田原総一朗
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田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年4月15日 - )は、日本のキャスター、ジャーナリスト、元テレビディレクター、元映画監督である。
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[編集] 経歴・人物
滋賀県彦根市出身。滋賀県立彦根東高等学校を卒業。日本交通公社に入社し、1年後に早稲田大学第二文学部(夜間部)に入学し、仕事と学業を両立させるが、1955年に中退。後、同大学第一文学部に再入学、卒業。大学時代は小説家志望であったが、同世代の石原慎太郎、大江健三郎の出現にショックを受け、志望を断念。
1960年に岩波映画製作所入社。カメラマン助手をつとめる。
1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、現在も語り継がれる名作『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。
東京12チャンネル編成部長を務めた後、1977年に退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、1987年「朝まで生テレビ!」の司会をつとめたことから、政治関係の番組のTVキャスターとして活躍するようになり、現在に至る。
また、早稲田大学大隈塾塾頭も務める。
[編集] 東京12チャンネル勤務からフリーへ
- 東京12チャンネル勤務時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していたアナウンサーの小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
- 田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦、宝宮正章らのTBSのドキュメンタリー番組、などが主流であった。当時、開局したばかりの「東京12チャンネル」は、インディーズ的存在であった。田原は、逆にそれを逆手にとって「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。田原の著書『青春この狂気するもの』に、この「確信犯的」な手法が書かれており、その本を読んで衝撃をうけた、原一男に手法が引き継がれた。
- ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔の著作『風雲ジャズ帖』所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
- また、田原の著書『私たちの愛』によると、上記の山下の件以外にも、以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していたという。
- ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。
- 役者・高橋英二がガンで半年の余命しかないと発覚。さらに右腕を切断しないとならないとなり、その手術の場面を撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、やはり死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるシーンまで撮影した。
- 全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。その余興として花嫁が列席者全員とセックスをすることとなる。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女をセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映されたが、レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の愛人)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。
- 以下は原一男との対談からのエピソード
- 「『わたしたちは……』~カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが実際は、彼女は母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山修司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。
- 役者「高橋英二」をとりあげた作品について。彼は、『七人の刑事』に何度か出演し、三島由紀夫の『黒蜥蜴』でもいい役をもらった、若手有望俳優だった。最初のシーンは国立がんセンターの病室だが、取材拒否されたため、内緒で撮影した。腕の切断手術シーンは撮りたかったが、取材拒否されて撮影できなかった。手術直後に、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んで強姦しようとしたが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも撮影した。彼は「余命半年」と言われたが、実際は1年半生きた。
- 「出発(その1)~少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。
- ATG映画にて、1971年、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。同映画のADが、後に『ゆきゆきて、神軍』の監督となる原一男であったと、よく誤解されるが、実際は原は助監督を熱望したが、かなえられなかった。
