主題に対して、それをどう捉え、どう記述してゆくかということについて、人それぞれ考えが違うのは当たり前です。ですからそれらを議論するためにノートページというものが設けられています。
「争いがある(異議がある、論争がある)」という主張に異議があるなら、それをノートで主張すればいいのです。事実認識に問題があるのか、ウィキぺディアの方針上問題があるのか、ちゃんと根拠をもって異議を唱えればいいのです。そして、こうすべきだという文案があれば、それを提示すればいいのです。
ここ最近の執筆者である火の鳥さんも、如月の弥さんも、わたしも、みんなそうして来ています。私も自分の考えが絶対に正しいなどとは決して思っておらず、他の方の指摘によって考えが正されることもあり、多くの啓発を受けています。
そしてそれこそが共同で執筆するウィキペディアの素晴らしいところなのです。姿勢ということで言えば、「争いがあることにしたいとの目的がある」というような“決して断定できるはずのない他人の意図”を一方的に決め付けて批判する姿勢というのはいかがなものでしょうか?
また、リバートする理由を明示せず、ノートでの議論を求める呼びかけにも、相手の再三の質問にもことごとく解答を避ける執筆者の姿勢こそ問題だと言えないでしょうか?それは他人が断定できない“見えない他人の意図”にたいする指摘と違い、誰にも明らかな実際の行動についての指摘です。
あなたは「『文言を削る』と云う行為を『争いがある』と名の下で“安易に”行う姿勢」、「争いがあるところをキッチリ両論併記するならともかく、何でもかんでも“折衷”にして文言を削るのは見過ごせない」と言われますが、わたしの認識では、ここ最近の編集については基本的には「争いがあるところをキッチリ両論併記して来ている」と思うのですが・・・
編集合戦になる直前の2007年6月2日 (土) 13:17 (UTC)の版でも「慰安婦達に過酷な性労働を強いた性奴隷制度であったとする主張がある一方、「売春」という商行為であったか、旧日本軍のケースでは慰安婦を強制連行したのか否か、強制的なものであったか等の点に疑問が呈されており」ときっちり「争いがあるところをキッチリ両論併記」しています。
「呼称」の節においても、慰安婦に従軍という言葉を付加することへの批判も慰安婦制度の擁護派、否定派の双方の意見を載せています。「総数」の節でも様々な説を併記しています。「生活状況」や「報酬」や「兵士との関係」の節でも、悲惨だったとする報告と、恵まれた状況の報告を両方載せています。
「論点」の説でも慰安婦制度の擁護派、否定派の双方の意見を載せています。実際、多くの事柄について両論併記されているのが実情です。わたし自身について言えば、慰安婦制度の擁護派、否定派のどちらの側の記述にも「中立的な観点」において問題があれば、より妥当な表現に修正して来たつもりです。
それは、「定着していた文言を削除した」というものではなく、より妥当な表現に変えて来たつもりです。そしてどちらかと言えば反対の立場にある火の鳥さんでさえ、私や如月の弥さんについて“バランスを取ろうとされている姿勢がある”と認めて下さっています。また、わたしも火の鳥さんや如月の弥さんが「『文言を削る』と云う行為を『争いがある』と名の下で“安易に”行う姿勢」があるとも、「何でもかんでも“折衷”にして文言を削ったり」しているとは認識していません。あなたが、本当にそう思うなら、それを具体的に示して下さい。それを具体的に示せずに批判を続けるなら、執筆者としての適格性を自ら下げることになると思います。
それと署名は直接書くのではなく、チルダ4つを直接記入するか、編集画面のアイコンボタンでチルダ4つをスタンプするかして、投稿による自動的な署名にしないと署名の信頼性が保障されませんので、ご注意下さい。--モトカル 2007年6月9日 (土) 09:03 (UTC)
> わたしの認識では、ここ最近の編集については基本的には「争いがあるところをキッチリ両論併記して来ている」と思うのですが・・・
冒頭文もその意気込みで、今までのような安易な折衷ではなく、文言を削らずにキッチリ両論併記で宜しくお頼み申します。あなたならまだまだ力量があるはずです。218.44.81.60 6/9 --以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話)さんが[2007年6月9日 (土)09:28、09:35、09:37 (UTC)]に投稿したものです(モトカル 2008年5月6日 (火) 13:24 (UTC)による付記)。
具体論については人それぞれの主観があるでしょう。218.44さんもこの次の例からは、具体的に指摘できるものと思っています。
一例として、下の「冒頭文について 」の節でも書きましたが、現在の冒頭の中の「過酷な性労働を強いた性的な奴隷」というのは、処理人数が過重だったという話はネット上でよく見ますが、'93年の証言集ではその比率が高くないので、代表するには不適当ではでしょうか。吉見の論の基礎とも違うはず。しかし、バランス感覚上は「過酷な性労働」というのは都合のいい文言です。これは、折衷みたいに思えますね。
一般を考えると、そういうことは他の項目ではもっといいかげんに大きくあり、しかもそういう中途半端な表現への疑問を出しても、(少数の黙認を含めた)合意があったとかの名目で動かしづらく、はねられることがあります。 そんなとき、解説証明できないままに溜まっていくものがあるのはわかると思うのです。
そういう注意すべきことはある一方で、実際には物理的(知識と労力)に可能かという点も出てきます。十分な文が誰にも書けなければ、削除中心の方針を立てればいいのでしょうが、すると今度は、・・・まあ、完全を求めると労力が持たない面はあるわけで。
(追伸)冒頭文案、保護解除の申請タイミング、は別として、リバート問題は終わったのでしょう。この次の文には、218.44さんも具体的な箇所を指摘してもらえるだろうと思います。 ----如月の弥 2007年6月9日 (土) 10:22 (UTC)
繰り返しますが、具体的な指摘をする事はありません。またリバート問題は、現状のままでは問題(安易な折衷による文言の削除)はまったく解決しておりませんので、保護解除に対しては反対の意を唱えざるを得ません。問題が解決(安易な折衷による文言の削除→両論併記)しましたらいつでも保護解除への賛意を送りますが、それ(問題解決)まではいくら時間が掛かっても構わないと思っていますし、むしろ焦ることなく十分時間を掛けるべきだとも思っています。218.44.81.60 6/9以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月9日 (土) 11:37(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

218.44.81.60さんに対して、かなりズバズバ指摘させていただきましたが、ある程度受け止めて下さったのでしょうか、意外なお答えにはちょっと驚きました。励ましの言葉をいただいたこと有難く思い、恐縮しております。もし、言い過ぎたところがあったとしたら、私の未熟さのなせる業だと寛容に受け止めて下さいますようお願いいたします。ただ、どのような記述を「安易な折衷による文言の削除」とされているのかだけは是非示して下さい。どのような編集が問題になるのかについて共通の認識に至らない限り、今後も同様の編集における問題が出てしまうことになってしまい、せっかくのあなたの指摘が無駄になってしまいます。誰も「安易な折衷による文言の削除」をしようとは思っていないのに、一方はそのような編集であると捉えるという認識のズレがあることが問題なので、それをすり合わせるために、具体的な記述で確かめ合わないとお互いの理解が一致しないと思います。結局、問題の解決とは何が妥当な記述であり、何が妥当でない記述であるのかという点において、きちんと合意することだと思います。--モトカル 2007年6月9日 (土) 12:38 (UTC)

[編集] 冒頭文について

あららら。ノートで書くことをゆっくりしていたら、保護が早いですね(他の人の書き込みも)。昨日私が書いたのは、60.36.126.40 氏の月曜の文にはモトカル氏の意見に考慮を払って修正したかのような見違いがあってのことでもあるけど、後では文は私が仕上げた形になっていますね。

60.36.126.40氏の初めの文の一番問題なのは、「実態が商売」だったということだけど、今見たら木曜日にもありますね。それはともかく――

私の文は、‘実態が商行為’とあったのを、「制度(規則上)としては、・・「管理売春」(これが昔の娼婦は人権侵害と言われる元)・・商行為・・、実態については、・・主張もあり」と、変えたわけです。

私にとっては「商行為」「報酬が払われていた」は放置保存したまでであり、削除には反対しないというより賛成します(冒頭としては)。

性奴隷という言葉は一般人には専門家的に理解はされないはずなので、印象だけで受け取ることになり、冒頭には反対です。

以上削除の上、「制度の形は、軍相手の「管理売春」と見られるが」というのに問題があるでしょうか?

リバートの動機は知りませんが、たぶん以前の文章の印象の問題かと想像します。この改定でも納得してくれるのではとかってに思いますが・・。(実態については、概論以下で語ればいいことだし)

火の鳥さんの文では、「秦郁彦らをはじめとした異論もあり、」に「戦地という状況下での公娼であるという異論」と加えないと、リバートの因でしょう。また、吉見の言葉としてであっても、「性奴隷」という言葉を冒頭に持ってくるなら、それは一般人にとって「慰安所は兵士のサド欲求のはけ口として慰安婦を置いていた面が強い」という主張だと受け取らせるものです。

(改定を含む)--如月の弥 2007年6月5日 (火) 11:06 (UTC)

如月さん、有り難うございます。「性奴隷」という言葉は迷ったのですが、結局いろいろ書くより、一方の立場はこの言葉に集約される面があるかなとも思ったのです。しかし、どうやら維持できそうにないですね。--火の鳥 2007年6月8日 (金) 03:16 (UTC)
重労働だから奴隷というのでなく、だまされたり拘束が強いから、奴隷としての売買と拘束に等しいという主張のはずですね。その意味では、現在の冒頭文のそこの表現もまちがいです。「制度としては・・、慰安婦証言では、本人の意志に反して契約・拘束されていたことを性的な奴隷と評価する主張がある。」とすべきでしょうか。--如月の弥 2007年6月8日 (金) 12:46 (UTC)
火の鳥さん、慰安婦制度を批判する側が必ずしも「性奴隷」という言葉を使っているとは言えないかもしれませんし、一般に定着している言葉でないため、誤解の可能性あるという如月の弥さんの指摘も一理あると思います。
「河野談話」でも“強制性”ということがキーワードであったことから、慰安婦制度を批判する側の主張は「(慰安婦制度は)強制的なものであった」と表現するのが一番よいのではと思います。奴隷の問題点とは正に強制という問題ですし、「性奴隷」という主張は「論争」の節でしっかり書かれていますから・・・
次に、以前の冒頭は「慰安婦は、商行為であったのか、強制的なものであったのか」という記述で、商行為であったとする主張と強制的なものであったという主張を同列に述べていましたが、現在の「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については・・・」という記述だと、「軍相手の『管理売春』という商行為」という捉え方が正しく、慰安婦制度を批判する側の主張が正論でなく、または少数意見という印象も与えかねないため、「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」という「中立的な観点」からすると好ましくないと思います
個人的に慰安婦制度を「商行為」と考えるか否かは別に、現状として、日本は「河野談話」により、軍による慰安婦への強制性を公式に認め、歴代首相がお詫びと反省の意を示して来ており、「アジア女性基金」で償い事業を行なって来ました。
今回のアメリカでの世論を見てもわかるように国際的にも慰安婦制度を批判的に見る風潮は現にあることを考慮すれば、現在の記述は妥当でないと思います。以前のように「商行為である」という主張と「強制的なものであった」という主張の間で論争があるというような記述にすることは、218.44.81.60(60.36.126.40)さんが再三異を唱えておられる「1人が異の声を挙げる」→「争いがある」→「安易な折衷」により定着していた文言を削るということには当たらないと考えます。--モトカル 2007年6月10日 (日) 00:20 (UTC)
モトカルさん、あなたじゃやっぱり無理かもしけないね。保護解除に向けては長く掛かりそう。218.44.81.60 6/10以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月10日 (日) 03:37 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

218.44.さんが何を言ってるのかわかりません。モトカルさんは具体的には私の意見(火の鳥さんも同意した)に賛成しているだけで、ここでは何の文案も示していません。ほとんどの部分は、以前の文に対してにすぎません。それを批評して、『あなたじゃ・・保護解除に向けては長く掛かりそう』と今後のことを言うのでは、さっぱりです。 ただの誤読かと思いますが、仮に私が誤読であなたが正しいと仮定しましょう。その場合でも、その書き方を続けるなら、あまり長くはかからないでしょう。IPブロックがかかると思うので。--如月の弥 2007年6月10日 (日) 05:51 (UTC)

今回の反応でようやく、218.44.81.60(60.36.126.40)さんの見解がようやく見えて来ました。恐らく、「削除された定着していた文言」とは「慰安婦が売春をしていた」という記述なのでしょう。
「慰安婦が売春をしていた」こと、「報酬をもらっていた」ことは自明のことで、吉見教授を初めとする批判派がそれを否定するからといって、それらに関して論争があると記述することはナンセンスだという見解をお持ちなのではと思います。
しかし、自身の見解や相手の意見に対する見解を述べ合うことで、相違点、合意点を明らかにするべきこの場において、218.44.81.60(60.36.126.40)さんのように、批判も抽象的で、自身の編集に対する説明責任を少しも果たさないことは、本人が意図しているか否かは別にしても、サッカーにおいて違反となる遅延行為のようなものになってしまうと言わざるを得ません。訴訟においても、検察官や弁護人による訴訟を意図的に遅らせようとする行為に対する罰があるそうです。残念ながらウィキペディアにはそれを方針に反するものという明確な取り決めはないように思いますが、問題であることは確かでしょう。218.44.81.60(60.36.126.40)さんは盛んに編集に対する“姿勢”を問題視されていますが、自身の説明責任を果たさないあなたの姿勢がこのように議論を長引かせており、保護の状態が続くことで、これから編集しようと思っている多くの利用者の機会を奪うことにもなっているということをもうはっきりと自覚していただかなくてはならないと思います"。現状は意見を述べ合い、なかなか合意に至らないというものではなく、218.44.81.60(60.36.126.40)さんがはっきり見解を示さないために、きちんとした議論が行なわれないまま、みんなに大変な回り道をさせてしまっている状態であることをどうかご自覚下さい。これまでのノートを御覧なればわかるように、誰しも活発に自身の意見を述べ合っており、218.44.81.60(60.36.126.40)さんのように、自身の見解を避けて抽象的批判に終始する人は見かけたことがありません。どういう記述ならあなたは妥当だと思われるのか示さないのはとても不可解なことです。政治の世界ならば、正に慰安婦問題のように外交問題になるのを避けるために、敢えて自身の見解を明らかにしないというのは一つの戦略かもしれませんが、ウィキペディアにおいてはそれはまったく不適当なものです。--モトカル 2007年6月10日 (日) 07:53 (UTC)
(注意)話はそれますが念のため。『吉見教授を初めとする批判派がそれを否定する』という認識は私は持っていません。周辺の混乱させたがる子鬼どもはそう言うだろうし、吉見もそれに乗ったコメントは出すだろうが、ほんとに学者として聞くならば、「終戦以前にやめた慰安婦に報酬がなかったと考えている」、などとは答えないでしょう。「借金を返した慰安婦のほとんどが、戦争が終わるまでは、戦況にかかわらず帰してもらえなかった」、などとも答えないでしょう。なので、百科事典としては、騒ぎを増やしたがる者に追従するべきではありません。同時に、そんなことは冒頭では必要ないと思います。--如月の弥 2007年6月10日 (日) 10:29 (UTC)
如月の弥さん、『吉見教授を初めとする批判派がそれを否定する』というのは「売春だった」ということも含んでいます。吉見教授は「従軍慰安婦は公娼制度より更に過酷で、見せかけの保護規定もない剥き出しの性奴隷であると」と主張しているそうですから・・・慰安婦の報酬について、(私は事実関係はわかりません)如月の弥さんのおっしゃるように、吉見教授が「終戦以前にやめた慰安婦に報酬がなかったと考えていない」というのがもし事実なら、現在、「報酬」の節にある「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」という記述はどう捉えたらよいのでしょうか?
「百科事典としては、騒ぎを増やしたがる者に追従するべきではありません」という御指摘はもっともなものだと思います。ただ、よく勘違いされやすいことなのですが、ウィキペディア自体は事実を明らかにすることが目的でなく、それぞれの人物や事象に対する様々な観点を公平に取り上げるものなので、明らかに事実でないという見解だからといって排除すべきものではないと思います。
ただ、全体から見て明らかに小数の意見、明らかに僅かな支持しかない見解を有力だったり、常識となっている見解と同列に扱うべきでないことは「中立的な観点」の方針でも述べられており、それはこのところ218.44.81.60(60.36.126.40)さんも主張されており、以前から、如月の弥さんも火の鳥さんも同様の指摘をされています。その認識は私も同じなのですが、その前提になる事実認識において、ズレがあることが今回の編集問題になっていると思うので、218.44.81.60(60.36.126.40)さんの言われるような編集姿勢の問題というより、記述の前提になる、“何を事実と認識するか?”という問題が大きいと思っています。
特にこの慰安婦の問題は50年以上も前のことであり、当時を知る人も少なく、証言している人も全体から見ればごく一部であり、慰安婦制度の擁護派、批判派のどちらの側からもバイアスのかかった情報が流されるという傾向もあり、様々な事実関係を明確にすることが難しいという面もあります。
ですから、特に冒頭部分は簡潔な方がよく、中途半端な記述することで言葉足らずになり、誤解を生み、論争を招くことはつまらないことです。ですから本文において、しっかり説明するのがよいと思います。ですから「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については・・・」という記述より、シンプルに「商行為であったのか、強制的なものであったのかという論争がある」とする方がいいと思うのです。--モトカル 2007年6月10日 (日) 11:32 (UTC)
もちろん、冒頭は簡潔な方がいいです。簡潔だと、厳密にいうとおかしいということも生じますが、それはきりがないし、厳密に解釈する人ならそれ以降の文を読んでくれるはずなので、気にしない方がいいです。あなたのその文案は、そもそも商行為でも騙された少女を軍が統治者でかつ元請けなのに解放しようとしなかった、という批判を無視しているようで――中立かどうかでなく、論の焦点かどうかで――問題があるでしょうが、私は許容できます。
『現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」』――べつに矛盾しないでしょう。詐欺にあった人もいるでしょうし、不満のない人が証言に現れないでしょう。つまり、証言が全体を示すに足るほどの平均的な証言者たちだという根拠がありますか?日本人慰安婦が、「給料をもらって帰りました」という証言に現れてはいませんが、そのことを疑っている人がいますか?実態がもらっていないというなら、日本人慰安婦も「敗戦以前に帰国した人も無報酬で放り出された率が高いだろう」と予想すべきですが、本気でそう予想して、国内で呼びかけている人がいるでしょうか?
矛盾しているという論拠はそちらが出すべきです。一部の結果的不払いが全体を表すに足る‘と本気で評価されています’という根拠を。印象と論とを混同しています。混同して騒ぎまくる子鬼どものことは無視すべきです。
'93年の証言集では、
金学順は軍人が金を出していることを聞いているが、4ヶ月で逃走した。
金徳鎮は居続けて金をもらうことよりも、帰ることを撰んだ(軍票以外は経営者も持ちてなかったのかもしれないが、事情は不明)。
李英淑は、初めの所で経営者が契約違反をしているのを憲兵に訴えると言い、後の所では、もうけを折半し終戦時には少しの金をもっていた。
河順女は経営者が受け取っていたと知っているが、終戦までいた。
呉五モクは、軍人から金をもらっている。
黄錦周は、金のことは何も知らないで、終戦まで続けている。
文必基は、軍人が券を使っていたので金のことは知らないまま、敗戦になり、ソ連兵から逃れるために逃げ出した。
李容珠は何も知らないまま、敗戦で経営者が逃げ、釜山に帰るとなぜか300円もらっている。
李玉粉は、軍が券を出していることは知っていたが、敗戦で経営者が逃げ出した。
文玉珠は、将校を騙して脱出した後、ビルマに行き、実家に送金したり貯金しているが、通帳をなくした。帰りの船中で、千円もらっている。
李順玉は知り合いの軍人のおかげで終戦前に廃業して帰ったが、軍人は金を払っていたのかもしれないが、報酬のことを考える気にもなれなかったというので未確認のまま。
李相玉は、月給三〇円とされたが、経営者は衣服などを押し売りしたので金が手にできず、年期が開けないときに軍人に頼んで病院に職場を変わった。
李得南は、軍人が金を払っていることを知っていて、終戦三ヶ月後の帰国にも五〇〇円をもっていたが、釜山で四〇〇円取り上げられた。
李用女は、貯金すると聞かされていたがビルマで敗戦、それ以前に朝鮮人経営者が消え、軍人が消えた。
金台善(仮名)は、一月あまりの慰安婦生活で、戦況が危なくなったので、逃走。
朴順愛は、料金相場を知っていて、帰国船の時に通帳を腹に巻いたが、沈没のさいに通帳を落とした。二度目も沈没したり、金がないままに、なんとか帰国。
崔明順(仮名)は、四ヶ月間の慰安所生活で、金のことを考える余裕もなく、病気になって朝鮮に戻った。
姜徳景は、金が軍属に渡っていて自分にくれないことを聞いているが、元が工場から逃げ出してつかまったたせいか、終戦で逃げ出した。
尹頭理は、釜山で敗戦によって経営者と軍人が逃げ出したので金がもらえなかったという。
以上からして、この一九人の場合からは、「慰安所の実態が一般に金を払わないものだった」ということは成り立たない。短い期間で報酬以前なのが三例。敗戦でなくても軍が払っていなかったと想像する余地のあるのは、3例だけ、黄錦周、李容珠、李順玉。軍が金を出していたことを知っているのが一三例。
もちろん、現在の慰安婦はもっと多いし、朝鮮以外の慰安婦もある。しかし、最も信頼が高い調査のはずのこれらで、こんなもの。不満のない人は証言に出てこない、ということからしても、慰安婦達全体の実態が、報酬がなかったなどと「本気で説を立てる学者」がどれだけいると言えますか?
まして、証言と矛盾するというなら、それがどの証言なのかを、十分な数で指定すべきです。 —以上の署名の無いコメントは、如月の弥(会話履歴)さんが 2007-06-10 14:39 (UTC) に投稿したものです。

如月の弥さん、私の文章が紛らわしかったのかちょっと誤解を生んだようで申し訳ありません。私は如月の弥さんの主張が矛盾していると言っているのではなく、吉見教授が「終戦以前にやめた慰安婦に報酬がなかったと考えていない」というのがもし事実なら、現在、「報酬」の節にある「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」という記述を如月の弥さんとしてどう捉えておられるのかをお尋ねしただけです。

ですから、(私は事実関係はわかりません)とも書きました。慰安婦達全体の実態が、「報酬がなかったなどいう説を立てる学者はたくさんはいない」としたら、「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」という記述の他にそれを示す別の記述がないと慰安婦の報酬について誤解を生むのではと思います。少なくとも、そのような記述がないまま、現状のように冒頭に「慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ・・・」と書く事は読者を混乱させるものだと思います。--モトカル 2007年6月10日 (日) 23:19 (UTC)

なかなか全体を総括して、報酬がどうこうというのは難しい問題です。まず「報酬」が何を指しているかという問題。「報酬」を一般的に「慰安所からの給金」として考えると、これは日本人以外の慰安婦については、慰安所からの給金がまともに支払われていたという例は少なく、その意味では性行為の代償としての「報酬」は無い方が多数派ということになるでしょう。しかし、チップや、衣食の現物支給というのはあるので、それを報酬というかどうか。一方では軍票をそのまま報酬といっていいのかという問題もあります。それと、これが日本人の元慰安婦になると、給金の支払いは確保されていたという例も多いと思いますので、その部分では報酬はあると言うことになります。したがって、報酬を貰っている慰安婦もいるし、貰っていなかった慰安婦もいるということになりますから、少なくとも一般化して「報酬は支払われていた」と断言するのは誤りだと思います。なお、「報酬がなかったなどいう説を立てる学者はたくさんはいない」というのは、ややミスリーディングで、もう少し学者の論文では注意深く言葉を使っていると思います。--火の鳥 2007年6月11日 (月) 02:53 (UTC)
如月さん、「不満のない人は証言に出てこない」というのは、いかがなものかと思います。性に関するこのような過去を語るのは、ご本人にとっては極めて辛いことです。多くの元慰安婦は不満があっても口に出さず、静かに人生を終えておられると思いますよ。証言をしてくれた元慰安婦は、たまたまきっかけがあって、勇気を出して語ってくれたのです。これはもしかすると私との価値観の違いかもしれませんが、念のため。--火の鳥 2007年6月11日 (月) 03:08 (UTC)
モトカルさんイイところまで来ました。あともう少しです。但し私は特定の言葉云々ではなく、「安易に折衷して文言を削除せずに“両論併記”」をお願いしてます。つまり個別の言葉をそれぞれの主張をキッチリ記しましょう。と云うわけです。それぞれ見解はあるはずです。それゆえそれぞれの見解は文言を削除することなく、チャンと“両論併記”で表しましょうと云うことです。私は個別の件は指摘しません。「安易に折衷して文言を削除することなく“両論併記”」を何度も何度もお願いしているのです。218.44.81.60 6/11 以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007-06-11 06:38 (UTC)]に投稿したものです。
まだ分かりにくいようでしたら、どちらの側も「敵の為に書け」を実践するように望みます。そのぐらいのことはwikipediaのベテランの皆さんだったら簡単にできると思いますが、今回はそれをぜひ実践していただければと思います。つまり「敵の為に書いたモノ」で「両論併記」を実践していただければ、自ずから問題は解決するはずです。218.44.81.60 6/11 以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007-06-11 06:46 (UTC)]に投稿したものです。
218.44.81.60(60.36.126.40)さん、「安易に折衷して文言を削除することなく“両論併記”」を 何度も何度もお願いしているのと言われても、誰も「安易に折衷して文言を削除している」つもりはありません。そういうつもりがなくても、あなたがそう思うのですから、あなたが、「安易に折衷して文言を削除している」ことになる記述、「(安易に削除せずに)定着させるべきと考える文言」が何かをはっきり示さない限り、いつまで経っても問題は解決しません。
しかし、あなたが、何故ここまで頑なに、自身の過去の編集についてや、問題だ、または妥当だと考える編集や記述などについて語らないのは、あなたが自分の指摘や提案に自信がないからとか、ダメ出しを恐れているという理由も一部あるかもしれませんが、それより、これまでの自身の行動からして、語れない、語ると問題があると思っておられることは以前から察しがついております。署名の仕方を何度も説明しても、未だに直接記入という正式でないやり方をしていおられるのもその表れだと思います(これはあなたのウィキペディアまたはネットに関する知識の不足であって、今更そうしても履歴は動かせないものなので本当は意味がないことなのですが・・・)。
わたしはそれらについて敢えて言及せずに来ましたが、これ以上、まともな議論がなされないまま、保護の状態を不当に長引かせるようになるならその問題を指摘せざるをえません。恐らくあなたは、何度要請しても、具体論を避けようとされるでしょうから、如月の弥さん、火の鳥さんと私の間で(もちろん、新にきちんと議論に参加して下さる方がいればその方も)、合意できる部分を明らかにして行き、それに対する意見を218.44.81.60(60.36.126.40)さんに表明してもらうようにするのがいいと思います。もし、その時再び、曖昧な答えで議論を不当に長引かせるようなら、前述の問題を指摘しようと思います。--モトカル 2007年6月11日 (月) 23:22 (UTC)

モトカルさん、私が矛盾していると言われたとも思っていません。私の意見との間に矛盾があるとモトカルさんは指摘した、と受け取っただけで。また、私は冒頭文のことを書いているのではありません。火の鳥さんも言われるように(他の要素も含めて)、これは多様なことを含んだ表現だったりして、冒頭文には不適当です。ただ、モトカルさんのいう議論への状況認識を「公知のように」繰り返し書き込まれれば、「私は承認しない」と書くことになるのです。 「現在証言の得られる元慰安婦」という言い方は、まったく慰安婦全体を説明していません。それで全体を暗示するのは、説ではなくて宣伝です。そして、私の書いたように、それらの学者の論拠となる証言においては、軍は金を払い、多くは敗戦によって軍票円貯金が消滅したようです。それは、慰安婦という制度として金を払わなかったということとはまったく違います。それでも、学者が金が払われなかったと言っている、と言う人達は多いでしょう。「だから、報酬が出ていたことに議論がある」→「学者達は報酬が出なかったと言う人達も多い」と表現すると、すり替えです。 火の鳥さんとは、基本的に慰安婦証言をどのようなサンプルとするかの、比重の置き方が違うようです。私は過去の時代への認識を中心にしていますが、火の鳥さんは女性問題を中心にしているように思えます。そのため、どうしても比重が違うと思います。「女性問題としての慰安婦」という枠組み設定でならば、私に限らず、多くの人が立場を近くできるでしょうが。互いに違う編集者がいることは有益だと思います。 「報酬がなかったなどいう説を立てる学者はたくさんはいない」ともちろん言い切れませんが、不十分な理由で「十分いる」と言うなら、「むしろいないはずだ」と言います。 (実情はどうだったかといえば、軍はたいてい払ったが、経営者は内地人以外にはたいてい辞めるまで払っていないか、そもそも戦地では円が流通していない、払うつもりの経営者は多かったかも知れないが終戦までいた慰安婦が多ければそれも無駄になった、、他様々でしょう。この辺の議論を、各小項目で紹介することは問題ないですが。) もちろん出てこれない事情があることはわかっていますが、「不満のない人は証言に出てこない」というのも当然であり、「訴訟と補償を求めて出てきた人達から、出てこない多くの人達の率を類推する」ことの無意味さは、常識と言うべきでしょう。なので、――それ以外の補強もあれば別ですが――、モトカルさんが「慰安婦がこう言っていると、言う人達がいる」というだけの配慮は、無意味な議論をまともに受け取りすぎで良くない、と私は考えます。 他の例を挙げて置きましょう。 ミッチナに関しての記述をしたころの記憶によれば、永井和研究室の白石秀人というのは、あまりに捏造だらけです。資料を捏造した上での主張以外の内容はなかったと記憶するぐらいです。今までの資料にないものを見い出したのでなく、今までの資料にあるものを「ない」と嘘をついて、自分だけの解釈をしています。政府資料は高い本ですが、京大(京都私立大学でなく、国立のはず)にないとは思えず、参考文献としている吉見の資料にもあるのだから、わざと嘘をついている、という推測が50%を高く越える確率で成立します。 であれば、彼は果たして学者の卵でさえあるのかどうか。ただ、一時ゼミに参加しただけの学生かも知れません。 わたしが、削除を求めずにその捏造を指摘する反論を書いたのは、すでに京大の肩書き付きで結構流れているだろうからです。本来は無視すべき子鬼の活動です。明確にことごとく捏造を指摘しているのに、モトカルさんはそれを中立というつもりで、読者がまともな論のように受け取れる編集をしていました。私がなんとか訂正したからいいですが、本来はまだ不十分とも言えます。これを議論すると労力を使いそうなのと、文章校正上の調整ですむことなので、詳しくは語りませんでしたが。 ただ、書き直すべきかもしれませんね。今回、「白石秀人」 で検索したら別人と思われる以外はウィキペディア関係ばかりでした。例外が、最近ある二つのブログのコメントに引用されていたもので、不必要に宣伝してしまったかもしれません。もっとも、どちらでもばかばかしいという対応でしたが。--如月の弥 2007年6月11日 (月) 12:52 (UTC)

如月の弥さん、興味深いお話しありがとうございます。私も「現在証言している元慰安婦」の証言だけで慰安婦の実態を安易に判断するのは適当でないと思います。
現在、「報酬」の節にある「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」という記述はおおまかな総括的説明なので”、どのような意味で給料を貰っていない”と元慰安婦が述べているのかもう少し説明が必要ですね。
最初から給料を貰えるという待遇でなかったのか、軍票により支払いを受けることになっていたが、結果的に支払いを受けられなかったということなのか、借金の返済に当てられ、自身の給料としての分がなかったという意味なのか不明です。引用でなく、総括的説明だとそういう重要なところが抜け落ちてしまう可能性もありますね(元の文にもそういう詳細は述べられていないかもしれませんが)。火の鳥さん、原文をご存知でしたら、引用していただければ幸いです。
「軍は金を払い、多くは敗戦によって軍票円貯金が消滅したのなら、慰安婦という制度として金を払わなかったということとは違う」という御指摘ははその通だと思います。
また、「多くの学者が慰安婦に報酬が出なかったと言ってるのかどうか?」についても、事実(研究者の動向として)にもとづいた記述があった方がいいと思います。
如月の弥さんが、白石秀人氏の捏造を指摘されたというのを見かけたことがないのですが、いつどこで書かれたのでしょうか?白石氏の主張に捏造が多いという指摘が実際になされているとしたら、それも載せてもいいと思いますが、そうでなければ、ウィキペディアの編集にそれを反映させることは「独自研究」に当たるので、できないですね。
あと、私が「慰安婦がこう言っていると、言う人達がいるというだけの配慮は、無意味な議論をまともに受け取りすぎで良くない」という御指摘は、「冒頭文――実態は商行為、その他」の節で、「慰安婦達に報酬が払われていた」という記述も、「報酬」という節に「吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。」との記述があるので、矛盾してしまいます。」と書いたことでしょうか?
また、私が中立というつもりで、読者がまともな論のように受け取れる編集をしたというのはどういう編集であったのか、お手数ですが、具体的に示して下さいますか? --モトカル 2007年6月12日 (火) 11:57 (UTC)

