新谷のり子
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新谷 のり子 (しんたに のりこ、本名: 新谷則子、1946年10月3日 - )は、日本の歌手である。学生運動の闘士でもあった。北海道北斗市(旧上磯町)出身。カトリック信徒。
本名は「あらやのりこ」と読むが、淡谷のり子と読みが一字違いで畏れ多いと、デビュー時にレコード会社の指示で「しんたに」と読むことになった。奇しくも後年、淡谷のり子は新谷にとって、気骨ある反戦歌歌手の大先輩として尊敬する対象になる。
幼い頃から歌が好きで、NHKの『朝の童謡』のオーディションに合格、NHK児童合唱団にも属していた。歌手になろうと、高校中退して北海道より上京、銀座のクラブで歌うようになる。1968年から音楽クラブ「しんくら」に移った。1969年より三里塚闘争に参加、ここで出会った戸村一作を恩師とあおぐようになった。その直後に郷伍郎から自作の『フランシーヌの場合』を渡され、同曲でメジャーデビューすることとなった。
『フランシーヌの場合』は、当時30才のフランス人女性フランシーヌ・ルコント(Francine Lecomte)が1969年3月30日にパリで起こした政治的抗議のための焼身自殺に取材し、6月15日の反安保の日(1960年6月15日に樺美智子が死亡したことに因む)に発売され、約80万枚を売る大ヒットを記録した。新谷は闘争に参加しながら芸能活動を続けたが、「青春の墓標」(革マル派の恋人をもったことに悩み自殺した中核派の横浜市立大学文理学部の学生、奥浩平の遺稿集)からタイトルをとった二枚目のシングル『さよならの総括』は内ゲバによってついた「総括」という単語への嫌悪感からかあまり売れず、次第にマスコミからは消えて行った。
その後闘争を離れいずみたくの事務所に所属しながら労音で歌うようになったが、歌うことの意味を見失い、また銀座のクラブ歌手にもどった。
その後演劇経験、戸村一作の死などをきっかけに徐々に政治意識をとりもどし、現在の演奏スタイルを確立させた。1970年代半ばからは山谷で、1980年代からは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国、パレスチナでも演奏したが、大韓民国では北朝鮮への入国履歴が問題にされ、なかなかビザが下りなかったという。部落問題やシモーヌ・ヴェイユへの共感も表明している。
[編集] 資料
- 「反戦歌」(新谷のり子、土肥敏邦) ぴいぷる社 ISBN 4-89377-081-4