- 上記の映画は、最初は、羽仁五郎の『都市の論理』を原作にして、ドキュメンタリー映画を撮ろうと企画していた。
- 加納典明が演じた役は、田原は当初は、日大全共闘の議長の秋田明大に演じさせる予定であったが断られた。そのため、スティール担当として企画に関わっていた加納を、苦肉の策で起用した。
- 桃井かおりが演じた役は、清水邦夫が「ニンフ的な少女がいい」ということで、当初は、結城アンナ(岩城滉一夫人)や、仁科亜季子が候補であった。だが、いずれにも断られ、チーフ助監督の尾中洋一が探してきた桃井かおりを候補にしたところ、彼女の母方の祖母が「有名な声楽家」だとわかり、「企画」担当の葛井欣士郎が尊敬していた人物だったことから、「あの先生の孫だ!」ということで、彼女に決定した。
- チーフ助監督だった尾中洋一(のち脚本家)によると、劇映画初体験の田原は、「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけられないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたところ、ある夜、田原が遠くに行き、闇で「ばかにするな-」と叫んだ。だが、撮影資金も乏しく、短期間で製作する必要があったため、そのまま田原を無視して撮影は続いた。
- また「羽昨の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーンがあるが、警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。これは「田原的ドキュメンタリー手法も少しは取り入れないと」と、尾中が気を遣ったという。なお、プロの役者である石橋蓮司や緑魔子は、「無能な監督・田原」に怒っていたという。
- なお、「共同監督」のはずの清水邦夫は、ほとんど現場にこず、東京の舞台で行われた「リハーサル」を演出しただけだった。
- つまり、この映画は、実質「尾中陽一監督作品」なのである。だが、当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、いくら現場で無能で役にたたない存在であっても、田原と清水はスポンサーであった。そのため、原一男が1993年に尾中にインタビューするまで、この「事実」は隠されていたのだという。
- 1975年、矢崎泰久らと日本ジャーナリストクラブ(JIC)を立ち上げる。その資金集めのため、新宿コマ劇場にて「のんすとっぷ24時間」という討論会(司会:中山千夏)を行い、撮影して、自分が勤務している東京12チャンネルに「番組」として売却した。このイベントが「朝まで生テレビ」の原型となった[2]。
- 出演者:青地晨、赤塚不二夫、阿佐田哲也、飛鳥田一雄、生島治郎、石垣純二、一柳慧、伊丹十三、井上ひさし、宇井純、上田哲、内田裕也、宇都宮徳馬、榎美沙子、小沢昭一、小沢遼子、太田薫、太田竜、大西信行、岡本愛彦、岡本太郎、加藤武、木の実ナナ、紀平てい子、木村武雄、久野収、栗原玲児、黒澤明、黒田征太郎、児玉誉士夫、小中陽太郎、佐々木更三、佐藤允彦、佐藤信、新谷のり子、菅原文太、鈴木志郎康、鈴木武樹、鈴木均、袖井林二郎、田中真理、高橋晄生、竹中労、立花隆、龍村仁、田英夫、中村とうよう、中村敦夫、野坂昭如、ばばこういち、花柳幻舟、原田奈翁雄、深作欣二、藤本義一、真継伸彦、前田武彦、松岡洋子、松田政男、三上寛、美輪明宏、八木正生、矢崎泰久、山藤章二、若松孝二、愛川欽也、渥美清、青島幸男、五木寛之、伊藤一葉、井上清、植草甚一、加藤登紀子、加納典明、梶芽衣子、篠山紀信、土本典昭、内藤国夫、羽仁五郎、不破哲三、深沢七郎、丸山邦男、美濃部亮吉。
- 田原は文春でのインタビューの影響から、田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の一つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
- また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
- この時代のノンフィクションの代表作である、「原子力潜水艦むつ」問題を扱った、「原子力戦争」(1976) はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また田原は発表時脅迫されたという。
- なお、この著書「原子力戦争」では、従来の田原ドキュメンタリー番組と同様に、関連する底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者などに取材した。だが、実際にものごとを決めているのは、「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となった作品になったと、後に原一男に語っている。
- 『原子力戦争』の内容は、国会でも話題となり、大手広告会社の逆鱗にふれ、田原は東京12チャンネルを退職することとなった。
- 田原が東京12チャンネルを退職した直後に出した著書『翔べ田原総一朗』(創世社 1977年)の帯には、以下のような推薦文が書かれていた。(当時の田原が、いかに高く評価されていたかが、わかる。)
- 当時の田原のノンフィクションの興味は、企業や政治以外に、最先端科学も対象であった。近年の著書では科学関係のものは少なくなっているが、2006年に、『RNAルネッサンス 遺伝子新革命」という本を出していることからもわかるように、いまだに科学に興味を持ち続けているようだ。
- その後、執筆活動を経て、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』、『サンデープロジェクト』の討論コーナーの司会などを務める。
[編集] 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
