ゴーマニズム宣言
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『ゴーマニズム宣言』(―せんげん)は小林よしのりの主張を伴った漫画。 ゴーマニズムとは傲慢からの作者の造語で、自分の直感と常識を頼りにあえて傲慢をつらぬく、という意味が込められている。 「ゴーマニズム宣言」は時期が進むにつれ「新・ゴーマニズム宣言」、「ゴー宣・暫」と名前が変遷している。2007年9月から、再び当初の「ゴーマニズム宣言」に戻っている。
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[編集] 概要
連載当初はエッセイ漫画として始まった作品で、バラエティな内容に富んだ作品だった。連載が進むにつれ読者や、知識人との論争など思想本としての色合いが強くなっていった。 各回の文末には「ごーまんかましてよかですか?」というキメ台詞と共に、総まとめをするスタイルになっている(初期など一部の回において上記のキメ台詞が無い回も存在する)。 連載開始から2007年現在に至るまで、様々な社会問題や政治問題に対し主張を起こし、注目を浴びた。SPA!から続く、SAPIOでの通常連載と、わしズム内の『ゴーマニズム宣言EXTRA』特別連載、『戦争論』などの論シリーズなど数種類の連載・書き下ろしで発表されている。
[編集] 『ゴー宣』誕生
連載以前、『月刊宝島』に『おこっちゃまくん』を約2年半連載していた。しかし、読者から反感を買うような内容が多く、編集側もページ末に作品を茶化すようなハシラ書きをしており、良好とは言えない状態が続いていた。これを見た扶桑社の『SPA!』より「ウチでもあんなのをやって欲しい」と執筆依頼を受け、1992年1月22日号より『ゴーマニズム宣言』を開始。当初のエッセイ的漫画から、社会に切り込む思想漫画と変遷し反響を呼んだ。その後、漫画活動の軸足をこれへと移していく事となる。
[編集] 天皇家批判掲載拒否
また、天皇家を巡る周囲の姿勢に対して「天皇家に真の自由と敬愛を!」と批判と小林なりのギャグを加えた回は当初SPA!誌での掲載を拒否された。この為小林は原稿をガロに持ち込み、掲載される事となった。その後扶桑社から発行された単行本に収録されている。
[編集] 部落解放同盟との対談
出版業界に対し差別表現を巡って安易で軟弱な姿勢から起こる自主規制に対して批判を加えており、後に部落解放同盟の関係者との対談等につながった。そこから『ゴーマニズム宣言・差別論スペシャル』の題名での書き下ろし本への出版となった。なおこの本の出版にあたっては書き下ろし漫画の表現を巡って小林側と部落解放同盟側と対立する一幕も見られた[1]。
[編集] オウム真理教・関係知識人との対立
1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件では、漫画上で当初は名指しこそしなかったものの、オウム真理教を激しく追及。これに対しオウム真理教側は自らの存在を厳しく批判する小林の存在を恐れ、様々な口実を作って自らの施設へ単独で誘い込もうと図るが小林側の警戒心は強く実現しなかった。遂にはVXガスによる暗殺を試みる実力行使に出るが失敗に終わる。これは後にオウム真理教への司法の追及が進むうちに発覚した。この事件は当時の新聞等で大きく掲載され話題を読んだ。しかし小林は、それすら「世界初暗殺されかかった漫画家」とネタにしつつ被害を訴えていた(第158章参照)。
1995年、SPA!誌上でのオウム真理教擁護の動きに対し、靍師一彦編集長や宅八郎、松沢呉一らと対立。オウムへの疑念と警戒を強める小林に対しSPA本誌は宅八郎と上祐史浩とのインタビューを載せるなど雑誌内での両側の意見の乖離が現れていたのが連載を終了する事になった原因である。当時の連載内容によると、小林は靍師と電話で話し「もしあなたの家族がオウムに殺されても、オウムのインタビューを載せるか」と聞いたところ、靍師は「載せる。それがジャーナリズムだ」と答えたという。