[編集] 冒頭文について、2部 バランスとルール

『そうでなければ、ウィキペディアの編集にそれを反映させることは「独自研究」に当たるので、』、というその考え自体が、中立ではないのです。白石が載せるべき資格が少しでもある人物か、その意味のある内容か、が問題です。全くその値打ちが無く、ただ手違いで流布していそうだという以外に載せる価値が無くても、それを批判することを「独自研究」などとして、何も考えずに白石をまともに扱うのは、大きく歪んだ編集なのですよ。

今日は時間もないので、これにだけ、答えます。これこそが重要です。他は、一部だけは全体とは違うということは合意が得られたので、後は、過去のことだったり、枝葉だったりして省略可です。とりあえずこれだけで返答を終えます。

(追伸)私は、人をいちいち説得しようとは思いません。だから、意見の違いを取り上げて説得して合意するよりも妥協を探します。理解できる人はなんとなくわかるでしょうから。しかし、明白な基準のように語られると、承認したかのようなポーズは取れません。 --如月の弥 2007年6月12日 (火) 13:19 (UTC)

如月さん、白石氏の論文は、資料の解釈の方法に関する主張であり、そこに書いてある内容の基本的な点については一定の支持があると思います。もし如月さんが納得されないとしても、それは読み方の違いですので、そういう意見があることに触れるのも、全体のバランスを考えると適当だと思います。これを「捏造」といい出すと、本文中に多く引用されている他の論者のものでも、もっと信用性がどうかなと思われるものも多々ありますよ。本文中にはないですが、同じ英文資料に関する産経新聞の古森氏の記事とか、そのレベルなら捏造という批判もありうるとは思いますが。なお、私は女性問題を中心としているという自覚はありませんが、確かにWikipediaの記事の内容があまりに偏っているというのが参加した動機ですので、バランスを保つためにその方面からの編集は多くなっているかもしれません。モトカルさん、ご指摘の箇所は私が書いたところではありませんが、内容としてはそんなところだと思います。なお、そこでは「給金」の意味だと思います。たぶん文献をまとめて書いてあるというものなのでしょうが、引用するのに適当な箇所があるか、時間があるときにでも探してみたいと思います。--火の鳥 2007年6月12日 (火) 19:09 (UTC)
だから、何度も繰り返しますが「両論併記」にすれば良いんですよ。安易に「折衷」にすると「相手側のこの言葉が気にくわない」と各々手前勝手な文献を持ち出して“文言の削除”に心血を注ぐようになる。それゆえそれを避ける為にも「両論併記」なのですよ。218.44.81.60 6/13 以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007-06-12 23:18 (UTC)]に投稿したものです。
ウィキペディアの編集に捏造、または捏造に等しい表現、が多いことは事実です。私も、まちがって書いたり、その他あれこれと修正したり、他人の修正を期待したりしてます。ただ白石秀人については、「その程度」ですむとは思えません。まだ、過去記事を見返してないので、私の表現の問題などがあったかもしれませんが、とりあえず今、より問題なのはそれとは別のことなので、話の流れが混乱しないために後回しです。
「白石とその主張を載せるに値する根拠があるとの確認をしないままに、まず白石を載せることを前提にして」、『白石氏の主張に捏造が多いという指摘が実際になされているとしたら、それも載せてもいいと思いますが、そうでなければ、ウィキペディアの編集にそれを反映させることは「独自研究」に当たる』というような今週語られた「基準の立て方」そのものがまず問題です。
そういう言葉がノートに書かれると、他の編集者・希望者が、「これが方針として通用している」などと、思ってしまいます。 モトカル氏には予想外のはずですが、ウィキペデイア全体で悪用が可能です。そういった基準として書かれなければ、個々の妥協の話にしていましたが。
こうなる原因として、218.44.81.60さんのいうことは言えますが、しかし、それなりに両論併記していたようにも思えるし、両論併記の微妙な仕上げ方のようにも思えます。
また、白石の場合は本当に両論併記がいいのかといえば、あとで火の鳥さんと話してみるべきでしょう、主観の違い以前だと思えますが。まあ、削除しようとする気も再び薄れたので、どちらでもいいですが。
なお、両論併記の以前に、「値しないものは削除、バランスを取って両方削除」ということもあります。白石秀人は本来は、並記よりも削除にふさわしいと思っています。中立の方法は、書くことだけではありません。中立を保てないなら、原則削除、ということも可能でしょう。ただ、あまりに少ないと、情報の混乱が生じるから、その整理を付けるために書くべきですが、しかしデマと確認できるものは・・ --如月の弥 2007年6月13日 (水) 11:00 (UTC)
> 両論併記の以前に、「値しないものは削除、バランスを取って両方削除」ということもあります。
私は肝心要の文言さえ削られていたのに比ぶれば、胡散臭いモノが一つ二つ混じっていても、それは「はるかにマシ」だと思います。そして、文言の削除に躍起になっている方にとっては、あなたの「値しないものは削除、バランスを取って両方削除」との言葉は、「待ってました」「作戦通り」と歓喜の言葉を送るでしょう。以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月13日 (水) 13:14 (UTC)]に投稿したものです。
そのうえで、冒頭文で入る文字数は限られています。冒頭からダラダラ書くわけにはいきません。双方肝心な文言で埋めていったら各々1行2行はすぐ消化します。それゆえその点はさほど心配なさらなくても良いと思います。218.44.81.60 6/13以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話/whois)さんが[2007年6月13日 (水) 13:33 (UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
如月の弥さん、仰ることは一般論としては私も尤もだとは思うのですが、ウィキペディアの方針に基いて考えると答えは少し違うものになります。
ウィキペディアの方針、特に「中立的な観点」の方針は自分たちの常識や百科事典に対する既成概念からすると、ちょと意外な面もあると感じます。
例えば、大手の百科事典が社会的にはほとんど受け入れられていないトンデモな説を載せることはまずないのではないかと思いますが、ウィキペディアにおいては「中立的な観点」の中の「疑似科学と科学を対等に扱うのか」の説や「有害な考えを広めてしまうのではないか」の節を見ればわかるように、(白石氏の説がそうだという意味でなく一般論として)あるトンデモな説であっても、一つの見解として紹介することはゆるされていると思います。
「中立的な観点」の方針からすれば、特定の見解について、載せるべき資格があるかないかを執筆者が決めるのは適当でないのではと思います。「白石氏の主張に捏造が多いという指摘が実際になされていなければ、ウィキペディアの編集にそれを反映させることは「独自研究」に当たるので、できない」と述べたのは、ノートでそういう指摘をされること自体はいいのですが、本文においては「検証可能性を満たす」、「独自研究は載せない」という方針からすれば、白石氏に捏造が多いという如月の弥さんの指摘がたとえ事実であったとしても、個人的見解を書く事は残念ながらできないという意味です。
これは好むと好まざるに関係なく、方針からすればそうなると思います。もちろん方針というものが悪用される可能性があるということは私も考えます。
如月の弥さんはウィキペディアの方針が悪用された実例をご自身の利用者ページで挙げておられますが、それはとても興味深いもので、ものによっては日本語版の方針に反映させたらいいのではと思うものもあります。
このような話はウィキペディアの方針をより現実に即したものにするためにとても有意義な議論だと思いますが、当面は深入りせず、保護解除のため、冒頭をどのように記述するか再度確認し合うことにしたいと思います。
火の鳥さん、報酬の箇所は火の鳥さんが書かれたのではなかったのですね。吉見氏や尹女史など、慰安婦制度の批判派の代表的論者が慰安婦の報酬について、どのように語っているか、現在のようなおおまかな記述でなく、個別的に記述できればと思います。引用の方できれば宜しくお願いします。
218.44.81.60(60.36.126.40)さん、冒頭の部分は基本的に定義の部分で、論争があるという記述はあくまで、補助的記述です。ですから、中途半端な記述で言葉足らずになり、余計な論争を誘発するより、主にどのような論争があることを示し、(詳細は「論争」の節を参照)とするのがよいと思います。
以前のように「旧日本軍が慰安婦を強制連行したのか否か、慰安婦は、売春という商行為であったのか、強制的なものであったのかや、慰安婦制度は他国にも見られるものであるのか、日本独自のものであるのかなど、様々な主張があり、・・・・」くらいがやはりよいと思います。そもそも、編集合戦になり、保護になってしまったのは、それまで、ノートでの議論で合意された記述をぶち壊しにするような、「慰安婦制度の実態は売春だった」などという明らかに「中立的観点」に反する記述に変更されたことに端を発していることをよく御理解下さい。
わたしも、火の鳥さんも、如月の弥さんも冒頭の部分は簡潔にすべきで、論議を呼ぶ記述はそこでは書かない方がいいという点では既に一致していると思います。「論争」の節を初め、いろんな箇所ではすでに両論併記していることは如月の弥さんも認めておられます。それから、署名を正式になさらないのは方法がわからないのですか?これはノートで意見を述べる上でのマナーであり、方針でもあります。文章の最後に、「~」(チルダ)を4つ(~~~~)記入します。チルダを入力するにはShiftを押しながら「へ」キーを押します。投稿をすると、「~」4つが自動的に名前(ログインしていない場合はIPアドレス、ログインしている利用者は利用者名)と投稿日時になります(Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をする参照)。他人にいつまでも署名を代筆させるようでは、どんないい意見を言ってもきちんとしたウィキペディアンと見られないことになると思いますのでよろしくお願いします。--モトカル 2007年6月13日 (水) 14:28 (UTC)

上記の文を読んでいると、やはり先の私の懸念通りになりました。自ら問題のある文を提起しときながら論争だとと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。やはり保護解除に向けて時間は長く掛かりそうですね。残念ですが致し方ないです。私は焦ることなくじっくりと時間を掛けてでもこの問題に対して解決していきたいと思っています。218.44.81.60 2007年6月13日 (水) 15:12 (UTC) )---以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話)さんが[2007年6月13日 (水) 15:05、15:06、15:12(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。

218.44.81.60(60.36.126.40)さん、「あなたが、言うように私が提起した「問題のある文」とはどういう文ですか?また「論争だとと言って文言の削除に勤しんだ」というはどういう編集ですか?具体的に示して下さい。具体的な指摘なしに批判するのはフェアでないことは以前にも申し上げました。
如月の弥さんもあなたが「判断基準を明確にしないのが間違いであり、かつ手法が乱暴」と言っていられますし、何かと言えば、保護を盾にしたように「保護解除に向けては長く掛かりそう」と言うあなたの態度についても「保護を悪用する手法を、結果的に正当化している」と厳しく指摘されています。私もそれはサッカーにおいて違反となる遅延行為のようなもだと指摘しました。あなたは自分が合意するまで、保護を続けられると考えているかもわかりませんが、 それは大きな間違いです。
投稿ブロックの方針」により、問題となる行動が続いてWikipediaのプロジェクト進行に悪影響が及ぶ可能性が生じる場合には、問題のあるユーザーの投稿を禁止する「投稿ブロック」を行なうことができるのです。
記事の編集に際し、他の執筆者との協調が図れないため、Wikipediaの目的遂行を妨げる行動をする利用者は投稿ブロックの対象になっていることを知って下さい。「編集や議論に際して他のユーザーからの質問や根拠の明示などの依頼に応ぜす、個人攻撃を行ったり話題を逸らすなどの行為を繰り返した場合にも議論が成立しにくくなります。このような場合は編集を一時中断して議論に集中して貰うために「対話のための投稿ブロック」を行うことが必要です。」ともあります。
また、「投稿行動などから同一ユーザーであると一定以上の蓋然性をもって推測可能な場合は、新たなIPアドレスやIDに対して、前回の投稿ブロックと同一理由を持って投稿ブロックを実施しても良いこととします。・・・・この利用者による投稿は同一ユーザーであるという蓋然性を理由に差し戻すか、あるいは除去することができます。また編集合戦や編集合戦が予想されるために記事を保護する場合、この利用者による投稿は差し戻された状態で保護することになります。」とあります。
これまでの御自身の編集について、問題だと指摘されている編集について、妥当だと思う記述について、再三質問しても、一切に答えて来られなかったため、まともに議論が行なわれず、大変無駄な回り道をさせられていると指摘してきました。真剣に議論してなかなか合意に至らないのならば、お互いの妥協点を探して粘り強く議論することはやぶさかではありませんが、今後も議論において相手の質問に一切答えないというこれまでと同じ不誠実な態度を取り続けられるなら、残念ながらあなたを「投稿ブロック」依頼せざるを得ません。「保護」の状態はあくまで、冷静になって、きちんと議論を進めるためにあるのであって、自分の編集を維持したり自分の意に沿わない編集をさせないためにあるものではありません。また、多くの人の編集機会を奪い、記事の発展を妨げているということも認識する必要があります。
また合意に至るのが難しいときや、一人あるいは少数のユーザーが合意を無視していると思われるときは「、投票の指針」の原則に従って投票によって、どう編集するかを決定することも可能で、実際、この投票という方法で、編集における論争がいくつも解決されています。(Wikipedia:論争の解決 参照)もう再三きちんと議論を呼びかけてきたのですから、これ以上待てませんし、今後もまともな対話を避けるというその態度を続けられるなら、敢えて触れずに来たあなたのこれまでの編集というものも問題にせざるを得なくなります。--モトカル 2007年6月13日 (水) 18:16 (UTC)
現時点で、話の中心は私の書くことをモトカルさんが理解できないでいることにあります。他人のブロック以前に、まず私の書くことをまともに読んで欲しい。あなたはルールを浅薄な錯覚で思いこんでいて、私の書くことも機械的にそれにあてはめているだけだ。
218.44.さんの書く、『自ら問題のある文を提起しときながら論争だとと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。』はまったくその通りですよ。(文を提起したのはモトカルさんではないが、そういうパターンをルールだと主張していますからね。)
>『肝心要の文言さえ削られていたのに比ぶれば、胡散臭いモノが一つ二つ混じっていても、それは「はるかにマシ」だと思います。』
確かに、個々の事例については、そうですよ。私もそのようにしてきました。しかし、今は原則を語っているのです。
>『一つの見解として紹介することはゆるされていると思います。「中立的な観点」の方針からすれば、特定の見解について、載せるべき資格があるかないかを執筆者が決めるのは適当でないのではと思います。「白石氏の主張に捏造が多いという指摘が実際になされていなければ、ウィキペディアの編集にそれを反映させることは「独自研究」に当たるので』
トンデモ意見をわかってて紹介するなら、それへの反論もしっかり書くべきです。反論を封じた上でそういう意見を紹介するということ自体が悪用であり、あなたは、はっきりと悪用を認めると書いたに等しい
悪用されるという指摘への考慮を放置して結論を出しているあなたは、じつはウィキペディアのルールも理解できないままに、あなたの解釈でルールに仕立て上げているだけです。表面をまねたからあなたの主観がないというのはまちがいです。ルールを理解しようと考えずに、脳を停止して表面をまねたから、自分は主観ミスをせずにルールに従っている、といった考えかと想像しますが、デッドコピー的な思考は錯覚をしていないという根拠になりません。
まず、初めに白石の文に載せる資格がなければ、あなたの説は成立しません。誰かが、ブログ主の意見を書き込んだら、それがトンデモ意見でも批判するなと書いているのと同じです。批判するなとする一方で、なぜ、内容以前に、載せることを前提とするのですか?
(追伸)ルールについて。
独自研究というのは、本来、物理学実験のような他人が判断できないことについて、できたことです。そして、それは歴史にもあてはまると考えられるという見解は、自分だけの新資料を見付けたり、自分が生き証人だ、という主張ができ、かつ大いに使われそうだからでしょう。それに対して、「論理」は独自研究ではありません。
また、中立は、各国のウィキペディアで唯一、設置の初めから共通のルールです。
ウィキペディアは百科事典である、と看板を出しているから、その社会的責任はウィキペディアの内規をあれこれ語る以上に、優先しなければいけません。百科事典は、素人の見る客観的知識への導きなわけですが、編集者はまちがいも犯しやすいので、最低限、罪なことをしないように、「中立」は必要です。これは、社会の中での良心に基づくといえるでしょう。
個々の間違い以前に、ルールの悪用を認める(不注意であれ)あなたは、まったくルールというものを大切にしていません。
(追加)論旨を混同させないために、上記のあれこれとは別に書きますが、白石はその論拠抜きにウィキペディアで取り上げるほど、有名な議論という根拠はないでしょう。論拠を確認せず、機械的に扱うのは妥当な編集だとは思えませんね。議論を公正に進めるための基準であるべきで、議論を押さえて機械的作業によってバランスを崩す基準と用法は、ウィキペディアのルール解釈ではなく、「そういう解釈という噂」にすぎません。 --如月の弥 2007年6月14日 (木) 11:59 (UTC)
> 問題だと指摘されている編集について、妥当だと思う記述について、再三質問しても、一切に答えて来られなかった
あなたがどのような思惑でこのような発言されているのかは分かりませんが、私は6/8の記述で「特に『文言を削る』と云う行為を『争いがある』と名の下で“安易に”行う姿勢はとても看過できないわけです。『XはAである。但しBとの見る者もいる』と、争いがあるところをキッチリ両論併記するならともかく、」←この様に、いままでの問題点と解決への“例示”をきちんと提示しています。つまりあなたの指摘は当たりません。
> 一人あるいは少数のユーザーが合意を無視していると思われるときは
これもあなたの先走りかと思いますが、“現在”の私の問題提起した「主旨」に対し、私以外の方がちゃんと賛意いただいている事は、一つ前の投稿文で明らかです。つまりこの点もあなたの指摘は当たりません。218.44.81.60 2007年6月15日 (金) 01:29 (UTC)---以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話)さんが[2007年6月15日 (金) 01:29(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
> 確かに、個々の事例については、そうですよ。私もそのようにしてきました。しかし、今は原則を語っているのです。
そうですね。原則は確かに大切ですね。その点は理解しました。218.44.81.60 2007年6月15日 (金) 01:29 (UTC) )---以上の署名の無いコメントは、218.44.81.60(会話)さんが[2007年6月15日 (金) 01:30(UTC)]に投稿したものです(モトカルによる付記)。
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[編集] ウィキペディアの方針再考

如月の弥さん、あなたの今回の投稿で、この「中立的な観点」を初めとするウィキペディアの方針をどう解釈するかということは、今回の問題にも大きく関わっており、今後も編集の上でもやはり議論になると思われるので、これを期に、ウィキペディアの方針に対するそれぞれの認識を述べ合い、お互いに再確認しておくことはとても必要だと思いました。この「慰安婦」のような激しい論争があるトピックはその記述を巡り、様々な感情の対立を引き起こしやすいものです。しかしまず最初にお互いに再確認しておきたいのは、ノートでの議論は論争自体や他者への批判自体が目的ではなく、あくまでウィキペディアの方針に沿って、よりよい記事を書くための編集会議であり、わたしたちは共同執筆者だというとことです。その前提を忘れずに実りある議論になることを願っております。それから、憲法や法律というものを考えればわかるように、ルールというものはあくまで原則であり、実際に運用する際には明確に書かれていない部分に関してある程度の解釈の幅ができ、一律にどれが正しい解釈とすることはできない面もあると思います。私自身も、自分の解釈を絶対化するつもりはありませんし、現在の自分の理解に基いて述べることができるだけで、他者からの指摘で正されることもあろうかと思っています。ですから、お互いに自分がルールをわかっているが、相手はわかっていないというのではなく、冷静に、ウィキペディアの方針を再考し合えたらと思います。最後まで読んで頂ければ如月の弥さんも幾分ルールを誤解されている部分もあることがおわりいただけると思いますから・・・

それと、218.44.81.60(60.36.126.40)さんにも再三訴えているのですが、記事を改善するために、他者の編集の問題点を批判することは大いに結構だと思うのですが、その際には必ず具体的な記述や主張をきちんと指摘して下さるようにお願いします。“中立というつもりで、読者がまともな論のように受け取れる編集をした”とか、今回の、“『自ら問題のある文を提起しときながら論争だと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。』はまったくその通りですよ。”などという指摘についても、それに該当する私の主張や編集を具体的に挙げていただければと思います。そうでないと、その指摘が妥当なものだとしても、相手に実際にどういう所が問題であったのかをきちんと認識させることができないので、せっかくの指摘が実を結びません。また反対に、もし、その指摘が妥当なものでなければ、意図的でなかったとしても、如月の弥さんが嫌われる“小鬼の活動”と結果的に同じことをしていることになってしまいます。ですから具体的でない抽象的批判はきちんと弁明や反論ができないゆえにフェアでないことにもなるということは御理解頂きたいと思います。

それから、この「中立的な観点」という方針というものは、ウィキペディア独自のもので、これまでの既成の百科事典にも、報道にも、書籍にもなかった、ある意味非常に画期的な概念だと思います。誰しも、自分がいくらかでも情報を得ているトピックについてはある観点や意見を持っており、この「中立的な観点」という方針で述べられているようなニュートラルな物の見方をすることはほとんどないのではと思います。ですから、この「ニュートラルな物の見方」に私達は慣れていないため、なかなかそれをきちんと理解できなかったり、心理的に受け入れ難いという面があるように思います。これは自分自身のこれまでのウィキペディアでの経験から感じることです。特に自分自身が思い入れのあるトピックは「中立的な観点」に立つことが難しいため、「あまりにも情熱をもっているテーマは書かない」ということがウィキペディアにおいて一つのアドバイスになっているくらいです。

先回も述べたように、如月の弥さんが示された編集に対する姿勢は一般論としては私ももっともなものだと思います。しかし、如月の弥さん、既に読まれているかもしれませんが、後でもう一度「Wikipedia:中立的な観点」をじっくり読んでいただけないでしょうか?よく読むと、如月の弥さんの語られたような編集姿勢はそこからすんなり導き出されないように思うのです。むしろ、ウィキペディアは何と骨も思想もない、無責任な百科事典か?と思うような部分がないでしょうか?本当に理解すればそうではないのですが、一見そのように思ってしまうような斬新な発想が語られているように思います。実際、この「中立的な観点」という方針はウィキペディアの多くの記事でも本当に正しく適用できているものはかなり少ないのではと思います。

では、如月の弥さんのいくつかの御指摘について解答します。『自ら問題のある文を提起しときながら論争だと言って文言の削除に勤しむ感が否めません。』という意見について如月の弥さんは同意されましたが、私自身はまったく明らかに方針に反していたり、事実に基かないと判断した記述については削除したことは幾度かありましたが、肝心要の文言をわざわざ削ったという認識はありませんし、削除するよりはできるだけより妥当な表現に修正することをこころがけてきたつもりです。ですから、該当するところを具体的に御指摘くださればと思います。

それから「トンデモ意見をわかってて紹介するなら、それへの反論もしっかり書くべきです。」という御指摘ですが、まず、(「○○氏はXX大の教授である」などの)明確な事実関係と違って、執筆者すべてがある意見を「トンデモ意見」であるとみなすとは限りませんし、その判断をめぐり論争になってしまうこともあり得るでしょう。そして、それよりも大事なことは、ウィキペディアは基本的には見解の内容に関係なく、様々な観点を公平に記述するものだとされているということです。「Wikipedia:中立的な観点」においては、「『人類の知識』の総体を提供する、つまり『われわれが知っていると信じていることの全てを提供する』という百科事典というウィキペディアの目的に照らすと、「われわれは、不快感を催すような見方(「疑似科学」、人種差別や性差別などの「差別主義」、「ホロコーストの否定」など)であっても説明しなければならない、それが誤りであると主張することなく説明しなければならないことに同意するべきでしょう」とあります。つまり、大多数が「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと考える主義、主張であったとしても「人類の知識」の一つとして説明すべきである。かつ、それを「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと主張するかたちでの記述をしてはならない」ということだと思います(「論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」、「論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する」、「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない」)

それからもう一つの御指摘の「白石の文に載せる資格がなければ、あなたの説は成立しません。誰かが、ブログ主の意見を書き込んだら、それがトンデモ意見でも批判するなと書いているのと同じです。なぜ、内容以前に、載せることを前提とするのですか?」については、「載せる資格がない見解」はウィキペディアの方針上からすれば基本的に、「出典がない」、「検証可能性を満たしていない」、「独自研究である」、「著作権を侵害している」というものだけではないかと思います。誰かが書きこんだブログ主の意見はそのブログ主が著名活動している人でなければ、「独自研究である」という理由から載せられないと思います。忘れないでいただきたいのは、ウィキペディアはその見解が支持されているいないに関わらず、様々な観点を公正に扱うだけであって、載せること自体は別にその説が正しいと紹介するのではなく、あくまでこれこれこういう説があることを紹介するだけです

それから如月の弥さんは「『論理』は独自研究ではありません。」と仰っていますが、公式な方針である「Wikipedia:独自研究は載せない」は「独自研究(original research)」を、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」と定義しており、具体的には「未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」とされています。また、「編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。」ともあり、「独自研究」に当たるもの中に、「他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。 」、「編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する。 」などがあります。ですから、個人的な考察や論評を記述することは禁じられていると思います。これは人によれば、「これじゃ何も書けない!」と失望することもあり得るくらいに、個人的要素、主観的要素が入り込むことを禁止しているのです。私も自分が知っている重要な情報を知らせたいのに、それをできなくするこの方針をもどかしく感じることもあります。しかしそれは「中立的な観点」という基本方針を守るために必要なものなのだと思います。よく考えれば、個人的な考察を記述することをゆるすのなら、自分は正論だと思う見解に対し、それを支持しない人がその信憑性を否定するために、様々な独自の考察や論評をすることも禁じられないことにもなり、その考察や論評をめぐり論争や編集合戦が起こる可能性が非常に高くなるでしょう。私はウィキペディアの方針によれば、人によってはトンデモ意見と思える見解を載せることは禁じられていないこと、個人的な理論、論証、考察などを書くことはできないということになるということを述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。それに慰安婦についての様々な見解の一つとして紹介するだけで、その見解が正しいと紹介するわけではないということをよく御注意下さい。既に慰安婦を性奴隷という主張とは反対の見解がしっかり書かれた中で、批判派の中の一つの見解として紹介されているだけです。それらをどう捉えるかは「それぞれの読者にゆだねる」(読者の知的な独立性を支持)というのがウィキペディアの発想だと思います。ですから「反論を封じた上でそういう意見を紹介する」ということでなく、反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです。もし、そのような反論がなされていないとしたら、それは社会においてはあまり問題視されていないのか、知られていないから指摘されていないのかいろんな理由があるでしょう。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。様々な観点を公正に扱うという「中立的な観点」の方針は、問題のある見解にはきっと、社会の良識において、きっと反対、批判の声が存在するだろうという、社会全体という大きな枠組みの中で批判や検証のシステムが働くというある意味、楽観的な信念に基いているのだろうと思います。(「特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります」)それはウィキペディアが記事を編集すること誰にでもゆるしているのと同じで、問題のある記事はいつしか良識ある人々によって、きっと妥当な記事に修正されるであろうという見方と同じ発想だと思います。

「白石はその論拠抜きにウィキペディアで取り上げるほど、有名な議論という根拠はないでしょう」と御指摘については、慰安婦制度の否定派の代表としてもっと取り上げるべきが人物はいるとは思いますが、私は白石氏のミッチーナ報告書に対する反論に対し、不正確な記述を修正などをした記憶はありますが、元の文章は私が載せたものではなかったように思います。(特定版削除で履歴が途切れているので誰が最初に載せたのか確認できません)

それから、「ウィキペディアは百科事典である、と看板を出しているから、その社会的責任はウィキペディアの内規をあれこれ語る以上に、優先しなければいけません。編集者はまちがいも犯しやすいので、最低限、罪なことをしないように、「中立」は必要です。」という御指摘についてですが、社会的責任を考えようというのは確かに良識には違いありませんが、ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず、記事の執筆に当たって、相互補完する関係にある「中立的な観点」、「検証可能性」、「独自の研究を含めない」という公式方針を何よりも遵守することを求めていると思います。その公式方針をしっかり遵守することで、結果的に社会に対して罪なことをしないようになると考えているようです。中立的な観点の「批判と解答」という節に「有害な考えを広めてしまうのではないか」というテーマがあり、正に如月の弥さんの示されたような懸念を持つ人々への解答があります。そこではウィキペディアは「とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たない」と書かれています。その以前の節から、多くの人がウィキペディアにその見解を載せることが悪影響を及ぼすのではと懸念する「疑似科学」、人種差別や性差別などの「差別主義」、「ホロコーストの否定」なども、様々な観点の一つとして説明することを推奨しています。しかし、それを正しいものだとも悪いものだとも説明することを禁じています。しかし、それが社会において、あまり支持されていないことや、その見解を嫌悪する人が多いというような事実があることを書くことはゆるしています。そのことによって、社会的に評判のよくない主義、主張を載せることは、それらを社会的に受け売れられているその他の多くの主義、主張と同列に扱っていることにはならないのだとしているのです。そして、そのように記述された記事を読者がどう判断するかはそれぞれの読者の良識に委ねているわけです。今見てきたように、「中立的な観点」という方針は我々の常識や既成概念に修正を迫るという側面もあり、それはある意味、自らの思考に修行を求めるようなものであるような気さえするのです。ですから、謙虚にこれらの方針を理解しようと努め、それに沿ってウィキペディアの記事の質を高めることができたらと思います。取り合えず、これが現在の私の方針に対する見解です。--モトカル 2007年6月16日 (土) 10:47 (UTC)

> その際には必ず具体的な記述や主張をきちんと指摘して下さるようにお願いします。
何度も何度も何度も何度も書きますが、私の主張は抽象的表現などではなく、「AであったかBであったか論争がある」ではなく「『XはAである。但しBとの見る者もいる』と、争いがあるところをキッチリ両論併記しましょう。」との表現方法を具体的に指し示しています。
但し、現在は上記の問題の前に、その前提である「白石問題」(出典の質)を片付けましょう。そちらの問題の方は、モトカルとしては「なぜこの出典(白石文献)が出たのかは分からないので、問題があるようなら消しても一向に構わない」と云うお立場なのですか?長々と書かれているようですが、結局何が言いたいのかよく分からないです(簡単に言うと「抽象的過ぎます」)。218.44.81.60 2007年6月16日 (土) 12:20 (UTC)

自分の解釈を絶対化するつもりはありませんし、現在の自分の理解に基いて述べることができるだけ

なら、それでいいです。

他者からの指摘で正されることもあろうかと思っています。

すぐは期待できないとしても。

以下、後々の参考にいちおう返事をしました。が、主張を継続されないなら、続ける気はありません。

>『執筆者すべてがある意見を「トンデモ意見」であるとみなすとは限りませんし』

そのときはそのとき。問題は、きちんと見ようとするか、です。トンデモ意見とは、誰が見ても、反論への弁護ができない意見ということであり、それは議論の結果です。私は、見ようとするという姿勢と手続きが必要だと語っています。

>>「白石の文に載せる資格がなければ、あなたの説は成立しません。誰かが、ブログ主の意見を書き込んだら、それがトンデモ意見でも批判するなと書いているのと同じです。なぜ、内容以前に、載せることを前提とするのですか?」

>「載せる資格がない見解」は・・方針上からすれば・・というものだけではないかと思います。 ・・著名活動している人でなければ、・・載せられないと思います。・・様々な観点を公正に扱う・・(まさに、そこが問題。資料を捏造しているという反論を封じて載せる理由は何か?)
どうも、「内容以前に載せることを前提とする」ことを認めているのかいないのかわかりませんが。

「『論理』は独自研究ではありません。」

独自研究ではないとあなたの以下の引用『』が示していますね。
>『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』
私の書く白石批判は、該当しませんよ。白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)として、また各部分を指摘したのです。だから、『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』に当たりません。
「白石の提出した資料に即して、明らかに捏造に等しい、とすること=論理」は、独自研究ではないということですね。
つまり、それほど明確に指摘していることに対して、『反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです』と扱うことは、反論を封じています。

>反論が・・公になされていれば・・もし、そのような反論がなされていないとしたら、・・知られていないから指摘・・。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。

それはつまり、ウィキペディアがマイナーなものを宣伝してもいいということになります。ならば、ブログ主が編集者になって、それを隠していても、全く内容議論抜きに書き放題です。そんな基準になっているとしか読めなかったとしても、それは間違いでしかありえません。