- 『朝まで生テレビ!』では、「初めから司会をしようなんて思っていない。僕は討論をぶっ潰すつもりでやっている」と主張。またタブーに切り込むという方針で天皇制や原発、被差別部落問題をいち早く取り上げた。同番組内で「メディアは権力だ」との批判に対し、メディアは権力と言うより、むしろ大衆に迎合している側面が強いと言った主旨の発言をしている(大学時代の後輩である筑紫哲也も前出の岡留安則と雑誌で対談した際に同様の発言をして田原を擁護している)。
- 歴史認識においては、「日清・日露戦争は自衛戦争だが、満州事変、日中戦争は侵略戦争」という粗雑な認識を再三示している。これに異を唱える者には激しく反発する。たとえば、みずからの番組内で満州事変以降の戦争を「全体としては自存自衛、セキュリティ(安全保障)のための戦争だった」と述べた高市早苗(衆議院議員)に対して激昂し、「僕はね、靖国神社はあっていい、参るのもいいと思うけど、こういう下品なの、憎たらしい顔したのが集まってるから可哀想だよ」と罵倒した。
- 女性・女系天皇を可能にする皇室典範改正を支持している。これに反対する四宮正貴に対して「聖徳太子知ってる?」などと発言、四宮正貴が「聖徳太子知ってるとは何事だ。君はイエス・キリストを知っているのか」と激怒した。
- 主張の節々において、日本国民を信用し過ぎている側面が見受けられ、討論相手に対して「(貴方の発想は)国民を馬鹿にしている」と批判する事例が多い。2005年9月の総選挙において自民党を大勝させてしまった国民諸氏の問題点を、論客の数名が指摘しつつも、同年11月放送の『朝まで生テレビ!』では、「今度の選挙だって一人一人が考えてると思うよ、勿論。国民、馬鹿じゃないからね」と発言。2006年1月放送の同番組では、民主党所属の菅直人が、評論家・大宅壮一の唱えた「一億総白痴」を肯定した際、嫌悪感を露わに非難している。結果、特定の有力者や有力団体に対しては舌鋒鋭いものの、国民全体に対しては「問題がある」等の苦言を呈する程度に留まり、批判力が弱まっている感は否めない。
- 『サンデープロジェクト』では菅直人の年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付。また小泉純一郎当時首相の国会答弁により菅の冤罪が確定。ただし、当時の厚生労働省の最高責任者たる厚生大臣は菅自身であっため、社会保険庁の過失という事実が判明後もほとんど報道されなかった。)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。
しかし、田原自身に年金未納期間(1977年2月~9月)があったことが発覚。翌週、番組において謝罪。
- 日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(所謂官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり田原も番組内でこれを認めた(当時の官房長官は加藤紘一)。またこれ以前に写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。
- 筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また前出の岡留安則と雑誌で対談した際には「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。
- 番組の取り仕切り方に関しては賛否両論ある。『朝まで生テレビ』にパネラーとして出演したある海外メディアの特派員は週刊誌のインタビューで「司会者というよりも支配者として(番組を)仕切っている」と批判する一方で、政治家の加藤紘一は、「この番組は政治家にとって非常に出るのが怖い番組なんですよ」と番組内で発言。こうした批判に対し田原は、本音に迫ることの効用の高さを評価している。
- 田原は小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしは捉えている」と雑誌で発言した。
- 政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて総理の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、やります、やるんですとの言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。
- 田原は番組内で野党側に対し、「野党は反対ばかり」「対案を出せ」「だから政権がとれない」と批判しているが、日本大学の岩井奉信教授の研究によると、内閣提出法案に対する野党の賛成率は55年体制時の社会党が約7割、共産党が約4割と高い。また現在の民主党においては、社会党以上の賛成率を記録しており、田原の批判は事実と異なる。
- 北京五輪の際して中国のラサにて人権弾圧をされているチベット人が抗議活動を行った。その抗議に中国政府は武力弾圧をしたことが報道され、世界の報道機関や日本のマスコミもチベット人死者数について中国政府側主張とチベット側主張の両方を取り上げていたが、田原は自身のコラム[3]にて、「日本のマスコミは死者数を140人と報じているが、これはチベットの反政府運動側の発表であり、中国側は20人と言っている。日本のマスコミは多い方を書く等、これは偏向報道だ。中国の解放は進んでいる。」と中国政府をかばうかのような発言をした。その一方で、それと同時期に上映されることになった中国人監督の作った映画靖国 YASUKUNIを公開前から支持しており、映画に関しての論争が起こったが、「日本の政治家の圧力により、出演者が拒否しはじめたのではないか」「日本の政治家の圧力により、上映中止の映画館が増えたのではないか」という証拠のない中国人監督の主張をそのまま受け入れ、同じ主張を2008年4月6日の「サンデープロジェクト」や映画の記者会見等で繰り返した。