[編集] SPA!での連載終了、移籍へ
これらによって小林は両者の関係の修復は不可能と判断し、同誌での連載を1995年8月2日号をもって終了した。宅はこの頃から小林の圧力があったと主張するが、これに対して小林側は、『SPA!』での連載継続の意思を失ったと表明して間もなく、扶桑社の幹部から「どうすれば慰留して頂けますか?」と暗に宅や靍師らの更迭を示唆する申し出があったのを敢えて断ったとして否定している。SPA!での最終回では本誌への厳しい批判と他社での次回連載を告知するという異例の事態となった。
その後宅は扶桑社の意向などで小林批判を自粛させられるが、切通理作を批判するなかで誹謗中傷や自宅への嫌がらせ行為、プライバシー侵害行為を紙面上で展開し、切通の抗議を受けて連載が打ち切られた。宅の行為を容認していたと同時に、連載中止に反対していた靍師も編集長を解任された。 この一件における宅や靍師らの態度に憤慨した小林は『SPA!』連載分の単行本版権を扶桑社から引き上げ、双葉社に移した[2]。
[編集] 『新・ゴーマニズム宣言』 連載開始
連載終了の動きを察知して小林にオファーをかけた小学館SAPIOで同年9月27日号より新・ゴーマニズム宣言を開始する。なお、連載開始前に同社の週刊誌週刊ポストでオウム事件の顛末を描いた予告編的な書き下ろしを2週に分けて掲載している。
[編集] 薬害エイズ問題を巡って・「支える会」代表就任
旧「ゴー宣」時代に薬害エイズ事件を取り上げた事がきっかけで、HIV訴訟を支える会代表に就任し精力的に活動する。小林は積極的に朝まで生テレビなどのTV番組へ出演し、問題の重要性を訴えた。自らのネームバリューを生かそうと考え、広告塔であることを積極的、能動的に捉えていた。本編においても支援集会の告知をし、ほぼ同時期にオウムとのトラブルを抱えながらも画面露出は抑える事なくつづけていた。HIV薬害感染者としてカミングアウトした川田龍平を全面的に肯定。厚生省、製薬会社、国に対して対抗する案を本編で提案していた。
[編集] 『新・ゴーマニズム宣言スペシャル・脱正義論』発刊
原告団勝訴後、運動に協力した学生ボランティアが、協力団体(共産党系)の影響で、薬害問題に限定したボランティアではなく、永続的な薬害運動、そして「戦争責任追及」など、無関係な問題にスライドさせられている事例を知り[3]学生が日常生活に戻らなくなる事を危惧し、作品内において「ボランティアの役目は終わった。後はプロフェッショナルの仕事であり、学生は日常へ復帰して、現場に出てプロの仕事をして、次の薬害を防げ!」と主張した。また左翼運動家を「弱者にたかるハイエナ」と批判した。しかし支える会からは「ボランティアの役目は永遠に終わらない、二度と悲劇が起こらないよう行政をボランティアの目から監視すべきだ」と批判された。
[編集] 14章問題・「支える会」との対立
支える会との対立は、新・ゴーマニズム宣言14章[4]が掲載された事から起こった為、「14章問題」と言われる。読者を切り捨ててでも自らの主張を貫く、小林よしのりの姿勢を印象付けた事件であった。ボランティアの中心となった学生は、14章が発表された時点から、団体の人間からの批判に晒され、小林に対しては、沈黙と批判で答える事となる。その後、小林は学生と対話するが要領を得ず、「私達は、良いことだけ言ってくれるよしのりさんが欲しかったんです(カナモリ日記)」などと言われ、決裂が決定的となる。なお、HIV訴訟の代表川田龍平に原告団や学生達が民青などの左翼活動家に利用されていることを小林が問うと川田龍平は「知ってますよ」と答えた。小林にはそれが自分に対する悪意を見せたかのように感じられ、愕然としたという[5]。
[編集] 代表辞任へ