>述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。

わかりました。もっとも、その区別の認識が問題なのですが。

>「それぞれの読者にゆだねる」

最終判断はもちろんそうだけど、それまでにどれだけの便利な手助けをするかがウィキペディアの役目であり、最低限、情報の混乱はしないでおくべき。

>特定版削除で履歴が途切れているので

なるほど。履歴が消えているそうだから、書いておきますが、白石の意見は、吉見資料集にも政府資料集成にもある資料についてのもので、白石のその読み方は資料を直接読んでいる人が少ないと思って、捏造(としか読めない前提)のし放題、と言わざるを得ない。具体的にその間違いを私は記述していたはずですよ。

>ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず

良心は当然のことです。ウィキペディアは何の責任ももってくれないボランティアでもっている組織だというのに、良心をいちいち決めてもらいたがるべきではありません。

>罪なことをしないようになると考えているようです

基礎への理解はこれからということですね。アメリカでは、独自研究の禁止と検証可能性とは同じとして合体する投票がありました。モトカルさんはこの違いがわかりますか。最終的に、投票でも僅差だったようですが、創設者がウィキペディアの基本を変える、として拒否しました。どういうことか理解できますか。
私もわかりませんが、多くの管理者がしっかり理解できてないと推測できます。日本版が同じとは言えませんが、アメリカ版をまねる面も強いようで、理解の状況は+と-で似たようにしか予想できません。そういう人達の文章を矛盾無く受け取ろう・まとめようとしたら、浅い理解でしかできないでしょう。ルールは現場で日々熟成し制式への決定を待つ、と考えるべきです。

>「とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たない」

透明な立場であるということと、表面的な態度で機械的に作業していれば落ち度はない、ということとはちがいます。

>謙虚にこれらの方針を理解しようと努め、

成り立つ基礎を十分理解しないうちに表面をまねることは、卑屈であって謙虚ではありません。また、社会的責任についての考慮を後回しにするなら、謙虚と呼ぶ価値があるでしょうか。

最後に、「ウィキペディアの方針再考」という節に合わせて、書いておきましょうか。

Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」

以上が、私の主張していたことです。モトカルさんのウィキペディア解釈に比較してもらうために、置いておきます。 --如月の弥 2007年6月16日 (土) 15:45 (UTC)

(追伸)前記の「>罪なことをしないようになると」の後半部分を加筆しました。--如月の弥 2007年6月17日 (日) 05:17 (UTC)

[編集] 第二周期

如月の弥さん、御丁寧な解答ありがとうございます。まず結論から述べますが、いろいろ考えた結果、やはり白石論文が捏造に基くものだという個人的指摘を書く事は方針上すべきではない、白石論文を載せたままにするか削除するかはノートでの議論で決めるべきではないかと考えます。
>「白石の提出した資料に即して、明らかに捏造に等しい、とすること=論理」は、独自研究ではないということですね。
Wikipedia:独自研究は載せない」の方針のまとめに「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、『解釈を加えていないもの』だけです 」とあります。また、排除されるもの中に「発表済みの情報の『個人的分析や解釈』」、「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈』」が挙げられており、また、「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、『意見』、『解釈』、定義、『論証』も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」と書かれていることから、やはり個人的な分析、解釈、論証などを記述することは「独自研究」に該当すると思います。
>白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)として、また各部分を指摘したのです。だから、『評判のいい資料を提示することなく加筆する。』に当たりません。
しかし、「自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します」と明確に書かれおり、「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあることから、”「白石の批判は公式資料の捏造(に等しい)」とする主張が『評判のいい資料』に掲載されていなければならない”ということだと思いますこれはとても厳しい基準で承服し難く感じられるかもしれませんが、個人的解釈、論証をゆるせば、反対の立場からも、自分が正しいと考える見解にも、様々な否定的論評が加わることも禁じられないことになり、それこそ如月の弥さんの懸念される”方針の解釈の悪用”に口実を与えることにもなってしまいます。そして、それらの論評の妥当性をめぐって論争になり、編集合戦が起こる可能性は高いと思われます。そのような独自研究を許容しているウイキサイトもあるようですが、ウィキペディアにおいては、その方針の中でいい記事を書くことを考えるしかないと思います。
>>「それぞれの読者にゆだねる」
最終判断はもちろんそうだけど、それまでにどれだけの便利な手助けをするかがウィキペディアの役目であり、最低限、情報の混乱はしないでおくべき。
それはおっしゃる通りです。私は白石論文に対する註のように、意見を述べないかたちなら、読者の理解の手助けくらいはしてもいいのではないかと思います。 ですから、白石氏論文の脚注に、(恐らく如月の弥さんが註として書かれたように思いますが)、「この白石秀人の参考文献は、日本政府の発表の資料の直接でなく、「戦争責任資料センター」のものや「解放社」の内容抜粋である。」 や「尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。 」という但し書きがありますが、これは単なる事実の指摘で”解釈”までは述べていないので、個人的にはこの辺がギリギリの線なのではと思います。
>それほど明確に指摘していることに対して、『反論が個人的にではなく、公になされていれば当然書けるのです』と扱うことは、反論を封じています。
たとえ自分が明確な指摘であると思っても(白石氏の論文ではなく)他者から見ればそうでないことも往々にしてありますから、特定の観点に立つことをウィキペディアは禁じているのだと思います。ですから、”モトカルが反論を封じているのではなく、ウィキペディアが個人の論理や考察、解釈を封じている”ということを御理解下さい。
>>反論が・・公になされていれば・・もし、そのような反論がなされていないとしたら、・・知られていないから指摘・・。その説がある程度の影響力を持つようになり、それを問題だと認識した誰かがそれを指摘するかもしれません。
それはつまり、ウィキペディアがマイナーなものを宣伝してもいいということになります。ならば、ブログ主が編集者になって、それを隠していても、全く内容議論抜きに書き放題です。そんな基準になっているとしか読めなかったとしても、それは間違いでしかありえません。
著名活動をしてない一般のブログ主の見解は、「評判のいい資料」に掲載されていないという理由ウィキペディアには載せられないと思います。それを載せるためには「まずそれを査読制度のある雑誌か評判のいい報道メディアで発表し、その後中立的な観点の流儀にのっとり、あなたの業績を証拠として示す」のが最良の方法として示されています。
独自研究は載せない」の方針には「ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、それを保証するためには、十分に信用できる、第三者による情報源が不足していることから、独自研究に認定される場合があります。」とありますので、極マイナーな観点は載せられないとされることもあるようです。ウィキペディアの共同創始者ジミー・ウェールズは「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない。」と述べているそうです。
>>述べたまでで、それは決して「悪用を認める」ということではありません。
>わかりました。もっとも、その区別の認識が問題なのですが。
そうです。配慮や用心は必要ですね。しかし、悪用されないためにという理由で方針に背くのではなく、ガイドラインなどに防御対策を加えるような方向で考えるべきなではないかと思います。
>様々な観点を公正に扱う・・(まさに、そこが問題。資料を捏造しているという反論を封じて載せる理由は何か?)
経緯としては、"資料を捏造しているという反論を封じ載せた"のではなく、載せられたものに対し、資料を捏造しているという反論をなさったのですよね?ミッチーナの資料が慰安婦の待遇がよかったという内容なので、誰かがそれに対する反論として白石氏の反論を載せたのでしょう。それは出典もあり、検証可能性も満たしているので、少なくともそういう面からは載せてはならないことにはならないと思いますが、資料を捏造しているという個人的考察は「独自研究」に該当するので、それが事実であるないに関わらず載せられないことは方針なので仕方がありません。ただ、実際に捏造に基いているのか?”、”明らかな捏造に基いた意見ならそれを載せるか載せないか”という議論は別途行なえばよいと思います。
>どうも、「内容以前に載せることを前提とする」ことを認めているのかいないのかかりませんが。
基本的には社会的評判の良し悪しに関わらず載せるべきとしていると思いますが、”明らかに資料を捏造しての主張”というものをどう扱うかまでは方針からは明確ではないですね。まして、捏造であるという指摘が公になされていない場合は個人的にはそれを指摘できないと思われますから・・・
>白石の意見は、吉見資料集にも政府資料集成にもある資料についてのもので、白石のその読み方は資料を直接読んでいる人が少ないと思って、捏造(としか読めない前提)のし放題、と言わざるを得ない。具体的にその間違いを私は記述していたはずですよ。
著作権とかの問題でその部分がノートから削除されてしまったのでしょうか?もし、よろしければ、お手数ですがまたノートに書いていただけるとありがたいのですが・・・
>アメリカでは、独自研究の禁止と検証可能性とは同じとして合体する投票がありました。モトカルさんはこの違いがわかりますか。最終的に、投票でも僅差だったようですが、創設者がウィキペディアの基本を変える、として拒否しました。どういうことか理解できますか。
ちらっと見ただけで、内容はよく知らないのですが、興味深い話しだと思います。
ということとはちがいます。
>ウィキペディアの方針は“ウィキペディアの内規以上に社会的責任を優先すべき”などということは言っておらず
良心は当然のことです。ウィキペディアは何の責任ももってくれないボランティアでもっている組織だというのに、良心をいちいち決めてもらいたがるべきではありません。
>成り立つ基礎を十分理解しないうちに表面をまねることは、卑屈であって謙虚ではありません。また、社会的責任についての考慮を後回しにするなら、謙虚と呼ぶ価値があるでしょうか。
これらの御指摘はもっともなものだと思います。如月の弥さんは虚偽を含んだ見解がウィキペディアに載ることの影響を懸念されているのだと思いますが、私はウィキペディア自身はは、考え抜かれた方針をしっかり守る限りはそのような懸念はかなり払拭されるとちゃんと考えていることを述べたかったのです。
方針を守るだけでなく、”方針の精神”を生かさなければならないということは私も思います。もちろん”社会的責任についての考慮を後回しする”つもりはまたっくありませんが、私はウィキペディアの方針をしっかり守ることでそれが満たされるのではと考えています。しかし、社会的責任について考慮するという理由であっても、方針を外れることをするのはやはり避けるべきであると考えます。
>ルールは現場で日々熟成し制式への決定を待つ、と考えるべきです。
公式方針は原則ですが、実際の運用において、いろんな問題が出て来るとき、解釈や適用を見直し、それらが方針に取り入れられ、方針がより洗練されていくというのは私も大事なことだと思います。ただ、方針で明確に禁じられていることは方針が変わらない限り安易に破らないということも大事だと思います。しかし、運用、解釈の幅の範囲内では、記事をよりよくしたり、論議になりにくい方向に運用するのがいいのではと思います。そういうバランス感覚は大事だと思います。
>「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」
まず、”Aの根拠を確認する”、Aの意見が事実か否かを確認するという意味であれば、そのこと自体をウィキペディアは必ずしも求めていないのではと思います。つまり、ウィキペディアは百科事典として記述方法として、「ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書く」ことを推奨しています。そして、「偏りのない記述」とは「ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである」、「特定の観点を読者に押し付けない」としています。編集者Bが指摘する‘無根拠という内容’を掲載しないというのは何度も述べますが、「独自研究は載せない」という公式な方針で明確にされているので仕方がないことです。
結局、今回の問題は、もし白石氏の指摘が捏造に基いたものであることがわかっていても、そのような指摘が公になされていない(どこかにあるかもしれませんが)ために、その事実を方針上からは書けないというジレンマがあるということだと思います。
私の現在考えでは捏造がひどく、資料批判の見解の一つとして載せるのは妥当でないということが編集者の間で合意されれば削除するという解決法でもいいと思います。もし、そうなったら、ミッチーナ報告書をめぐる議論という節に、秦氏と小林氏の評価の見解のみになり、バランスに問題が出てくるので、批判派における代表的な論者の見解を代わりに載せたらと思いますが、もしそういう批判がなければ削除だけでいいでしょうし、節の名前を「同報告書に対する評価」とでも変えるべきでしょう。しかし、それにはまず、白石論文が資料批判の見解の一つとして載せるのは妥当でないことが明確にされる必要がありますが・・・--モトカル 2007年6月17日 (日) 14:46 (UTC)
なんともわかりにくいですが、要するに、「内容以前に載せることを前提とする」「その致命的欠陥の事実は指摘を禁じる」ことを原則として半分以上通そうということのようですね。後の議論の余地はあるが、と。
<全体として>
私のいつもまとめている下線の要点に対しては、無回答ですね。原則論なので、白石のことは例に過ぎず、私の提出した「原則の文の形」を本体として、それへの形で答えてもらえませんか。でないと、字体の見辛いうっとうしさと、体系的とは思えなかったりすることと合わせて、ごまかし文とよく似てしまいます。白石の件で何が正しかったかということと、原則についてとは別にしてください。それとも、こういう設定自体が違うというなら、そういうことを明確にしてください。
<独自研究解釈の厳密さ>
『、『解釈を加えていないもの』だけです 」とあります。』、『主張が『評判のいい資料』に掲載されていなければならない”ということだと思います』とありますが、これは違います。以下の原文章ですが、
『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』
『編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判のいい資料を明記せずに加筆する。』
――これら二つは、論証と記述の二種の別個の基準です。後者の基準をもって前者に使うことはできません。つまり、「(a)根拠が明確なら論証自体は借り物である必要はない」。(記述は根拠との関係があいまいだが、論証は関係が明確だからでしょう)
また、『(b)解釈を加えていないもの』とは、まとめというより、『この方針を簡単に言うと: 』とあるので、追加条件でなく「=」である、と取れますね。つまり、(a)と(b)は、個別に正しく解釈して基本的な矛盾はない。
そしてこれは当然の常識でしょう、「事実の指摘に等しい論証」というものがしょっちゅうありますから。違うというときは‘論証になってない’と揉めるときであり、それは議論すればいいのであり、機械的に削除されることではありません。
言い換えれば、論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。ということだと推測できます。
<言葉の違い>
どうも、言葉の行き違いがあるようです。私が問題にしているのは、主張や論理といっても、厳密な形は「事実の指摘」です。提出されている資料とは提出された意見内容とが明白に違うという照合指摘です。下線をつけたまとめに書いてあるでしょう。
過去の事例を語ると、文の指摘が致命的だったからか、あなたがパート全体の印象上、主張としてはねる扱いをした、と記憶するので、主張として書いて当然に思っていたし、あなたが白石の根拠について確認することを語ろうとしないから、議論の中で、捏造(=意図的としか思えないほど事実と明白に違う)と明らかだと書いたのであって、本文でそういう表現はしていません。
元々、現在の脚註にあるような『単なる事実の指摘』表現に過ぎません。もっとより具体的でしたが。その「指摘部分を省略すること」が、不公正だと言っているのです。 万一記憶違いがあろうと、とにかく原則論の形はそうです。
<再確認(半分)>
前から下線で書いている要点の半分を改めて書き直せば、白石の文がすでに出てしまった後で、それについて、「資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なうということです。
<補足(半分)>
白石の文が致命的に根拠に欠けるということは、つまり、白石を取り上げる価値が疑わしいということです。わざととしか思えないずさんさは、永井和研究室に白石という研究者と呼べる人物がいるかどうかさえ疑わしいレベルだということになります。これを、機械的に、「載せるべき」とする根拠はありません。批判をちゃんと読めば、それを無視できなくなるはずです。
このことは、非難や主張で書いていると考えず、原則についての別件だとしてください。
<不公平、非客観の例題>
ウィキペディアでは、初心者向けに「大胆に編集してください」とあります。始めに書き込むときには、いちいちノートで相談してくれ等とは言えません。
そして、他人の書き込みをあまり削除するべきではない、と個人的に思う。だから削除せずに、私もバランスを考えてその行き過ぎを抑えるような書き込みをすることが多い。ところが、その書き込みを禁止して、正体不明(明白に無根拠だと批判されている)の書き込みをとりあえず放置することはルールだとする。
これは、あなただけの解釈であり、ルールの当然の範囲ではありません。‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。片方に無根拠に優先権を与える根拠はありません。あなたの編集行動も、まず、批判の内容を確認して、掲載の最低限の価値を確認すべきであり、機械的に批判を削除して、「これはルールだ」というのがウィキペディア編集ではないはずです。
<結び>
まだ、原則として議論し続けますか?それとも、続けないが、解決するかもしれないからちょっとだけ続けてみているのですか?
原則論は過去の事例とは切り離しているので、白石の事例をほんとに詳しくやりたいなら、原則論を終了する必要があります。 ただし過去の事例の議論をするなら、原則に違いがある以上なにが正しかったかを語っても無駄で、理解のためのだけの反省会ということになりますが。 白石のことを今後どう再編集するかについては、さらにその後とすべきでしょう。

--如月の弥 2007年6月17日 (日) 16:44 (UTC)

(余談) 論理という言葉も、ズレのもとでしょうか。 「論の道筋」というだけだと、主観的にも取れますね。 しかし、日本語で、「合理」というのは、「目的への効率がいい道筋」という感じがあり、厳密性を意味するのは「論理」と言ってしまうのですね。 「条理」というと規則を借りているのかという気もするし、「道理」 というと、道徳と関係するかという気もする。ちょっと、いいのがない気がする。 「論証」 と書いた方が良かったのでしょうかね。
 (独自研究のルール、再考)  『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』  → この命題を変形すると、 「評判のいい資料に基づく「論証」は、何かの立場を支持したり反対しても、それだけでは禁止されない。」 

 --如月の弥 2007年6月20日 (水) 11:17 (UTC)

[編集] 第三周期

 ↓以下の部分の青字は、私(如月の弥)が後で追加挿入したものです。
如月の弥さん、忙しくて、お返事お待たせしました。引用部分を斜体にするのは一つの慣例になっているようなので使ったのですが、見づらかったですか?。
>私のいつもまとめている下線の要点に対しては、無回答ですね。
私はいつも率直に議論していますし、質問に対する解答をはぐらかしたり、何かをごまかすつもりなどありません。 わかっていますが、私から見れば混迷が頑固に続いています。問うている私の問いの形を無視しているから、焦点がいつもずれていると指摘しているのです。 下線部分は質問ではなかったので解答すべきことは思いませんでしたが、、自分の見解を述べるべきと思った箇所に対しては、かなりきっちり述べたつもりでしたが、コミュニケーションとは難しいですね。
>要するに、「内容以前に載せることを前提とする」 「その致命的欠陥の事実は指摘を禁じる」 ことを原則として半分以上通そうということのようですね。 後の議論の余地はあるが、と。
基本的にはあるトピックについての様々な見解は内容の如何によらず公平に記述することが「中立的な観点」の要旨です。しかし、”明らかに意図的に資料を捏造した上でのプロパガンダ的主張”というようなものがあるとしたら、そのようなものを方針は想定していないので、その扱いについては方針からは必ずしも明確でないと思います。それから私は何も”致命的欠陥の事実を指摘することを禁じた”わけではなく、如月の弥さんが個人的に「白石氏の論文が捏造に基くものであることを論理的に説明する」ということは方針からすると「独自研究」に該当すると解釈したということであって、もし、「白石氏の論文が如何に適切な資料解釈であることを論理的に説明する」ものだとしても同様な判断をしたでしょう。 問題は、その内容を考えずに機械的に、ということが、支配に当たるということです。自分が禁じたつもりはない、などは無意味です。 これは内容の妥当性に関係なく、例えば、あるタレントの子どもの名前は○○だと加筆しようとする人がいて、たとえ、その名前が事実であろうがなかろうが、著名活動していない人の名前は載せてはならないというウィキペディアの方針により、それは禁じられていると述べることと同様なことだと御理解下さい。
>まだ、原則として議論し続けますか? それとも、続けないが、解決するかもしれないからちょっとだけ続けてみているのですか? 原則論は過去の事例とは切り離しているので、白石の事例をほんとに詳しくやりたいなら、原則論を終了する必要があります 
如月の弥さんの白石論文に対する指摘が「独自研究」に該当するのかどうか、他の方針からもどう捉えるべきかをよく吟味しなければならないと思います。 ならば、機械的に削除して正しいということは、撤回とすることのはず。 これは白石氏の論文をどう扱うかという問題だけに限らず、ウィキペディア自体が特定の見解などについて、論じたり、解説することの是非の問題なので、きちんとした議論を残すことは大切だと思います。原則論を優先すべきと思いますが、如月の弥さんの論証の具体的記述も明確にしていただかないと、判断しにくい部分もあります。
>白石の件で何が正しかったかということと、原則についてとは別にしてください。 それとも、こういう設定自体が違うというなら、そういうことを明確にしてください。
この節はウィキペディアの方針について再確認するために設けました。「白石論文」をどう扱うかは別の節を作りましょう。そこではまず、如月の弥さんの「白石論文」に対する指摘を書いて頂き、それが「事実の指摘に等しい論証」であるか否かを検討することから始めましょう。
>「(a)根拠が明確なら論証自体は借り物である必要はない」。(記述は根拠との関係があいまいだが、論証は関係が明確だからでしょう)
この「Wikipedia:独自研究は載せない」の方針は翻訳のせかい、原文自体がそうなのか、非常にわかりづらい表現になっているように思います。 ならば、機械的に行動することはルールとできませんね。 「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」という文章からすれば、”解釈も論証もその妥当性に関係なく、信頼できる媒体に載っていないものはウィキペディアに書けない”と言っているようにもとれてしまいます。そして、書いていけないものについては多くを語っていますが、書いてよいものの方は今一つ明確でないように思います。
>論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。 これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。 ということだと推測できます。
論証は必ずしも関係が明確とはいい切れず、その場合は議論の対象になる、と言っているのですよ。 そこには常に主観や誤謬が入り込む余地があります。本人は事実の指摘であると確信していても、他者から見れば問題が見えることもあり、「Wikipedia:独自研究は載せない」のノートを見てもわかるとおり、非常に難しい問題だと思います。以前に慰安婦の募集や慰安所の管理に政府が関わっていたことを公式に認めた加藤官房長談話について、「過去の政府答弁が嘘であったことを認めた」という内容の記述がなされ、それに私が異を唱えました。それはまったく間違いというわけではなく、ニアリーイコール(≒)であるとは言えても、イコールとはできない、「灰色」を「黒である」と書いてはいけない。百科事典であるウィキペディアにおいては、「灰色」はやはり「灰色である」と書くべきだと述べました[3]。今回の問題は「独自研究」だけでなく、「中立的な観点」からの問題も大きいと思います。
>元々、現在の脚註にあるような『単なる事実の指摘』 表現に過ぎません。もっとより具体的でしたが。 その「指摘部分を省略すること」 が、不公正だと言っているのです。 とにかく、原則論の形はそうです。
それらの履歴が削除されてしまったので、はっきりしたことは言えないのですが、ミッチーナ報告書の内容が加筆され、その資料の信憑性に疑問を示す白石氏の見解が加筆され、そこに白石氏が用いた資料が原資料とは違うこと、資料の読み方がおかしいというよういな解説が加筆されたように思います。あらゆる観点を公平に扱い、特定の観点に立たないことを要請している「中立的な観点」からして、ウィキペディア自身が、特定の見解の内容を否定することは、問題があると感じて削除したかもわかりません。そして、現在のような「尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。 」などの単なる事実の指摘の部分のみなら大きな問題はないと考え、註の方に移動したのではなかったかと思います。私は如月の弥さんが「不公正だ」と言われるお気持ちはわからないわけではありません。しかし、事実の指摘だからといって、特定の見解に対して、ウィキペディア自身が評価したり、否定したりすることを認めてしまったら、 それ以前に白石の掲載の根拠を認定できないはず。それとのバランスで不公正だということ  それぞれの見解にそれそれの思惑でさまざまな解説が加筆されることになり、そうしたらそれで本当に「中立的な観点」に基いた記事になるかという大きな懸念があります。「慰安婦の定義の思案」で火の鳥さんが言われたように、産経新聞の古森氏が慰安婦がきちんとした契約の下で雇用されていたことを述べた記事でミッチーナ関連の文書を引用しているが「偽りの説明で集められたとか、慰安婦の生活が困窮していたとか、契約の原文にある「forced」などは意図的に避けていた」などという解説もOKということになり、単なる事実の指摘であっても、”編集者が好む立場を支持するような示唆につながる記述”がいくらでもゆるされることになるのはウィキペディアにとっていいことなのか?という疑問があります。
>『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判のいい資料を提示することなく加筆する。』  → この命題を変形すると、 「評判のいい資料に基づく「論証」は、何かの立場を支持したり反対しても、それだけでは禁止されない。」 
一見そのように読めるように思いますが、 なら、機械的に削除することをルールだとは言えないはず  「独自研究は載せない」の方針は「信頼できる情報源」に依拠しているかいないかということに重点を置いて述べているのだと思います。「ウィキペディアの三大方針は「ほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。」、「個別に解釈されるべきではない」とされています。ですから、例え「独自研究ではない」ということになっても、それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、他の方針を含め総合的に判断すべきと思います。 もともと議論の上で決めることだと求めていたのはこちらです。  そして、「中立的観点」の方針「、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」と述べていることを考えれば、やはり、何かの立場を支持したり反対する論証はそれが事実であるか否かに関わらず、ウィキペディアの方針からはふさわしくないのではと思います。 あなたの個人的な方針としか明白ではないから、それは議論の中で主張すること。  「両論併記(各論併記)」してあっても、特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら、実質的には「両論併記(各論併記)」にならないことはわかっていただけると思います。 根本的に資料と会わないと指摘することを、内容に依らず 「評価」 だというのは、言葉のすり替えです。 
>白石の文がすでに出てしまった後で、それについて、「資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」 こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なうということです。
Wikipedia:検証可能性」の方針には「『検証可能性』とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査を”しない”よう強く求められます。」、「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあります。  前のつながりを省略していますよ。『記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記すべきです。  この文脈における「検証可能性」とは、』 。つまり、自分で記事を実地検証しても、他の編集者には判断できないという意味です。 それ以外の意味はありません。「この文脈における」 という条件が付いているので。 白石の事例は、まったく違うでしょう。
また、「中立的な観点」の方針には情報の客観性について述べているところがあります。「”客観性”についての主張はこのポリシーには含まれていません。特に、このポリシーは”客観性”なるものがある。そしてその観点から書かれた記事は”客観的”に真である、 という主張すらもしていません。このポリシーはそういうものではないし、われわれの目的もそういうものではないのです! 」とあり、客観性のある記事を書かなければならないというのがこの方針に対するよくある誤解だとしています。ただ、「人々が何を信じているか」は正に客観的な事実であると理由から、「ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書く」ことをウィキペディアの百科事典としての記述スタイルにしているように思います。今回の問題とある意味似ていると思うのですが、「疑似科学と科学を対等に扱うのか」とういう節においては、とても信じるに値しない疑似科学の見解を載せる「中立的な観点」の代わりに「科学的な観点」が採用されるべきという考える人々がいるが、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだという「中立的な観点」の方針によって、結果的にそれらの人々の要請に応えられると説明しているように思います。「読者に自自由に考えさせ、知的な独立性を支持する」ということが「中立的な観点」の方針の目的だとされていることからしても、ウィキペディアは(その見解や情報が事実であるかないかなどという)個別の”情報の客観性”にポイントを置いていないように思います。 平面地球説を載せるのは、それなりに頑固に信じる人々がいるという現実があるはず。だれかが地球は三角だとHPに書いたら、それをあなたは、そのまま載せることを機械的に前提にして、それがルールだはできないはず。
>白石の文が致命的に根拠に欠けるということは、つまり、白石を取り上げる価値が疑わしいということです。(中略) これを、機械的に、「載せるべき」 とする根拠はありません。 批判をちゃんと読めば、それを無視できなくなるはずです。
これについては如月の弥さんの論証を見てから答えるべきだと思います。  ダメです。原則の問題です。その答えならば、「確かに機械的に無視するのが間違っていました。」 という意味だと認めてもらわないといけません。
> このことは、非難や主張で書いていると考えず、原則についての別件だとしてください
承知しました。
>ウィキペディアでは、初心者向けに「大胆に編集してください」 とあります。 始めに書き込むときには、いちいちノートで相談してくれ等とは言えません。
そして、他人の書き込みをあまり削除するべきではない、と個人的に思う。 だから削除せずに、私もバランスを考えてその行き過ぎを抑えるような書き込みをすることが多い。
私も基本的にはそうしようと思っています。自分がそれなりの時間をかけて、調べたり考えた上で加筆した文章を簡単に削除されるときの気持ちはよくわかります。
>ところが、その書き込みを禁止して、正体不明(明白に無根拠だと批判されている)の書き込みをとりあえず放置することはルールだとする。 
 これは、あなただけの解釈であり、ルールの当然の範囲ではありません。 
今回のようなケースにおいて、ルールの解釈は難しいところがあると思います。ただ、私の現在の考えでは  難しくて、「個人の現在の考え」でしかないならば、ルールだとすべきではありません。撤回したと受け取りたいところです。 白石論文に対する個人的な指摘を書くことには疑問があります。それから白石氏の見解を載せるべきと思っているわけではありませんが、現在のところ方針上、積極的に削除するだけの理由を見出していない結果、如月の弥さんにとっては不公正だとわれるようなことに結果としてなってしまっているだけであることを御理解下さい。「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあるように、見解の真偽自体で載せるか載せないかは決めないこと自体は明確にされています。そうでないと、様々な観点を記載できませんから・・・
しかし、方針と個人的な信念の間に葛藤が生じる難しい問題ですから、更なる議論を深める必要はあると思います。
>‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。 最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。 片方に無根拠に優先権を与える根拠はありません。 あなたの編集行動も、まず、批判の内容を確認して、掲載の最低限の価値を確認すべきであり、機械的に批判を削除して、「これはルールだ」 というのがウィキペディア編集ではないはずです。
最終的に議論になる可能性が高ければ、まずノートで議論することで、自身の問題点に気づくかもしれませんし、方針上、問題のない形に修正できるかもしれないというメリットはある一方、かえって納得できない反対を受け書きにくくなるというデメリットもあるかもしれません。しかし議論せずに編集合戦になるよりはいいのではと思います。本来は疑問に思う編集をすぐに削除せず、議論を行なれば一番よいとは思いますが、方針上大変問題があるからすぐに削除すべきと思う内容 私が問題とするのは、内容によらず削除することがルールなのかと、いうことなのです。 と、疑問に思う編集だが、削除よりはまず編集の意図を聞こうという内容があると思います。論争のあるトピックではやはり「中立的な観点」を守るということが何より大事だと思っていた中で、いろんな人によってしばしば明らかに「中立的な観点」に反する編集がなされ、記事を守らないとという思いが強かったのだと思います。「如月の弥さんのその時の加筆もやはりその時の私にとっては指摘の事実か否かに関係なく、記事全体の中でウィキペディアの立場で特定の見解に対する批判を書くというのは大変違和感のある記述に思え、「中立的な観点」にとって”問題だ”と感じたのではなかったかと思います。そのときどういう議論をしたのかはよく覚えておりません。 私の記憶では、中立的印象が最重要だ、という意見があったと思います。それは間違いと思うが、許容しておきました。ただ、ルールとして正しく通用したと思われると困ります。あくまで私の妥協によってそうなったにすぎません。 。私は削除するときはノートに書くか、最低要約欄に理由は書きますが、削除された方はそれでも、わかってくれるとは限らないし、気分はよくないですね。如月の弥さんに納得していただけるような説明はできていなかったのかもしれません。その点はお許し下さい。謝られるようなことではありません。人によって思想の違いがあるのは、(中立という思想) わかっています。説明の問題でもないし、後になってルールとして通用しているような書かれ方もまた生じうることです。 ただ私は訂正せねばならないだけです。  --モトカル 2007年6月22日 (金) 12:12 (UTC)

 混乱しているように見えます。
 失礼な方法の気もしますが、らちが開かないので、あなたの文に青文字で割り込みで挿入しました。
 内容は、以下の方が詳しいのですが、それでは、流れがつかめないかと思って。
 くどくて、かえって混乱するかとも思いますが、どうも通じそうな書き方がわからず、これでだめなら、次からはぐっと簡略にします。

  ―――要点――――
<もともとの会話の目的。原則>
 もともと6月13日の書き込みで、
『今週語られた「基準の立て方」そのものがまず問題です。
そういう言葉がノートに書かれると、他の編集者・希望者が、「これが方針として通用している」などと、思ってしまいます。 モトカル氏には予想外のはずですが、ウィキペデイア全体で悪用が可能です。』
 と書いています。 今までにもずっと、「機械的に」 ということを書いているはず。 
 問題にしている原則論は、あなたが、 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 ということでもあります。 
 
 以前に、主張し続けないと返事をもらっていますがどうも判然としません。
 だから、私の下線を付けた「原則の形」 への回答の形で返して欲しいと求めているのですが。 
  <今回の要点>
 今回のことについては、また、奇妙です。
 独自研究の禁止だということだったはずですが、今回は中立の問題だとなっています。 だとしたら、内容を確認してから判断するべきことのはず。 内容確認抜きに、一方を掲載し一方を削除しておいて、それをルールだと主張して、内容の議論抜きのまま、それが中立だ、と結論すること はできるのでしょうか? それとも、内容の確認と議論は必要だと認めたことになるのでしょうか?

