小林よしのり
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小林よしのり | |
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本名 | 小林善範 |
生誕 | 1953年8月31日 - 日本 福岡県福岡市 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1976年 - |
ジャンル | ギャグ漫画、風刺漫画 |
代表作 | 東大一直線 おぼっちゃまくん ゴーマニズム宣言 |
受賞 | 第34回小学館漫画賞 |
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小林 よしのり(こばやし よしのり、1953年8月31日 - )は、日本の漫画家、「よしりん企画」社長。
福岡商業高校、福岡大学人文学部フランス語学科卒業後、1976年にデビュー。『東大一直線』『おぼっちゃまくん』などのヒット作を持つ。1992年の『ゴーマニズム宣言』以降、政治的な作品が増え、2002年から季刊誌『わしズム』責任編集長なども務める他、大東亜青年塾名誉塾長という肩書きも持つ。
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目次 |
[編集] 略歴
[編集] 出生 - 中学生以前
二人兄妹の長男として生まれる。『逆噴射家族』のアイドル歌手と女子プロレスラー両方志望の少女というのは、妹がモデル。
幼少の頃から喘息を患い、ひどい時は気管が細くなり、腕立て伏せのポーズでないと息が出来なかった。もちろんガリガリにやせており、あだなは「もやし」「ガイコツ」「黄金バット」。町内相撲大会では、いつもアザと泥まみれだった。両親は「あんたは大人になるまでに死ぬんだからね。保険金もかけてあるんだから」と言い、彼専用の離れ部屋を作るなど、突き放した態度を取っていた。だがこれは自立性を養う為であり、『おぼっちゃまくん』の主人公・御坊茶魔風の表現で言えば「よーしゃなくきびしく」育てられた。
夏休みなど長期の休みには、地方で密教の住職を務める祖父の寺に預けられた。祖父は僧侶ながら女性関係もあったなど、親戚からの評判はいまいち良くなかったが、大東亜戦争中ニューギニア島へ派遣された際に俳優の加東大介と共に現地で将兵向けの慰問芝居を行い、これが後年『南の島に雪が降る』として映画化された事を誇りに思っており、小林もその自慢話をよく聞かされた。この寺で体験した事はその後「ゴー宣」を中心とする各所に影響を与えており、小林は自らの事を「不動明王の生まれ変わり」と称している(本気でそう信じているのでなく、自分の精神力に関する一種の例え表現)。
子供の頃は親の方針であまり物を買って貰えず、小林の場合はその経験が物欲に対する執着心を弱めるに至ったと語る(無論同じ境遇でも正反対の例も多数ある。所謂『大人買い』など)。つい最近まで自己(自社)保有の車を持たなかったのも、その経験ゆえである。
小学校半ばの頃は、まだ体も弱かったがクラスから親しまれ、級長を勤めていた。だが担任の男性教師が当時流行りのスパルタ教師で(戦後軍人帰りの中年が、教職に多数復帰したのも理由)男女問わず殴っていた。小林はこの担任から、ホームルームなどの学級行事進行を手厳しく叩き込まれ、これが『東大一直線』の血見太先生や『おぼっちゃまくん』の昴田先生のモデルになったと思われる。
また精神薄弱気味でブタ鼻のクラスメートがおり、遠足の弁当の時間、同席させてもらえる仲間がいない時は、彼と笑い合って一緒にいた。『東大一直線』『男のトラ子 女の虎造』の主人公は、彼をモデルにして描かれたものだと言う。
テレビ番組が子供文化にも入り込むと「忍者部隊月光」「宇宙大作戦」等を視聴した。子供の頃の憧れの人物は「宇宙家族ロビンソン」のドクター・スミスだと語っており、その後の小林自身および著作の主人公の「憎まれっ子世にはばかる」を暗示している。
