寺山修司
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寺山 修司 | |
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生誕 | 1935年12月10日 日本、青森県弘前市紺屋町 |
没年 | 1983年5月4日(満47歳没) 日本、東京都杉並区 |
職業 | 小説家、映画監督 |
文学 |
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出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、日本の詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷主宰。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。
言葉の錬金術師の異名をとり、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。その一方で、映画・演劇なども幅広く手掛けた。競馬への造詣も深く、『ユリシーズ』(船橋競馬場所属)という競走馬の馬主になるほど。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
目次 |
[編集] 生涯
- 1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
- 1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
- 父八郎出征(その後戦死)のため、母と三沢市へ疎開。母はその後九州で働くために青森市の親類に預けられる。青森市マリア幼稚園入園。
- 1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現:浦町小学校)入学。
- 1945年(昭和20年)青森大空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす米軍による集中攻撃だった。母ハツとともに逃げ惑い焼け出される。家も焼け一面焼け野原。9月父八郎がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取る。
- 終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現:三沢市)の古間木駅前(現:三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。
- 米軍差し押さえの民家に移る。
- 1948年(昭和23年)古間木中学校入学。母ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移り、転居したため、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られ、転校。
- 1949年(昭和24年)中学2年生で京武久美と友人になる。京武久美は句作をしており、その影響から俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続ける。
- 1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊、高校卒業まで編集・発行を続ける。同期生に沢田教一。
- 1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。
- 1955年(昭和30年)ネフローゼと診断されて入院。
- 1956年(昭和31年)在学1年足らずで中途退学。
- 20歳で処女戯曲『失われた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受けて交際が始まる。
- 21歳で第一作品集『われに五月を』が出版される。
- 1958年(昭和33年)第一歌集『空には本』が出版される。退院。
- 1960年(昭和35年)2月第3作目のラジオ・ドラマ『大人狩り』が放送される。長編戯曲『血は立ったまま眠っている』が浅利慶太の「劇団四季」で上演される。篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。
- 25歳で母ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。
- 27歳で松竹の女優九條映子と結婚。母ハツとの同居先を出る。
- 1967年(昭和42年)1月1日演劇実験室・天井桟敷を結成。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演。演し物は『青森県のせむし男』。6月新宿末広亭で第二回公演『大山でぶ子の犯罪』。アートシアター新宿文化で第三回公演『毛皮のマリー』。3月評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
- 33歳で九條映子と別居。
- 1969年(昭和44年)西ドイツ(当時)フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれて初の海外公演『毛皮のマリー』『犬神』。
- 1970年(昭和45年)3月24日、人気漫画『あしたのジョー』の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。
- 34歳で九條映子と離婚。
- 1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出した。フランスのニースで作家ル・クレジオと二日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。フランスのナンシー市の演劇祭で公演『人力飛行機ソロモン』『邪宗門』。ベルリンのフォーラム・シアターで公演『邪宗門』。ベオグラード国際演劇祭でグランプリ『邪宗門』。
- 1974年(昭和49年)映画『田園に死す』が公開され、芸術祭奨励新人賞受賞。
- 1979年(昭和54年)肝硬変で入院。
- 1981年(昭和56年)肝硬変で入院。
- 1982年(昭和57年)朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演『奴婢訓』。
- 1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中に、河北総合病院にて、敗血症で死去。享年49(満47歳没)。死後、青森県三沢市に寺山修司記念館が建てられた
- 2008年(平成20年)2月、20代で辞めたとされていた短歌の遺稿集が発見され、田中未知編纂により188首の歌集「月蝕書簡」(岩波書店)の刊行が決まった。
[編集] 俳句・短歌・詩
- われに五月を (1957年) - 第一作品集
- はだしの恋唄 (1957年)
- 櫂詩劇作品集 (1957年)
- 空には本 (1958年) - 歌集
- 血と麦 (1962年) - 歌集
- ひとりぼっちのあなたに (1965年)
- 田園に死す (1965年) - 歌集
- 長編叙事詩・地獄篇
- 寺山修司全歌集(1971年)
- わが金枝篇(1973年) - 句集
- 花粉航海(1975年) - 句集
- 寺山修司俳句全集 (1986年)