    以上が今回の要点。 以下、だいたい後から、原則論の視点から詳述していきます。
 
   ―――詳述―――― 
<なぜ、無条件で載せるのか>
 白石の掲載資格についても、求めた原則文への形の答えになっていなくて、結局は不明です。
 『これについては如月の弥さんの論証を見てから答えるべきだと思います。』  ←だめです。 「そのように読めるかどうかでなく、そのように読めるかどうかをまず考えて判断する、という姿勢が必要だ」  と原則の確認を問うているのです。
 
  <独自研究>
 >『、「中立的な観点」の方針には情報の客観性について述べているところがあります』
 よく文意を理解しているとはとても思えません。 中立的だと思うことと、客観的だと思うこととは別のアプローチである、ということが書かれてあるわけで、中立の姿勢=客観の姿勢、ではないということ。 別々に独立して扱うことがかえって客観の道である、ということで、中立的印象操作のために、論理的な証明を機械的に排除しろ、ということではありません。
 
 >『、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査を”しない”よう強く求められます。」、「直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」』
 萎縮した人の言い訳パターンを信じ込んでるかのようです。 一般に、新聞記事の中身が真実かどうかを自分で実地調査をしてウィキ記事にするのは、正しいことのようですが、これでは他の者が確認できません。 それを禁じているわけです。 しかも実際、その直前にはそのことが書かれているでしょう。 『記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記すべきです。  この文脈における「検証可能性」とは、』 とあり、私の解釈通りです。「この文脈における」 とあるので、それ以外の意味は発生しません
 つまり、白石の事例のように、公開されている資料に基づいていて、その資料に確実に反していると言う指摘は、これとは全く違います。 
 私に言わせれば、難しい文なのではなく、難しく歪めたがる連中の活動で感覚を狂わされているだけだと思います。

 >『それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、他の方針を含め総合的に判断すべきと思います。』
 総合的では判断が属人的になります。 中立については、内容を含んで考える必要があります。 私の主張は、‘それは議論でやればいいことで、議論に入る以前の行動として、排除され、かつ後でも形式的に排除を決定されるいわれはない’、という原則を語っているのです。
 
   <三方針。とくに中立>
 あなたの文章は、こうですね。
 『(a)一見そのように読めるように思いますが、・・・述べているのだと思います。 ・・とされています。ですから、例え「独自研究ではない」ということになっても、それだけで直ちに載せてよいとされるわけではなく、・・・総合的に判断すべきと思います。
 (b)そして、「中立的観点」の方針・・・を考えれば、・・・論証はそれが事実であるか否かに関わらず、ウィキペディアの方針からはふさわしくないのではと思います。
 (c)・・・特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら、実質的には「両論併記(各論併記)」にならないことはわかっていただけると思います。 』
 
   (a-1)‘機械的に’削除せずに、総合的に判断するための内容の‘議論’の手続きが必要だと、私の方が書いていたのです。 『一見そのように読めるように思いますが・・・総合的に判断すべきと思います』 というのでは、立場が逆のようですよ。 総合的判断するなら、議論抜きに機械的に正当化できませんし。
 (b-1)これは、属人的判断になりそうですね。
 (c-1)『特定の見解にウィキペディア自身が否定的評価を書いたら』 ――そういう形での原則論をしてはいないのです。 資料と違うという指摘=「評価」と分類するのは、すり変わってますよ。 
 
   (a-c-1)あなたの文章からは、 「否定的な印象を与えるものは、たとえ明白な致命的事実であっても、中立的‘総合的’印象を作り出すためなら、読者に知らせるべきでない」 という別の基準を作っているように、読めますが、――その基準が正しいと明言できるでしょうか。 
 これは、単に参考までに書いただけで、問題はそれとは別であり、 内容抜きに掲載・削除し、内容抜きにルールとして削除を決定できるか、ということだったのです。 この点で、私への回答になりません。
 
   (a-c-2)さらにまた、答えがないもう一つの原則の半分、<なぜ無条件に載せるのか> が無視されているため(返事になっているとは思えず)、ダブルスタンダードです。 中立というなら、<なぜ無条件に載せるのか> とセットで扱われないといけません。 半分づつに分けていたのは、「独自研究」という問題があったからです。

--如月の弥 2007年6月23日 (土) 14:10 (UTC)

[編集] 第四周期

>あなたの文に青文字で割り込みで挿入しました。・・・・これでだめなら、次からはぐっと簡略に やはりちょっと見づらいですね。

><なぜ、無条件で載せるのか>
>白石の掲載資格についても、求めた原則文への形の答えになっていなくて、結局は不明です。

まず、最初に、お互いの議論の中で気づかずにすれ違っていたことがありました。議論の中で、私は「白石氏の見解を載せるべきと思っているわけではありませんが、現在のところ方針上、積極的に削除するだけの理由を見出していない」と述べましたが、「著名活動をしてない一般のブログ主の見解は、「評判のいい資料」に掲載されていないという理由ウィキペディアには載せられない」という方針に言及していました。しかし、如月の弥さんも、この方針によって、白石論文を載せるべきでないという主張はされなかったため、見過ごしてしまっていましたが、結局、京都大学大学院の教授である永井和氏のサイトに白石秀人氏の論文が載っているのですが、この白石氏自体は著書を出版したり、メデイアに出たり、講演活動をしているとか、特に著名活動をしていると言えるようではなく、単なる大学院生なのか、どういう立場なのかが明確でないと思います。京大教授が自身のサイトに載せていることで、その見解に“お墨付き”を与えているということも言えるでしょうが、あくまで、永井教授の見解ではなく、著名活動をしていない人物の見解であるということから、これを「一般のブログ主の見解」と見ることで、「Wikipedia:検証可能性」にある「個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。」という方針に基き、掲載を見合わせることも一つの選択肢として挙げておきます。もし、このことで異論がなく合意がなされれば、取り合えず実際の問題となっている白石論文自体の扱いの問題は終わると思います。先回の議論に対する解答もある程度書いたのですが、基本的には双方とも同じ議論が繰り返されている面もあり、もし、白石論文を削除することになれば省ける議論もあるので、まず白石論文自体の扱いを決めるのも一つの方法かと思います。その後でこれまでの方針の解釈についての議論は継続してもかまいませんが、保護の解除につながる両論併記や冒頭文の修正などの問題にもできるだけ早く取りかかるのもいいかと思います。もし、進め方に異議がありましたらご意見下さい。--モトカル 2007年6月24日 (日) 08:49 (UTC)

 そう、そういうように 「考えるのが先で、ルールを機械的に振り回すのは後だということです。」 白石に資格があるということを主張されるのでもいいのですが、そういう答えも無く沈黙で、そのためにそれ以前に当然の前提にしてしまっている形であり、議論を封じると取れるのが問題だということです。
 私は白石のHPアドレスを確認していなかったので、まさか永井和氏のゼミのアドレスを使っているとまでは思わなかったが、まあ、アップロードはこっそりともできます。許可を得ている根拠もない。許可といってもゼミとして好きに使わせているだけかも知れない。(永井氏自身の論文にも、先に結論ありきの論理があるので、批判されなければ放置とも取れますが。) 内容承認があるとは認められません。
 ただ私は、白石の部分は例に過ぎず、原則の形をどう主張されるのか確認しているのです。原則を主張しないのなら、それだけで終了できます。--如月の弥 2007年6月24日 (日) 12:55 (UTC)
  •  基本をかんたんにまとめ直してみました。
 モトカルさんの文は、今まで、「自分はこう考えた、これを説明している」 という一面が強いようですが、それは問題ではありません。 私は、「どこかで誰かが基準を悪く転用しそうな可能性」 を焦点としています。 
 悪用には二方法考えられ、どちらもよく見ます。
 一つは、 内容抜きに、片方を掲載し片方を削除すると言い張る方法、
 一つは、 議論の前にどういう形で本文を止めておくかについて、「これがルールの基本だ」 として、片方を掲載し片方を削除する形にして、そのあと合意形成を止めてしまうこと。
 (今までの所、前者については言い張らないという返事が確定的していると言えますが、後者が不明瞭です。)
 今までに、下線付きの原則文は、後者を強く考慮して、文を考えています。
 なので、書いてある「原則文の形」 が重要であり、文の形に沿って、直接対応する文型で返事をしてもらって、現在の意志を確認したいということです。 

--如月の弥 2007年6月26日 (火) 04:01 (UTC)

[編集] 第五周期

如月の弥さんは基準(方針)を悪用される可能性を問題にしておられるということですね。
>内容抜きに、片方を掲載し片方を削除すると言い張る方法、(今までの所、前者については言い張らないという返事が確定的していると言えますが・・・)
>問題は、その内容を考えずに機械的に、ということが、支配に当たるということです。自分が禁じたつもりはない、などは無意味です。
>「考えるのが先で、ルールを機械的に振り回すのは後だということです。」 
“内容の議論抜きで”、“機械的に”という言葉は、“他の利用者が書こうとする内容を検討することなしに”ということかと思います。「特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で「意見」を書いたり、「事実の指摘」であっても、特定の見解を示唆する記述をすることは、その指摘が正しいか否かということに関わらず”、「中立的な観点」に反する“と判断したということです。それは“内容を考えない”のではなく、“内容が事実であるか否かに関係なく方針上問題がある”という判断をしたということです。(白石論文についての如月の弥さんの記述に関しては、(正確には覚えていませんが)すべて削除したのではなく、意見表明に当たる部分を削除し、現在のように単なる事実の指摘部分を残したように思います。
><なぜ無条件に載せるのか> が無視されているため(返事になっているとは思えず)、ダブルスタンダードです。 中立というなら、<なぜ無条件に載せるのか> とセットで扱われないといけません。
特定の意見に対して、“ウィキペディアの立場で”「事実の指摘」または「個人的解釈」を書くことは方針上問題になるのでは?という判断が一つ。もう一つは特定の見解について、方針からして当然削除すべきだというような積極的理由は見当たらない(ただ先回、削除すべき理由とみなせる可能性を提示しました)という判断。この二つの判断は直接関連しておらず、別ものです。結果的に如月の弥さんとっては、“片方のみを削除し片方のみを残すのは不公平だ”と感じることになってしまったということです。しかし、「百科事典」にまつまる既成概念からか、意外と認識されていないのではと思うことは「ウィキペディアは何が正しいのか何が間違いなのかを追及するものではないということです。「論争に参加するのではなく、論争を描写する」とあるように、あくまで、人が何を真実と思っているかを忠実に描いてみせるものであって、ある見解を載せるということは、それが真実だというスタンスで載せるのではなく、あくまでいくつかの見解の中の一つとして載せるということです。もし、それを事実だとして載せるとしたら、それが事実でないという意見を検討しないで、載せることは当然不公平と言えるでしょうが、実際はそうではないということをよく御理解下さい。
「特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」というのがウィキペディアのいう「中立」だと思います。そのようなことからすると、“ウィキペディアの立場で”、特定の見解にだけ、その正当性や信憑性を下げる記述を加えることの方がある意味、不公平であり、中立的でないということにはならないでしょうか? 先回述べた古森氏の記事に対する指摘のように、どの見解にも調べれば、客観的な観点からいろんな問題点を指摘できることはあるでしょうから・・・
正にその当時、いろんなテーマについて、慰安婦制度の擁護派、否定派のそれぞれの見解が次々に加筆され、両論(各論)併記という状態の中で、“ウィキペディアの立場で”特定の見解にだけ否定的記述がなされことに対して、私は大きな違和感を覚えました。それは例えて言えば、論争を中立的立場でレポートするべきキャスターが突然、一方の側に有利な発言をしたというような違和感でした。
>根本的に資料と会わないと指摘することを、内容に依らず「評価」だというのは、言葉のすり替えです。
>『資料と違うという指摘=「評価」と分類するのは、すり変わってますよ。 
Wikipedia:中立的な観点」は「ある記事が、意見ではなく“事実”を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合」を「対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持している」という失敗例だと説明しています。つまり、事実であっても特定の立場を示唆することは「中立的な観点」の方針からは失敗だということです。根本的に資料と会わないとの記述が事実の指摘だとしても、結果としてその見解について否定的“評価”をしていることの示唆になるでしょうし、「捏造だ」とか「信憑性がない」というような表現まで加えれば明確に「否定的評価」になるでしょう。
>そのように読めるかどうかをまず考えて判断する、という姿勢が必要だ」と原則の確認を問うているのです
先に述べたように、白石論文についての指摘についてはそう読めたので修正したということです。これから書くという場合には、その記述を正確に示してもらうことは必要だと思います。
>あなたの文章からは、 「否定的な印象を与えるものは、たとえ明白な致命的事実であっても、中立的‘総合的’印象を作り出すためなら、読者に知らせるべきでない」 という別の基準を作っているように、読めますが、――その基準が正しいと明言できるでしょうか。 
そんなに極端に捉えないで下さい。否定的な指摘が公にあるなら書いてよいのですから・・・それに、そもそもウィキペディアは個々の見解について、ウィキペディア自身が解説や注釈することを要請はしていません。むしろ方針において強く要請しているのは、「様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべき」ということです。「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。」とあるように、ウィキペディア自身が述べるのではなく、言わば誰かの口を借りることが本来の姿なのだと思います。
ですから、「中立的‘総合的’印象を作り出すため」ではなく、特定の立場を支持すること、支持するような示唆もしないことが“中立的”であるとされているのだとと思います。そして、「明白な致命的事実を読者に知らせるべきでない」 などと言うつもりはありません。そのような指摘が公にあるなら書くことがフェアであるとされています。白石論文に対する反駁が出典をもって書ければ何ら問題はなかったのですが、それがないために、ウィキペディアの立場で書くというところに「中立的な観点」という方針に対する微妙な問題が出てくるのだと思います。「もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。」ということさえ推奨されていることを思えば、事実の記述ではあったとしても、特定の見解の正当性を否定したり、信憑性を落とす記述を認めてしまうのは問題がないのかということです。私はそれはルール違反だと頑なに主張するつもりだというのではなくて、見解については、事実の指摘であろうともその内容を左右することはウィキペディアの立場では書かないのがやはり望ましいと思います。実際、「中立的な観点」には「ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。」とあり、このような意味とは「実際に物事がどうであるかは関係なく、人々が何を信じているか」という意味の事実です。また、「哲学者がある議論を立てる時には、対立する意見を過小評価して、それを反駁するだけに終始している、という批判を逃れるために、事実上まず対立する意見をフェアに紹介する相対主義というものが「中立的な観点」という方針が完全に一致するとさえ述べています。
>「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 
それから如月の弥さんは「悪用」を心配されておられるようですが、再三述べているように、事実であれば内容に関係なく(「中立的な観点」への影響を考慮することなしに)、特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で指摘してもよいことになったら、それぞれの見解に自分の意図する方向に読者を誘導しようとする記述がなされ、かたちとしては両論(各論)併記されていても、それが有名無実化してしまうことの方がはるかに問題は大きいと思います。なぜなら、特定の見解に対して、ウィキペディアの立場で「意見」なり、「事実の指摘」を書くことはできないとしたとしても、その見解に対する批判や反駁が公になされていれば、それを載せることは方針により、禁じることはできないはずであり、むしろウィキペディアは実際に存在する反論を載せることがフェアだと推奨しているからです。このことについてどうお考えになるかは未だ示していただいていません。
>そういう言葉がノートに書かれると、他の編集者・希望者が、「これが方針として通用している」などと、思ってしまいます。 モトカル氏には予想外のはずですが、ウィキペデイア全体で悪用が可能です。』と書いています。 
如月の弥さん自身が“議論の余地のない「事実の指摘」なら特定の見解に対し、出典なしに書ける”とノートで書くことも同様に、自分の反対する見解に「事実の指摘」だとして、否定的な示唆になる記述をするという悪用をゆるす可能性もあるのではないでしょうか?私はそれが「論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」という「中立的な観点」の方針を有名無実にしてしまう可能性の方を憂慮しています。
>私の記憶では、中立的印象が最重要だ、という意見があったと思います。それは間違いと思うが、許容しておきました。ただ、ルールとして正しく通用したと思われると困ります。あくまで私の妥協によってそうなったにすぎません
>難しくて、「個人の現在の考え」でしかないならば、ルールだとすべきではありません。撤回したと受け取りたいところです。
>ならば、機械的に削除して正しいということは、撤回とすることのはず。
>説明の問題でもないし、後になってルールとして通用しているような書かれ方もまた生じうることです。 ただ私は訂正せねばならないだけです。
>内容確認抜きに、一方を掲載し一方を削除しておいて、それをルールだと主張して、内容の議論抜きのまま、それが中立だ、と結論すること はできるのでしょうか? それとも、内容の確認と議論は必要だと認めたことになるのでしょうか?
>議論に入る以前の行動として、排除され、かつ後でも形式的に排除を決定されるいわれはない’、という原則を語っているのです。
ウィキペディアにはスポーツや裁判のように最終判断を下す権威者はいないので、何を載せないべきかについて考えが対立したときには、利用者間の合意(妥協)による解決しかありません。実際、これが絶対正しい解釈だということはできない微妙な問題もありますし、私は方針上、疑義があると言い得るだけで、絶対正しい解釈だというつもりはありません。
また、如月の弥さんが「‘とりあえず’、議論ぬきに書いてみてもよいということは、どちらにも成立します。最終的に議論が必要だということもどちらも同じです。」と言われましたが、反対に、要約欄やノートに理由を書いた上で、‘とりあえず’、議論ぬきに削除(修正)して、異議があるなら最終的に議論する」ということもウィキペディアでは禁じられてはいないということも言えると思います。
>議論の前にどういう形で本文を止めておくかについて、「これがルールの基本だ」 として、片方を掲載し片方を削除する形にして、そのあと合意形成を止めてしまうこと。
どういう編集をするかは方針に沿う限りは自由だと思いますし、(議論による)合意形成を止めるつもりはありません。ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありませんし、異議があれば先でも後でも今回のように率直に議論し合うことが大切だと思います。結局、双方とも方針に対する理解に相違点があるだけであって、“支配する”つもりなどはないので、そういう見方をなさらないで下さい。反対の立場からも同じような見方はできるのですから・・・もちろん、私はそのような見方はしません。どちらも記事をよりよいものにしようと思っていることには違いはないと思います。まして、私と如月の弥さんは慰安婦問題に対して反対の側にいるのではないことはおわかりだと思いますから・・・お互いに力点を置いているところが違うということではないかと思います。
如月の弥さんが以前に編集について、「揺れた経過があとあとの蓄積として残るとも思っている」と語られたのと同様に、方針についても、意見を述べ合うことでお互いの見解の主観的部分、極端な部分などが是正されて行くということも有意義なことだと思います。

--モトカル 2007年7月1日 (日) 02:27 (UTC)

 モトカルさん。丁寧に見返してもらったようで、その点はありがとうございます。
 しかし、あなたが過去に何をどう判断したのかは、書いてもらってもしかたなく、それに合わせた形の説明は、私への回答になりません。 今、私の提出した原則の文型に合わせた形での回答を求めているのです。
 
 今回あなたが書かれたことは、原則論の言葉ではなく、原則の簡単なことばを語ってすぐに過去の事例の応用に結びつけて、それで反論にしている。まったく、関係ありません。私が、整った議論のために後回しに沈黙していることをごっちゃにして主張に使われても、私には回答にならないし、また、私がそれについて後で書こうと思うことと、ポイントがずれてもいます。
 あなたが書くたびに、要点列挙風に整理したまとまりが無視され、原則が事例とごっちゃにされ、原則の一つ一つが浅くなって議論が前にもどってしまい、全体の組み立てが今までの議論の蓄積を無視してあなたの始めのあいまいな言葉に先祖返りします。
 具体的に何があいまいになったかをここで書くと、またそれが次に、箇条書き的でないあいまいな書き方の元になると思うので、書きません。そのことを書かれても今は返事しません。 
 私の求めている原則の文型に合わせた形でできないのなら、  最低限箇条書き的、あるいは、論点にナンバーを付けるようにしてください。 できたら、私の以下に付けたナンバーの延長がいいですが、あなた自身のナンバーでも、その分け方の形を継続していけるなら何でもかまいません。
 
 さらに念のため。私がこれらを原則として定着せよと主張しているのでなく、「これらの中立に反することをルールだと主張されては困る」 ということで、その 確認 が問題です。 それを逆にとらえていませんか。
 改めて書きます。
(A)「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」
  言い換えると
(A') 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 
  あるいは、
(B-1)(前半) 資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なう
(B-2)(後半) ある意見への批判の書き込みがあるとき、その批判内容によっては、もともとの意見の掲載基準の適用判断に疑いが出るので、その内容を判断せずに機械的に、元の意見の掲載を一時的にしろルールの名で保護することは、編集基準では無いか、中立に反する。

--如月の弥 2007年7月1日 (日) 07:33 (UTC)

[編集] 第六周期

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>あなたが過去に何をどう判断したのかは、書いてもらってもしかたなく、・・・

白石論文を掲載するか否かについては、「一般のブログ主の見解」と見ることで掲載しないという判断に代わりましたが、その他の判断は過去の判断だけでなく、現在も基本的な判断は概ね変わっておりません。

>今回あなたが書かれたことは、原則論の言葉ではなく、原則の簡単なことばを語ってすぐに過去の事例の応用に結びつけて、それで反論にしている。

過去の事例だけを説明しているのではなく、方針から解釈できることに沿って説明しています。

>具体的に何があいまいになったかをここで書くと、またそれが次に、箇条書き的でないあいまいな書き方の元になると思うので、書きません。そのことを書かれても今は返事しません。 

如月の弥さん、ご自身の質問に対する納得できる解答を求めるだけでなく、私が悪用されることや「中立的な観点」の方針との兼ね合いで問題視していることについては、応えていただかないと、如月の弥さんの方針に対する理解が明らかにならないので議論が進みません。

>私がこれらを原則として定着せよと主張しているのでなく、「これらの中立に反することをルールだと主張されては困る」 ということで、その 確認 が問題です。 それを逆にとらえていませんか。

私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していないことは再三述べているのに、如月の弥さんが「ルールだと主張されては困る」との懸念を示されるので、それならば如月の弥さん自身の解釈も同じように「ルールである」と捉えられることになる可能性はあるということを述べたままです。これでお互いに自身の解釈を絶対視しないということが明確になりました。

>(A)「Aという人物の意見が紹介され、それに対して、根本的に無根拠なのが明らかとする編集者Bがいる。(Aの根拠を確認せず、有名な議論としての紹介でもなしに、編集者の独自研究の禁止と称して)「Aの意見内容を掲載してBの指摘の‘無根拠という内容’を掲載しない」という編集は、「中立×客観性」という基準に反する。」

何度も述べているように、'ウィキペディアは個別の見解自体に根拠があるとかないとかという客観性は求めておらず、何が客観的な事実かの判断は難しいが、「人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができる」として、「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」ということを要請しているのだと思います。

(A') 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 

これについても、ちゃんと述べています。白石論文についてウィキペディアの立場で説明した内容が事実か否かに関わらず、その見解の正当性、信憑性を左右しているため、「中立的な観点」に基く記述を損なうと判断したということです。原則論としては、議論の前に内容をまず検討するべきでしょう。方針上、削除または修正するべきか明確でないときはノート問題提起すべきでしょうし、明らかに方針に反すると判断すれば理由は要約欄かノートに示し、先に削除または修正することもあるでしょう。ですから、原則論としては先に議論するか否かは別に、内容は当然検討すべきと思います。

>(B-1)(前半) 資料を知らない人のために、矛盾しているという事実の部分を示しておく」こと(=明白な論理)は、原則的に議論無く‘取りかかれる’行為であり、それを独自研究だとして禁じることは不公平であり、かつ情報の客観性を損なう

ウィキペディアの編集は先に議論しなければならないということは決められていないのは当然です。その編集に異議があれば、議論をすればいいことは既に述べています。ただ、「事実の指摘」と本人は思ってもそうではないことは、「加藤談話」は政府が嘘を認めたことだという記述を問題だとした例を見てもわかるように、しっかりした検討が必要です。しかし、議論の余地のない事実の指摘であるから「独自研究」には当たらないとしても、「事実であっても特定の立場を示唆することは「中立的な観点」の方針上失敗である」とされていることは先回も述べました。私はこのことが悪用、または両論(各論)併記していても「中立的な観点」に立たない記事になることを懸念しています。

>(B-2)(後半) ある意見への批判の書き込みがあるとき、その批判内容によっては、もともとの意見の掲載基準の適用判断に疑いが出るので、その内容を判断せずに機械的に、元の意見の掲載を一時的にしろルールの名で保護することは、編集基準では無いか、中立に反する。

その見解の内容に対する批判は掲載基準に直接関係ないと思うことは再三述べています。「Wikipedia:検証可能性」にも「記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」と明確に書かれています。ある見解を載せるということは、それが真実だというスタンスで載せるのではなく、あくまでいくつかの見解の中の一つとして載せるのですから・・・ですから、ある意見への批判というものが内容ではなく、「検証可能でない」というなら検討する必要があります。ですから、白石論文については内容はさておき、「検証可能性」の方針で適切な情報源としては認められないとされている「個人のウェブサイトやブログ」に当たると判断して掲載を見合わせたらと提案しました。これらすべて再三お答えしているものばかりです。

ウィキペディアの方針について私は以下のように解釈しますが、以下の二つの解釈について如月の弥さんのお考えを明確にしていただきたいと思います。その解答がなされないと議論が双方向にならず、堂々めぐりになってしまうのでよろしくお願いします。

(A)ある見解に対する掲載基準は「検証可能かどうか」であって、その見解に根拠があるかないかは関係ない

(B)事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないが「中立的な観点」に反する記述というものがあり得る。 --モトカル 2007年7月1日 (日) 09:45 (UTC)


 事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけですが、それは今回の書き込みでは捨て置きます。他の混乱だと思うことも切り捨てて、以下のことだけにしたいと思います。
『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していないことは再三述べているのに、如月の弥さんが「ルールだと主張されては困る」との懸念を示されるので、それならば如月の弥さん自身の解釈も同じように「ルールである」と捉えられることになる可能性はあるということを述べたままです。これでお互いに自身の解釈を絶対視しないということが明確になりました。』
 『(X2)ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありません』 
 それだけで、よかったのです。
 『そういう見方をなさらないで下さい』といわれるようなことを書くのは、あれこれ書き続けることが、悪用しがちな者にとって結局そうなってしまうという警告を強く書かざるを得ない気持ちからです。
 私の質問のポイントに対応するこれらの部分(X1)(X2)をさておいて、別のあなたの主張を太字にして表現されていました。 似たようなことなど、矛盾のように見える人も多いでしょう。 これで了解したら、私はその目立たない部分で了解しても、それは小さいことに過ぎず、第三者にはあなたの主張の原則が通ったと思わせかねない。 あなたの書き方が、混迷といぶかしさに見える一因です。 (意図的だと思ってないですが、私には同じです)
 したがって、(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
 この直前のあなたの書き込みの末尾の下線部(A)(B)などは、すぐに終了はしないだろうし、真実ということばや根拠ということばについて、この流れの中ではあなたとまともに語れないようです。 具体事例の場で語るか、  節と流れを改める方がいいでしょう。でないとあなたは、それを編集議論以前の行動ルールとして主張している、と形上見えます。
 最後にこの確認をします。「上述(X1)(X2)以外のあなたの文は認めずに、基本段階(――編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない――)は互いに納得したとして終了とします。」 いかがでしょう。

--如月の弥 2007年7月1日 (日) 11:57 (UTC)

[編集] 第七周期

>事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけですが・・・
実際に問題になったのですから当然、白石論文の件にも言及していますが、大半は、方針(原則)をどう解釈するかということについて書いおり、太字の部分は正にそれです。
>似たようなことなど、矛盾のように見える人も多いでしょう。 これで了解したら、私はその目立たない部分で了解しても、それは小さいことに過ぎず、第三者にはあなたの主張の原則が通ったと思わせかねない。 
“似たようなことなど”とは何を意味しておられるのかよくわかりません。
>この直前のあなたの書き込みの末尾の下線部(A)(B)などは、すぐに終了はしないだろうし、真実ということばや根拠ということばについて、この流れの中ではあなたとまともに語れないようです。
“すぐに終了はしない”とは「すぐに結論が出ない」という意味でしょうか?「中立的な観点」や「検証可能性」の方針からウィキペディアが真実ということばや根拠という言葉をどう捉えているかはかなりわかると思うのですが・・・
>具体事例の場で語るか、  節と流れを改める方がいいでしょう。
如月の弥さん自身が最初に「事例の形でなく、原則の表現で書いてもらわないと、どんどん話がずれていくだけ」と異議を唱えたはずなのに、ここではどうして「具体事例の場で語る」ことを求められるのでしょうか?
>でないとあなたは、それを編集議論以前の行動ルールとして主張している、と形上見えます。
「行動ルール」という言葉で何を意味しておられるのかちょっと明確でないですね。「行動」とか「議論」というより、方針をどう解釈するのかが重要だと思います。
>あなたの書き方が、混迷といぶかしさに見える一因です。 (意図的だと思ってないですが、私には同じです) したがって、(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
そもそもこの節は方針に対する解釈をお互いに再確認するという目的で始めました。ですから白石論文の事例のような編集上の問題について、方針に対する私自身の解釈から再三述べてきました。それは以下のことです。
1、ある見解を掲載する基準について
2、トピックについての見解として掲載されたものについて、ウィキペディアの立場で解釈や説明することについて
3、独自研究の解釈について
4、ある見解について事実の指摘をすることと「中立的な観点」との関係
如月の弥さんは御自身の質問に対して、納得のいく私の解答を求めて何度も同じ質問を繰り返されましたが、私が示した方針の解釈や問題点や懸念についてはほとんど言及されませんでした。
>(X1)(X2)以外の返答は、無視します。
>最後にこの確認をします。「上述(X1)(X2)以外のあなたの文は認めずに、基本段階(――編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない――)は互いに納得したとして終了とします。」 いかがでしょう。
このように結局、言質を取りたかった私の解答のみをよしとして、今回の議論の焦点であったはずの上記の問題点について御自身の解釈を明らかにされないままですし、更にまた御自身の求める、“ルールの解釈を議論に優先しないことの約束を取りつける”ことで議論を終了しようとされています。これは大変残念なことです。
(X1)(X2)以外の私の文を何故認めないかを方針に基いて述べないのでは議論になりません。御自身の要求だけして、こちらが示した見解については賛否を明らかにされないのはやはり生産的でないと思います。
“編集方針のうわさ的な解釈”とは編集方針の個人的な、独自の解釈というような意味でしょうか?何を如月の弥さんがうわさ的な解釈とされているのかをはっきりさせるためにも、私の示した解釈について如月の弥さんが意見を述べられることが必要であったのではないでしょうか?それが明確でないまま、合意しても実効性はないと思います。
具体的な事例においては方針上、どう判断するかが難しいものもあるでしょうし、明らかに方針上、問題があり、早急に削除・修正をする必要を感じれば、先にそれを行ない、議論はそれからというケースもあるでしょう。私は議論を先にすべきとも、後にすべきとも、これまで一度も主張していませんし、方針から考えても、議論を先にすべきということをルールとすることも問題があると思います。それはケースバイケースで考えるべきことだと思います。そのようなローカル・ルールを作るより、やはり、方針に対する解釈をお互いに明らかにし、合意できる点、できない点をはっきりさせることの方が重要だと思います。しかし、これ以上求めても、如月の弥さん自身の解釈を明らかにされないかもしれませんし、互いの解釈をしっかり示し合わないならこれ以上議論する意味がありません。
それよりも、以後は、保護に至る原因となった冒頭文をめぐる問題に移り、保護解除に向けての建設的な議論に移った方がよいと思います。

--モトカル 2007年7月4日 (水) 14:25 (UTC)

白石文献の類の文献の取扱いの原則は、当然その後の議論にも掛かってきますので、最初にキッチリ摺り合わせした方が良いです。あとから議論がぶり返されるのを防ぐためにも。Ip218-44-81-60 2007年7月4日 (水) 15:36 (UTC)
Ip218-44-81-60 さんは“218.44.81.6”や“60.36.126.40”のIPで投稿されていた方ですね?白石論文自体は「検証可能性」の方針から削除することはできるということで、とりあえず解決する方法はみつかりましたし、それに類する件は保護に至る直接の理由ではなく、冒頭の記述がノートでの議論を無視して書き変えられたことが本来の問題でした。ですから優先すべき冒頭の記述や両論併記について新たに節を設けます。--モトカル 2007年7月5日 (木) 12:28 (UTC)
それは、現在の議論のもう1人の当事者である如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。拙速な対応は後々混乱しか招きかねません。再度申し上げます。この議論、続きは如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。Ip218-44-81-60 2007年7月5日 (木) 12:57 (UTC)