小林は学生に範を示す意を持って会長を辞任したが実質的な解任であった。ゴー宣と脱正義論で自省と「運動の正義」への批判を行い、薬害エイズ運動を沈静化させる道を選んだ。「学生は運動をやめて日常に復帰せよ!」と、運動家に乗っ取られた薬害エイズ運動を批判した小林を、ボランティアの学生達、弁護士らは激しく抗議した。団体の広報誌では、小林よしのり批判の方が薬害エイズ批判よりも多くなってしまう状態となった反面、ゴー宣読者からは驚きと好意的な反応が帰ってきていた。小林はこの後、読者には「良き観客でいろ」と言い、その後の様々な活動でも読者に一定の距離を保つことを求め続け、現在に至っている。
[編集] 従軍慰安婦問題
従軍慰安婦問題への事実関係についての疑問を発表。それをきっかけに左派や人権派の激しい批判を受ける。その一方で自虐史観に対して憂えていた人達からは熱狂的支持を受ける。この為小林の反権力的意見に共感していた一部の読者は、これを機に離れていった。小林は後の著書本日の雑談にて、「慰安婦問題や戦争論で左の読者が離れ、保守を批判した事で右派も離れた。商売としては美味しくない。でも、わしは自分の正義を貫くだけだから。」と、語った。
[編集] 新しい歴史教科書をつくる会に参加
その流れから新しい歴史教科書をつくる会に参加。当初のつくる会は、藤岡信勝の司馬史観[6]で進んでいて、大東亜戦争肯定論を語る知識人を呼ばない戦略を立てていた。しかし小林は「戦争論」執筆の際には司馬史観を飛び越え大東亜戦争肯定論を描いた[7]。そして新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論がヒットした事で、つくる会がそれに追従する形となる。自らも西尾幹二に強く依頼された事から教科書の内容を執筆し、漫画でも克明に作業ややりとりについて記した。発刊後しばらくして会の運営や理論姿勢等について内部で行き違いが発生し、小林は一部の支持者の親米主義に批判的態度を強めて行き遂には脱会する事となる。小林脱会後ののつくる会では大東亜戦争に批判的な意見も少なからず挙がっており、小林はそのことをとらえて、脱会後のつくる会を「ポチ保守」として批判している。[8]
[編集] 『論』シリーズ・近代史論
戦争論を皮切りに、近代史から現代に至るまでの様々な問題・疑問・イデオロギーなどについて主張を展開した。
[編集] 『新・ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論』シリーズ
作品内において、元日本兵の弁護の為小林は大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の軍事行動を自存自衛として肯定、大東亜共栄圏を肯定、南京大虐殺をほぼ「なかった」論を展開して論争を巻き起こした。
つづく『戦争論2』では同時多発テロを非難するならばアメリカの空爆も非難されるべきだと問題提起。それまで小林の言動を支持していた親米保守派の中から、一転批判に転じる者もあった。小林も親米保守派をポチ保守と批判し、これ以降「真正保守」の立場から反米の立場を取る。
イラク戦争後に発売された『戦争論3』では、さらに反米色を強め、アングロサクソンの歴史的残虐性を指摘。日本とアメリカの対決は運命であったと主張。戦争論シリーズはこの3をもって完結。 イラク戦争に関しては、アメリカ追従の言論人を批判し、独立自尊の精神を持てと主張した。それにより親米派が大半である保守系右派の言論人と袂を分かち、手厳しく批判している。
なお、わしズムVOl7の「戦争論3はこう読め!!」という、秘書の金森(当時)による小林へのインタビューによれば、戦争論1を描いた時、小林とスタッフ一同は「これを出したら右翼と言われて、ゴー宣も終わりじゃないか」と覚悟していたが、ゴー宣は続き、戦争論も三作まで出せたと言い、リスクを取る事の重要さを語った。
[編集] 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』