[編集] エッセイ・評論
- 戦後詩 (1965年)
- みんなを怒らせろ (1966年)
- 競馬場で合おう (1966年)
- 対談・競馬論 (1969年)
- 馬敗れて草原あり (1971年)
[編集] 競馬
寺山の競馬の出会いは1956年。ネフローゼで入院中でのことで、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。
1962年、山野浩一と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。
1964年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けている。
1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。1970年からは報知新聞競馬面に競馬予想コラム『みどころ』『風の吹くまゝ』を連載し、これは1983年4月、死の直前まで続いた。
競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく』という自作のコピーを朗読。1974年にハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』の構成、詩の朗読を行なった。
1978年の日経新春杯でテンポイントが骨折、2ヵ月後に死亡すると、追悼詩「さらば、テンポイント」を残した。この詩は関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介された。
1978年6月にはNHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演。同年5月28日に開催された日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を騎手、調教師、観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴った。
1981年のカブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山を中心とした10人の競馬マニアの連名で中央競馬会に抗議文を提出している。
1982年に寺山が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサツシチ。騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にした。まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」のが常だった。寺山の応援の効果か、両者共にダービー制覇を成し遂げているが、残念ながら吉永正人がミスターシービーで悲願達成したシーンを見届ける事は、肝心の寺山がダービー開催3週間前に急逝した為に叶わなかった。
ちなみに、前述の報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山は『勝つのはミスターシービー』とコラムに記し、吉永正人とミスターシービーの勝利を確信していた。
[編集] 脚本
[編集] ラジオ
- 中村一郎
- コメット・イケヤ
[編集] テレビ
[編集] 映画
(監督作品を除く)
- みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)
- 乾いた湖(1960年)
- わが恋の旅路(1961年)
- 夕陽に赤い俺の顔(1961年)
- 涙を、獅子のたて髪に(1962年)
- 初恋・地獄篇(1968年)
- 無頼漢(1970年)
- サード(1978年)
- 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)
[編集] 長編
[編集] 演劇
演劇活動については天井桟敷参照。
[編集] 映画
[編集] 長編
- 書を捨てよ町へ出よう(1971年)
- 田園に死す(1974年)
- ボクサー(1977年)
- 草迷宮(1978年)
- 上海異人娼館/チャイナ・ドール(1980年)
- さらば箱舟(1982年、公開1984年)
- 寺山修司&谷川俊太郎ビデオ・レター(1983年)
[編集] 短編
- 猫学 (Catology) (1960年)
- 檻囚 (1962年)
- トマトケチャップ皇帝 (1970年)
- ジャンケン戦争 (1971年) - トマトケチャップ皇帝の抜粋・再構成版。
- ローラ (1974年)
- 蝶服記(1974年)
- 青少年のための映画入門(1974年)
- 疱瘡譚(1975年)
- 迷宮譚(1975年)
- 審判(1975年)
- 二頭女(1977年)
- マルドロールの歌(1977年)
- 消しゴム(1977年)
- 一寸法師を記述する試み(1977年)
- 書見機(1977年)
[編集] 作詞
「時には母のない子のように」や「あしたのジョー」の作詞家として意外性をもって語られることが多いが、決して「作家のサイドワーク」ではなく、作詞家寺山修司としての活動である。ミュージシャンへの歌詞提供だけでも100曲以上、演劇・映画関連のものを含めると、ゆうに600曲を超える。
- 戦争は知らない(1967年、ザ・フォーク・クルセダーズ)
- 涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)
- 新 初恋(1968年、江夏圭介)
- かもめ(1968年、浅川マキ)
- 時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)
- 涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)
- さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭)
- 首つりの木(1970年、J.A.シーザー)
- 酔いどれ船(1970年、緑魔子)
- あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)
- 孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)
- 勇士のふるさと(1972年、ヤング101)
- 人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)
- 君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)
- 海猫(1973年、北原ミレイ)
- 新宿港(1974年、桜井京)
- 浜昼顔(1974年、五木ひろし)
- がんばれ長嶋ジャイアンツ(1975年、湯原昌幸/1993年に再リリース)
- 元気ですか(1976年、JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)
- ぼくの消息(1976年、豊川誕)
- 与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)
- もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)
[編集] 寺山修司研究書
- 寺山修司東京研究会『寺山修司の情熱の燃やし方』文化創作出版、2000年、217頁。ISBN 9784893871893