 念のために書くと、7月1日に私は4回書いています。モトカルさんのことだから、始めの文だけで最後の仕上げの形のは見てないという可能性がありますが、誤解は無いでしょうね?。 始めのversionは、「まだ、だめか!」という気持ちが強いときのもので、原則論を終了して具体論へ移行する(間にゆっくり休むかも)気分が強かったのですが、最後のver.4は、原則論の後半を続けるという方向で書いています。

 私は、「原則」を問題視していると書いています。まず原則が先だと書いています。 それが、できないというならそのように返事してほしい、とも書いています。 私の言うように原則を中心にするといいながら、実際は過去にどう思ったということと混同する書き方が続き、 今回私が、元々の問題だった最低限のことを確認したいというと、こんどはいやだという。
 あなたは、‘終了すると書くのが信用できない’という怒りのように見えますが、事実は私は区切りの確認を強調的に表現しているだけです。 ただ、今までのあなたの書き方に対抗して、いったん結びとして、簡潔に強く強調したいと思ったわけです。
 あなたが『言質を取りたかった私の解答のみをよしとして』 というのは、もとからそういうイメージを底においていて、私の書く、「悪用されないための原則の重視」 という「姿勢」を理解できなかったのではないかという気になりますが。
 ここで私が「私は、別の形で継続するつもりだ」と書いても、「『言質』はいやだ」、とされるのでしょうか。
 ウィキペディアは誰のものでもないのだから、誰が誰の言質を取ったなど無意味なことです。 論理的にしっかり把握できるなら、言質など恐れるものではないはずですが。 

 (X1)(X2)以外の解説文は、原則の文の形をしていないから、原則の段階でなく、あとの段階でとりあげればいいことだということです。
 (A)(B)がすぐに終わらないというのは、今までのあなたの書き方が、今回にも共通しているから、早く終わっても、2,3回やりとりが続くかも知れない。私の目的は、(白石を書き直すことに熱心でないと始めから書いているように) 始めから、最低限の確認です。それをログの印象として薄めさせることは避けたいのは当然です。 今回最低限のことをきっちり確認して、節を改めて、引き続けばいいことだからです。

 

 あなたが、最低限の確認を認めたはずながら、『言質』 として今後も嫌がるならその方が奇妙です。
 わたしは、きちんと混乱せずに続けていく方法を始めから提案していて、その形は変わっていません。あなたの方が、書いている中身が変わっています。検証可能性だった理由が中立のセンス問題になり、原則論という舞台に賛成しつつも事例と混同する。 詳しい議論を始めると、かなりきつい指摘も出そうで、混迷しそうに思えます。 全部ひとまとめにしようとすると、いつまで経っても何一つ蓄積が固まらないでしょう。 全体をゆっくり確認しながら進めたいのです。 
  
 218-44さんも、『当然その後の議論にも掛かってきますので、最初にキッチリ摺り合わせした方が良いです』 というのは、今までの私の原則論は理解しなかったのか、それとも、「もうやめた方がいい」と方針転換を提案されているのかどちらなのでしょう。
--如月の弥 2007年7月5日 (木) 15:14 (UTC)

 いや私は原則で両者が合意できる点で合意できればいいとおもいますし、それが難しいのであれば全部すっ飛ばして『(X1)(X2)』でもいいのではないでしょうか? でもモトカルさんがまだ続けるつもりがあるなら続けたらどうでしょう? モトカルさんが続けるつもりはないのなら『(X1)(X2)』とすればいいだけで、続けるつもりはあるのに強引に先に進むようでしたら話がまたぶり返し、後々の議論に引きずるのだけは勘弁して欲しいだけです。Ip218-44-81-60 2007年7月5日 (木) 16:50 (UTC)

[編集] 第八周期

>始めの文だけで最後の仕上げの形のは見てないという可能性がありますが、誤解は無いでしょうね?。 
如月の弥さんの現在のコメントをちゃんと読んでおります。
>私は、「原則」を問題視していると書いています。まず原則が先だと書いています。 
如月の弥さんの仰る「原則」はウィキペディアの公式方針ではなく、編集者の間でのローカルルール的な取り決めのことをおっしゃってるのでしょう。以前に如月の弥さんは「問題にしている原則論は、あなたが、 「‘内容の議論抜きで’、片方のみを削除し片方のみを残す判定をしてしまう基準を、どのような形で‘ルールとして今’主張するのか」 ということでもあります。」と述べられていますから・・・
>あなたは、‘終了すると書くのが信用できない’という怒りのように見えますが、事実は私は区切りの確認を強調的に表現しているだけです。 
信用できないというのではなく、ウィキペディアの方針に対する解釈をお互いに再確認するという目的で始めた議論なのに、わたしの示した解釈に対し、如月の弥さん自身は見解をほとんど示すことなく、理由も語らないまま、「(X1)(X2)以外のあなたの文は認めない」とするなど、きちんと議論することを避けられたことを遺憾に思うということです。

 

>あなたが『言質を取りたかった私の解答のみをよしとして』 というのは、もとからそういうイメージを底においていて、私の書く、「悪用されないための原則の重視」 という「姿勢」を理解できなかったのではないかという気になりますが。
如月の弥さんが方針を悪用されることを懸念されていることはわかっています。しかし、ウィキペディアの生命線である「中立的な観点」で記述するという方針を台無しにするより大きな悪用の可能性があると私が述べたことに対してはスルーされました。そのほかにも、「ある見解を掲載する基準にその真偽は関係ない」ことや「ある見解についての説明が事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないが「中立的な観点」の方針に問題となることがある」という白石論文の件での問題点の核心について方針に基いて述べましたが、これに対しても見解を示されませんでした。
>私の言うように原則を中心にするといいながら、実際は過去にどう思ったということと混同する書き方が続き、 今回私が、元々の問題だった最低限のことを確認したいというと、こんどはいやだという。
>ここで私が「私は、別の形で継続するつもりだ」と書いても、「『言質』はいやだ」、とされるのでしょうか。
別の形で継続するのでもかまいませんが、なぜ別の形でするのか意図がよくわかりません。
>ウィキペディアは誰のものでもないのだから、誰が誰の言質を取ったなど無意味なことです。 論理的にしっかり把握できるなら、言質など恐れるものではないはずですが。
> あなたが、最低限の確認を認めたはずながら、『言質』 として今後も嫌がるならその方が奇妙です。 
再三述べているように、如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに、如月の弥さんにとっては“モトカルが機械的に行動している”と見えたということですから、これ自体の約束を求めることは本当は意味がありません。それより、意見の相違点をはっきりさせるために、何が機械的な編集なのか、どう方針を解釈するのかをお互いに確認することが何より大事だったのです。
それに、「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということを最低限の確認にしたいとのことですが、如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません。編集より、議論を優先すべきということかと思いますが、ウィキペディアにおける議論というものは当然ウィキペディアの方針に基いて行なうべきものです。ですから、私がウィキペディアの方針に対する解釈をお互いに再確認する場を設けたにもかかわらず、結局、議論の核心となる部分についての見解を明らかに及されて来なかったのですから、この確認における“議論を優先すべき”ということも、一体何を議論するのか?というのが率直な気持ちです。個別に議論する前に、方針に対する解釈を確認しておくのが物事の順序だと思います。それをあいまいにしたままで、議論することを求めるのには無理があると思います。
そして、再三述べているように、明らかに方針上、問題があり、早急に削除・修正をする必要を感じれば、先にそれを行うのが当然であるし、判断が微妙なものはまず議論するのが当然でしょう。ですから、一律に、“議論をしないで、修正・削除してはならない”とする取り決めであるとすれば、それはかえって、如月の弥さんが批判されていた“ルールによる支配”ということにもなりかねず、それはそれでウィキペディアの方針からも問題になると思います。今回の保護中の事態を見てもわかるように、核心に関わる質問には一切答えず、抽象的な批判に終始し、意図的か否かは別にしても、議論をいつまでも長引かせるような人も実際にいるのですから、合意を得られないからといっていつまでもそのような人の問題ある編集を放置することはできません。ルールの悪用を懸念される如月の弥さんにはこのことを是非考えていただきたいと思います。
如月の弥さんがこのノート(ノート:慰安婦/Archive03)において、「自分の編集が反対されたらノートで議論し、ノートで反対意見がある限り同じ編集は行わない 」というローカルルールに対して、「他人の文をかってに削除してから、自分がリバートをされることを防止しようとまずノートに書けと言い出すのは、ルール以前に不公正だ。だから、他人にルールというものを要求するなら、「始めに削除した項目を復元してから」という主張をされています。結局、この問題もこの時からのものではないかと思います。如月の弥さんが偏った記述をする利用者たちと闘って来られたのはよくわかります。それだけに、そのローカルルールが悪用されないかをよく検討して下さい。
ただ、ウィキペディアの公式方針にあるテンプレートのように、「大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。」というようなものなら納得できると思います。ただし、この「大きな変更」の部分を「ノートでの議論による合意を覆す編集をする場合は」とでもすべきですが・・・
そもそも今回の編集合戦はそれなりの議論の結果に基いて書かれた冒頭文を理由の明記も一切なく、「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、・・・」などという偏った記述に書き変えられたことに端を発しているのですから・・・


>わたしは、きちんと混乱せずに続けていく方法を始めから提案していて、その形は変わっていません。あなたの方が、書いている中身が変わっています。検証可能性だった理由が中立のセンス問題になり、原則論という舞台に賛成しつつも事例と混同する。 
事例と混同などしていませんよ。事例を引いて方針の解釈を説明しているだけです。「検証可能性」という側面や「中立的な観点」という側面からそれぞれ検討したのです。そして、その中で事実の指摘であるから独自研究に当たらないが、「中立的な観点」から問題になる記述もあることが明確になったのです。
>全部ひとまとめにしようとすると、いつまで経っても何一つ蓄積が固まらないでしょう。 全体をゆっくり確認しながら進めたいのです。 
でしたら、方針の解釈について明確にしていただく必要があります。ただし、保護の解除は編集合戦を終わらせるためのものです。そもそも私と如月の弥さんとの間では意見は違っても議論は成立しており、編集合戦になったわけではありません。ですから、この議論を続けるのはやぶさかではありませんが、編集合戦となった冒頭文についての議論をまず優先させるべきと思います。

--モトカル 2007年7月7日 (土) 09:34 (UTC)


やっとまともに、太字の部分と焦点とが合った気がします。

<確認>
>『「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということを最低限の確認にしたいとのことですが、如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』

 それは、用語表現の問題としてですか? 議論の流れの主張ですか? どちらかでいくか私が決めたらいいのですか?
 一度は、相互確認したとあなた自身が軽い形で書いていたはず。

<方針の再確認>
>『結局、議論の核心となる部分についての見解を明らかに及されて来なかったのですから、この確認における“議論を優先すべき”ということも、一体何を議論するのか?というのが率直な気持ちです。個別に議論する前に、方針に対する解釈を確認しておくのが物事の順序だと思います。それをあいまいにしたままで、議論することを求めるのには無理があると思います

 (『議論を優先』という言葉はどこの部分の言葉でしょうか? 私が使ったとしたら本文の記述の編集のノート議論で、内容を含めて議論することですが。) 

> 『方針の解釈について明確にしていただく必要があります』
 後述の<今までのやり取り>に詳細を書きました。
 あなたは始めの方では白石の件について「独自研究」を持ち出したのだけど、それはその形では終了したはず。私の危惧した部分を了解事項と確認して、互いの姿勢を安定するのは自然です。でないと、「あなたが私の姿勢を信じていないのが原因で、話がまともに伝わらない」と予想される。
 それができたら、次章は、再スタートの形を話し合うことから始めるべきだと思います。

<今までのやり取り>
 では、本音が聞けたので、こちらもはっきり書いた方がいいでしょう。

 今までのやり取りの途中から、あなたの書き方ではまともな議論ができるとは思えなくなったからです。
 独自研究の部分で、あなたは独自研究の最後の結末を濁した感じで、中立の基準を使ってきました。それも、誰が判断するかは属人的な要素の強いものです。 これでは、「機械的に一方を掲載し一方を削除してから、議論に入るのが正しい」 という根拠になりません。 それに気付かずに主張するとは。
 だいたい、中立の基準をもって語っていたのは私の方で、あなたはあれこれのやり取りの後、「社会的に正しいかどうかは知らないがウィキペディアが考えているだろうからそれに従う」 とだけの態度を結論と答えていましたよ。 そして細かいルールである「独自研究の条項に従えば、中立の視点からはずれてても、考えなくていい」 という立場を書いていたはずでしょう。 
 また、あなたがそれだけ立場を変えるなら、その時私はどういう位置なのか、を考え直すべきでしょう。とくに、事例はサンプルで、原則が中心なのだから。でもあなたは、そういう自覚も何もなさそうに思えました。これでは、ただの混乱だとしか思えません。
 それも全体が混乱しているときにはわりと起きることですが、私は整理に気をつけて書いていたはずです。
 まともに信用できなくなりました。 

 まあ、あなたが立場を変えてもいいです。私の立場が問題で、だから私の立場は、「機械的な態度で、一時的にせよ、不公平な基準に合わせられる筋合いはない」 ということを、明確にすることに集中しました。 
 あなたがどんな中立感覚を持っていても、それはまずとりあえずどうでもいいです。 元々私の危惧して取り上げたことは 「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認ですから。

   その原則の議論についても、「今、主張しているかどうか」 ということが読めませんでした。 『事例を引いて方針の解釈を説明しているだけです』 というが、「過去にどう思った」というような文は回答になりません。 やり取りの中で考え出した解釈とも関係なく、始めから問題にしている 「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」 として聞いています。
 「どう違うかわからない」 というならともかく、「答えている」 という返事では、前述のことがあるだけに絶望します。

 まあ、成り行きの勢いと量の多さと感覚的な思考のせいだと思いますが、これではいちいち 「考えるとはこのように整理するのだ」 ということを初歩から指導しないといけないと思えて (私もそんなプロではないし)、しかも、毎回のやり取りの往復毎にそれがまた混乱し、それを後で見直してもまとまってつながって見えないだろうから、最終的に整理するときにさらに混乱するのだと思うと、労力を使わされすぎる、と予想しました。
 だから、雛型に沿って整えることを重視し、今回のように最低限の確認を積み上げたいと思ったのです。

 他のことについていちいち答えると分量からして混乱の元だと思うので、まとめるべきときに再提出されるなら答えることにします。

<補足>
 ただ、少しだけ書くと、私がローカルルールを提出しているのではなく、ルールの解釈を絶対の根拠無しに、また社会的良識無しに、振り回されては困る、ということであり、「確実にそれを禁止する」 なんてルールができるはずもないです。 ルールのような形で書いてもね。ローカルルールとして気にするのは、別のルールを振り回したい人でしょう。 
 また、かんたんな一例としては、 あなたが独自研究の解釈を間違っていたのは、もともとは「噂」以上の根拠を持っていないものを「確立した解釈」として信じていたわけでしょう。 また、それを頑固に信じ込んで、結論から条文解釈を出してきていました。そんなふうに、「これは独自研究だ」 という頭でいて、内容議論をして考える姿勢がないのは、「機械的」 に当たります。 白石には掲載資格がないということは、再三、「内容」として書いていたのに、それを読めずに、あとで自分から気がついたようにして気がつくというのは、それまでが「機械的」 だったと思いますよ。
--如月の弥 2007年7月7日 (土) 18:22 (UTC)

>>如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』
>それは、用語表現の問題としてですか? 議論の流れの主張ですか? どちらかでいくか私が決めたらいいのですか?
「編集方針のうわさ的な解釈」などという定義の曖昧な独自の表現であるということに加え、トピックについての見解を載せる規準や“事実の指摘で「独自研究」には当たらなくても、「中立的な観点」に反する記述もある”というこれまでの方針の解釈における争点になってきた核心部分について、如月の弥さん御自身が見解を明確にされなかったという議論の流れの両方からの理由です。
>(『議論を優先』という言葉はどこの部分の言葉でしょうか? 私が使ったとしたら本文の記述の編集のノート議論で、内容を含めて議論することですが。) 
「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」ということの確認したいという文章から読み取れることです。
>私の危惧した部分を了解事項と確認して、互いの姿勢を安定するのは自然です。でないと、「あなたが私の姿勢を信じていないのが原因で、話がまともに伝わらない」と予想される。
それならば、私が方針の解釈として示した見解や方針の悪用を危惧した部分についても、如月の弥さん自身の見解も明らかにすべきではないですか?如月の弥さんは御自身の確認したいことばかり、求めて私が求めていることに関しては見解の表明を避けておられるようにしか見えません
>それができたら、次章は、再スタートの形を話し合うことから始めるべきだと思います。
如月の弥さんが御自身の見解を明らかにされれば、そうできるでしょう。
>独自研究の部分で、あなたは独自研究の最後の結末を濁した感じで、中立の基準を使ってきました。
それも、誰が判断するかは属人的な要素の強いものです。 これでは、「機械的に一方を掲載し一方を削除してから、議論に入るのが正しい」 という根拠になりません。 
「独自研究」の方針については確かに少し理解が不十分であったところもあります。単なる事実の指摘であれば「独自研究」に当たらないと言えると思います。しかし、事実の指摘と本人が思っても、主観や誤謬が入り込む可能性があること、事実の指摘であるため「独自研究」に当たらないとしても、「中立的な観点」に反する記述もあるということは実に重要な点だと思います。
>だいたい、中立の基準をもって語っていたのは私の方で、あなたはあれこれのやり取りの後、「社会的に正しいかどうかは知らないがウィキペディアが考えているだろうからそれに従う」 とだけの態度を結論と答えていましたよ。 
如月の弥さんのここで使われる“中立の基準”はウィキペディアの「中立的な観点」の方針でいう中立的とは違います。如月の弥さんはある見解についての指摘を掲載する基準とある見解を残すという基準についての公平性を問題にして来られたように思います。ウィキペディアにはそのような中立性については語られていないと思います。「中立的な観点」の方針でいう“中立的である「特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりしない」ということです。どうも如月の弥さんは個別の記述の客観性を重視して、「中立的な観点で記述する」という記事全体的な観点をあまり考慮しておられないように思います。再三述べているように、「中立的な観点」に外れるものとして「ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。」と述べていることからわかるように、ウィキペディアは個別の記述の客観性よりも、「中立的な観点で記述する」ことを最重要に置いていると思います。
>細かいルールである「独自研究の条項に従えば、中立の視点からはずれてても、考えなくていい」 という立場を書いていたはずでしょう。 
「論証が真実に論証であれば、それは事実の記述と等しい。疑いは議論によって、=ノートにおいて解決される。これは、通常の編集と同じであり、機械的な削除対象ではない。ということだと推測できます。」と述べておられました。
しかし、「『独自研究は載せない』の方針はこれらの方針はほかの二つ(『中立的な観点』、『検証可能性』)と切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。」とされており、「ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合」は「中立的な観点」に立っていないとされています。「中立の視点からはずれてても、考えなくていい」などというのは方針に対する大きな誤解で、これこそ、如月の弥さんの言う「編集方針のうわさ的な解釈」でしょう?三大方針の一つにでも反していれば載せられないのは当然ではないですか?
>あなたがそれだけ立場を変えるなら、その時私はどういう位置なのか、を考え直すべきでしょう。
個人的解釈をふくまず、単なる事実の指摘に止まれば「独自研究」には当たらないこと、白石論文について、「個人のブログ」に類するものと見なせるという点については考えを変えましたが、掲載の基準や「中立的な観点」の方針に対する解釈、編集と議論の関係など、基本的な立場は変わっていません。
>事例はサンプルで、原則が中心なのだから。でもあなたは、そういう自覚も何もなさそうに思えました。これでは、ただの混乱だとしか思えません。
抽象的な議論でなく、具体的な事例で考えてこそ、方針を実際にどう適用すべきかがわかるものでしょう。
>私の立場は、「機械的な態度で、一時的にせよ、不公平な基準に合わせられる筋合いはない」 ということを、明確にすることに集中しました。 
如月の弥さんと私のすれ違いは如月の弥さんが不公平な基準という観点で見ておられるからだと思います。方針の解釈の“結果として”如月の弥さんが不公平と感じたのですから、方針の解釈に対して異議を唱えるべきなのです。そこを見間違うと議論になりません。


>他のことについていちいち答えると分量からして混乱の元だと思うので、まとめるべきときに再提出されるなら答えることにします。
>あなたがどんな中立感覚を持っていても、それはまずとりあえずどうでもいいです。 
その考えはおかしいでしょう。編集における対立を解決するために、方針の解釈をすり合わせるということをやってきたのですから、相手の方針に対する解釈に異議があれば、方針を根拠にそれを示すべきです。
解答によって、相手の見解がより明らかになり、その上でそれに同意できる部分、同意できない部分というのを更に明らかにしてゆくというのが議論の進め方というものではないですか?そうしないで、議論を避けるなら、議論は少しも深まりませんし、結局は、相手の見解に方針を根拠に反論できないから、解答を避けていると見なされてもしかたありません。
>元々私の危惧して取り上げたことは 「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認ですから。
>「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」 として聞いています
ある見解についてウィキペディアの立場で論証するということであれば、まず「独自研究は載せない」の方針から、個人的解釈を含むものか事実の指摘であるのかを検討すべきでしょう。しかし、事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないとしても、「中立的な観点」による記述を損なうようであれば、そのような指摘をすることは問題になると思います。これが現在の立場です。
>私がローカルルールを提出しているのではなく、ルールの解釈を絶対の根拠無しに、また社会的良識無しに、振り回されては困る、ということであり、「確実にそれを禁止する」 なんてルールができるはずもないです。
“社会的良識”に外れたことなどを主張したりはしていませんので、そういう言い方をなさらないで下さい。「確実にそれを禁止する」などは言っておりませんし、ルールを振り回しているつもりもありません。先にも述べたように、そのような見方が誤解のもとなのです。すべては方針の解釈の違いから来ているので、如月の弥さん自身も方針はこのように解釈すべきと御自身の見解を明らかにされればいいだけであって、そのような感情的な見方は生産的な議論を生みません。
>あなたが独自研究の解釈を間違っていたのは、もともとは「噂」以上の根拠を持っていないものを「確立した解釈」として信じていたわけでしょう。 また、それを頑固に信じ込んで、結論から条文解釈を出してきて「これは独自研究だ」 という頭でいて、内容議論をして考える姿勢がないのは、「機械的」 に当たります。
内容を考えなかったのではなく、方針の読み方(解釈)の問題です。 如月の弥さんも「中立の視点からはずれてても、考えなくていい」など本気で信じておられるなら、これも同じことでしょう?
>白石には掲載資格がないということは、再三、「内容」として書いていたのに、それを読めずに、あとで自分から気がついたようにして気がつくというのは、それまでが「機械的」 だったと思いますよ。
如月の弥さんは白石論文について、「致命的に根拠に欠ける」、「デマと確認できる」などという理由から掲載資格がないとされていたでしょう。私は出典の種類という観点から「個人のブログ」と見なせるとしただけで、如月の弥さんの仰るようような、”その見解に根拠がない”という理由では掲載資格がないとはできないと今でも考えています。
>いちいち 「考えるとはこのように整理するのだ」 ということを初歩から指導しないといけないと思えて  だから、雛型に沿って整えることを重視し、今回のように最低限の確認を積み上げたいと思ったのです。
如月の弥さんも一方的に相手の意思を確認するだけでなく、以下の私の方針の解釈に対する見解を是非、明らかにして下さい。それなし、議論しても堂々めぐりにしかなりませんので・・・
m1、あるトピックについての見解(主張)に対して、根拠がないという理由では掲載資格がないとはできない
m2、事実を指摘しながらもそこに個人的な解釈を加えれば、「独自研究」に当たる
m3、事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないとしても、「中立的な観点」による記述を損なうような記述はするべきでない
m4、あるトピックについての見解(主張)に対して、事実の指摘であれば無条件に書いてよいとすることは、その見解の妥当性や信憑性を自分の好むように上げたり、下げたりする示唆になる悪用的記述に正当性を与えてしまう可能性がある。

--モトカル 2007年7月8日 (日) 05:25 (UTC)

[編集]  区切り 

 始めに。
 m1~4があなたの本心の「継続できる基本」だとは今回だけではあてにならない。今までのやり取りについての私の不満にまったく答えていないし理解力もない。ただ今までと同じパターンでずれているだけだ。 その混乱を解消しないと、あなたの書く基本が基本として信用できず、したがって手順としてあてにならない。

 あなたの書き方を読んだ結論。
 あなたの書いたことにいちいちまともに返事をすると、一つ一つのことについて、やっぱり、二回以上も往復してからあなたの錯覚と迷いを除いてから話の焦点が合い、次の段階で再びずれを戻して、・・と続いていくしかない。
 あなたがどういう風に混乱しているかを書くと、そんなつもりではないと返すが、もともとその脈絡がずれていることは考えないでその文を終える。 それで反論が終わった気になって、あなたは回を置いて確認せずに、継ぎ目無くそれを自分の主張としている。 答えたふりをしてこちらを切り捨てているのと同じだ。 
 全体として、何が立場の中心かも、借り物を使って流れていくだけでしかないので明確にはならない。 
 それを多項目に渡っていちいち指摘し直すように書いていたらきりがない。
 了解点から再出発するのではなく、自分が先走って総合的結論をいつも主張する。 そして、途中確認を明確にしたがらない。 私の書き込み意図が通じずにずれている部分は別としても、他にも、「一歩も引きたくない」 あるいは「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 という硬直したことばを繰り返しているだけだ。
 始めから結論を決めているか、結論を戦わせる方法しか知らないようだ。 あるいは、理解によって妥協して結論するのでなく、結論の妥協によって理解するしか知らない。 今なぜこういう話をしているのかについての基本を相互確認する思考方法がない。
 あなたと確認の会話しても時間の無駄。最小限の確認以降、もう少し語れるかと思ったが、ほぼ無意味。 あとは、原則については、どうせまた中立の後は、別の何かに変化するだろうから、最終的には年月をかけて書いていくしかない。毎回ずれまくることを蜘蛛の巣を辿るように一つ一つ解きながら進むから。

 あとは、新章ですることにします。
 だから、この小節でいったん打ち切りを宣言する。
 以下は、確認しあったはずのこと。

『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張していない。
『(X2)ですから“機械的に行動することをルールとする”つもりはありません』 
 

 それ以外の宿題については、以下へ
—以上の署名の無いコメントは、如月の弥(会話履歴)さんが 2007年7月8日 (日) 16:33 (UTC) に投稿したものです(モトカルによる附記)。

>「一歩も引きたくない」 あるいは「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 という硬直したことばを繰り返しているだけだ。
そのような発言はしていません。他人の発言を恣意的に変えて表現しないで下さい。私の発言はノートに残っているのですから、ご自身の信頼を失うだけです。私たちは別にケンカしているわけでもなく、相手を打ち負かすことを目的としているわけでもなく、記事の改善のために、共同執筆者として会議するのだという最初に述べた前提をどうか忘れないで下さい。
「一歩も引きたくない」とか「一つの言質も出したくない、あとで言質を引っ込めることはしたくない」 などという発言も、そのような趣旨の発言もしていません。実際の発言は以下です。
    • 言質を取りたかった私の解答のみをよしとして、今回の議論の焦点であったはずの上記の問題点について御自身の解釈を明らかにされないままですし、更にまた御自身の求める、“ルールの解釈を議論に優先しないことの約束を取りつける”ことで議論を終了しようとされています。これは大変残念なことです。
    • 如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに、如月の弥さんにとっては“モトカルが機械的に行動している”と見えたということですから、これ自体の約束を求めることは本当は意味がありません。
    • 如月の弥さんが自身の解釈を明確にされないまま、「編集方針のうわさ的な解釈」という曖昧で独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません。
結局、互いの見解を確認し合い、疑問点や誤解を解き、同意できる点、できない点をはっきりさせるというきちんとした議論の手順を踏まないまま、方針に対する自身の見解さえ明らかにしない相手の出した確認事項に同意することは意味がないし、そんな安易なことはできないということです。国会で言えば、十分審議を尽さず、法案の意義や問題点などがまだ確認できていない中で、法案の賛否を求められているようなものです。まして、「編集方針のうわさ的な解釈」などという編集方針の正しい解釈が明確にされていなければ言えない言葉を含んでいるのですから・・・
>m1~4があなたの本心の「継続できる基本」だとは今回だけではあてにならない。
わたしが如月の弥さんの発言に対する理解力もないと批判されますが、如月の弥さんも私の発言意図を理解しておられないと言えます。m1~4は私が「継続できる基本」だと述べているのではなく、これまで争点になってきた問題についての現時点での私の解釈をまとめたものであって、これに対して如月の弥さん自身の見解を聞いているのです。如月の弥さんが方針に基いて異議を語り、それが納得できるものであれば、解釈を修正する余地は含んでいるのであって、私が何が何でも継続しなければならないものではありません。この節自体がそのように方針に対する解釈を再確認し、すり合わせるために議論する目的であること、自分の解釈が絶対正しいと言う前提ではないことは最初から述べているのに、それを未だに理解して頂いてないようですね。
>了解点から再出発するのではなく、自分が先走って総合的結論をいつも主張する。 
総合的結論ではなく、最初から書いているように、現時点での方針の解釈を述べているので、それに異議があれば、自分は方針をこう解釈するということを述べればいいだけなのに、いつもそこを避けておられるようにしか見えません。
>そして、途中確認を明確にしたがらない。 
そんなことはありません。如月の弥さんの望む答えではないことは別にして今まで質問には答えて来ていますし、むしろこちらからの途中確認にほとんど答えてこなかったのが如月の弥さんの方ではないですか?自分のしたい確認だけを求めてて、相手の確認には答えないのは正に不公平ということにならないでしょうか?それが多くの行き違いの原因の一つだと思います。--モトカル 2007年7月8日 (日) 10:22 (UTC)


 次章に続けずにここに書いたということで、とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。
>『如月の弥さんに迫られて、『(X1)私の方針に対する解釈が絶対正しいとは主張しない』としたわけでも、「『(X2)機械的に行動することをルールとしない』 としたわけでもなく、最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのに』
 被害妄想だ。私が迫った結果の成果だなどとは匂いほども書いていない。:: あなたは、『そのようなつもりなどなく行動してきている』と書きつつ、確認を阻止しようとする。 それも、(X1)(X2)の文にはない言葉を使って、『独自の言葉を含んだ宣言に安易に同意することはできません』 と理由づける。
 せっかく次章まで準備して、反論を継続したければ、書き込んで要求すればいい形を準備したのに、これだけ単純なことさえも、認めない。
 あなたは、最終的に勝つか負けるかしない限り、合意を積み上げる頭を持たない人だということはよくわかった。
 念のために書くけど、次章を準備しているのだから、そこに提案内容として不満を書き続けることは続ければいい。 しかし、それに気付かなかったのではなく、「とにかく、何かの合意を出すことが、最終決着まではいやだ」 ということだろう。
 次章で答えてもいいが、しかし、流された形に付き合うつもりはない。あらためて、継続できる基本を確認し合ってからだ。

--如月の弥 2007年7月8日 (日) 13:29 (UTC)

>次章に続けずにここに書いたということで、とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。
議論が堂々めぐりになるから私の方針の解釈に対する見解を是非、明らかにして下さいと再三お願いしているのに、このような質問には一貫してスルーされていますね。それなのに、ご自身が確認したいことだけは再三確認を求められています。それに、私は実際、確認を遮ってなどおらず、 (X1)、(X2)については最初からそのようなつもりなどなく行動してきているのだからこれ自体の約束を求めることは今更意味がないと言っているだけで、認めないなどとは言っていないのですよ。それに「内容以前の基準だとして今主張する」 かどうかの意志の確認、「一時的にもせよ、機械的な一方の掲載と一方の削除」 についての原則について、「今の意志」の確認について、現在の立場はこうであると先回きちんと述べていますし、「編集方針のうわさ的な解釈を、議論に一時的にも優先するルールと、主張はしない」という最低限の確認についても現時点では同意できないことをきちんと理由を述べて如月の弥さんの確認に答えています
それに対して、如月の弥さんの方は私が求めた確認には同意できるとも、できないとも賛否すら述べずに、ことごとく確認をスルーしているではないですか?自分のことは棚に上げて、「とにかく、何かの合意を出すことが、最終決着まではいやだということだろう。」とか「とにかく確認を遮りたいということがよくわかる。」などというような事実と違う発言をなさるようではまともな議論は現時点では無理だと思いました。私は議論においてはなるべく玉虫色ではなく明確にすべき所はすべきと思うので、それが如月の弥さんにとっては追い詰められているという感じを持たれるところがあったかもしれません。今のまま議論してもよい結果は得られないと思いますので、この論議はしばらく置いて、少しクールダウンするために、ウィキブレイクでも取られるのも一つの選択枝であることをお節介ながら申しあげます。これに対する解答も求めませんし、私もしばらく如月の弥さんの発言に解答を控えようと思います。--モトカル 2007年7月8日 (日) 16:19 (UTC)