前台湾総統李登輝の招きによる台湾訪問を一部始終『新-』本編に描き、その後現総統陳水扁らとの対談、書き下ろしなどを加えて『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』として出版した。小林作品に一貫するが、実際には日本統治・支配の神聖化はしていない。日本人に比べ、台湾人が第二国民として、同じ成績でも評価が低くされたなどの事実も描く。しかし、初等教育の徹底、インフラ整備など「それでも日本が、ちゃんとした教育を与えてくれた事は嬉しかった」と、日本に感謝する台湾人の声を出し、そして李登輝などによる「過去の日本が、台湾で悪い事ばっかりやったと思って、日本の若い人が、なんて悪い国に生まれたんだ、と自信を失っているのは悲しい事だ」という言葉を出し、歴史的遠近感から日本を肯定する。また、国民党よりは日本人の方が、よほど良かったという「犬が去ってブタが来た」という声、戦前はどちらかと言えば反日だった者が、中国に一度は期待し、しかし戦後の国民党支配の過酷さと低劣さに親日に転じた例など、内容は広範に渡る。
[編集] 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論』
2005年6月に刊行した本書では沖縄米軍基地問題を描き、沖縄に関心を持とうとしない本土の人間の無関心さを批判した。左翼勢力が強いとされる沖縄では批判的な評論が多いが、反面小林の主張に共感を寄せる県民も少なからずいるようでベストセラーとなった。作品内で日本沖縄同祖論がDNA鑑定により、立証されたと主張。2005年8月14日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで、小林よしのりの沖縄論講演会が開かれた際、、現在の沖縄の同調圧力の強さ、中国共産党による、チベットへの侵略、台湾への恫喝などを語り、「自国内で平和平和と言ってて、それで平和が来ますか?」と問いかけた。
[編集] 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・靖国論』
2005年8月にこれまでの靖国神社に関する章をまとめ、書き下ろしを加えて出版。戦後60周年の首相公式参拝をめぐる議論に加わった。政治家(特に首相経験者)各参拝方法に対する批判、天皇親拝に関する見解を作品内で展開した。
[編集] 漫画による思想表現
活字による論文で表現する物とされていた思想において、小林は漫画で自らの主張を語った。当時の大月隆寛は、これを「竹ヤリで戦っていた思想界に核兵器を持って来た」と評したが、主張が明確に打ち出された読者を圧倒する表現で訴えるため、その共感や反発は大きく、論議の的になっている。漫画であるため表現力が高く、また読みやすい方式とされ、若い世代を中心に人気を博す一方、活字主体の論壇や、小林に批判された側からは「漫画で反論されては対抗出来ない、卑怯だ」といった意見が出ている。
上記の批判に対し、小林は「漫画にすれば、言葉を最低限に削らないとならない部分もあり、活字の方が理論を追求出来る有利な部分もある。他人に作画を頼んでいいから、漫画を作ってみればいい。わしは漫画でも活字でも戦える。」と語り、「知識人」による漫画というメディアへの批判に対抗する。近年は論争の中で、活字の論文を論壇誌に書く事もある。
なお、田原総一朗や上坂冬子が「漫画は年長者には読みにくい」「最初は戸惑った」などと語る通り、漫画を読みなれていない世代には活字の方が分かりやすく、一概に有利不利を語れないとする意見もある。
絵柄の特徴としては、肯定的な人物は美しく描き、批判的な人物は醜く書く。また評価されている人物でも、男は作者より美しくされない。これについては「マンガの表現の一つである」や「差別的に描いている」など賛否両論があるが、基本的には「小林よしのりの心象世界を具現化する」形となっている。
[編集] ノンフィクションであり「物語」である
作品は基本的にノンフィクションで描かれるが、回想をドラマチックに描いたり、ギャグタッチで登場人物の顔や動作をデフォルメするなど、物語としての側面を持ち合わせている事を作者自身も作中で語っている。『ゴー宣』初期では「知識人達の主張・論点に不満があるので自ら意見を述べるに至った」と語り時折、小林は作中で「早く物語の世界に帰りたい!」と叫ぶ。