- 近年、とくに小泉政権以降、政府与党(自民党)寄りの立場を鮮明にしている。たとえば、2007年参議院選の民主党マニフェストに対して、「岡田さん、前原さんのときは消費税3パーセント増税だったから良かった」(一般に党首が交代すれば党の基本政策を変更することは不自然ではない)、「財源が示されてない」、「インチキだ」と批判した。2008年ガソリン税暫定税率、日銀総裁人事問題などに関して、小沢一郎民主党代表を指して、「民主党に約1名変なのがいる」、「政局にしようとしている」などと述べ、野党批判を繰り返している。
[編集] その他
- 近江商人の末裔を称している。
- 小学生時代は、海軍軍人になることを希望していた。
- よく、田原総一朗の「朗」を「郎」と間違われている。
- 18歳の時、新制高校に入学した際、体制の変化に伴い、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければ、この世は生きていけない」という人生訓を得た。
- かつては作家中山千夏らの左派政党革新自由連合に関っていたこともある。
- 中山千夏らとの関わりで永六輔とも親しかったが、石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と公言した事がきっかけで石原を嫌う永から絶縁され、以来現在にいたるまで不仲。
- 娘:田原敦子は、『世界の車窓から』、『徹子の部屋』のプロデューサーである。(その関係もあってか、『徹子の部屋』には何度か出演している)
- 妻は元日本テレビアナウンサーで、ウーマンリブ運動家でもあった田原節子(旧姓村上節子)。愛妻家として知られ、妻がガンと宣告された時・亡くした時と二度自殺を考えたという。現在でも遺骨を墓地に埋葬せず、自宅に保管している。
- 著書『私たちの愛』にて、「妻とはダブル不倫の末に(当時いた双方の配偶者と離婚した後)結婚。」とある。
- メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。
- 前述のように田原は当初「噂の真相」に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だがそういった状況になっても両者の接触はたびたびあり、田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。
- 『2ちゃんねる』管理人西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。この為、2ちゃんねるの暴走を奨励していたとして、批判派から徹底批判されている。
- 株式会社ドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
- 東海中学校・高等学校で行われるサタデープログラムで、プロフィールを事細かに紹介した。
- ムハハnoたかじんで入れ歯であることを告白し、放送中に入れ歯を外すという予想外の行動に出た。
- 青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持っている。
- 国会議員の立候補依頼もあったようで田原曰く「血の小便出すような辛いことはいやだ。」と断ったそうだ。
- 元衆・参議院議員(日本社会党所属)の上田哲は高校時代の英語の講師で、恩師に当たる。
- よど号事件実行犯、田中義三の友人葬で「田中さんは華々しく闘い『戦死』したと私は思っている」と述べた。
- 中央公論2007年2月号に「私の仕事場」がグラビア見開き頁で紹介されている。部屋にはテレビだけでPCは無い。原稿は手書きである。
- 司会において結論ありきで進行する印象があるが、本人は議論を決め付けたことは無いらしい。ただし、そのことをパネリストから言われ「だったら帰れ!」などというふうに切って捨てることが番組で時々おこる。言行不一致という意識はないらしい。
- 2007年9月23日放送の『クイズ$ミリオネア』に出演。クイズ番組への登場はこれが初めて。同じく初めて出演したおすぎとともに、番組側からの5年に及ぶ交渉の末の出演だった。応援には古くからの友人である田中康夫が駆けつけた。
- 夜間学部の早大第二文学部在学中、昼間は日本交通公社(現JTB)で働いていた。
- 「田原総一朗のタブーに挑戦![4]」というポッドキャストの番組をしている。
[編集] 著書
- 現代青春の映像―しなやかな独歩行 時事通信社 1967
- 愛よよみがえれ(清水邦夫との共著)栄光出版社 1967
- 青春 この狂気するもの 三一書房, 1969.
- テレビ公害うらおもて(編) 文化出版局, 1970.
- 宣言 戦無派100人の思想と行動(編) 社会思想社, 1972
- テレビディレクター 合同出版 1973
- 青春-あらかじめ失われた時代 竹内書店, 1972
- おさまり遅れ中年気質 筑摩書房, 1975
- 大統領を知らない人たち アメリカで見たしたたかな生き方 実業之日本社, 1975
- 原子力戦争 筑摩書房, 1976
- 異常愛 ケーススタディ ドキュメント完全採録(編著、取材協力:原一男) エフプロ出版, 1976
- 現代青春の映像 しなやかな独歩行 時事通信社 1976.6
- 第三の性 ドキュメント エフプロ出版, 1977.4
- 翔べ田原総一朗 テレビ全力投球 創世記, 1977.4. -嗚呼!花の十二年(年表):収録
- 通貨マフィア戦争 文芸春秋, 1978.1
- 穀物マフィア戦争 実業之日本社, 1978.2
- 鉄神話の崩壊 潮出版社, 1978.6
- アラブからみたニッポン ちはら書房 1979.3
- 激烈なる漂流者 翔んだ男達の軌跡 ヒュ-マン・ドキュメント PHP研究所 1979.7
- クールな宰相候補 ゲ-ムズマンとしての宮沢喜一 学陽書房, 1978.9.