[編集] 高校時代 - デビュー前
福岡市立福岡商業高等学校(現福岡市立福翔高等学校)のデザイン科に在籍。併願で進学校にも合格したが、あえて商業高校へ入学した理由は「家から近い」「暇なので漫画が描ける」「学校の3分の2が女」「勉強する奴がいないから、少し勉強すれば優等生」だと言う。商業関係の資格取得が卒業条件であったため、日商簿記検定2級および珠算3級の資格を2年次までに取得して、後の高校生活はほぼ遊んで過ごしたとのこと。中学時代は坊主だった髪を伸ばして染める等、服装違反をやりまくり、毎日校門で生活指導に殴られていた。女性と頻繁に付き合う等の女性遍歴も、高校の頃には確立されていた様だ。
高校を卒業した後は就職にかこつけて上京し、石ノ森章太郎の弟子となり、漫画家修行をするつもりだった。しかし担任教師に「大学へ行って本を読め」と勧められ、福岡大学人文学部フランス語学科に入学。このときに受験勉強の準備に取り掛かったことが後に『東大一直線』を描くきっかけになったと述べている。フランス語を専攻した動機は、大学へ進学するにしても自分には合わない商学部には進学したくなかったことや、当時ミッシェル・ポルナレフなどのフレンチ・ポップスが流行っていたことから、「フランス語でミッシェル・ポルナレフが歌えたらカッコいいし、女にモテるだろう」というものだった。こうしたことからフランス文化に対してわりと好意的である。作品の中にフランス(語)を意図的に出す事は無いが、『ほう作』の「ふまんたれぶー」や『茶魔』のカメ達の名前など、ごく稀にフランス語から作られたとおぼしきものが出て来る。また、フランスに旅行した際、日本語しか話せない日本人観光客を無視し続ける現地の女性店員にフランス語で話しかけたところ、非常に怪訝な目で見られたことがあるという。本人曰く、フランス語はもう忘れてしまったとのこと。
大学時代、左翼活動に若干ながら関わったが「自分とは違う世界だ」と比較的早く気づいた事や、「レーニンマン」と呼んでいた活動家とのエピソードが『ゴー宣』に記されている。その後は「今これをやっておかなきゃ後悔する気がする」と、貧血になる程に読書にのめり込んだり、アルバイトに精を出した。アルバイトでは喫茶店での常連客で相撲の話が好きなヤクザの幹部(店側としては当然お客様)と話を合わせねばならず、必死に相撲のウンチクを本で勉強したり、やはり虚弱体質ゆえに肉体労働に向かずクビにされかけた時、バイト先の先輩達が「いい奴だから雇い続けてくれ。その分は俺たちがカバーする」と雇い主に訴えた逸話がある(その経験も当時の小林自身が自意識過剰であった事を自省させた)。
[編集] 東大一直線とその後の苦闘
『東大一直線』の投稿から『東大快進撃』の終了までは『東大一直線』を参照。
当時は福岡で執筆活動を行っていたが、心機一転の心意気の為1980年に上京、四谷に住む。『東大快進撃』終了後、『週刊ヤングジャンプ』初代編集長の角南攻から、どんな作品を描いても大丈夫と太鼓判を押された小林は、ラブコメ等軟弱化した若者に喝を与える「(誅)天罰研究会」を連載開始。これが人気投票で最下位の屈辱を味わう羽目になり、連載第一回からグラビアページ以下の最下位を記録。結果的に二作目のジンクスとなり、単行本にして全3巻で打ち切りとなる。
その後「東大一直線」連載後期頃にジャンプでデビューした大平かずお(『東大一直線』の背景にも大平の絵がある)の「小林さん、何でそんなに目つり上げて競争しよるんですか。もっと簡単に、マイナーな雑誌で描いていく方法だってあるんですよ」という誘いにのり、集英社との専属契約の満了と共に、没落が続いていた『週刊少年キング』に大平と二人で移籍する。 (後に『スーパージャンプ』等にも作品を掲載している)