[編集] 小林と上杉聰による著作権を巡る裁判
上杉聰が執筆した『脱ゴーマニズム宣言』の題名で出版された「ゴー宣」批判本において、作品内の絵を大量に「無断引用」されたとして、小林は著作権法違反および不正競争行為(小林の著書と誤認させる恐れがあると主張)として民事訴訟を起こした。小林によれば、自分自身への批判は問題ではなく自分の絵を許可無く使用された事を問題視して訴訟へ踏み切ったとの事である。 一審は上杉のほぼ全面勝訴となったが、それについて小林は、「悪質で一方的なこじつけ裁判だ」と語っている(「新・ゴー宣」8巻参照)。二審では必要以上に改変された箇所があるとして一部小林の主張が認められたが、その他出版や引用自体の差し止めなどは棄却となった(墨塗りも止むを得ない改変であり、合法との判断)。全体的に上杉寄りの判決自体には少なからず不満を示すも出版差し止め自体は認められ『一応目的は果たした』と表明。その後、上杉のみ上告したが、棄却され判決が確定する。[1] 高裁判決後、上杉は小林に対して名誉毀損(作中で『ドロボー』呼ばわりされた事なども加えて)を理由に民事訴訟を起こしたが、二転三転の末に最高裁で小林側の勝訴が確定した。
[編集] 理論姿勢
[編集] かつての自らの左翼思想、左翼の存在に対して
- 作中で「昔の自分は薄甘いサヨクであったが、薬害エイズ運動での失敗と、それが従軍慰安婦運動に伝播した件をきっかけに、日本史等を改めて勉強し直して行くうち、(徐々に)サヨクをやめるに至った」という意味の主張を行い、作中でも、思想が少しづつ変化する姿が窺える。戦争論1に見られる小林の「左翼(残存左翼)」定義は、冷戦終結で表面上はマルクス主義、反権力の主張を控えたが各地に残存して、人権・自由・反戦思想を利用し「日本は戦争犯罪国家である」と海外でPRする方法などで、反権力・反国家活動を行い、いかに日本を貶めるかを画策する存在とし、具体的には『朝日新聞』に代表される左派言論、それを支柱とする市民団体を名乗る運動家を指す。そして、カタカナのサヨク(うす甘いサヨク)は、明確な左翼思想や、マルクス主義の影響を受けているわけではないが、人権・自由・平等・フェミニズム・反戦平和などの主張になんとなく引きずられて左翼に同調する「戦後民主主義」そのものを指すと主張した。[要出典]
[編集] 主張の矛盾に対する説明
- 過去のゴー宣とその後の連載を比べると明らかに主張が異なる回があるが、考えを改めるに至った経緯についても連載分や単行本向けの書き下ろし等で理由を説明している。あらかじめ立脚したイデオロギーなど無いと断言し、正しいと判断した意見があれば、過去の自らが誤っていたとして、それを取り入れる事を認めている。(旧ゴーマニズム宣言の文庫版「ケンキョかましてよかですか」など。)しかし、「正しさ」より何らかの立場・イデオロギーを優先させ、意見を変える人間に対しては、徹底的に批判を行う。そして相反する意見の持ち主でも、それが正しいと判断した部分は評価する姿勢を見せる。かつて対談し評価した事もある石原慎太郎の親米主義に対して批判的な姿勢を見せるなど、安易な馴れ合いを拒んでその相手との絶縁覚悟の主張を行う事も度々ある。逆に西部邁や宮崎哲弥を初めとして、かつては批判の対象としていた人物とも、対話が可能と思えば深く付き合う事もある。そして、そこでも意見が対立すれば袂を分かつ。
- 従軍慰安婦問題がきっかけで左翼と人権団体への激しい批判を行う事がしばしばあったが、それとは別個に、旅行で観光地に訪れた際「サヨクによる伝統再生が行われている」とも語っている(ゴーマニズム宣言EXTRA1 第3章)。朝日新聞に関しても、「わしの記事をまとめた記者はなかなか優秀でとても狂った運動家には見えなかったが、彼らが日本を評価するとなると何故ああなってしまうのか。残念である。」とわしズムで書いた。自身の変遷も含め、思想の可塑性を指摘している。
[編集] 大東亜戦争