- 憂鬱なる密閉軍団 潮出版社, 1978.10
- 8人の超権力者 その力の源泉をさぐる 学陽書房, 1979.6
- 激烈なる漂流者―翔んだ男達の軌跡 ヒューマン・ドキュメント PHP研究所 1979.7
- 辣腕 切れて出来てしたたかな10人(編著) 学陽書房, 1979.9
- エネルギーマフィア 日刊工業新聞社, 1979.11.
- 日本の官僚1980 文芸春秋, 1979.12
- 日本のパワー・エリート この人びとが、あなたの運命を変える 光文社, 1980.3.
- “異色"創業者の発想 勝ち抜くための12カ条 PHP研究所, 1980.11
- 遺伝子産業革命 文芸春秋, 1981.6
- 日本式支配者たち 中央公論社, 1981.7
- 生存への契約 誰がエネルギーを制するか 文芸春秋, 1981.1
- 電通 朝日新聞社, 1981.9
- マイコン・ウォーズ 文芸春秋, 1981.12
- 人を率いる トップリ-ダ-の研究 学陽書房 1982.4
- 情報嗅覚入門 日本の、何を予知するか ベストセラ-ズ 1982.5
- 時代を読むための取材ノート 話の特集, 1982.5
- 先端技術時代の選択 あなたの会社は生き残れるか 二見書房, 1982.6.
- 首領に迫る サンマーク出版, 1982.6
- 人を率いる トップリーダーの研究 学陽書房, 1982.4
- ビジネス・エリートの情報嗅覚入門 日本の、何を予知するか ベストセラーズ, 1982.5.
- 「業際」の時代 プレジデント社, 1983.3
- 電子戦争・メディア戦争 文芸春秋, 1983.3
- 独創人間ここにあり 先端技術のトップランナ- 新潮社 1983.7
- 新メディアウォーズ. 一般産業編 文芸春秋, 1983.7
- 高度情報社会と企業・生活へのインパクトを探る 誤りなく生き抜くために 東京商工会議所, 1984.3
- 生命探検 脳と老化 文藝春秋 1984.4
- 新・内務官僚の時代 講談社, 1984.4
- 日本をデザインするキーパーソン 潮出版社, 1984.7
- 21世紀あなたはどうなる 講談社, 1984.8
- 独創の狩人 先端技術の“最先端"に挑戦する! 旺文社, 1984.10
- テクノコンフィデンシャル 企業挑戦・極秘情報 小学館, 1984.10.
- 飽食時代の性 セックス・ウォ-ズ 文藝春秋 1984.11
- ぼくだけの取材ノート 中央公論社, 1985.1
- 外側発想新「学芸の時代」に向けて(小川明との共著)TBSブリタニカ 1985.2
- 業態革命 新潮社, 1985.4
- 平和 5時間闘論 なにを、いかにして守るのか 未来社 1985.4
- ザ・ファーストランナー 筑摩書房, 1985.7.
- 細胞に刻まれた未来社会(岡田節人との共著) 朝日出版社, 1985.10.
- 世界企業(エクセレントカンパニー)・日本攻略司令官 ビジネス・アスキー 1985.12
- 日本大改造 新・日本の官僚 文芸春秋, 1986.3
- ソニーが叩き潰されない理由 松下・日立にジャンボトロンはつくれなかった ネスコ, 1986.1.
- 世界企業・日本攻略司令官 ビジネス・アスキー, 1986.1.
- 安倍・竹下にすんなり政権がいかない理由 日本のリーダーの条件 光文社, 1986.5.
- 生きぬく銀行泣く銀行 講談社, 1986.5.
- 戦後財界戦国史 総理を操った男たち 講談社 1986.7
- ドキュメント東京電力企画室 文藝春秋 1986.9
- 混迷日本の先を読む サバイバル・ウォーズに向けて プレジデント社, 1987.6
- 逆境脱出のシナリオ 創意ある企業の現場から 新潮社, 1987.6
- 時代を歩く 取材ノート'84~'87 文芸春秋, 1987.8
- 円を撃て マネー・ウォーズ最前線 講談社, 1987.9
- 新・日本改造論 日本、そして企業はいま、何をなすべきか 世界文化社, 1987.11
- 田原総一朗のパソコンウォーズ 90年代のパソコンをプロデュースする男たち 日本ソフトバンク出版事業部, 1988.12.
