自虐史観
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自虐史観(じぎゃくしかん)とは、日本において第二次世界大戦後の歴史学会で主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。
概要
第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。
日本の近代化の遅れや歪み、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、戦前のいわゆる皇国史観が歴史学の研究に規制を設け、歴史学の発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。
「新しい歴史教科書を作る会」などの運動をする人達はこうした状況下で育まれた歴史観を「自虐史観」とし、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。
そのような教育を受けた結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「誤った歴史観」の修正を唱えている。
論争
日本の歴史学が戦後民主主義教育によって著しく歪められたと考え修正しようとする「自由主義史観」の提唱者および支持者は、特定の歴史学者や歴史観に対して「日本を貶める左翼」「反日主義者」「プロ市民」とレッテルを貼り、一方で、その動きに反対する人達は、その運動を展開する人達を「歴史修正主義」「右翼」「軍国主義」とレッテルを貼り返し双方で非難し合っている。
「自由主義史観」の提唱者は軍国主義や皇国史観への回帰ではなく、民主主義を否定するものではなく「歴史は一面的に捉えることはできない。正と負の歴史の真実を見つめなおそう」と主張している。
一方、それに反対する人達はその運動の提唱者や支持者に過激な保守勢力が含まれていることや、日本史の「負」の側面がほとんど描かれていないと主張する立場から、戦前への回帰運動で軍国主義、皇国史観の復権であると批判している。
既存の歴史学を「自虐史観」と非難する人たちは、歴史学の専門教育を受けた者で占められているわけではない。そのことの象徴例として、「自虐史観」非難を代表しているとみなされているつくる会が「歴史は科学ではない」と言明している点が挙げられる(毎日新聞2001年3月9日朝刊2頁、産経新聞2001年5月18日東京朝刊12頁)。この立場は同会関係者・西尾幹二著『国民の歴史』第二章「時代区分について」冒頭においてすでに表明されていた。この立場は、歴史学のディシプリンを否定するものとして批判され、多くの歴史学者の支持を失った。
次いで、「つくる会」編・西尾幹二著『新しい歴史教科書』が2001年に検定を受けた際に提出された白表紙本の内容が漏洩・報道され、同・白表紙本の序文「歴史を学ぶとは」冒頭に「歴史は科学ではない」と宣していたこと判明した(同記載があったことを、関係者でもある評論家・松本健一も公に証言・確認した。産経新聞2001年5月18日東京朝刊12頁)。このことが批判にさらされ、多くの歴史学者から支持を失う決定打となった(朝日新聞2001年4月10日朝刊12頁、北海道新聞朝刊全道2001年5月14日7頁、週刊東洋経済2001年5月5日92-93頁など)。「歴史は科学ではない」という文章は文部科学省の検定意見により削除されたが「つくる会」はその立場を覆しておらず、また評論家・松本健一も、「つくる会」の「原案」(白表紙本)にあった「歴史は科学ではない」という立場が松本の「歴史は物語。科学ではない」という持論と一致していたことを後になっても証言している(西日本新聞2002年3月30日朝刊12頁)。