『少年キング』移籍後スポ根パロディとも言える『風雲わなげ野郎』を連載するもまもなくキングの休刊により連載は途中終了を余儀なくされる。『少年キング』休刊の連絡を受け小林は「たとえマイナーと言う世界があろうと、誰かがメジャーの場でやって行かねばならぬのだ」と悟ったと語る。なお、『風雲わなげ野郎』ほか少年キングの連載漫画は、最終回を書き下ろした上で、徳間書店から「トクマコミックスBanBanシリーズ」のレーベルで単行本化されている。
[編集] 他誌を転々とする
『週刊少年マガジン』において「異能戦士」を連載、この作品は単行本2冊半分の連載と多数の読切からなり、ある程度の人気を得ていた。『マガジン』では引き続き、『わなげ野郎』と同傾向の作品の要求に対し、同じモチーフで、小林が幼少期には気に入っていた数少ないゲームであるメンコをテーマにした「メンぱっちん」を連載、ある程度のヒットを得る。また、この人気に着目した長崎屋がメンコ大会を開催、劇中と同じメンコが現実に登場した。当時の小林は、各誌を転々とするも2本以上は連載を続けている。
この頃一時的に手塚治虫の手法として有名なスター・システムを、小林も使っている。宮下あきらや和田慎二の様に世界観が繋がっているタイプでなく、手塚治虫や竹本泉の様に、同じ顔が別の世界に出て来るタイプであり、『東大一直線』のチョンマゲ先生や『(誅)天罰研究会』の首長の竜などが挙げられる。小林がいちばん何とかしてあげたいと思っていたのは『東大一直線』の名脇役、多分田吾作で、『メンぱっちん』の敵役の他、主役とした読切「多分・ザ・ジゴロ」等を発表した。
後に多分を発展させたキャラで『ヤングジャンプ』に読切「不抜呆作伝」を掲載。さらに『週刊少年チャンピオン』にて「いろはにほう作」として連載を行う。なおタイトルには「呆」が差別用語で使えないため。ひらがな表記となっている。第一回目で人気投票一位となり、単行本にして全8巻と『東大一直線』に次ぐ記録となる。その後も少年チャンピオンで連載を行ったが『ほう作』を超える連載は無い。
[編集] おぼっちゃまくん
『ほう作』終了と入れ替わりに1986年 『コロコロコミック』で連載された「おぼっちゃまくん」が大ヒットとなる(詳細は『おぼっちゃまくん』参照)。『コロコロ』編集部は『おぼっちゃまくん』以外の小林の漫画も求め、「いなか王兆作」の同時連載(『おぼっちゃまくん』後に連載を開始するも先に終了)、『救世主ラッキョウ』のリメイク、前述の『ほう作』のコロコロにおける再録等が行われた。なお、小林は『救世主ラッキョウ』のリメイクについては「旧作に比べ受けはかなり悪かった」と『ゴーマンガ大事典』で語っている。毒のある旧作に比べて『おぼっちゃまくん』の絵柄に近づいた点がまず目に付く違いと言える。
『おぼっちゃまくん』は1989年に第34回小学館漫画賞を受賞。授賞式での審査員による「絵は下手だし下品だし、私にはこの作品のどこが面白いのかわからない。来年以降は人気のみでなく、内容の善し悪しも審査基準に組み込みたい」という発言に対して激怒した小林は「こんな下品な漫画に賞をくれた審査員の度胸に感謝します」と、痛烈な皮肉を込めたコメントで反撃し、翌年以降の審査員が刷新される事態にまで発展。この顛末は当時『宝島』に連載していた「おこっちゃまくん」で描かれた。以後は、小学館が小林の主舞台になった。
この事件により自らの意見を積極的に世に発する事に目覚めた小林は、上述の「おこっちゃまくん」で時事論評を展開。漫画による時事論評という新しい手法が注目され、そして1992年に第三のヒット作「ゴーマニズム宣言」を『SPA!』誌上で連載。そこから続く思想関連書で『わしズム』を創刊。
2006年、ストーリーギャグ漫画として「遅咲きじじい」をビッグコミックにて連載開始。これは小林の目の病気以降の心境の変化が大きいとされる。
[編集] 著作・関連書籍
[編集] 連載作品
- 東大一直線 (週刊少年ジャンプ、1976年28号-1979年46号)
- 救世主(メシヤ)ラッキョウ (月刊少年ジャンプ、1978年4月号-1979年8月号)
- 世紀末研究所 (週刊ヤングジャンプ、1979年創刊号-1980年4月号)