- こうして円高に勝った 中央公論社, 1988.5
- 巨大企業・復活への挑戦 生き残り革命の現場から PHP研究所, 1988.2
- 産業大転回のシナリオ “脱成熟"時代の経営を求めて 日刊工業新聞社, 1988.10
- 日本の創業超資産家たち なぜ彼らはビッグになったのか 徳間書店, 1988.5
- 日米インテリジェンス戦争 アメリカが仕掛けたソフトの罠 文芸春秋, 1989.1
- 柔らかな企業への変革 カリスマ経営からの脱皮 PHP研究所 1989.2
- 知の旗手 潮出版社 1989.7
- 闘論二千年の埋葬 日本人になにが起こっているか(栗本慎一郎との共著) ネスコ, 1989.7
- 時代を仕掛ける 田原総一朗と10人の男たち(編) フジテレビ出版, 1989.9
- 田原総一朗の新パソコンウォーズ あなたの知らなかった'90年代パソコンの現実(富田倫生との共著)日本ソフトバンク出版事業部, 1990.5.
- テレビ仕掛人たちの興亡 講談社, 1990.3
- 平成・日本の官僚 文芸春秋, 1990.3
- 田原総一朗の発想現場 文芸春秋, 1990.9
- 世代交代の嵐 トップ交代の現場 講談社 1990.11
- 企業維新 90年代企業の生き残り戦略 PHP研究所, 1990.11
- 第三の経営 “日本型"の壁を破る 世界文化社, 1991.1
- 「円」を操った男たち―政財官マネー人脈の暗闘 講談社 1991.3
- 脱・日本の知恵 時代の風はどこに吹くか 田原総一朗の風の現代史1991~1992 徳間書店, 1991.7
- 田原総一朗的発想! The fighting column 毎日新聞社, 1992.2
- メディア王国の野望 文芸春秋, 1992.1
- 決断 日本の防衛と対米戦略(田岡俊次との共著) リブロポート, 1992.3
- 静脈思考 人類が共生するための知恵 文芸春秋, 1992.4
- トップ経営者の新企業戦略 時事通信社 1992.7
- 日本コンピュータの黎明 富士通・池田敏雄の生と死 文芸春秋, 1992.9.
- 福沢諭吉の名文句 組織の崩壊をどう生き抜くか 光文社, 1992.10.
- 日本大改造案 いま、平成維新のときだ 激論(大前研一との共著) 徳間書店, 1992.11
- 格闘宣言! 田原総一朗的発想2 毎日新聞社 1993.3
- 日本が変わる、会社が変わる プレジデント社, 1993.12
- 30代を生き抜く人生哲学 いま考えることは何か、やるべきことは何か(編著) PHP研究所, 1993.10
- 無器用を武器にしよう 自分を面白くする知恵 青春出版社, 1994.2
- うろたえるな、日本―アジアから見た日米関係(大前研一、ビル・トッテンとの共著)徳間書店 1994.10
- 変革の時代を切り取る発想 文藝春秋 1995.1
- いま、民主リベラル(久保亘との共著)社会民主党 1995.1
- 田原総一朗の逆転勝ちの発想 先の見えない時代の15の自己戦略 青春出版社, 1995.7
- 変革の時代を切り取る発想 文芸春秋, 1995.1
- 日本の針路 真の「国益」を求めて 徳間書店, 1996.8
- 「戦後五十年の生き証人」が語る 中央公論社, 1996.4
- 田原総一朗の闘うテレビ論 文芸春秋, 1997.3
- ウン(運)・ドン(鈍)・コン(根)がぼくの生き方 弱さを強さにするヒント 青春出版社 1997.6
- 頭のない鯨 政治劇の真実 朝日新聞社, 1997.10
- 日本再敗北(山田厚史との共著) 文藝春秋, 1998.4
- 巨大な落日 大蔵官僚、敗走の八百五十日 文藝春秋, 1998.8
- 田原総一朗の科学の巨人たち 人間圏はどんなユニットで21世紀を迎えるべきか KSS出版, 1998.8
- 戦争論争戦 小林よしのりvs.田原総一朗(小林よしのりとの共著) ぶんか社, 1999.2
- 金融・経済日本再生! 『自由競争』万能は間違いだ!!(榊原英資との共著) 扶桑社, 1999.3
- 〈激論〉日本経済の「謎」を徹底解剖する(カレル・ヴァン・ウォルフレンとの共著)ビジネス社 1999.5
- この国はどこへ行くのか―田原総一朗対談集 中央公論新社, 1999.5
- 異端児になれる人出来損ないで終わる人 青春出版社, 1999.6
- 結局、どうすりゃ売れるんですか。 ヒットメーカーに聞く、成功の秘訣 ぶんか社, 1999.7
- 2000年からの大転換 回復の10年が始まる(長谷川慶太郎との共著) PHP研究所, 2000.2
- 生き残りの戦略 学習研究社, 2000.9.