- 大東亜戦争に関しては、白人や中国人の残虐性を強調し、日本は八紘一宇の精神によって戦争を行ったと主張している。そして南京大虐殺など日本が行ったとされる虐殺事件を様々な文献や歴史学の観点から否定している。また、日本は欧米諸国の植民地であったアジア諸国の独立の足掛かりを作ったと主張した。その一方で日本軍において、軍の歯止めが効かなくなり、泥沼の戦いを続けた点、作戦に起因する餓死、玉砕の多発に関しては「兵士の命を粗末に扱いすぎた」として、軍規の荒廃もあったであろうとするが、それら否定的な側面を全て反省した上でも、緒戦で白人に痛打を加え、アジア解放を促した祖父の世代に敬意を表すると言う。
[編集] 政府と親米保守派の対米追従への批判
- アメリカ同時多発テロ事件以降は、自前の軍隊で国を守っていない日本が、アメリカと連携しなければならないのは当然としながらも、主体性を奪われた苦渋を忘れ、アメリカの正義を主張する論者に「アメリカを善とは決して思わない」と主張し、最終的には、つくる会の戦争論2シンポジウムで、異論・そしてヤジが相次いだ事から袂を分かつ事となった。(女性である長谷川三千子にまで怒声が飛んだ事が、最も不愉快だったと語る。)その後のアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争では反米姿勢を前面に押し出し、アメリカと、それに追従する日本の外交政策を批判し続け、自主独立を語るようになる。これに関連してターリバーン政権やサッダーム・フセイン政権には、一定の理解を示した。
- アメリカのイスラム圏への民主化要求、GHQによる日本占領下での憲法制定、現代日本の社会的弱者の切捨て政策などを引き合いに出し、アメリカは歴史を持たず、自由主義や民主主義というイデオロギーの普遍性を強調し、伝統を軽んじる点で左翼国家であると批判し、これを支持する親米保守派もサヨクであると糾弾する。これに対し古森義久や田久保忠衛などの親米保守派からは、「小林と西部こそ反米左翼と変わりがない」「日米が共有する自由主義や民主主義の価値観を軽んじる姿勢」とする批判が為されている。
- 構造改革に対しても、日本人の勤勉さや伝統的な慣習を否定し、外資への売国行為として極めて批判的であり、昨今の社会的弱者切り捨てとも言える政策に対する警鐘を鳴らし、格差拡大に関しても、親の経済力などによりスタートラインの格差も促進されていると主張した。とりわけ小泉政権時下での「聖域なき構造改革」には、「アメリカとの心中」と断罪的に述べ、完全否定の姿勢をとっている。また、ライブドアをめぐる騒動の発生後には、小泉政権時下の構造改革がホリエモンを生んだと、激しく攻撃している。
- アメリカニズムに肯定的な親米保守が日本文化の破壊を加速させていると小林は主張しており、前述の案件がそれを強めている。
- 構造改革によって破壊されつつある伝統の一例として引き合いに出している終身雇用などの日本の雇用慣行に対しては、少なくとも自分が漫画界で生きてきたような、弱肉強食の競争社会は日本の国柄に合っていないとして、終身雇用は江戸時代の伝統がそのまま移行したとする仮説を語るなどしている。そしてアメリカにも終身雇用はあると語る。
- 親米保守派の言論人を作品内で猿に描くなど、強く批判[9]。これに対してモデルとされる言論人等が月刊誌などで小林を激しく批判し、泥仕合の様相を呈した。以後、小林は該当の人物達をベタ塗りで描くと宣言した。これは上杉聡との裁判で、上杉が彼らの批判を裁判所に提出し、小林の描写が名誉毀損である証拠として、裁判所に提出したためである[10]。そして裁判も小林勝訴に終わり、西尾と石井はゴー宣・暫2巻「第四幕・第三場 捨てられポチの一生」にて、めでたく(?)批判対象の親米保守の一員として、イラストが復活した。
[編集] 歴史教科書問題
- 新しい歴史教科書をつくる会を脱会した理由の多くは対米批判のためであり、大東亜戦争肯定はその後も一貫している。保守に分類される論者の中でも大東亜戦争への評価は様々だが、小林は、いわゆる司馬史観に対しても「負けたから言ってるだけだ」として自虐史観と批判し、大東亜戦争への流れに肯定的である。そして「真の保守は反米保守である」と西部と共に主張していた。