- 格闘お遊戯 (月刊少年ジャンプ、1979年9月号-1981年3月号)
- 東大快進撃 (週刊ヤングジャンプ、1980年7号-1981年25号)
- ジューシィガンコ (月刊少年ジャンプ、1981年4月号-7月号)
- (誅)(マルチュウ)天罰研究会 (週刊ヤングジャンプ、1981年37号-1982年3・4合併号)
- 風雲わなげ野郎 (週刊少年キング、1982年13号-22号)
- 異能戦士 (週刊少年マガジン、1982年37号・1983年52号・1984年3・4合併号-33号)
- タコちゃん ザ・グレート (月刊ジャストコミック、1983年1月号-1984年5月号)
- メンぱっちん (週刊少年マガジン、1983年6号-35号)
- 角栄生きる (月刊コミック・ノストラダムス、1983年10月号-1985年10月号)
- 青年ジェット (月刊コミック・バンバン、1984年1月30日号-6月30日号)
- おーっと、フル・タッチ! (月刊ジャストコミック、1984年5月号-12月号) - 作:古舘伊知郎、画:小林よしのり
- いろはにほう作 (週刊少年チャンピオン、1984年36号-1986年24号)
- おぼっちゃまくん (月刊コロコロコミック、1986年5月号-1994年9月号)
- タコちゃん ザ・グレーテスト (月刊少年チャンピオン、1986年9月号-1987年5月号)
- ろまんちっく牛之介 (週刊少年チャンピオン、1986年28号-1987年1・2合併号)
- 忠牛ばっふぁ郎 (週刊少年チャンピオン、1987年20号-49号)
- 突撃!!(偏)(へんさち)BOYS(週刊ヤングジャンプ、1987年52号-1988年)
- 厳格に訊け! (週刊ヤングサンデー、1988年10号-1989年18号)
- おこっちゃまくん (月刊宝島、1989年2月号-1991年7月24日号)
- 最終フェイス (週刊ヤングサンデー、1989年23号-1991年8号)
- おこっちゃまくん (月刊コロコロコミック、1991年10月号-1994年5月号)
- どとーの愛 (隔週刊スーパージャンプ、1992年4号-18号)
- ゴーマニズム宣言 (週刊SPA!、1992年1月22日号-1995年8月2日号)
- いなか王兆作 (月刊コロコロコミック、1992年4月号・8月号-1993年1月号)
- よしりんぞーん (週刊少年サンデー、1993年7号・12号・17号)
- ザ・カリスマンガ 聖人列伝 (月刊PANjA、1994年7月号-1995年2月号)
- ザ・よしりん仮面 (週刊金曜日、1995年4月7日号-4月28日号)
- 私たち普通の日本人 (週刊ヤングマガジン、1995年38号・41号-43号・46号-1996年6号) - 隔週連載
- 新・ゴーマニズム宣言 (SAPIO、1995年9月27日号-2007年)
- ゴーマニズム外伝 (月刊Views、1996年1月号-4月号・7月号)
- よしりん昔話 (月刊宝島30、1996年4月号-5月号)
- 次元冒険記 (週刊ヤングマガジン、1996年16号-38号) - 隔週連載
- 夫婦の絆 (わしズム、2002年-現在中断中)
- 遅咲きじじい (ビックコミック、2006年-)
- ゴー宣・暫(2007年- )
[編集] 読みきり・書き下ろし
- ザ・樹海
- 新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論
- 新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論
- 新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論
- 目の玉日記(2006年)
[編集] 対談、共著
- 『知のハルマゲドン―ゴー宣・サリン・パープリン』 小林よしのり、浅羽通明(1995年) ISBN 4198603146