- ジャパン・モデル 日本が米国を再び追い抜く日 PHP研究所, 2000.10
- IT革命のカラクリ 東大で月尾教授に聞く!(月尾嘉男との共著) アスキー, 2000.11
- 日本の戦争 小学館, 2000.11
- 面白い奴ほど仕事人間 自分で「自分」を生きよう 青春出版社, 2000.12
- 勝つ日本(石原慎太郎との共著) 文藝春秋, 2000.12
- 日本はなぜ負ける戦争をしたのか。朝まで生テレビ!(責任編集) アスキー, 2001.8
- 「勝ち組」の構想力 21世紀、われわれはいかに富を創出するか (大前研一との共著) PHP研究所, 2001.7
- 日本のカラクリ 朝日新聞社, 2001.5
- 脱「ダメ日本」宣言(田中康夫との共著) アスキー, 2001.12
- それでも、小泉純一郎を支持します Discover Japan 1955-2002 幻冬舎 2002.3
- 勝つ経済(宮内義彦との共著) PHP研究所, 2002.8
- 退場宣告 居直り続ける経営者たちへ(木村剛との共著)光文社 2002.9
- 日本の政治 田中角栄・角栄以後 講談社, 2002.9
- 日本のカラクリ21 小泉、真紀子政治と金テロから有事へ 朝日新聞社, 2002.8
- 大逆転 新しい日本モデルの挑戦(御手洗冨士夫,金子勝との共著) 東洋経済新報社, 2002.7
- 日本よ!日本人よ!(編) 小学館, 2002.12
- 私たちの愛(妻の田原節子との共著) 講談社, 2003.1
- 「茹で蛙」国家日本の末路 日本が元気になる最後の一手(大前研一との共著) ビジネス社, 2003.6
- 愛国心(西部邁,姜尚中との共著) 講談社, 2003.6
- 経営の極意 達人・田原総一朗が引き出す 幻冬舎 2003.8
- 田原総一朗の早大講義録 政治・経済のカラクリ アスコム 2003.9
- 日本の戦後 上 私たちは間違っていたか 講談社, 2003.9
- 生きのびよ、日本!!(岡本行夫との共著) 朝日新聞社, 2003.12
- 朝まで生テレビ!「愛国心」「国益」とはなにか。(責任編集) アスコム 2004.1
- 田原総一朗の早大講義録2 アスコム 2004.3
- 徹底討論!皇室は必要か 朝まで生テレビ!(責任編集) PHP研究所, 2004.9
- 連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ 集英社, 2004.9
- もっと知りたい! 田原節子がん対論 知りたがり患者の命を延ばしたがんの新常識(妻の田原節子の編著)エビデンス社, 2004.11
- 僕はこうやってきた(矢崎泰久構成) 中経出版, 2004.11
- 戦後最大の宰相田中角栄. 上・下 講談社, 2004.12.
- 最新・日本のカラクリ アスコム, 2004.4.
- 田原総一朗の聞き出す力 仮説を立てられる奴が生き残る! カナリア書房, 2004.1
- 日本の生き方 “定年”を迎えた戦後民主主義 PHP研究所 2004.12
- 「小泉の日本」を読む 朝日新聞社, 2005.2
- 国家と外交(田中均との共著) 講談社, 2005.11
- 日本の力(石原慎太郎と共著) 文藝春秋, 2005.3
- 田原総一朗の早大「大隈塾」講義録. 2005 激論!日本経済編(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著)ダイヤモンド社, 2005.5
- 日本の戦後 下 定年を迎えた戦後民主主義 講談社, 2005.7
- 経済神話のカラクリ アスコム 2005.7
- 政治と権力のカラクリ アスコム 2005.7
- メディアと権力のカラクリ アスコム 2005.9
- 田原総一朗激論!日本の外交と経済(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2005.9.
- オフレコ! Vol.1(責任編集) アスコム, 2005.8.
- オフレコ! Vol.2(責任編集) アスコム, 2006.2
- 大日本帝国の民主主義 嘘ばかり教えられてきた!(坂野潤治との共著)小学館 2006.4
- テレビと権力 講談社, 2006.4
- 田原総一朗激論!日本の憲法と経済(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2006.4.
- RNAルネッサンス 遺伝子新革命(中村義一との共著) 医薬経済社, 2006.6
- オフレコ Vol.3(責任編集) アスコム, 2006.8
- 日本の戦争 封印された言葉 アスコム 2006.8
- 憂国論 朝日新聞社, 2006.9
- 市場浄化 講談社 2006.10
- 田原総一朗誇りの持てる国誇りの持てる生き方(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2006.10.