>『追い詰められているという感じを持たれるところがあったかもしれません』
 ほら、そういう図式で見ていますね。

 私は、あなたがルールの名で機械的な態度を正当化しなければいいのであり (独自検証のときのような、内容を読みもしない頑固な態度を、一般に正当化すること)、別にやめても困りません。
 再出発の形で整理し直せるだけだしね。
--如月の弥 2007年7月9日 (月) 10:28 (UTC)

[編集]  第2-1周期 

 週一ていどにゆっくり書きます。
 まず、基本的論点を確認することが重要です。
—以上の署名の無いコメントは、如月の弥(会話履歴)さんが 2007年7月8日 (日) 16:17 (UTC) に投稿したものです(モトカルによる附記)。

[編集] 「慰安婦」の英訳ミラーサイトの設置を提案

英語版「慰安婦」は英語で読めるのに対して、日本版「慰安婦」が英語で読めないことは、開かれた議論のためにもよくないと思います。 私は英語版「慰安婦」が正しいとも、日本版「慰安婦」が正しいとも思いませんが、その国の中で行われた議論には、それなりの価値があると思います。 日本語圏のユーザーが英語圏の「慰安婦」版を読むことができるように、英語圏のユーザーが日本語圏の「慰安婦」版を読めるよう、 日本語版WIKIの中に「Ianfu」(English Version/Mirror Site)を設置することを提案いたします。 その具体的理由は (1)日本語圏、英語圏の双方向性、公平性を確保すること (2)日本語から英語への翻訳の公平性を確保すること、英語圏の読者がわからないような恣意的訳出を排除すること (3)英語圏の議論は英語圏の議論として日本人による荒らしを防止すること などが挙げられます。 よろしくお願いいたします。--仙人 2007年6月28日 (木) 1:40(UTC)

基本的な反対はしませんが、ミラーサイトの運営が可能か思いつくままに書いてみました。
1) 条件として、ミラーサイトであり翻訳以外を禁じる、と冒頭に掲げること。
2) 対訳の形で示す。
3) 微妙な表現が多いので、それへの注意や脚註も参照することを掲げるとかいろいろな注意も必要。(脚註抜きでは認められない文も多いので)
4) その上でも、本文の表現が微妙。内容論旨を正確に把握して書ける能力も必要では。
5) 誰が編集するか、最低限のバランスと信用の取れた編集者が確保できないと、捏造とズレ違いのし放題。そのために、ここで書かれているのでしょうが、・・・。(一応、私には余力と英語の実力がありません。)。
英語と論理力と信用と労力余裕のある――初期に労力が集中するので、初期に全体として高いレベルで――人が複数必要な気がします。
6) 編集者が集まった後で、改めて賛否を表明することになるでしょう。
(補足) あなたが英訳サイトを設置され、それへのリンクをつけるようにして、その上で、ウィキペディアに移転することを提案されることの方が現実的かもしれません。
(補足2) まあ、かってに見切り発車しても、それが上記1、2、3の形式に忠実で、中身の誠実の姿勢があれば、項目削除されることはないのでは。 ノートであれこれ起きるかどうかはわかりませんが。 あなたの今までの投降記録がないですし、もしブログでもあれば姿勢を示すものとして公開された方がいいでしょう。

-如月の弥 2007年6月28日 (木) 04:21 (UTC)

「日本語圏、英語圏の双方向性、公平性」のために日本版内に英語記事を設置するというのは意味が解りません。英語版の同じ記事があって双方向性は既に確保されているのですから。それに編集を許さない英語記事というのは英語で編集したい人にとってむしろ公平ではないです。まぁ、あえていうと英語版を日本語訳する方が現実的で、それで比較すれば面白いかもしれませんが、ウィキペディア内でやるべきかというと大いに疑問ですね。--火の鳥 2007年6月28日 (木) 05:27 (UTC)
いや、双方向性はないでしょう。ないのが問題とも、ないのがウィキペディアの方針らしいともいえるでしょうが。 公平性で言うと、英語版に和訳項目ができるかどうかということとセットの問題になり、やりたい人がやるならば、不公平ではないのでは。 さらにまた、英訳版を英語版に置き、和訳版を日本語版に置く、という形も考えられますが。 バランスは考えようはあるとしても、まずは人の問題かと。--如月の弥 2007年6月28日 (木) 10:04 (UTC)
だって、日本版の英語表記版を見て、これを編集したいと思った英語Onlyの編集者は、日本語を編集できないのでその英語版は編集できないということになるのでしょう。結局、英語Onlyの編集者を疎外するために設置する以上の意味がないですね。--火の鳥 2007年6月28日 (木) 17:01 (UTC)
そもそも原則的にはどうなんでしょ? ただ「日本のWikipedia(ja.wikipedia.org)」に英語表記も載せたいお気持ちは分かります。218.44.81.60 2007年6月28日 (木) 16:48 (UTC)

別提案?
>『日本版の英語表記版を見て、これを編集したいと思った英語Onlyの編集者は、日本語を編集できないので』
そういう人は、英語版を編集すればいいです。 私の解釈では、日本語ウィキだけが英語でも編集できるようにするルートを作るのが目的ではない、のでは?。 というか、そもそも「双方向」 という言葉の意味が、どうなんだろうか?。
私が「双方向性がない」と書いたのは、現状を見ると日英の対応する項目同士では、互いにリンクもないし付けないようにしているかのようだし、ウィキ検索も通じない。 隔絶している、という意味ですが。
互いに編集し合う項目を作る、という意味なんでしょうか? (アイデアはおもしろいけど・・・まとまるのかどうか) もしそうなら、ルールを変えて、「一定期間に対訳が書かれないと削除」 というルールでね、--------如月の弥 2007年6月29日 (金) 09:53 (UTC)

なかなか難しそうですね。よく考えた上でまた書き込みいたします。--仙人 2007年6月29日 (金) 15:40(UTC)

[編集] 保護解除のための議論(冒頭文・両論併記)

過去の議論(「冒頭文――実態は商行為、その他」の節)においては、主張の根拠を尋ねる相手の質問に答えるという議論においての当然のことがなされず、議論が堂々めぐりになりました。自身の主張の根拠や相手を批判する根拠を示さず、自身の主張を何度切り返したところで何の説得力もないことは当然のことで、それは第三者の目にも明らかなるでしょう。また、根拠を示さないで相手を批判することはフェアでないことは再三述べましたし、議論を不当に遅延させることは“ウィキペディアの目的遂行を妨げる行動”として対処方法が用意されていることも申し述べました。もう以前のような無益な議論ではなく、保護解除につながる有意義な議論を望みます。

現在の冒頭文の問題箇所は

制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり

という部分です。Ip218-44-81-60さんは再三、両論併記すべきと主張されて来ましたが、実はIp218-44-81-60さんが最後にリバートした保護中の現在の版は「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であった」とか「慰安婦達に報酬が払われていた」と正に議論になっている一方の見解を事実であるかのようなスタンスで述べ、「過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり」と、“もあり”という表現で、そのような主張が特別な主張、少数の主張であることを意味しているとも取れるように記述しています。つまり、「軍相手の「管理売春」という商行為」とか「慰安婦達に報酬が払われていた」ということを一つの主張と紹介しているのではなく、それは事実であるかのような前提で述べており、「過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しい」ということだけ一つの主張として紹介しているので、この部分はまったく“両論併記”ではないのです。元の版のように売春という商行為であったのか強制的に性奴隷にさせられたという論争があることを書く事こそが本当の“両論併記”ではないでしょうか? --モトカル 2007年7月5日 (木) 12:34 (UTC)

こちらにも書きますが、上記議論は、現在進行中の議論(「ウィキペディアの方針再考」)のもう1人の当事者である如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。拙速な対応は後々混乱しか招きかねません。再度申し上げます。この議論、続きは如月の弥さんのお返事を待ってから進めた方が良いです。Ip218-44-81-60 2007年7月5日 (木) 13:03 (UTC)
如月の弥さんとの議論を併行するのは構いませんが、そもそも私とIp218-44-81-60さんとの間で編集に対する意見の対立で保護に至ったのですから、如月の弥さんとの件とは別に、当時者としてあなたも責任を持って答えて下さい。
もう一ヶ月も保護が続いているのです。それは多くの利用者の編集の機会を奪っているということです。今回アカウントを取得されたのですから、あなたもウィキペディアンの一人としてきちんと議論して下さい。--モトカル 2007年7月5日 (木) 13:42 (UTC)
私は、あまり過激でなければ冒頭文のことは、それ以後の充実次第だと思うので関わりたくないですが、中立的な印象を作るために、反対者のいない内容まで軽いものと同等に扱うのは、事典として間違いでしょう。 制度の形として、管理売春であったことは否定する学者はいないはずですよ。犯罪者はいたにしろ。 それを一般人の誤解しやすい性奴隷という言葉と同等に扱うことは、制度についての知識を歪めます。 あやふやな根拠で両論併記する以前に、あえてそこに書くべきことでないなら、両論削除するということを考えるべきです。 あまり、削除は好ましくないということですが、冒頭だけは例外でいいのでは。
具体的には、「建前はこうだが、実態は諸説ある」、という書き方でどこか悪いのか? というところまでが、私の見るところです。--如月の弥 2007年7月5日 (木) 15:46 (UTC)
議論が同時並行では議論がグチャグチャになります。先の議論を決着付けて下さい。それと「もう1ヶ月も続いています」と言っても、時間経過のおおかたの部分はあなたの返答の回答待ちの時間です。あなたが速やかに返答すれば「ウィキペディアの方針再考」の議論でさえ時間も半分以下に短縮できたと思います。それを棚に上げて「もう一ヶ月も保護が続いているのです。」と意って、「多くの利用者の編集の機会を奪っているということです」と云うのは責任転嫁も甚だしいです。Ip218-44-81-60 2007年7月6日 (金) 03:43 (UTC)

>中立的な印象を作るために、反対者のいない内容まで軽いものと同等に扱うのは、事典として間違いでしょう。 >具体的には、「建前はこうだが、実態は諸説ある」、という書き方でどこか悪いのか? というところまでが、私の見るところです

如月の弥さん、私の論旨をよく御理解下さい。私は慰安婦制度が「軍相手の「管理売春」という商行為」であるとかないとかを問題にしているのではなく、これまでは「商行為であったとする見解」と「強制的なものであったという見解」との間で論争があるという、正に“両論併記”されていた記述を商行為ということについては“制度として”記述し、性奴隷であったという見解については“一つの見解として”記述しているため、実際には“両論併記”にはなっておらず、尚かつ、「とする主張もあり、」という記述で、その見解が有力な見解でない、小数の見解であるかのようなニュアンスを持たせているということが問題だと指摘しているのです。これは正に、白石論文の件で指摘した「事実の指摘であるため「独自研究」には当たらないが「中立的な観点」に反する記述」に当たると思います。この記述が自分の支持する見解なので気がつかないかもしれませんが、反対に「現在、元慰安婦が『強制連行された』、『性的奴隷にされた』として旧日本軍の蛮行を訴え出ており、それを支援する動きがあるが、軍相手の「管理売春」という商行為という見解もあり、・・・・」という記述ならどう感じますか?事実関係自体は間違いなくても、やはり中立的でないと異議を感じませんか?

>あやふやな根拠で両論併記する以前に、あえてそこに書くべきことでないなら、両論削除するということを考えるべきです。

論争自体は政治問題にも発展しているのですから、書くべきでしょう。ただし、以前の版のように、きちんと両論の間で論争があるという形にするべきで、現在の両論併記”でなく、中立的でない部分の記述は改めるべきだと思います。

>あなたが速やかに返答すれば「ウィキペディアの方針再考」の議論でさえ時間も半分以下に短縮できたと思います。

Ip218-44-81-60さん、確かにあなたのおっしゃる通り、私が解答に時間をかけてしまったのは事実です。その点は如月の弥さんにも、みなさんにも申し訳なく思っていました。相手の質問に答えないで、自分の主張を繰り返すだけなら私もそんなに時間を要しはしなかったのですが、私自身忙しかったこともありますし、如月の弥さんのコメントは長文で、各問いに対して解答することを要請されたため、一つ一つ誠実に答えようとすることは大変時間を要しました。また、方針の解釈という慎重さを要するテーマであり、私自身が方針を熟読・熟考し、自分の考えがうまく伝わるように何度も書き直したりしていましたから・・・ 1ヶ月経過していることのすべてがIp218-44-81-60さんのせいだというつもりではなかったので、誤解を与えたとしたら申し訳ありませんでした。しかし、Ip218-44-81-60さん自身が私の再三の質問にまともに答えないことで議論が堂々めぐりになり、らちが開かなかった中で如月の弥さんとの議論になったということは御自覚下さい。少なくとも私と如月の弥さんとの間では双方向の議論は成立し、その経過で得られたものもありましたから・・・ この節ではあなたが再三求めて来られた“両論併記”の問題です。あなたが最後にリバートした版は以前は“両論併記”していたものを“両論併記”を崩したかたちになっているということを指摘しましたので、誠実に返答お願いします。--モトカル 2007年7月7日 (土) 11:02 (UTC)

>反対に「~~」という記述ならどう感じますか?事実関係自体は間違いなくても、やはり中立的でないと異議を感じませんか?
事実の確定的な印象表現に問題在りそうですが、それは置いて、 今の本文が気に障る人がいるというのはわかりますよ。しかし、私の前回書いた両論削除の「制度としては管理売春で、実態は諸説様々」とは、全く違いますね。なぜ私に向けての文なのかわからない。
あるいは、実態がどうのということでなく、建前を一方の側に有利としたら、それだけで中立でないというのでしょうか?
それと、いったいいつから冒頭の文が定着しているのか、というとノートの議論で合意があったかもしらないけど。 上の5.3「冒頭文について」の節でやってたことも参考にされてますかね。
>政治問題にも発展しているのですから、書くべきでしょう
さあ、どうでしょう。あえて冒頭に書くべきか、ということです
ま、ここでは関係ないですが、あまりまとめようとせずに書いた方が、混乱を固めなかったのではと思います。--如月の弥 2007年7月7日 (土) 19:43 (UTC)
>今の本文が気に障る人がいるというのはわかりますよ。
そのことが現在の記述が、ある意味「中立的な記述」でないことを物語っていないでしょうか?
>の前回書いた両論削除の「制度としては管理売春で、実態は諸説様々」とは、全く違いますね。なぜ私に向けての文なのかわからない。
如月の弥さんが現在の記述を問題にされないような見解を述べられたので、「中立的な観点」に立っていない記述を実感してもらうために書きました。
>実態がどうのということでなく、建前を一方の側に有利としたら、それだけで中立でないというのでしょうか?
先回も述べましたが、私の論旨をよく理解して下さい。建前を一方の側に有利としたというのではなく、以前は両論併記されていたものを両論併記でない形に崩したということが一つです。
両論(各論)併記は「中立的な観点」の正に核心です。そして「・・・とする主張もあり」という表現で、「過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張」を紹介しています。これだと商行為であるか否かという実際に存在する激しい議論があることが少しも感じられず、異議を唱える主張も一部であるというようなニュアンスです。
ですから「”論争における様々な立場を公正に説明すべき”」とされている「中立的な観点」の方針からは妥当な記述とは言えないと思います。
>いったいいつから冒頭の文が定着しているのか、というとノートの議論で合意があったかもしらないけど。 上の5.3「冒頭文について」の節でやってたことも参考にされてますかね。
それは保護になってからの議論です。それ以前は2007年5月26日 (土) 09:04の版(その前に特定版削除があったため実際はもっと前の版)から編集合戦のきっかけとなった2007年6月3日 (日) 04:16の版で「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であったが、」と書き変えられるまでは冒頭文は比較的安定していました。
>>政治問題にも発展しているのですから、書くべきでしょう
>さあ、どうでしょう。あえて冒頭に書くべきか、ということです。
双方の間で論争があることを認識することは慰安婦の記事を読み進める上で必要なことだと思います。2007年5月26日 (土) 06:29の版から、慰安婦に関して論争があるという記述は今日まであります。それを記述すること自体については今まで異議は唱えられていなかったと思います。--モトカル 2007年7月8日 (日) 08:09 (UTC)
わずか数日おいただけで、ノートの議論もなかったのでは。それを定着文形のように扱って、他を考慮外に置きたがる根拠はないと思います。それは、あなた一人分の主張でしょう。今の時点では、元の文を書いた人の賛同もまだないはずです。
また、あえて書きたがるのも、あなた個人の考えです。たいていの場合、元の文を書いた人も、過去の文に手を入れて書いただけだろうし、「あえて書く」という意向をもった人があなた以外にどれだけいるかは、まだ未確定です。
とはいえ、私は最終賛否に手を出す気はないですが。--如月の弥 2007年7月8日 (日) 12:52 (UTC)
>わずか数日おいただけで、ノートの議論もなかったのでは。それを定着文形のように扱って、他を考慮外に置きたがる根拠はないと思います。
これは私が提示した冒頭文の思案(2007年5月20日 (日) 23:09 (UTC))のことだけを言っているのではありません。それ以前の版からのことです。「売春に従事した」を「売春に従事させられた」とするべきとか、「辞書の定義を出典とすべき」というような多少異論は出ましたが、「売春に従事した」の部分をより異論のない「性行為の相手になった婦女」という表現に修正したくらいで、冒頭の記述については大きな意見の対立にはなって来なかったということです。--モトカル 2007年7月8日 (日) 14:02 (UTC)

改めて見直しました。 本文履歴を見ると、5月26日に再スタートしてから、少しづつ変化しています。6月3日に60.36.さんの書き込みに対して、モトカルさんが書き込み、リバートにつながっているようですね。 このモトカルさんのは、ノートに提案されたものでもそれ以前の再録でもないようですが。 再スタート後の記述の変化の過程で、「商行為であったか」が「あったが」と変わったことが図式の変化であり、その後に、一方を「主張」で他方を「疑問」というように変わっています。 いろいろ変化が重なった結果のようですね。 これからして、みなさん論争があるということを書いてきたはずだと思う。 だからモトカルさんのは、「論争があると明確に書く」ということになるのでは。 さて、「論争がある」とだけ書いて、別に一項目を設けてもよさそうです。 まあ、議論の成り行き次第です。 ノートに書かれていた文案に反対してはいませんし。 --如月の弥 2007年7月9日 (月) 12:33 (UTC)

>再スタート後の記述の変化の過程で、「商行為であったか」が「あったが」と変わったことが図式の変化であり、その後に、一方を「主張」で他方を「疑問」というように変わっています。
先回述べた6月3日ではなく、5月31日 (木) 11:05に、220.108.76.32さんが「旧日本軍の軍人の性行為の相手になった婦女」という箇所に「旧日本軍の軍人が金銭を払って性行為の相手になった婦女」と金銭を払ってという一節を加筆し、「「売春という商行為であったのか、」という論争における一つの主張を「慰安婦は「売春」という商行為であったが、」と断定した形に書き換えたのが最初ですね。
その後、火の鳥さんが6月2日 (土) 22:17に「慰安婦制度の実態は、慰安婦達に過酷な性労働を強いた性奴隷制度であったとする主張がある一方、」と書き変えましたが、「実態は売春である」などと断定した書き込みに反応して修正したこともあり、批判側に重心がありますが、基本的には元の冒頭文の大意は変えておらず、偏った断定的表現はしていません。
如月の弥さんは60.36.126.40さんの「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であった」という偏った断定的表現を制度として説明し、「商行為であった」や「報酬が払われていた」という記述に関しては削除されませんでしたが、冒頭としては削除することに賛成である見解を示されました。
>このモトカルさんのは、ノートに提案されたものでもそれ以前の再録でもないようですが。
「強制的なものであったのか」を「強制的な環境のもとで性行為を強いた性奴隷制度であったのか」と書き変えたのは、その前に、火の鳥さんが、「慰安婦制度の実態は、慰安婦達に過酷な性労働を強いた性奴隷制度であったとする主張がある一方」という記述をしていたことをふまえて少し修正して書いたのだと思います。基本的な内容は変わっていないと思います。
>モトカルさんのは、「論争があると明確に書く」ということになるのでは
火の鳥さんも私の冒頭文の試案については、「特に異論はない」ことを以前に表明されていましたし、如月の弥さんも今回改めてモトカルがノートに書いた冒頭文の試案に異議はないことを表明して下さいました。
編集履歴をよく見れば、火の鳥さんも、如月の弥さんも、モトカルが試案として示した冒頭文に対してではなく、IPユーザーが書き変えた冒頭文に問題を感じて、修正、リバートしたことがわかります。
これらの件についてはもっと詳細を述べることができるのですが、今は控えておきます。--モトカル 2007年7月16日 (月) 04:11 (UTC)
> Ip218-44-81-60さん自身が私の再三の質問にまともに答えないことで議論が堂々めぐりになり、
私は何度も何度も的確に答えています。
> 誠実に返答お願いします
私は誠実に答えています。他人様の言葉を勝手に消したり、繰り返し1週間以上もホッポリ出したご自身の不誠実な対応を棚に上げて、他人様を難するような書き込みはそろそろ止めて欲しいものです。
> “両論併記”していたものを…
私の言葉を曲解しないで下さい。私は何度も何度も何度も何度も書きますが「争いがある」ことを金科玉条にした「文言の削除」を問題視しているのです。
> 「売春に従事した」を「売春に従事させられた」とするべきとか
そこの点は改めて検討すれば、両者の語彙を含む「売春に従事していた」(状態・存続の過去形)でよろしいと思う。Ip218-44-81-60 2007年7月10日 (火) 15:55 (UTC)
横から失礼しますが、『「争いがある」ことを金科玉条にした「文言の削除」』が具体的にどの編集のことを差しているのか、リンクでも貼って示して頂いた方が話が早いのではないでしょうか。「自分で考えろ」と言われましてもねえ・・・。--火の鳥 2007年7月10日 (火) 22:22 (UTC)
あと書き忘れましたが、やはり私の懸念したとおり、白石文献云々が論争が引きずっていますので、その論争が決着が着いた後に続きを続けます。Ip218-44-81-60 2007年7月11日 (水) 06:33 (UTC)
如月の弥さんにお聞きしたいのですが、Ip218-44-81-60さんは私の「“以前は両論併記”していたものを“両論併記”を崩したかたちになっている」という指摘に答えないで、白石文献の論争の決着が着いた後に続きを書くなどと言って、保護解除を更に遅らせようとしています。
そもそも、今回の保護の理由は私とIp218-44-81-60さんとの間で編集合戦になったためであって、白石論文の件は直接関係ないことは明らかだと思います。
保護は基本的に編集合戦を中断させ、議論を通じて解決するためのものです。如月の弥さんが載せることを問題視されていた白石論文そのものは「個人のブログ」と同様なものと見なして「検証可能性」の方針から削除することを私の方から提案しており、それ自体の問題は終結しつつあります。編集方針についてはお互いに未だ意見の違いがありますが、そもそも私と如月の弥さんの間では編集合戦にはなっていないのですから、議論を続けるために保護は必要ではないと思います。
如月の弥さんは今回の保護になって間もなく、自分の投稿の版で保護になったことをいいことに、保護状態を長く続けようとしているように見えるIp218-44-81-60さんの言動を見て、「保護を悪用する手法をを悪用する手法を、結果的に正当化しているようなもの」と指摘されていましたし、火の鳥さんからは「先に進まないようにすること自体が目的かもしれません」という疑念が示されました。
これにはまったく同感です。今回のことに素早く、厳しく対処しないと、慰安婦制度を糾弾する側の偏った記述の版で保護されてしまったときも、質問に答えなかったり、話題をそらしたり、まともに議論しないで保護を不当に長引かせるというような悪用をゆるすことにもつながるということをどうか深く御考慮下さい。ですから、そのようにまともに議論をしないことは投稿ブロックに値することの一つに挙げられています。
如月の弥さんがその時「判断基準を明確にしないのが間違いであり、かつ手法が乱暴」と指摘されたように、Ip218-44-81-60さんは未だに相手の質問にまともに答えることなく、保護を長びかせようとしているとしか思えませんので、私と如月の弥さんの間での議論が決着するか否かが今回の保護の解除の条件ではないということについて如月の弥さんの見解を述べてくださるようお願いします。--モトカル 2007年7月12日 (木) 12:35 (UTC)

勘違いしないで下さい。何度も何度も何度も何度も繰り返しますが、1ヶ月のも引き延ばしていた最大の要因は繰り返し1週間以上返答をほっぽりだしていたモトカルさんあなたです。それと私は白石問題なんてあなたが主張をいつまでも引っ張らずに引っ込めれば済む話です。如月の弥さんは引くところは引いて折り合いを付ける提案して何度も何度も収束を計っています。それなのにいつまでも引っ張っているのはあなたモトカルさんです。その上に、それでグチャグチャしたくないと云って、今回の項を変えた「両論併記」にまで、あなたはわざわざ白石問題を持ち出してきて、話をゴチャゴチャにしているのです。真面目にいい加減にして欲しいものです。あっちの問題はあっちで留めて下さい。そのご自身行状を棚に上げて、相変わらず他人様への非難だけは繰り返して。 良いですか? 白石問題をこっちの「両論併記」の項に持ってこないで下さい。再度申し上げますよ。白石問題をこっちの項には持ってこないで下さい。あなたがそれさえ守ればいつでも再開します。Ip218-44-81-60 2007年7月13日 (金) 15:37 (UTC)

>白石問題をこっちの項には持ってこないで下さい。あなたがそれさえ守ればいつでも再開します。
Ip218-44-81-60さん、他人の発言はよく読んでから発言して下さい。私は白石問題をこっちの項に持ち込むようなことはまったく言っておりません。あなたが、「(白石問題)の論争が決着が着いた後に続きを続けます」などと言うので、その議論の決着が保護解除の条件であるのかないのかについて、如月の弥さんの見解を聞いているだけです。話の流れからいって、その返答はここでもらうのは当然でしょう。
もちろん、この節で如月の弥さんとの方針についての議論は展開するつもりなどありませんので、この節で私が指摘したあなたの編集は“以前は両論併記されていたものを両論併記でない形に崩した”という点についてお答え下さい。--モトカル 2007年7月14日 (土) 08:35 (UTC)
P.S.
>1週間以上返答をほっぽりだしていた
6月24日(日)の如月の弥さんのコメントに対しての解答だけは、忙しかったこともあり、1週間後の7月1(日)となりましたが、その他は1週間以内に答えておりますので、1週間以上というのは事実誤認であることを一応申しておきます。過去のノートが過去ログ化されたため、6月20日から6月28日の間の履歴が消えているのでそう思われたのかもしれませんが・・・--モトカル 2007年7月14日 (土) 12:48 (UTC)
(コメント)横すみません。議論を蒸し返すようで悪いのですが、両論併記の両論とはどの説とどの説でしょうか?
現在の冒頭の文は、「管理売春」であったことは確定事項であり、現在の慰安婦は強制連行されたという一般的な説に対して、異を唱える人もいる。というように取れると思います。ところで、慰安婦に報酬が支払われていたのは、研究者の共通認識なのでしょうか?--草苺 2007年7月15日 (日) 10:06 (UTC)
草苺さん、初めまして。わかることだけお答えします。私が両論併記が崩されたと指摘している両論とは慰安婦は商行為であったとする主張と、強制的なもの、あるいは性奴隷であったとする主張のことです。
「慰安婦問題」の節の論点にある「公娼」か「性奴隷」かという所で双方の主張を併記しています。それなのに、現在の冒頭の文は、(「管理売春」であったことは確定事項であったとまでは言っていませんが、)その書き方から「売春」という商行為と取るのが普通で、強制的なものとする主張が一部の異論のようなニュアンスになっているため、私はそれが「特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」、「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」という「中立的な観点」という方針に反しており、盛んに両論併記を訴えて来たIP218-44-81-60さん自身が正に自分の主張に矛盾する記述をしていることを指摘しています。
報酬についても、高額な報酬を得ていたとか、そうでないとか、支払いを受けていないと証言する元慰安婦が多いとか、軍が支払っても業者が搾取したとか様々な主張がある中で、一律に「報酬が払われていた」と断定的表現をすることも大いに問題があると思います。--モトカル 2007年7月15日 (日) 13:21 (UTC)
> この節で如月の弥さんとの方針についての議論は展開するつもりなどありませんので
実際には、残念ながらあなたは白石問題の話を持ち出してきた。あなたが白石問題をコチラの項まで持ち出すようなら続きは無理ですよ。コチラの項で白石問題を絡めるとこの項の議論がグチャグチャになります。あなたが今後もそれを持ち出すことを自粛するおつもりがないようなら、当方は白石問題を含めたグチャグチャの状態の元ではとてもそれを議論する能力をとても持ち合わせていません。願わくばあなたの自制を求めます。Ip218-44-81-60 2007年7月16日 (月) 02:20 (UTC)

>あなたが白石問題をコチラの項まで持ち出すようなら続きは無理ですよ。

ここで如月の弥さんの答えをもらうのは自然であっても、どうしてもここでなければならないということもないので、私と如月の弥さんとの議論が保護解除の条件であるのかどうかについての確認のための節を設けました。如月の弥さんにもこちらで答えてもらうようにしました。 「白石問題をこっちの項には持ってこないということさえ守ればいつでも再開する」と仰ってたのですから、“現在の冒頭文は両論併記でない形になっている”という指摘についてもうお答えいただくべきだと思います。--モトカル 2007年7月16日 (月) 03:03 (UTC)

利用者:モトカル様。ご返信ありがとうございました。
私の頭の中で、
  • 強制連行が在ったのか否か。
  • 商行為であったのか、否か。
  • 大きな議論を呼んでいるのか否か。
などの両論があったのですが、商行為であったのか、否かが問題になっているようですね。
私も現在の冒頭部分には問題があるように感じます。冒頭の部分でもめているようなら、ものすごく簡潔な文にするといいのではないかと思います。嘗て日本の項目で冒頭の部分が問題になったことがあってそのときは、簡潔な文にすることで解決できました。--草苺 2007年7月16日 (月) 08:34 (UTC)
>冒頭の部分でもめているようなら、ものすごく簡潔な文にするといいのではないかと思います。
草苺さん、アドバイスありがとうございます。保護になってから、わたしも、火の鳥さんも、如月の弥さんも冒頭の部分は簡潔にすべきという点では一致していました。そもそも問題の始まりは「慰安婦は「売春」という商行為であった」とか「報酬が払われていた」という「中立的な観点」に反する断定的な記述が加えられたところにあります。
以前、如月の弥さんが「中立を保てないなら、原則削除、ということも可能でしょう」と仰っていたように、どうしても中立的記述にできないなら、制度や実態や報酬や論争について記述は冒頭には一切書かないというのも最終的な選択枝の一つですね。偏った記述を放置するよりはその方がウィキペディアの方針に適っているでしょう。--モトカル 2007年7月16日 (月) 09:41 (UTC)

[編集] 保護解除の条件について

如月の弥さん、Ip218-44-81-60さんが、「白石文献云々が論争が引きずっていますので、その論争が決着が着いた後に続きを続けます」と言われてましたが、私としては如月の弥さんとの編集合戦で保護になったわけではないので、編集についての意見に相違があるからといって、本論をほおっておいて、その決着を待ってから議論するのはおかしいと思います。如月の弥さんも週一程度にゆっくり書くと言っておられ、わたしも冷静に議論できるなら合意点を探りたいと思っております。Ip218-44-81-60さんは何だかんだと議論を先延ばしにしようとすることは如月の弥さん自身も早くから指摘されていました。保護を悪用する先例を作らないためにも、このことについて如月の弥さんの見解を示していただくことが必要ですので、どうかよろしくお願いします。 --モトカル 2007年7月16日 (月) 03:03 (UTC)

