内ゲバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内ゲバ(うちげば)は、内部ゲバルト(ゲヴァルトとも。独:Gewalt、威力・暴力)の略で、一般的には、新左翼党派間の暴力を伴った内部抗争を指す。
目次 |
[編集] 概要
国家権力に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部[1]にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルトといい、日本でも学生運動で新左翼の分裂が始まった60年代初期から発生していた。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に党派思想に反対する個人を拉致しリンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていく。また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして60年代の後半以降はあらゆる新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。特に中核派・革労協と革マル派との間の内ゲバは激しく、70年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高指導者を暗殺したことで、内ゲバは「戦争」状態となった。
内ゲバによる死者は100名以上、負傷者は数千人と言われている。内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。「誤爆」とも言われた。
また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、公安警察が各セクトにその敵対者の所在情報を巧みにリークするなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、スパイとして潜入していた警察官もいたという。こうした学生運動の変遷は社会主義や共産主義に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずのスターリン主義の思想とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。
これらから転じて、政治・思想分野に限らず同じ組織に属する人間間の対立、仲間割れによる不毛な論争も「内ゲバ」と称する事がある。党派間の暴力を内ゲバと言うのに対し、党派内部の分派間の暴力を「内々ゲバ」と称することもある。党派内部で個人に加えられる暴力は粛清という。
1984年1月に、三里塚空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派が第四インター関係者に対し、襲撃して大怪我を負わせた。死者はいなかったものの、アイスピックで大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出している。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、暴力で反撃することはしなかった。実態は、中核派による一方的なテロ行為だが、広義の内ゲバと位置づけられている。
かつて、凶器は鉄パイプやバールなど「凶器となりうるもの」を使用し、実際は殺人行為なのだが傷害致死となるよう考慮されていた。1990年代以降の革労協などは包丁や飛び道具など、まるでヤクザの抗争の如き内ゲバを演じてきた。ここまでくると、もはや思想云々ではなく、「殺人」を目的にしているとも、戦争とも言われている。
[編集] 内ゲバの歴史
[編集] エピソード
- 恋人同士でありながら中核派に属した奥浩平と革マル派のシンパとなった中原泰子。愛し合っていた2人だが、党派の争いが激化していく中で2人の関係も引き裂かれていく。それが理由の一つで奥は自殺する。彼の遺稿『青春の墓標』に描かれた2人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれた。
- 中核派最高幹部陶山健一と、革マル派幹部鈴木啓一(森茂)は血をわけた兄弟。2人そろって東大に入学し革共同に加盟するが、分裂後はそれぞれ中核派と革マル派に分かれた。平成9年1月の陶山の葬儀には鈴木の姿はなかった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考
[編集] 脚注
- ^ この場合の「内部」とは、あくまで「新左翼諸党派に属さない者」が、「党派は違えど、同じ新左翼に属する」とみなしていることによる。現に「内ゲバ」を行っている党派において、「内ゲバ」の対象たる他党派は、「敵対集団」「不倶戴天の集団」であり、純然たる「外部」である。よって、それら党派が自らの行為を「内ゲバ」と呼ぶことはない。