[編集] 関連事項
- 新ゴー宣に日本の寺社にまつわる話を取材を交えて描いたシリーズを掲載していたが、親米保守批判を優先させる為か、現在中断されている。但し、本編では今でも伊勢神宮や出雲大社、宗像大社など、日本の国柄を強く表している土地への取材を行って描いた回を時折掲載している。
- 2004年に起こったイラク日本人人質事件に対してマスコミやネット等からの、当の人質となった人間や家族の言動に対する激しいバッシングが沸き起こった一件に関して、『わしズム』vol.11にてアシスタントの時浦兼との対談で「日本本来の国民性を損ねる行為である」として厳しく批判した。その後、わしズム掲載分の対談に新たな語りおろしを加えた対談本を緊急出版した[11]。問題の人質関係者や左翼と呼ばれる(それを自称する)人間達の主張にも批判も行いながらも一面理解を示すなど、思考の柔軟性を損ねて事の本質を見誤る危険性に対する警鐘を提言した。
- 一時期、よしりん企画に二人の女性アシスタントが入社していた。一方は実力不足を理由に解雇(『SAPIO』連載時には「へなへな祥ちゃん」と呼ばれていたが、後の単行本では「Sちゃん」に書き換えられた上に、彼女の描写がそっくり消されているコマが一部存在する)となり、もう一方の畠奈津子は漫画や思想に対する方向性の違いで一年半程で退社となった。その後、前秘書の金森と入れ替わりに入社した現秘書の岸端が入社。他、宇都氏という手伝いの存在が描かれているが、2007年現在特にエピソードは描かれていない。
- インターネット上での無責任な小林自身への批判・誹謗中傷に対し激しく批判を行っていたが、2007年3月『SAPIO』誌上で一転して立場を翻し、いわゆる「ネット保守」に共闘をもちかける[12]。情報番組などに出演し[13]、東京裁判史観を押し付けるマスコミの報道姿勢[14]を批判した。作品内では「わしのゴー宣は、描き始めてから発表に3週間かかる。あえて批判してきたネット保守に共闘をもちかけたい。今後、同調圧力をかけるマスコミがいたら、直ちに批判してくれ!わしの力の限界を超えてくれ!」と、「ネット保守」に共闘を呼びかけている。しかし、それまでネットを厳しく批判していた小林の急変に、不信や疑問の声が上がっている。一方、「共通の敵」(主に日本のサヨク・中国・韓国の反日)と戦うと言う名目で、共闘に賛成する意見もある。ゴー宣・暫 1巻のスタッフとの「幕間ばなし」では、これに関して、「ネットの連中と、ちょっと遊んでやろうと思ったが、何の成果もなかったというだけのことだね」と語り、さらに鈴木邦男に、異様な様子で「ネットなんかに協力求めちゃだめですよ!」と批判され、「どうでもいいとしか思ってないのに」と語った。
- 前述の上杉聡との著作権裁判で、他人の作品を無許可で意図的に大量引用する事について著作権違反であると小林は主張したが、過去のゴーマニズム宣言の作品内において、他者の漫画作品[15]から引用転載を行った[16]。カムイ外伝においては1コマを説明する際、カムイ外伝のタイトルのみしか示さず要点のみに縮め描写した点、表現規制に関する議論では覚悟のススメの引用転載を行なった事は、小林側にも著作権上の問題があると指摘する声もある[要出典]。2007年現時点では、そのまま文庫本に収録され、特に何も起こっていない。
[編集] 脚注
- ^ 両者は後に戦争責任論を巡って対立関係になる。
- ^ 後に出版された文庫版は幻冬舎から出版されている。
- ^ 「従軍慰安婦問題への謝罪をラップで訴えよう」などといった運動活動。
- ^ 第1巻・脱正義論に収録。
- ^ 脱正義論P78参照。
- ^ 「日露までの日本は良かった、昭和に入り敗戦までの日本は暗黒の時代だった」とした司馬遼太郎等の主張。
- ^ 製作の中で渡部昇一や中村粲に会い、名越二荒之助の本も読むなど様々な著書や意見を参考にした。