- オフレコ!別冊[永久保存版]昭和史のカラクリ「戦争」「天皇」「靖国」を徹底検証!(責任編集) アスコム 2006.12
- オフレコ!別冊[最高権力の研究] 小泉官邸の真実 飯島勲前秘書官が語る!(責任編集) アスコム 2007.1
- 田原総一朗誇りの持てる働き方誇りの持てる生き方(早稲田大学21世紀日本構想研究所との共著) ダイヤモンド社, 2007.4.
- オフレコ! Vol.4(責任編集)アスコム 2007.5
- 正義の罠 リクルート事件と自民党-20年目の真実 小学館, 2007.6
- BC級戰犯60年目の遺書 日本の戰争(監修 田中日淳編)アスコム 2007.8
- 日本、変革 ニッポンが見えてくる世界一エキサイティングな授業 ダイヤモンド社, 2007.11.
- オフレコ!Vol.5(責任編集)アスコム 2007.11
- 日本の大逆襲 「改革」「格差」を超えて、新しい成長が始まる(長谷川慶太郎との共著)PHP研究所 2007.12
- 検察を支配する「悪魔」(田中森一との共著) 講談社, 2007.12
- 他に、2005年から『田原総一朗自選集』の刊行が始まっている。
[編集] 訳書
- 『テクノクラシー』ブルース・ナスバーム 講談社, 1984.10.
- 『コンピュータ国家』デービッド・バーナム ティビーエス・ブリタニカ, 1984.1
- 『ザ・ジャパニーズ・パワーゲーム』ウイリアム・J・ホルスタイン JICC出版局, 1991.11(監訳)
- 『ブルックリンの先はどこもトウキョウ』ラリー・キング 白水社, 1994.10
[編集] TVドキュメンタリー
- 田原の著書『翔べ田原総一朗』(創世社)巻末のリストより
- 1965年
- ガンに挑む
- 海氷二つの顔
- 救命ボート人影なし
- 高所恐怖症
- どぶねずみ
- ルポルタージュ血
- 1966年
- 1967年
- 異国の中の青春
- 愛
- フリーセックス時代~青春ごっこ~
- 被害者の妻と加害者の妻と~ある引き逃げ~
- フーテン作戦~若者たちに何ができるか~
- 半日本人だった18年~丁貞美の帰国
- モノ・セックスの時代~ミセスジェントと奇妙な男友だち~
- 学生右翼?~11・12私は羽田にいた~
- 1968年
- 若者たちの船~わたしの沖縄
- ジャンピング8
- ドキュメンタリー青春「さらば沈黙の日~音のない恋人たち」
- ドキュメンタリー青春「新宿ラリパッパ~このハレンチな魂の軌跡~」
- ドキュメンタリー青春「私は密輸団のルポ」
- ドキュメンタリー青春「オレはどん百姓ボクサーだ」
- ドキュメンタリー青春「出発(その1)~少年院をでたMの場合」
- ドキュメンタリー青春「出発(その2)」
- 1969年
- 1970年
- 1971年
- 1972年
- 1973年
- 1974年
- シリーズ・特集「ニューヨーク番外地~心やさしきマフィアたち~」
- 金曜スペシャル「実録マリリン・モンロー」
- シリーズ・特集「ウィンターソルジャー~アメリカの戦後~」
- シリーズ・特集「ウィンターソルジャー~黒人編~」
- シリーズ・特集「直撃・大企業のミドルは何を考える」
- シリーズ・特集「法は誰のもの~刑法改正是非~」
- シリーズ・特集「されどわれたが夏」
- シリーズ・特集「新若者考~シラケの季節をぶっとばせ~」
- シリーズ・特集「直撃 中核VS核マル」
- シリーズ・特集「あるテレビディレクターの投げた波紋」(未発表)
- 1977年
- シリーズ・特集「アパルトヘイトの実態~南アフリカの夜と霧~」
[編集] 脚注
- ^ 『僕はこうやってきた』p.147~p.148
- ^ 『僕はこうやってきた』P.125~127
- ^ 『田原総一朗の政財界「ここだけの話」』
- ^ 田原総一朗のタブーに挑戦!ポッドキャストサイト
[編集] 関連項目
- TBS「いのちの響」
- 下村満子
- 嘘つき解散
- 第40回衆議院議員総選挙
- 原一男