> 「白石文献云々が論争が引きずっていますので、その論争が決着が着いた後に続きを続けます」と言われてましたが、
モトカルさん、またですか…。何度も何度も繰り返しますが、もう少し誠実に対応して下さい。私は7/16の発言で「あなたが白石問題を“コチラの項まで”持ち出すようなら続きは無理ですよ。」と書きました。冒頭文に議論に対して、あなたと如月の弥さんの論争の元の白石問題を持ち出してきたのはモトカルさん、あなたですよ。私は先の発言で、念を入れて2度「コチラの項で白石問題を持ち出さないで」と書きました。つまり、問題はたった一つだけです。「冒頭文の項の議論で白石問題を持ち出さないで下さい」と云うことだけです。それだけですよ。モトカルさん、再三再四繰り返しますよ。「冒頭文の項の議論で白石問題を持ち出さないで下さい」これだけです。コレ以上何度も何度も何度も見て見ぬ振りをする様な不誠実な対応はいい加減止めて下さい。Ip218-44-81-60 2007年7月18日 (水) 15:45 (UTC)
>「冒頭文の項の議論で白石問題を持ち出さないで下さい」と云うことだけです。
あなたのその要望に答えて、先回、新しく別の節を作ったことをきちんと説明したではないですか?
目次を見れば、8が「保護解除のための議論(冒頭文・両論併記)」で、9が「保護解除の条件について」となっており、この節が別の(セクション)であることがわかるでしょう?
議題の内容にふさわしい節で議論するようにちゃんと分けているのですよ?「保護解除のための議論(冒頭文・両論併記)」の節では如月の弥さんとの議論をするつもりはありませんし、その議論が保護解除の条件であるかの返事も別のこの節でもらうようにしています。何か勘違いされていませんか?
それから、相手に問題を感じて指摘するのはかまいませんが、肝心の本論に関してはほとんどまともに言及しておられませんね。現在の冒頭の記述が両論併記ではないという指摘に対して、いつまでスルーするおつもりでしょうか?「以前は“両論併記”していたものを“両論併記”を崩したかたちになっているという」という“私(モトカル)”の指摘を「私の言葉を曲解しないで下さい。」などと自分の主張の問題にすり変えて、答えをはぐらかしています。草苺さんからも、現在の冒頭文は問題があると感じるという声が上がっています。聞いても聞かなかったかのようにいつまでも答えないことも“不誠実な対応”であることを御自覚下さい。それと、ここは如月の弥さんの確認をもらうための節なので、「保護解除のための議論(冒頭文・両論併記)」の節で御解答下さい。ウィキペディアは「議論や対話の呼びかけがあったら、基本的にそれに応じて一致点をさぐるよう努力すべき」としています。ですから、「編集や議論に際して他のユーザーからの質問や根拠の明示などの依頼に応ぜす、個人攻撃を行ったり話題を逸らすなどの行為を繰り返した場合にも議論が成立しにくくなる」として、利用者の問題行動だとしています。これ以上まともな議論をしない姿勢を続けるおつもりなら、第三者からも、あなたのウィキペディアンとしての姿勢が問題視されることになるでしょう。--モトカル 2007年7月19日 (木) 11:22 (UTC)
> ?「保護解除のための議論(冒頭文・両論併記)」の節では如月の弥さんとの議論をするつもりはありませんし
冒頭文を検討する項であなたが白石問題を持ち出しておいて、まぁよくホントに平気でそんなことをよく言うよね。あなたが「以後、この項では白石問題は持ち出しません。その点は保証します安心して下さい」と言えば済むことなのに、基本的にあなたのその誤魔化す姿勢が不誠実だと言うのです。どちらにしても、以降冒頭文を検討する項であなたは白石問題を持ち出さないで下さいね。ホントにホントにお願いしますよ。
では、とりあえずモトカルさんの冒頭文を検討する項では白石問題を持ち出さないと云う言質もいただいたので、冒頭文を検討していきます。Ip218-44-81-60 2007年7月20日 (金) 16:18 (UTC)

[編集] 冒頭文の提案

冒頭文の提案。広辞苑第五版と大辞林大辞泉を参考に書いてみました。

慰安婦とは、日中戦争太平洋戦争において、日本軍の性の相手を強いられたとされる女性の総称である。

--草苺 2007年7月19日 (木) 00:18 (UTC)

草苺さん、「慰安婦の定義について」という節で、辞書の定義を採用しようという意見があり、それについての問題点を既に述べているので御覧下さい。
辞書は物事を客観的に説明する百科事典と違って、「字引」という言葉が示すように、世の中で実際に使われている言葉の意味を説明しているという側面が大きく、その物事についての事実を分析したものではないということです。
「性の相手を強いられたとされる」という表現は「字引」としては妥当な表現かもしれませんが、ウィキペディアの「中立的な観点」の方針からすれば、「性の相手を強いられた」という主張と「性の相手を強いられたのではない(商行為であった)」という主張が現実にあることを考えれば、「・・・とされる」という断定ではない表現であったとしても、慰安婦制度を弁護する側によって“「強いられたのではない」とされてもる”わけですから、結局「強いられた」という主張の観点しか述べていないことになり、「様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべき」という「中立的な観点」の方針からすれば、よくないと思います。
また、目次にある「過去ログ」の「2007年6月3日 まで」の7「 冒頭の書き換えについて3 簡素化など」の節に(「従事した」、「従事させられた」の表現)の所の議論も参照して下さい。
現在の冒頭文の最初の所は私が「慰安婦の定義の試案」の節で示したものです。問題は「婦女の総称である。」以降の記述です。
2007年5月26日 (土) 18:04の版の「旧日本軍が慰安婦を強制連行したのか否か、慰安婦は、商行為であったのか、強制的なものであったのかや、慰安婦制度は他国にも見られるものであるのか、日本独自のものであるのかなどをめぐり様々な論争があり、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐり、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。」を現在は提唱します。

--モトカル 2007年7月19日 (木) 12:09 (UTC)

それでは、議論あるいは論争をよんでいるという観点からの記述になるのではないでしょうか?慰安婦問題は解決しているという観点を持つ人もいるだろうから、私はその記述にも問題があるように感じます。また、私が提案した案が、中立的でない点は理解できました。私は、慰安婦とはもともと強いられた女性という事であったが、調べられるうちにそうではないかもしれないという反論なども出てきたものだと思っていたので、元々の私自身の考え方が中立的でなかったのかもしれません。ところで、従事したとされる従事させられたとされるでは大分意味が変わってきますね。前項を採用すると慰安婦が存在したのかが問題になり強制的であったのかどうかは問題にならず、後述を採用すると従事したのか従事していないのかが問題になる思います。やはり議論を呼ぶ様なものは簡潔に述べることが難しいのでしょうね。--草苺 2007年7月19日 (木) 12:39 (UTC)
>それでは、議論あるいは論争をよんでいるという観点からの記述になるのではないでしょうか?慰安婦問題は解決しているという観点を持つ人もいるだろうから、私はその記述にも問題があるように感じます。
現在でも慰安婦問題が議論を呼んでいるという事自体は多くの人にとってかなり明らかなことではないかと思います。安倍総理の慰安婦に関する発言は大きな論議を呼びましたし、米下院での慰安婦に関する決議案のこともそうですし、それを阻止するために、日本のジャーナリストや政治家が「慰安婦問題」に対する誤解を解こうと、アメリカの新聞に一大広告を出しました。また、朝日新聞と産経や読売が社説等で批判し合うこともありましたし、テレビの討論番組でも慰安婦問題はしばしば激しい議論になっていますし、インターネット上でも同様です。「慰安婦問題は解決している」という主張は寡聞にして聞いたことはないですし、 独自研究は載せないという公式方針では「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない」とされています。
>私は、慰安婦とはもともと強いられた女性という事であったが、調べられるうちにそうではないかもしれないという反論なども出てきたものだと思っていた
慰安婦は先の戦争の頃のことですが、戦後も特に問題とはならず、1965年、韓国との国交正常化のために結んだ「日韓基本条約においても、元慰安婦らは補償対象にすらなりませんでした。1970年代吉田清治が軍の命令で慰安婦狩りをしたと証言したことから慰安婦が問題化したというのがこれまでの経緯です。
>従事したとされると従事させられたとされるでは大分意味が変わってきますね。前項を採用すると慰安婦が存在したのかが問題になり強制的であったのかどうかは問題にならず、後述を採用すると従事したのか従事していないのかが問題になる思います。
そうですね。ですから、現在のように自発的であるとも、強制であるとも断定しない「旧日本軍の軍人の性行為の相手になった」という記述にしています。
>やはり議論を呼ぶ様なものは簡潔に述べることが難しいのでしょうね
そうですね。それぞれの主張を単独で述べる場合と違って、一つの文の中で表現するときには、その順序とか言葉遣いをよく考えなければならないと思います。-モトカル 2007年7月19日 (木) 14:00 (UTC)

(インデント戻しました Byモトカル)

>「慰安婦問題は解決している」という主張は寡聞にして聞いたことはないということですが、記憶が曖昧で申し訳ありませんが、慰安婦訴訟において、慰安婦の問題は時効であるという意見が出ていませんでしたか?私は、旧日本軍の軍人の性行為の相手になった女性の総称だけというのは、良いかもと思います。しかし、それでは性の相手になった人=慰安婦になってしまいそうでない人も包括してしまうことになるかもしれないですね。そこで私は、

慰安婦(いあんふ)あるいは従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)とは、日中戦争太平洋戦争において、主に慰安所での日本軍の性の相手になったとされる女性の総称である。

を提案します。--草苺 2007年7月19日 (木) 14:21 (UTC)

草苺さん、なかなか議論に参加してくれる方がなかった中、いろいろ御意見を述べて下さり有難く思っています。
>慰安婦訴訟において、慰安婦の問題は時効であるという意見が出ていませんでしたか?
「時効」というのは当時から20年以上経過しているため、元慰安婦が日本政府に対して損害賠償を請求する法的権利がなくなったということで、あくまで法的な権利についての裁判所の判断であって、「慰安婦問題は解決した」という意見ではありません。凶悪な事件であっても、「時効」により法的に罪を問うことができなくなっても、問題は解決したとは言えないことはわかると思います。
それと、元もと私が最初に試案として示したものでも、「慰安所と呼ばれた施設」という記述を含んでいます。ただ、「主に慰安所での」の“主に”は慰安所以外では同様なことがあったということもないので、不要かと思います。
また、「慰安婦」という言葉は当時から使われたことばですが、「従軍慰安婦」という言葉は1970年代に慰安婦が問題化したときに、旧日本軍の強制連行を批判する意味から使われた特別な造語なので、「慰安婦(いあんふ)あるいは従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)とは」というように、並立して使うのは問題があると思います。以前のように「婦女の総称である」の次に「従軍慰安婦とも呼ばれる。」または、現在の冒頭文のように「戦後、人により従軍慰安婦とも呼ばれる。」とするのがよいと思います。詳しくは慰安婦の概要の節の「呼称」の箇所を御覧下さい。
それと、「性の相手になったとされる」という記述については、”性の相手になった”こと自体には異論はないので、現在の記述のように「性の相手になった」でよいと思います。先回も述べたように、問題は最初の定義以降の論争についての記述の部分をどうするかです。現在、問題にしているのはその部分ですから・・・--モトカル 2007年7月20日 (金) 12:45 (UTC)
>日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって
と書かれていますが、それは法的な責任のことではないのでしょうか?また、Wikipedia:大言壮語をしないとあるので大きな議論という表現も不適切かと思います。従軍慰安婦についてですが、広辞苑に載っているものなので恐らく正式な名称ではないかと思っていました。しかし、そのようなことを争っていると保護解除に支障がでるので、利用者:モトカル様の意見を参考に修正したいと思います。
慰安婦(いあんふ)とは、日中戦争太平洋戦争において、慰安所での日本軍の性の相手になった女性の総称である。従軍慰安婦とも呼ばれる。
原文の冒頭とあまり変わりませんが、これでいかかがでしょうか。--草苺 2007年7月20日 (金) 13:07 (UTC)
追記。私は冒頭はこの文章だけで事足りると考えています。--草苺 2007年7月20日 (金) 13:21 (UTC)

では、モトカルさんが、冒頭文を検討する項では今後白石問題を持ち出さない意思表示とされましたので、前回の続きです。

> 「売春に従事した」を「売春に従事させられた」とするべきとか そこの点は改めて検討すれば、両者の語彙を含む「売春に従事していた」(状態・存続の過去形)でよろしいと思う。Ip218-44-81-60 2007年7月20日 (金) 17:46 (UTC)

> それについて答えずに、答えを求めてもいないものに再び解答するというのは議論としておかしくありませんか?
別におかしくないでしょう。冒頭文の文章が「慰安婦」の実状が正確に伝わればよろしいと思います。
繰り返します。「売春に従事した」と「売春に従事させられた」の両方を含む意味で「売春に従事していた」で宜しいかと思います。Ip218-44-81-60 2007年7月22日 (日) 14:16 (UTC)
Ip218-44-81-60さん、あなたが既に2度も述べている同じ意見だけを無意味に繰り返し、私の指摘をまたもや無視して解答しない対応をしたことであなたが、編集において他の利用者と協調する姿勢がないこと、保護解除に向けてきちんと取り組む姿勢がないことがわかりましたので、あなたに対する対処を他の利用者たちと話し合うことに取り掛かります。--モトカル 2007年7月22日 (日) 14:35 (UTC)
> 私の指摘をまたもや無視して解答しない対応をしたことで
それは真逆です。私はちゃんとお答えしていますし、そのうえで改めて提案しています。だいたいモトカルさんあなたは、前回も私に対してアクセスストップを仕掛けた時も、如月の弥さんに逆に「そもそもあなたの対応こそがおかしい」とたしなめられましたよね。あなたが同じ間違いをするのは今回で2回目ですよ。あなたの独りよがりの不誠実な対応こそが常に混乱をもたらしています。
上記のことを踏まえて改めて申し上げると、「売春に従事した」と「売春に従事させられた」と混ざるからと言って、慰安婦の項でキーワードとなるべき「売春」と云う文言を抜いての対応が大変問題である。「売春に従事した」と「売春に従事させられた」の両方の意味や言葉を繰り返し申し上げている“両論併記”で入れれば済むことであるからして。その対応を行わずして「売春」と云う言葉を消すことに躍起になっているモトカルさんの編集姿勢は甚だ問題があります。私は最初からその姿勢についてしか問題視していません。あしからず。Ip218-44-81-60 2007年7月25日 (水) 14:17 (UTC)

利用者:Ip218-44-81-60様。売春という言葉が、慰安婦の項でキーワードになると仰られいますが、それは確かに、慰安婦は売春婦であったのかという議論において、キーワードになりうると思います。しかし、売春という言葉は、春を売るということで、つまり、報酬を目的とした性交を意味します。詳しくは売春の項目をご覧ください。そこで、冒頭の文で売春という言葉を入れてしまうことは、慰安婦であった女性は皆報酬を目的としていたという表記になり、中立性を欠くと考えられます。私は売春という言葉を冒頭に表記することは以上の理由から反対します。--草苺 2007年7月28日 (土) 07:28 (UTC)

>私はちゃんとお答えしていますし、そのうえで改めて提案しています。
Ip218-44-81-60さん、わたしは「一方を制度として説明し、他方をそれに対する異議というように記述するのは公平な両論併記ではない」と指摘しているのですから、まず、公平な両論併記であると思うのかそう思わないのかを示して下さいす。そして、どうしてそう考えるかの理由を述べて下さい(それも主観的な理由でなく、ウィキペディアの方針に基いて述べること)、それをして初めちゃんと”答えた”と言えるのですよ。最近、議論に参加して下さっている草苺さんもちゃんとそのように解答をして下さっています。
あなたが、如何に相手の質問や要請に解答を避けてきたかを一覧ではっきり示すこともできます。如月の弥さんがされたのと同じく、今後はこちらの疑問、指摘、要請など、あなたに解答を求める部分に下線を引きます。そして、私の提出した文型を>で引用する形での回答を求めることにします。
質問に対しては理由を述べて解答し、指摘に関しては賛否をきちんと示して下さい。わからないとか判断が難しいなら、そうと書いて下さい。もうこれ以上解答を避けて話をそらさないで下さい。
>だいたいモトカルさんあなたは、前回も私に対してアクセスストップを仕掛けた時も、如月の弥さんに逆に「そもそもあなたの対応こそがおかしい」とたしなめられましたよね。
如月の弥さんはあなたに対する投稿ブロックを検討することがおかしいと言ったのではなく、それを検討する前に、如月さんの加筆に対する私の編集の問題を議論しようとされたのであって、具体論を避け、保護を盾に取るようなあなたの態度に対して投稿ブロックに値することを最初に言い出されたのは如月の弥さんであり、火の鳥さんも早い段階からあなたが保護を長引かせる意図があるとの疑惑を表明されていたことをお忘れですか?
>その対応を行わずして「売春」と云う言葉を消すことに躍起になっているモトカルさんの編集姿勢は甚だ問題があります。
ノートでの議論をちゃんと確認して下さい。元もと「売春に従事していた婦女」という記述を「従事させられた」とするべきという意見に対し、私は中立的でないとして反対してきたのですよ。
「慰安婦制度の実態は「売春」という商行為であり」というあなたの編集を修正し、保護の直前までリバートした版は「慰安婦制度は「売春」という商行為であったのか、」という記述がありますし、論争の節を作り、慰安婦を商行為(公娼・売春)とする秦氏や小野田氏の見解を載せたのもわたしなのですよ。
以上のことからもわかるように、「売春」と云う言葉を消すことに躍起になっているなどというのはとんでもない事実誤認です
それに対し、ノートでの議論せず、要約欄での編集理由の明示もなしに、「実態は売春である」など中立的観点の方針に反した断定した記述に書き変え、議論もなく無言で何度もリバートしたあなたの姿勢の方がよっぽど問題でしょう
実際、火の鳥さんも如月の弥さんもあなたのリバートしたものを書き変えたのであって、私がリバートしたものは書き変えていないのですよ。あれだけの論争の後にも、如月の弥さんはわたしがノートに示した冒頭文案に反対はしないと仰ってくださっているのですよ。
それに対し、あなたの冒頭文の書き変えについては、火の鳥さんが「金銭を払って」という記述を削除し、「慰安婦は「売春」という商行為であったが、」という記述を示されている疑問の一つとして「「売春」という商行為であったか、」と書き変えましたし、如月の弥さんは「売春が慰安婦の実態と断定したあなたの記述を「制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、」と制度についての説明に修正されたました。なおかつ「報酬が払われていたという記述は冒頭においては削除すべきと、あなたの編集に異を唱えられたのですよ。
以前にも冒頭文が問題となったとき、Poo-Tさんという方が「冒頭での記述で論争点について断言した上で細目に記述するのではなく、論争点があることを記載した上で細目に一任するのが正しいはずだ」(ノート:慰安婦/冒頭の書き換えについて)とおっしゃっていますが、これにはまったく同感です。Ip218-44-81-60さんはこの見解をどう思いますか?--モトカル 2007年7月30日 (月) 14:22 (UTC)

[編集] Dutch Parliament demands Japanese compensation

The lower house of the Dutch parliament passed a motion unanimously on Nov 20,2007, urging Japan to financially compensate the women forced into sex slavery during World War II. All 150 members of the lower house of parliament voted in favor of the motion, which is highly unusual for the Dutch parliament, Dutch lawmaker Hans van Baalen told Xinhua.

"This should send a strong and clear signal to the Japanese government and the Japanese people, that so many years after World War II, people in the Netherlands still want the Japanese to recognize the war crimes of the past and to recognize the victims," said van Baalen, who tabled the motion. "It is a matter still taken seriously in the Netherlands," he said. [1]

[編集] Canadian government urges Japan to formally apologize

Canada's lower house unanimously approved a draft motion on November 28, 2007 that urges the Japanese government to make a "formal and sincere apology" to women who were forced by the Japanese military to provide sex for soldiers during World War II.

The text of the motion said the Canadian government should call on the Japanese government "to take full responsibility for the involvement of the Japanese Imperial Forces in the system of forced prostitution, including through a formal and sincere apology expressed in the Diet to all of those who were victims; and to continue to address with those affected in a spirit of reconciliation."

It also said, "Some Japanese public officials have recently expressed a regrettable desire to dilute or rescind the 1993 statement by Chief Cabinet Secretary Yohei Kono on the 'comfort women,' which expressed the (Japanese) Government's sincere apologies and remorse for their ordeal."

The motion, though nonbinding, also said the Canadian government should call on Japan to abandon any statement which devalues the expression of regret from the Kono statement and to clearly and publicly refute any claims that the sexual enslavement and trafficking of the "comfort women" for the Imperial Japanese Army never occurred.[2]

[編集] European Parliament speaks out on sexual slavery during WWII

(Brussels, 14 December) Amnesty International welcomes the European Parliament’s adoption of a resolution on “Comfort Women” – the thousands of young women of different nationalities coerced into sexual slavery by the Japanese army during the second World War. This important resolution follows similar statements by the US Congress, and the Canadian and Dutch Parliaments. All call on the Japanese government to formally acknowledge its historical responsibility for this systematic abuse, as well as apologise to and compensate the victims. The resolution follows a lobby campaign by Amnesty International and survivors in Brussels last month. [3]

[編集] 追加・要望

[編集] これを入れてほしいのですが

記事に下記の注意を入れるべきだと思うのですが、編集不可能になっていて入れることができません。 どなたか方法をご存知の方、代わりに入れていただけませんか?--133.9.4.11 2007年12月15日 (土) 06:21 (UTC)

なぜですか?
出典の明記については、当然かも知れません。いくらあってもいいものでしょう。
しかし、正確性については、他の多くの政治関係の項目についてもすべて均一になされるならともかく、この項目はたくさん資料がくっついています。これらへの疑問の点は、自ら書き込み、議論されればいいのです。 なぜわざわざ、「この記事は、他の項目に比べても信用できません」などというラベルをくっつける必要があるでしょうか。 --如月の弥 2008年5月11日 (日) 08:17 (UTC)

[編集] 東国原宮崎県知事の見解

3月14日外国特派員協会(FCCJ)での講演にて、「併合中、韓国は日本であり当時娼婦は合法であり、慰安婦は兵隊よりも高い給料を貰え、なり手も多かった。強制連行というものが事実ならば、それが実証されなければ正しいコメント・判断も難しい。」と述べている。これも記載お願いしますNamisenjin 2008年1月17日 (木) 12:37 (UTC)

[編集] 小野田寛郎 氏による具体的な娼婦への資金の流れ

小野田寛郎 帝国陸軍少尉が語っているところによると、その統計が興味深い。サラリーマンの初任給は40円程度の時代で、兵士1人あたり給料は13円。うち、漢口に駐屯していた33万人は1人あたりおおよそ4円程度、慰安所で使っていたとか。(兄が主計将校であったらしい)

今の公務員初任給が20万そこそこ、置き換えると兵士の給料は7万円で、うち三分の一は貯金させられ、あとは食費と「慰安所」への支出で2~3万づつ。全体では130万円(置換すれば65億円規模)にもなる。以下の引用文では戰鬪機と比べているが、現在の機体の値段と遜色無いので、この置き換えも往々にして正しい感覚を得る値ではないだろうか。

現在保護されているので、後、報酬に付け加えてもらいたい。また、「慰安婦」の懐には流れていたかと言えば微妙ではないだろうか(借金のため)。これほどの規模(漢口だけで)で経理は予想外だった模様とも語っている。

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約4円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。
日本の病巣: 小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」より正論での記事(?)を引用。

貯金より食い気に走りたい人間が、他の事にお金を。ましてや性の奴隷などに払う必要性は感じず、商売でなくばここまでの規模になるとは考え辛い気がする。--Qoo 2008年2月18日 (月) 23:07 (UTC)

[編集] フィリピン議会における慰安婦に対する謝罪要求決議

[4]

[編集] 冒頭文再考

冒頭文についてはこれまで主に以下のような議論がありました

如月の弥さんから利用者‐会話:モトカル#慰安婦、雑で慰安婦に関する保護解除の話をしようとの提案がありました。 まずは以前から議論のあった冒頭文について話したいと思います。如月の弥さんは保護されている現在の冒頭文のほうが2007年6月4日 (月) 23:15 モトカルなどよりましな理由として3点を挙げられました。

(1)建前上は慰安所制度は管理売春所だったことは明らかで、それさえも不明にするのは研究の無理な混ぜっ返しだ。

(2)「従軍慰安婦」という語はもめ事のもとであり、「戦後、人により」と加えることは当然だ。

(3)「性奴隷制」などと、まるで用語として定着しているかのように使うべきでない。

(1)について、慰安婦関係の文書で”管理売春”という言葉を使うのはあまり見かけないように思います。制度を言うときは”公娼制度”という言葉が比較的使われているように思います。管理売春という言葉は「従軍慰安婦」という言葉と同様に戦後の言葉のように思います。

この慰安婦問題は性、売春、女性の人権などに対する意識や価値観が変わった現代から過去の歴史を見ること生じているという面も大きいと思います。ですから、用語の使い方には慎重になるべきだと思います。また、慰安婦になることにおける強制性や報酬の有無などに関し、一律に語ることが不正確さを招き、編集をめぐる余計な論争を呼びます。

特に、冒頭部の箇所で総括的に書いてしまうと、詳細が書けない分、中途半端で、不正確な記述になってしまいます。これは如月の弥さん自身も以前から、「もめるようなら、「冒頭は簡略に、それ以後は充実」していけば大きなずれは防げるのではとおもいます。 」と述べられtおり、火の鳥さんや草苺さんなども「冒頭は簡潔な方がいい」との意見を示されていました。

制度のことや報酬のことは冒頭部分における慰安婦の最低限の説明としては必ずしも必要ではないと思います。せっかく、それぞれを説明する節があるのですから、そこで中立的な観点に基づき、各論をきちんと書くのがいいと思います。 総括的な書き方は出典によらず書く場合が多いですし、たとえ出典を出しても、特定の出典に基づいて書くこと自体が、「中立的な観点」上問題があることもあります。 以前に特定の辞書を出典に「旧日本軍の性の相手をさせられた女性たち」としようという意見がありました(ノート:慰安婦/定義)。

(2)について、「従軍慰安婦」という語には、「戦後、人により」との説明を付加することは間違いではないですが、人によりとはどういう人かが不明確です。日本軍が強制連行したこと批判する立場からの用語ですが、冒頭分にそこまで書くのは煩雑ですし、用語についての節でしっかり説明されているので、あえて「戦後、人により」と書かなくてもよいと思います。

(3)「性奴隷制」という言葉は批判側でどれかくらい定着しているかわかりませんが、その言葉を使わなくても強制されたという言葉でもいいと思います。

--モトカル 2008年5月10日 (土) 07:49(UTC)

かんたんに説明を加えましょう。
(1)管理売春 管理売春と公娼の違いは、公娼は衛生を管理し職業と認められているということで独立営業もできるはずです。実際「貸座敷」という言葉は、売春は娼婦がかってにやってることだという建前だったと思います。しかし、管理売春という言葉は、娼館主が女性を住み込みで抱え込んだことを意味すると思います。つまり、その言葉は娼婦街の娼館で彼女等が不自由な立場に置かれた環境を表します。 吉見教授が公娼も奴隷だという意味はここにも大きく関わってきています。 また、国際条約でいう性的奴隷とは、前借り借金で制約されていたことも含みます。 そのために娼婦の逃亡があり、それを防ぐ意味をかねて、娼婦街の出入り口に見張がいたという点が、性的奴隷制と言われる、様相を呈していたということです。
(もちろん、当時の常識として商行為でした。 しかし無せるなら無くした方がいいと見られている制度でした。 なくせなかったのは、売春がなくならないから、性病予防の点がブレーキとなっていたようです。(慰安所項目冒頭で少し書いていたけど、見張ってなかったので、今削除されています))
なので、管理売春という言葉は、性奴隷という誤解してしまう言葉よりも、はるかに中立的に正確に両方の視点を伝えている言葉なのです。 たしかこの部分はもともと私が書いたのではないでしょうか。
(後に追加挿入)この用語は、現代の暴力団による売春を取り締まるにも、管理売春対自由売春という形で用いられ、しかも当時の遊郭を示すことも常識であり、誤解させないための骨格がそろっています。有益な用語だと思いますよ。Infoseek マルチ辞書でも、「自己の占有・管理する場所または指定する場所に居住させ、売春させることを業とすること。売春防止法上の犯罪。」とあるので定義は明確でしょう。ただ、当時は犯罪ではなかったので、「管理売春の形」とするべきかもね。
ま、この用語自体にこだわりたくないものの、これを捨てた後にいつか別のことで混乱していくならばかばかしいと思うので、解説しておきます。
(2)従軍慰安婦 現実にあちこちでよく抗議が見えるし、左関係もその用語にこだわっているわけではないと、詳細部分で書かれているようです。 わずらわしい長さだとは思えません。消すか残すかの中間だし。
(3)性奴隷 性奴隷制という用語を使いたい人のために、詳しく書いておきます。
性奴隷という言葉は、前述のように、戦前のいわゆる奴隷条約において、「前借り借金を含めた当時の公娼も含んだ全体」的な意味であり、一部の労働者の強制的な労働条件も含めて奴隷労働とみなして、国際的に廃止しようとしていた時代の呼び方をもってきたものであり、そういうことをしっかり説明しないと誤解させるだけです。その誤解させるために性奴隷という言葉が国際的に多用されている、と思えます。まるで「性奴隷=被虐奴隷」のようにしか想像できない文章が多いですよ。 協力すべきではありません。 性的な奴隷就業に等しい、とかいう言い方ならともかく。
それに全体の文脈として、建前とは別に実態が「○○奴隷制」だった、などと続けると、管理売春以上の古代の奴隷制が裏で正式だったみたいになってしまいますから。 実態に大きな犯罪があっても、制度の建前は別にあるので。

--如月の弥 2008年5月10日 (土) 12:36 (UTC)

丁寧な御説明ありがとうございます。「管理売春」という言葉はウィキペディアにも独立した言葉はありませんし、性的奴隷という言葉が誤解を招く懸念を指摘されるとすれば、「管理売春」という単純化した言葉にも慎重になるべきではないでしょうか?これまで慰安婦の項目において「管理売春」という言葉は少なくとも私の知る限り、なかったように思います。
ですから、「管理売春」という言葉が”中立的に正確に両方の視点を伝えている”とはあまり思えません。言葉そのものそうですが、どういう文脈で使うかにより「中立的な観点」による記述ではなくなることがあります。ですから中立的な観点の文書には「対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになっていたり、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっているなら失敗」 と書かれているのです。
慰安婦制度自体が商行為であったがどうかが正に議論になっているのですから、「制度は・・・だが、実態は・・・・とする主張もあり」などと冒頭に安易に書くのは控えたほうがいいと思います。どうしても言葉足らずで誤解や論争を招きやすいものだと思います。
また、「報酬が払われていたとはいえ」という(報酬はなかったという主張も載せている)報酬の節を無視した記述は論外です。
冒頭に書くのは「従軍慰安婦とも呼ばれる。」までのあとは商行為であったかどうか、強制連行があったかなかったかなどの議論があるというぐらいでいいのではないでしょうか?それ以上のことを書き出すと、いろいろ問題が出やすいと思います。
「従軍慰安婦」についてはわずらわしい長さだというのは日本軍が強制連行したこと批判する立場からの呼称というところまで書く場合です。
「戦後は従軍慰安婦という呼び方もなされるようになった。」くらいでしょうか?「一部」などと書くと、小数か多数かの異論も出てしまうかとも思います。
「性奴隷」という言葉は「管理売春」という言葉と同様に不要な誤解を生じやすいのでやめましょう。--モトカル 2008年5月10日 (土) 14:28 (UTC)

冒頭の方針――ローカル基準
私としては、文案以前に、方針原則を立てることが大切だと思います。それは正体不明の狭い人数で合意してコミュニティを名乗るのでは、尊重される理由に足りないからです。 それはウィキペディアの創設時点で理解されているようで、ウィキペディアは民主主義の実験場ではないとされているわけです。
ここで原則に足るのは、中立で真の客観的真実の追究に貢献するための公正な方針です。いわば、三つの編集方針のローカル冒頭応用版です。このローカル原則が公正という尊敬を受け、この項目の現状に対して適当な方法であると、一般の人に認識されるようであって初めて、それを理解して意見を書く人が、百科事典の編集コミュニティ成員だと見てもらえるでしょう。 そうでなくてコミュニティを名乗る資格はありません。

方針案として、以下のシステムを考えています。

1.冒頭部には、評価にかかわるような結論表現を置かない。
2.冒頭部を十分「定義」しなければいけない、などと考えるのは争いのもとなので考えない。ここは「項目の輪郭」を示すものと了解する。 事典の項目は、他の項目と微妙な重複をすることもある、と了解する。
3.用語や表現が細かくなると次々と増殖しやすいので、冒頭部に限ってバランスのための表現追加よりも、バランスのための削除を方向としては優先する。
4.用語や表現の内容の蓄積を多数の編集者間で了解しておきたい。たとえば、前回の解説のように、冒頭に使われやすい用語について、そのような理解があったということと、こういう理由で使わなかったということを残しておきたい。
( たとえば、管理売春というのは、何かの理由で混乱した場合に役に立つ用語ですから、今は使わなくても、「意味不明」ということで消し去らずにノートでは了解しておくべきでしょう。(解説の追加を挿入済み))

用語と表現について、以下を考えています。

1.上記の(1)~(3)(+その他)を了解し合う。
2.内容理解と中立性の評価とを分けて了解をする、という方が厳密。
3.慰安婦問題を注目したい立場の側からの用語了解が一人以上はほしい。

