女子挺身隊
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女子挺身隊(じょしていしんたい)は、1943年に創設された14歳以上25歳以下の女性が市町村長、町内会、部落会、婦人団体等の協力によって構成されていた勤労奉仕団体のこと。政府は翌年の1944年に勅令第519号をもって、女子挺身勤労令を公布したが、1945年3月に国民勤労動員令によって吸収されたため挺身隊は国民義勇軍に再編成された。韓国では慰安婦と混合されることがあるが両者は全くの別物で関係ない。
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[編集] 概要
挺身隊は、日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国民総動員態勢の補助として行われた。1943年9月の「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」では、航空工場、政府作業庁、男子が付くべきでないとする分野(たとえば、保母や看護婦)、などとされる。工場を長時間労働させるために託児所も増やされた。
[編集] 関連の法律・運動
- 国民徴用令は1939年7月に施行
- 国民勤労報国協力令(昭和16年 [3]
- 14~40歳の男子、14~25歳の実質未婚女子。原則、30日/年
- 女子勤労動員ノ促進ニ関スル件( 昭和18年9月 次官会議) 自主的な組織で14歳以上の未婚者。
- 1944年2月、国民職業能力申告令の改正によって12歳以上が労働力とみなされるようになる。
- (なお、当時の義務教育は、初等教育の小学6年までである。その後の就職はよくあることであった。)
- 2月末の勤労挺身隊は、約16万人という。[1]
- 女子挺身隊制度強化方策要綱 昭和19年3月18日 挺身隊に取られる期間はさしあたり1年。
- 女子挺身勤労令(昭和19年82月3日 即日施行
- 学徒動員令も同時施行。 (中等学校二年以上)
[編集] 朝鮮の挺身隊
国民徴用令は1939年7月に施行されたが、朝鮮においてはずっと後になる。
- 用語
日中戦争の頃、挺身隊という語は男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」 として1940年から使用されていた。未婚女性の勤労動員である挺身隊は、「処女供出」とも呼ばれた(朝鮮語の「処女」とは未婚女性とか若い女性とかいう意味)。
- 徴用拒否とうわさ
朝鮮では一般に徴用を逃れようとし、未婚女性は戸外労働を忌避する伝統があり、家から離して隠したり早く結婚させようとしていた。韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた尹貞玉(1925年生)も'43年度中に退学している。 また元慰安婦の証言からは「女子挺身隊」は詐欺の名目に使われた例がある。(一方内地では、上述のように12歳の就職はよくあることであった)
- 1944年6月の内務省の文書には、「朝鮮では動員についての認識が浅く徴用として嫌がり、結局未婚女子の徴用が必要であり、中にはこれらを慰安婦であるかのような荒唐無稽のうわさがある」といった記述がある。
- 1944年8月、国民徴用令が朝鮮にも女子を除いて施行される。
- 同8月に内地では女子挺身勤労令が出されたが、朝鮮総督府は朝鮮女子は除外すると言明した。 当時、徴用忌避に気をつかっていて、また朝鮮女性の労働力登記は極小であった。 そのため、志願による方式をとらざるを得ず、官斡旋の挺身隊募集によって行われ、それは学校教師による生徒への勧誘が多かったらしく、進学も兼用という話も多かったらしい。(その進学(夜学)が実現しなかったのは、嘘なのか戦況の悪化なのかは不明。他に軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る者もいる。)
[編集] 慰安婦との混同
現代に、女子挺身隊と慰安婦が韓国で混同された経緯については尹貞玉、千田夏光、植村隆、金学順を参照。
韓国の李栄薫教授によると、
- 当初「挺身隊の総数は20万、うち朝鮮半島出身者5~7万」と1969年の韓国国内の新聞に出ていたという。中央日報 2005.04.26[4]
- これが後に「朝鮮半島出身者だけで20万」となり(千田夏光などの記載)
- さらには慰安婦徴用と混同され「朝鮮半島出身者の従軍慰安婦だけで20万」となった(尹貞玉)[1]
背景としては、当時朝鮮では挺身隊として取られることが売られていくことのように噂されていたことがあり、その噂を利用した就職詐欺の人身売買も存在していたことがある。(従軍慰安婦も参照)
[編集] 文献
- 尹明淑 『日本の軍隊慰安婦制度と朝鮮人軍慰安婦』p296-298
- 泰郁彦『慰安婦と戦場の性』>七つの争点、名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会 原告=最終準備書面
[編集] 関連用語
[編集] 脚注
- ^ a b
当時の人口と人数を見てみると、1944年2月末に、全国(内地)で編成された勤労挺身隊は、約16万(母数の詳細不明)(「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」の「原告=最終準備書面」 [1]) という。この半年後の8月に強制動員となり、さらには国民義勇軍に吸収される。1969年の韓国のソウル新聞では挺身隊数が、総計20万、朝鮮人5~7万だったという。 ちなみに1940年当時の日本の人口は7,000~7,500万であり、朝鮮の人口が2,500万だとしたら、約3足らず:1となる。
当時の数字として、'44年5月の日本の女子挺身隊の結成率7%、'44年以降12才以上の生徒や学生約300万人が動員、10歳以上の児童、青年学校および中等学校の学徒500万人、という数字がある。 また食糧難が起きていた。(数字は、『決定版・昭和史--破局への道』第11巻190頁 、他 [2])
きわめて参考までだが、14~23歳の女性の人口は、平時の一般最高年齢を70歳とすると、1/14×(35+約7.5/35)(人口ピラミッドによる世代比と平均値の中間として仮予想)=約1/11.5で、600~650万辺りとなる。