- ^ わしズムVol.7参照。
- ^ 主に西尾幹二と石井英夫など。
- ^ 『新・ゴーマニズム宣言』14巻参照。
- ^ 『ゴー外!! 1』アスコム刊。
- ^ 2007年『SAPIO』9月27日号参照。
- ^ NHKの『日本の、これから』や、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』などの番組など。
- ^ サンフランシスコ講和条約・第11条を「諸判決」ではなく「裁判」と訳すなど恣意的な操作が行われている事を指摘・批判。
- ^ 主に白土三平の『カムイ外伝』2巻、山口貴由の『覚悟のススメ』。
- ^ 『ゴーマニズム宣言』67章「自主規制というファシズム」ほか差別論にも収録。
[編集] 書籍
- ゴーマニズム宣言 全9巻 (幻冬舎文庫) ISBN 4877287108
- 新・ゴーマニズム宣言 全15巻 (小学館) ISBN 4093890013
- ゴー宣・暫 全2巻 (小学館) ISBN 4093890218
- 『ゴーマニズム宣言EXTRA 1』(2004年・幻冬舎) ISBN 4344006593
- 『ゴーマニズム宣言EXTRA 挑戦的平和論 上巻』(2005年・幻冬舎) ISBN 434401085X
- 『ゴーマニズム宣言EXTRA 挑戦的平和論 下巻』(2005年・幻冬舎) ISBN 4344010868
- 『ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム』(2007年・小学館) ISBN 4093890579
- 『ゴー外!! 1』(2004年・アスコム) ISBN 4776201887
- 『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』(1995年・解放出版社) ISBN 4759260315/(1998年・幻冬舎文庫) ISBN 4877286225
- 『新・ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』(1996年・幻冬舎) ISBN 4877281282
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(1998年・幻冬舎) ISBN 4877282432
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 「個と公」論』(2000年・幻冬舎) ISBN 4877289550
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(2000年・小学館) ISBN 409389051X
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』(2001年・幻冬舎) ISBN 4344001311
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論3』(2003年・幻冬舎) ISBN 434400356X
- 『ゴーマニズム宣言SPECIAL よしりん戦記』(2003年・小学館) ISBN 4093890544
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』(2005年・小学館) ISBN 4093890552
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖国論』(2005年・幻冬舎) ISBN 434401023X
- 『ゴー宣SPECIAL いわゆるA級戦犯』(2006年・幻冬舎) ISBN 4344011910
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 平成攘夷論』(2007年・小学館) ISBN 4093890587