また、必要条件ではないが、中立、客観的真実、公正にについて、ここなりの理解を育んでおきたい。

1.例えば、赤や黄色に見えるものがあって、「赤だ」「黄だ」という対立があったとして、「おおまかにいって朱色だと見られている」と書くのは、事典としての中立ではありません。 中立を作り出してはいけません。 真実は、茶色かもしれません。
また、白石の場合、資料を捏造的に紹介しています。これが、正式の地位のある研究者だったとしても、それを指摘せずにせずに主張を紹介することは、中立ではありません。 指摘が一方を傷つけるというなら、白石そのものを消去すればいいだけ。(ただし、誤解を長く広めたら、訂正期間が必要です)
( 厳密にはこの場合、モトカル氏の編集によって、その資料との矛盾を指摘した脚註が読者に見飛ばされやすくなってしまった、ということですけどね。 )
この議論無しにでも白石は除去できますが、中立について重大な点なので、課題として出しておきたい。

こういうことで、もう一人、慰安婦問題について、別の立場からの(ものの理解のいい)参加がほしいです。
具体的には、女性人権感覚的な立場からの火の鳥さんのような。草苺さんは第三者風に見受けられ有益ですが、さらに反対側の人がほしい。でなくば信用できる方が名乗り出られるといいのですが。

以上の達成の方が、早い解除よりも大切なことだと思います。 ウィキペディアの項目は、永遠に未完成であり、一時の合意よりも、基礎を作ることが大事です。 また、記事が疑わしければ、ノートを見る読者もいるでしょうしね。 --如月の弥 2008年5月11日 (日) 06:49 (UTC)

解除された以後の編集の問題を予防するためにも冒頭部についての三つの編集方針のローカルルールを立てるということはいいことですね。現在の保護に至る原因となったようなノートでの議論を無視した独断的書き換えというものが特に冒頭部では行われやすいですから・・・
4つの提案は非常によいと思います。ただ、「管理売春というのは、何かの理由で混乱した場合に役に立つ用語ですから、今は使わなくても、「意味不明」ということで消し去らずにノートでは了解しておくべきでしょう。」というのは冒頭部ではとりあえず使わないことにするが、使わない用語とは規定しないということでしょうか?
>1.例えば、赤や黄色に見えるものがあって、「赤だ」「黄だ」という対立があったとして、「おおまかにいって朱色だと見られている」と書くのは、事典としての中立ではありません。 中立を作り出してはいけません。
これは言葉としてはまったく当たり前のことですが、この慰安婦の項目においては「商行為であったかなかったか」、「報酬があったかなかったか」、「強制連行があったかなかったか」という対立についてはどう記述すべきということになるのでしょうか?
>もう一人、慰安婦問題について、別の立場からの(ものの理解のいい)参加がほしいです。具体的には、女性人権感覚的な立場からの火の鳥さんのような。草苺さんは第三者風に見受けられ有益ですが、さらに反対側の人がほしい。でなくば信用できる方が名乗り出られるといいのですが。
これには同感です。。--モトカル 2008年5月11日 (日) 16:01 (UTC)
(まず、上記方針案の2と、中立の色の例に、追加挿入しました。)
>『(管理売春を)使わない用語とは規定しないということでしょうか』
何年か先に、1~4の基準でも治まらず元に戻らなかったときのために、使えるかもしれないと思います。そのときでないとわからないけど。
>『「商行為であったかなかったか」、「報酬があったかなかったか」、「強制連行があったかなかったか」』
「削除的にバランスを取る」ということで対応すべきかと。つまり、文字数を極力減らし、感性表現を追加しにくい文にするとか。
たとえば 「商行為、報酬、強制連行などの存否を含めた実態が議論になっている」 という書き方でしょうか。
>『(別の参加者について)これには同感です。』
では、別の参加者が来てくれることが、第一の重要問題ですね。。--如月の弥 2008年5月12日 (月) 11:05 (UTC)
>事典の項目は、他の項目と微妙な重複をすることもある、と了解する
この文は何を意味しているのかちょっとわかりかねます。
>>『(管理売春を)使わない用語とは規定しないということでしょうか』
>何年か先に、1~4の基準でも治まらず元に戻らなかったときのために、使えるかもしれないと思います。そのときでないとわからないけど。
私としては冒頭部においては使うことを控えるべき言葉だと思いますが、本文中においては使わないと規定しようとまでは思いません。
>「削除的にバランスを取る」ということで対応すべきかと。つまり、文字数を極力減らし、感性表現を追加しにくい文にするとか。
たとえば 「商行為、報酬、強制連行などの存否を含めた実態が議論になっている」 という書き方でしょうか。
これはかなりよい文案だと思います。
>>『(別の参加者について)これには同感です。』
>では、別の参加者が来てくれることが、第一の重要問題ですね。
コメント依頼などで、それなりの参加者を呼び込み、この項目に限らず、編集合戦の起きやすい項目をどう記述して行くかのモデルケースになればいいなと思います。--モトカル 2008年5月12日 (月) 13:20 (UTC)
>『>事典の項目は、他の項目と微妙な重複をすることもある、と了解する 』
これは、朝鮮戦争の韓国軍や、戦後の占領軍相手の場合を含むかという議論を避けるためです。
>『(管理売春について)私としては冒頭部においては使うことを控えるべき言葉だと思いますが、本文中においては使わないと規定しようとまでは思いません。 』
将来使うことを約束する必要はないと思います。用語と理解を蓄積することができればいいです。---如月の弥 2008年5月12日 (月) 14:55 (UTC)

>>『事典の項目は、他の項目と微妙な重複をすることもある、と了解する 』 >これは、朝鮮戦争の韓国軍や、戦後の占領軍相手の場合を含むかという議論を避けるためです。

「微妙な重複をすることもある」とはかなり抽象的言い方で結局どうするのかわからないですね。朝鮮戦争の韓国軍や、戦後の占領軍相手の慰安婦(この呼称で呼ぶかはさておき)についても「慰安婦」の項目の中で書くということでしょうか?

>将来使うことを約束する必要はないと思います。用語と理解を蓄積することができればいいです。

承知しました。--モトカル 2008年5月13日 (火) 13:48 (UTC)

>>『事典の項目は、他の項目と微妙な重複をすることもある、と了解する 』
韓国の慰安所などへの少々の言及は、まったく構わないということです。あまり大巾になると別に独立させようという話も出てくるでしょうが、別にしたからといって言及をなしにする必要はない、という姿勢です。 事柄として関連がある(呼び方の語源で、内容が近く同一定義でくくれるという意見もある、となれば)ことは言及して、事典として自然です。 --如月の弥 2008年5月16日 (金) 13:03 (UTC)
これには同感です。日本軍だけでなく他の国の軍隊にも同様に慰安婦がいたという意見と、日本軍の場合だけはまったく別のものであるとする意見があるということは書くべきだと思います。この見方の対立も慰安婦問題の一部ですから・・・--モトカル 2008年5月17日 (土) 13:30 (UTC)


 >『(管理売春について)私としては冒頭部においては使うことを控えるべき言葉だと思いますが、本文中においては使わないと規定しようとまでは思いません。 』

 私はこの言葉を取り除くことに対しては絶対的に反対します。何度も何度も申し上げますが、モトカルさんの従来よりの姿勢である言葉狩りの方向に進むのであれば、当然同意出来ないばかりか反対せざるを得ません。Ip218-44-81-60 2008年5月17日 (土) 13:26 (UTC)

Ip218-44-81-60さん、意見を述べるときは是非その理由を明確にして下さい。「言葉狩り」などというレッテル張りをするのではなく、なぜ「管理売春」という言葉がこの項目の冒頭文に必要かをきちんと述べて下さい。ただ反対を唱えるだけでは議論ではありません。
それから私が従来から言葉狩りをしているというのはまったくの誤解です。
2007年5月28日 (月) 22:08の版での変更部分で「商行為であったのか」という部分に「売春」という言葉を付加し、「「売春」という商行為であったのか」と変更したはそもそもわたしなのです。その後も編集合戦になってからもその言葉を削除したりはしていません。2007年6月3日 (日) 04:09の版による変更点などのように「中立的な観点」をまったく理解しない断定的記述は変更しましたが、それでも、「売春」という言葉をそれにふさわしい文脈に戻しただけで削除などしていません。この項目に使うべきでない用語でない限り、特定の言葉を排除しようとは思いません。ただ、同じ用語でもどの文脈で使うかはよく吟味しなければならないということを理解して下さい。
それから慰安婦の制度について言及する場合、(冒頭部で使うかどうかは別にして)慰安婦問題においては使われることがそれほど多くなく、「売春防止法」により犯罪と規定された「管理売春」という言葉よりも戦中から使われて来た言葉であり、慰安婦問題でも使われることの多い「公娼制度」という用語を使う方がやはりいいと思います。--モトカル 2008年5月17日 (土) 16:59 (UTC)
 私としては、管理売春が認知度が低いという意見は尊重してもいい。 しかし、規定は明確で、現代には犯罪要件でも過去に合法なのは当然理解できると思う。 また、冒頭をより簡潔にしていくと、「制度としては管理売春の形態をとっていたが、」とより簡潔化した形になることを考えておいてください。
 でまた、Ip218-44-81-60さん、重要なのは冒頭の揺れを一定の範囲に留めることだと思うのですが。 そのためにも、基礎の基準に賛成してもらえる人が広く加わってほしいし、自分の考えを主張の形でなく、論理の形にしてほしい。  主張  要求の形の言葉が並んでいたんでは、公正さの基準なんて役に立たないでしょ。 まあ、今の冒頭の文末に、‘いろいろ問題になっている’などとくっついているバランス上なんだろうと想像していますが。

--如月の弥 2008年5月18日 (日) 18:29 (UTC)

[編集] 方針にかなう注釈とは

二つの議論が併行するとややこしいので、上記の冒頭文についての節とは別に、注釈についての節を設け、それまでの議論のうち、注釈の件に関する部分だけをこの節に移動しましたので、御了承ください。--モトカル 2008年5月13日 (火) 14:26 (UTC)

>白石の場合、資料を捏造的に紹介しています。これが、正式の地位のある研究者だったとしても、それを指摘せずにせずに主張を紹介することは、中立ではありません。 指摘が一方を傷つけるというなら、白石そのものを消去すればいいだけ。(ただし、誤解を長く広めたら、訂正期間が必要です)
まず、前提として、特定版削除により、その件に該当する編集の履歴がなくなっているので、当時の編集がどのようになされたかについては正確な議論ができません。白石論文自体は著名活動をしていない人のウェブサイトという理由で、削除に合意しましたが、この白石論文に限らず、”個人的な注釈を書く”ことがウィキペディアの方針に適うかどうかという問題があります。
様々な見解を紹介する箇所において、特定の見解だけに対し、その妥当性、信憑性を左右するような個人的な検証による注釈を書くということは、「Wikipedia:独自研究は載せない」という方針に加え、「Wikipedia:中立的な観点」の方針からも問題がないと言えるかは今でもやはり疑問に思います。
方針により禁止されている「独自研究」とは「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など
ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。
あなたの投稿内容が独自研究ではないと証明する唯一の方法は、あなたの主張と同じ主張をしている、あるいはあなたと同じ視点に立っている信頼の出来る公表済みの資料を示すことです。
これらの方針を具体的な場面でどう解釈するかについてはウィキペディアにおいてもっと議論される余地があるように思います。--モトカル 2008年5月11日 (日) 16:01 (UTC)
白石については、
まず大切なのは、他の参加者がやってきてくれることなので、去年の二の舞は避けたいですね。
かんたんに書きおいて、あとは他の人の常識に任せます。あなたも資料捏造を積極的に掲載したくはないはずだし。
かんたんに。
過去の具体例でなく、今の本文を例として、考え方の問題です。
あなたは以下の0)~2)を主張してきて、私は今回も0)~2)をテーマ設定しているが、あなたは今回 1)しか書いていない。1)のテーマ単体についての意見の違いもあるが、より重要なのは、1)×2)です。
0)、白石が資料を捏造して説明した事実は否定していない。
1)、しかし、白石の資料説明が捏造だと判断するに必要な資料の提示を、「指摘するのは違反だ」とする。
2)、明かな違いと知っても、掲載することを義務とする、または削除を禁じる。
以上の文の微妙な表現には抗議されるかもしれませんが、そういうテーマです。
記事表現の感覚の違いは別のことだと思います。--如月の弥 2008年5月12日 (月) 11:05 (UTC)
>白石については、
>まず大切なのは、他の参加者がやってきてくれることなので、去年の二の舞は避けたいですね。
やはり、こういう問題についてのそれなりの考えを持った利用者の意見が聞きたいです。
>0)、白石が資料を捏造して説明した事実は否定していない。
私自身は如月の弥さんに「如月の弥さんの「白石論文」に対する指摘を書いて頂き、それが「事実の指摘に等しい論証」であるか否かを検討することから始めましょう。 」と提案しましたが、これには答えていただけませんでした(#第三周期)。ですから、白石氏が資料を捏造して説明したのかどうかわかりません。
>1)、しかし、白石の資料説明が捏造だと判断するに必要な資料の提示を、「指摘するのは違反だ」とする。
”資料の提示”を違反だとしたのではなく、”捏造だと指摘している著書(出典)の提示なしに、捏造だという個人的な注釈を書くこと”が「独自研究は載せない」、「中立的な観点」の方針上、問題があるのではという疑義を示したのです。
>2)、明かな違いと知っても、掲載することを義務とする、または削除を禁じる。
「掲載することを義務とする」などと主張したことはありません。ウィキペディアにおいて、掲載”すべき”基準ではなく掲載”できる”基準として、「Wikipedia:検証可能性」の方針にある「ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」という言葉を示しました(#第三周期)。また反対に『載せる資格がない見解』として、「出典がない」、「検証可能性を満たしていない」、「独自研究である」、「著作権を侵害している」というもの」という個人的見解を示しました(#ウィキペディアの方針再考)。
また、「明かな違いと知っても削除を禁じる」に関しては「中立的な観点」にある「われわれは、不快感を催すような見方(「疑似科学」、人種差別や性差別などの「差別主義」、「ホロコーストの否定」など)であっても説明しなければならない、それが誤りであると主張することなく説明しなければならないことに同意するべきでしょう」と言葉を引いて、「大多数が「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと考える主義、主張であったとしても「人類の知識」の一つとして説明すべきである。かつ、それを「ウソである」、「事実でない」、「反対である」、「悪い」などと主張するかたちでの記述をしてはならない」ということだと思うとの見解を示しました(#ウィキペディアの方針再考)。--モトカル 2008年5月12日 (月) 13:20 (UTC)
白石の件。かんたんに。
0)について
事実の捏造については、何の資料かは語っているし、ノートや記事ページからリンクがありましたよ。 当然の事前知識でもあり、直接議論文中にリンクを貼らなかっただけ。
1)について
>『捏造だと指摘している著書(出典)の提示なしに』
そういう文脈のつもりだったかも知れませんが、私は提示しているつもりだし、ときどきのまとめ直しにも「提示無しに」などという表現の記憶がありません。
それだけが違いならば、この1)のテーマは片付いたかのようですが・・
2)について
>『「掲載することを義務とする」などと主張したことはありません』
それに続いて書いていることは、嘘を非難せずにわざわざ掲載することが義務だと書いているに等しいですね。そして、「非難すること」と「欠点を隠させないように資料をすぐそばに置くこと」を同じ行為だと見なした会話をしてきていた。 これではあなたは 1)と2)を一体に義務だと語っているのと同じ。
細かい部分から忠実に足し合わせたつもりでも、誤差は重なるので、書く人が自分の頭で規約の目的を果たすことを考えるべきでしょう。---如月の弥 2008年5月12日 (月) 14:55 (UTC)

>事実の捏造については、何の資料かは語っているし、ノートや記事ページからリンクがありましたよ。 当然の事前知識でもあり、直接議論文中にリンクを貼らなかっただけ。

該当箇所がノートも含め削除されたので、議論の中で如月の弥さんに捏造だという論証を求めたのに、説明していただけなかったということです。

>『捏造だと指摘している著書(出典)の提示なしに』 >そういう文脈のつもりだったかも知れませんが、私は提示しているつもりだし、ときどきのまとめ直しにも「提示無しに」などという表現の記憶がありません。

”如月の弥さんが資料を提示していない”ということではなく”「白石氏が資料を捏造して持論を述べている」という指摘をしている具体的な著書を提示していない”ということです。

>『「掲載することを義務とする」などと主張したことはありません』 それに続いて書いていることは、嘘を非難せずにわざわざ掲載することが義務だと書いているに等しいですね。

方針の解釈を確認し合うことが大事なので、そのような極端な捉え方をしては生産的な議論になりません。ウィキペディアには何でも書けるわけではなく、方針上書きたくても書けない場合があることが往々にしてあることは経験なさってはいませんか?

わたしは「掲載してよいもの」、「掲載してはいけない」ものをウィキペディアの方針から述べているだけです。ですから、”「白石氏が資料を捏造して持論を述べている」という指摘をしている著書が実際に存在すれば、それを出典として白石氏が資料を捏造しているということを様々な観点の一つとして当然掲載できるのです。ただ、そのような出典なしに、個人的に資料を見比べて捏造だという注釈を書くことはウィキペディアの方針上問題があるのではと指摘したのです。それは以前から繰り返し述べていることです。

>そして、「非難すること」と「欠点を隠させないように資料をすぐそばに置くこと」を同じ行為だと見なした会話をしてきていた。 これではあなたは 1)と2)を一体に義務だと語っているのと同じ。

単に「資料をすぐそばに置く」ということにとどまるなら、あれほど問題視はしなかったでしょう。個人的に資料を見比べて、白石氏が資料を捏造していることがわかったから、そのことを注釈として書かせないのは不公平だと主張されたからです。公正な議論のために言葉は正確に論じてください。

>細かい部分から忠実に足し合わせたつもりでも、誤差は重なるので、書く人が自分の頭で規約の目的を果たすことを考えるべきでしょう。

ちょっと、意味がわかりづらいです。白石氏の見解は著名活動していない人のウェブサイト上の見解という理由で削除の方向なので、この件そのものではなく、「独自研究にならない注釈、中立的観点に反しない注釈はどのようなものか?」という普遍的なテーマを論じるということだけは明確にしておきましょう。--モトカル 2008年5月13日 (火) 13:48 (UTC)

「基本的に何が問題なのか」という要点について新しく整理して合意することができないことが、はっきりしました。
あなたは、『「白石氏が資料を捏造して持論を述べている」という指摘をしている具体的な著書を提示”』しないと、資料の提示はできないというわけですね。これは、明確に、1)です。
その上で、『極端な捉え方をしては生産的な議論になりません。』 というのは、2)を主張しているからだ、としかとれません。
これでは、1)×2)を構成します。その極端な場合を許容しろというように読めます。
以前あなたは私の注釈について、『これは単なる事実の指摘で”解釈”までは述べていないので、個人的にはこの辺がギリギリの線なのではと思います。 』 と認めていたはずですが。
この問題は、白石がただの学生か、論戦しているメジャー研究者か、という比較であれば、大した問題ではありません。しかし、マイナー研究者だと、大した反論する必要もなく無視されてきたこともあり得、わかりきった欠陥を隠して間違ったことを宣伝することになりかねません。 ウィキペディアの影響力は大きくなる傾向にあり、つまらぬ意見を普及させる危険を自覚しないのは社会的良心に反します。
また、メジャー研究者でも、片方が捏造的な非難をすることはあります。片方が上品にも反論しない場合、捏造を知っていて指摘せずに掲載するのは、社会的危険が大きいです。
一応、違いが明らかになったと書いたとはいえ、ただの混乱の一瞬の様相かもしれません。
脈絡が乱れたまま続けるより、別の場所、たとえばそれぞれ自分の利用者ページorブログを設定して、自分のテーマ設定を宣言して、自分で完結的に書いた方がいいのかも知れませんね。 その上でテーマのすりあわせをした方が混乱しないかと。
それと、「ウィキペディアの方針再考」の終わりに移動させた方がすっきりするでしょう。 --如月の弥 2008年5月15日 (木) 12:49 (UTC)
>あなたは、『「白石氏が資料を捏造して持論を述べている」という指摘をしている具体的な著書を提示”』しないと、資料の提示はできないというわけですね。これは、明確に、1)です。
議論をするなら相手の主張を正確に把握して下さるようお願いします。「資料の提示はできない」などとは言ったことはありません。「捏造しているという注釈を書く」ことにを問題にしてきたのです。「ウィキペディアの方針再考」の節の#第二周期でも、保護された現在の記事において如月の弥さんが資料に関する記述をされていることについて、「単なる事実の指摘で”解釈”までは述べていないので、個人的にはこの辺がギリギリの線なのでは」と述べていたではないですか?ですからその部分の記述は削除しなかったのです。
>その上で、『極端な捉え方をしては生産的な議論になりません。』 というのは、2)を主張しているからだ、としかとれません。
これでは、1)×2)を構成します。その極端な場合を許容しろというように読めます。
まず、2)のうち、「明かな違いと知っても」については如月の弥さんがそう考えているだけで、私はこれまで捏造だとも捏造でないとも言っておりません。そもそもどのような意味で如月の弥さんが捏造と主張されているのかは「今までの資料にあるものを「ない」と嘘をついて、自分だけの解釈をしている」という説明ぐらいで、これまであまり明確にされていませんし、#冒頭文について、2部 バランスとルールにおいて利用者:火の鳥さんが「白石氏の論文は、資料の解釈の方法に関する主張であり、そこに書いてある内容の基本的な点については一定の支持があると思います。」と言われたことに対して何の反論もされませんでした。
また、2)のうち「掲載することが義務」などとは言っていません。「掲載できる条件を示す」ことと「掲載することを義務と主張する」ことはまったく違うものですし、「掲載できない条件を示し」たことはあっても、「削除を禁じ」たことなどありません。 先回、そのような主張はして来なかったことを説明したばかりなのに、相手の主張をまたもやこのように歪めて主張されるるなら、白石氏のことは言えなくなりますよ。
>ウィキペディアの影響力は大きくなる傾向にあり、つまらぬ意見を普及させる危険を自覚しないのは社会的良心に反します。
反対に特定の見解にウィキペディアの立場で(客観的に見て正しくないかもしれない)評価を書いてしまうということも同様の危険性をはらんでいるとは言えないでしょうか?また、様々な見解を掲載しても、それが正しいものだとウィキペディアが紹介しているのではないことも忘れてはいけません。
>メジャー研究者でも、片方が捏造的な非難をすることはあります。片方が上品にも反論しない場合、捏造を知っていて指摘せずに掲載するのは、社会的危険が大きいです。
如月の弥さんの論によれば、火の鳥さんが言われたように産経新聞の古森氏の「慰安婦「契約の下で雇用」米陸軍報告書、大戦時に作成」の記事についても、「偽りの説明で集められたとか、慰安婦の生活が困窮していたとか、契約の原文にある「forced」などは意図的に避けられている」、「新しく発見された資料ではなく、以前から知られているミッチーナ関連の文書である」などという注釈を書いてもよいということにもなるのでしょうか?
>脈絡が乱れたまま続けるより、別の場所、たとえばそれぞれ自分の利用者ページorブログを設定して、自分のテーマ設定を宣言して、自分で完結的に書いた方がいいのかも知れませんね。 その上でテーマのすりあわせをした方が混乱しないかと。
テーマははっきりしているのです。「独自研究は載せない」、「中立的な観点」の方針から考えたとき、特定の見解について、その評価を左右するような注釈を書くこはどこまでゆるされるかということに尽きます。社会的影響力とか、社会的良心などの観点も度外視すべきではありませんが、やはりウィキペディアの公式方針に基づいた議論でないと意味がありません。まだ議論を続けられるお気持ちがあれば、是非、方針に基づいた主張をお願いします。また、「ウィキペディアの方針再考」の節はかのIPユーザーとの長いやりとりもあり、非常に煩雑になっていますので、可読性の点からも統合させない方いいと思います。--モトカル 2008年5月17日 (土) 13:30 (UTC)
わけがわかりません。あなたは、1)×2)には反対なのですか、擁護するのですか、考えないのですか。
そのようにいつも「言ってない」と書きつつ、その姿勢は強力に語っていたのと同じです。
>『掲載できる条件を示す」ことと「掲載することを義務と主張する」ことはまったく違うものですし』
私に対して、あなたが主張してきた立場は、そんな文があっても削除しないというものです。また、あなたは『「人類の知識」の一つとして説明すべきである』と書いています。義務に近いですね。
これらの受け取り方を私の捏造だなどという前に、自分はどう思っているのか、自分の立場と姿勢を自分の言葉で書くべきです。 私のいう 1)×2)に対してどうなのかを。
>『産経新聞の古森氏の・・・「forced」などは意図的に避けられている」・・・以前から知られているミッチーナ関連の文書である」などという注釈を書いてもよいということにもなるのでしょうか?』
当然でしょう。双方向に適用できますよ。なぜもちだすのかわからないほど当たり前です。
ただし、書く必要の程度によって、指摘する文章の中立感覚が問題になりますがね。 また、「「forced」などは意図的に避けられている」という部分は、非難の宣伝を受け売りするのはよくないので、根拠をしっかり知っておく必要はあります。 たとえばこの場合それは、公刊された龍渓書舎の本では 「自ら署名した契約により、前借り金の額に応じ半年から一年間の仕事に従事させられた」 とある文でしょうね。 根拠を確認して、根拠の捏造宣伝に利用されないようにすべきです。
>『それが正しいものだとウィキペディアが紹介しているのではないことも忘れてはいけません。』
気分的主張の問題よりも、まともな根拠があるから百科事典に載っているのだ、と受け取られることが問題なのです。 資料や根拠の捏造を語っているのですよ。 あなたは主張的感覚の中立を気にして、根拠の中立という概念がないのでは?と思ったりしますね。 記事とは根拠の紹介ですよ。
なにか根拠は眼中になくて、「考える責任はない」と言って逃げているみたいです。
>『テーマははっきりしているのです』
私から見れば、私の問題にしているテーマ(焦点)がうやむやに無視されていく文が並んでいるとしか思えません。
以下は、そのうやむやの枝葉について。これらへの返事があるでしょうが、再言及する意味はないでしょうね。
>『そもそもどのような意味で・・・という説明ぐらいで、これまであまり明確にされていません』
私は原理を問題にしてきました。あなたは私に原理的に反対していました。根拠を知ろうともせずに、無関係なのが編集者の立場だという姿勢だったはずです。 いまさら、十分詳しい説明を聞かなかった、などと言っても無意味でしょう。
>『一定の支持があると思います。」と言われたことに対して何の反論もされませんでした。』
捏造だという以上の反論が必要ですか。「一定の支持」とは、騙されている人々かペテン仲間が多いとしか受け取れないでしょう。「一定の根拠」というならともかく。 それを詳しく書けば、本文に書くべきだということを火の鳥さんはあなたと違って反対しないと思えるが、あなたはそれ以前に知ろうともしないことを主張していた。 私は別のことだから後回しだと受けているでしょう。あなたがそれを持ち出すのは、ずれています。
>『評価を書いてしまうということも同様の危険性をはらんでいるとは言えないでしょうか』
「指摘」は実際の本文においても、原理的な主張においても、資料の提示であり評価ではないと繰り返し書いているが、あなたは片方に不利になれば評価だと決めていた。いまさら、言葉のずれを蒸し返さないで、原理を語ってほしい。 資料と比較するとだめになるようなものは掲載に値しない、という選択を語らないのは 2)であり、そして資料への導きをシャットしたがるのは 1)ですね。 --如月の弥 2008年5月18日 (日) 17:35 (UTC)
念のため、混乱の例を追加。
>『テーマははっきりしているのです』 『その評価を左右するような注釈はどこまでゆるされるか』 『ウィキペディアの公式方針に基づいた議論でないと意味がありません。』 『まだ議論を続けられるお気持ちがあれば、是非、方針に基づいた主張をお願いします』
それでは、1)だけしか言及していない。 2)を無視している。 あなたの今までの言論は 2) を主張している。たまたま自分ではやらないとしても、他人が 2)をするのはよいことで、邪魔するなら 1) として禁じる、ということをずっと主張している。 「1)×2)」 をやりながら、1)だけがテーマだと今回の末尾で書いている。
もちろん、1)についてだけでも、互に異論がある。 しかし、1)×2) が問題なのは、去年の下線部からも続いていることだ。 --如月の弥 2008年5月19日 (月) 09:15 (UTC)
追伸、念のため。
1)×2) は、白石の件は例に過ぎず、中心は原理のことです。 --如月の弥 2008年5月19日 (月) 15:13 (UTC)
如月の弥さんとの議論はひとまずこれで終えたいと思います。わたしの主張を正確に把握しておられず極端な解釈をされるため、私は第三者に誤解を招かないためにも議論する前に如月の弥さんの極端な解釈ををいちいち訂正しなければならず、なかなか話が進展しません。
わたしはウィキペディアの方針に基づいて議論しているのに、如月の弥さんは「社会的良心」だとか(何についてか不明の)「原理」とか「根拠の中立」などという独自の概念を持ち出し、ウィキペディアの方針に基づいた主張がほとんどないので議論がかみ合わいません。これ以上続けるよりも今後は第三者の有益な意見の表明に期待しようと思います。
1)×2)に対して先回もきちんと答えているのに「反対なのですか、擁護するのですか、考えないのですか。」とまたもや尋ねておられます。こんなやりとりを繰り返すのでは議論になりません。
「白石氏が資料を捏造して持論を述べている」という指摘をしている著書が実際に存在すれば、それを出典として白石氏が資料を捏造しているということを掲載できる。」(検証可能性)
「白石氏が資料を捏造していることを指摘しているという著書(出典)の明示なしに、個人的に資料を見比べて「捏造だ」という注釈を書くことは方針上問題が大きい。」(独自研究は載せない)
読者の理解を助けるために単に資料の提示をすることが有益な場合もあることはわかります。しかし、特定の見解について、資料の提示にとどまらず、ウィキペディアの立場で(「捏造だ」とか「正論だ」などと)論評することには相当慎重であるべきだと思います。この「慰安婦」の項目においても以前、加藤官房長官の談話について、過去の参議院予算委員会での政府答弁が嘘であったことを認めた。」という記述に異を唱えました(ノート:慰安婦/Archive03#政府が嘘をついたという表現
そこでは「いくつかの事実からある結論を導くとき、それが自明の結論のように思えても、別の見方もあることが往々にしてある。だから安易に総括することなく、はっきりとした事実だけを書き、できるだけ”事実に語らせればよい”。それがウィキペディアの「中立的な観点」という方針だ」という旨の主張をしました。そういうことを考えると”捏造”などという言葉は大変重いものです。
大辞泉によれば捏造とは「事実でないことを事実のようにこしらえること。」とあります。捏造とは通常、意図的に嘘をつくことであって、白石論文がということではありませんが、例えば悪意はないが資料解釈がつたないゆえに、問題のある解釈をしている場合などは「捏造」と表現すべきではないでしょう。
如月の弥さんは「白石の件は例に過ぎず、中心は原理のことです。」と述べておられます。
原理とは時間や場所によって変わらない普遍的なものです。議論すべきは”原理”というようなものではなく、あくまでもウィキペディアの”方針”です。方針とはルール、決まり事です。野球で言えば、打球がこの白線の内にフェア落ちれば外に落ちればファールという約束事です。これは普遍的原理とは違い、白線の位置を変えれば、フェアかファールの範囲も変わります。ルールは完璧なものではなく、現実の運用面で問題が生じることもあり得るでしょう。
しかし、現実にあるルールを脇に置いて、特定の立場にたたないというウィキペディアの言う中立性とは違う「中立性」などの観点から議論しても意味がありません。とにかく、ウィキペディアの利用者間における共通言語は”原理”ではなく、”方針”であることは明確にしないといけません。そもそもこの節の題名は「方針にかなう注釈とは」なのですから・・・・--モトカル 2008年5月24日 (土) 09:57 (UTC)


[編集] アメリカ連邦最高裁

アメリカで起きた一連の訴訟で、アメリカ連邦最高裁が下した結果は消えたのでしょうか。-220.211.183.188 2008年6月15日 (日) 11:12 (UTC)

[編集] 全角英数字等のの半角化について

議論とはまったく関係ありませんが、随所に全角英数字が散見されますので、管理者伝言板に保護中の修正依頼を出したいと思います。--いろはにほへと 2008年6月19日 (木) 14:13 (UTC)

[編集] 慰安婦管理に軍が深く関与

林博史・関東学院大学教授(現代史)が、イギリス国立公文書館で見つけた史料で確認しました。日本軍は敗戦直後に慰安婦を補助看護婦(当時の表記)として雇用し、その存在を連合国軍に隠すつもりでいたようです。(「敗戦後、慰安婦を看護婦に 旧軍の命令、文書で初確認」2008年6月19日、共同電)--118.243.109.90 2008年6月20日 (金) 04:47 (UTC)


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