- 『ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論―自分と社会をつなぐ回路』 竹田青嗣、橋爪大三郎、小林よしのり(1997年) ISBN 4770501587
- 『教科書が教えかねない自虐』 小林よしのり、竹内義和、日本の戦争冤罪研究センター(1997年) ISBN 4821105527
- 『歴史教科書との15年戦争―「侵略・進出」から「慰安婦」問題まで』 西尾幹二、藤岡信勝、小林よしのり、高橋史朗(1997年) ISBN 4569557651
- 『朝日新聞の正義―逆説の新ゴーマニズム宣言』 小林よしのり、井沢元彦(1997年) ISBN 4093895414
- 『知のハルマゲドン』 小林よしのり、浅羽通明(1998年) ISBN 487728561X
- 『新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある』 小林よしのり、新しい歴史教科書をつくる会(1999年) ISBN 4594026052
- 『戦争論争戦―小林よしのりVS.田原総一朗』 小林よしのり、田原総一朗(1999年) ISBN 4821106493
- 『子どもは待ってる!親の出番』 金美齢、高橋史朗、小林よしのり、濤川栄太(1999年) ISBN 4900682373
- 『国家と戦争―徹底討議』 小林よしのり、西部邁、佐伯啓思、福田和也(1999年) ISBN 4870313715
- 『自虐でやんす。』 小林よしのり、竹内義和、日本の戦争冤罪研究センター(1999年) ISBN 4877287655 ----『教科書が教えかねない自虐』から改題。タイトルの文字の配置にお遊びがしてあり、『自虐ですやん。』(関西弁で「(その内容は)自虐じゃないですか」)とも読める。
- 『入国拒否―『台湾論』はなぜ焼かれたか』 小林よしのり、金美齢(2001年) ISBN 4344000951
- 『李登輝学校の教え』 李登輝、小林よしのり(2001年) ISBN 4093890528
- 『愛国対論』 渡部昇一、小林よしのり(2002年) ISBN 4569620647
- 『反米という作法』 西部邁、小林よしのり(2002年) ISBN 4093890536
- 『アホ腰抜けビョーキの親米保守』 小林よしのり、西部邁(2003年) ISBN 4870315645
- 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 個と公論』
- 『日本人なら知っておきたい靖國問題』小林よしのり、高森明勅、大原康男、小堀桂一郎、中西輝政、西尾幹二、百地章、長谷川三千子 (ISBN 4792604028)
[編集] 関連本
- 呉智英編『ゴ-マニズムとは何か! 小林よしのり論序説…』 (出帆新社、1995年)
- 『ゴ-宣レタ-集 ゴ-マニスト大パ-ティ-』既刊3巻 (ポット出版、1996 - 1997年)
[編集] 批判本
- ロフトブックス編『教科書が教えない小林よしのり』(1997/11 ロフトブックス ISBN 4795200696)
- 『君たちは戦争で死ねるか―小林よしのり『戦争論』批判』 ISBN 4272520563(1999年)
- 『“小林よしのり『台湾論』”を超えて―台湾への新しい視座』 東アジア文史哲ネットワーク(2001年) ISBN 4878933895
- 吉本隆明『「超」戦争論』
- 上杉聰『脱ゴーマニズム宣言ー小林よしのり「慰安婦問題」』東方出版(2002年)
- 『トンデモ本の世界R』、と学会(編)、太田出版, 2001年10月、ISBN4-87233-608-9:『戦争論』をトンデモ本として認定。
[編集] その他
[編集] エピソード
小林は自分の私生活について積極的に吐露しているため、読者は彼の著作を通して、彼の個性やエピソードの多くを伺い知ることができる。実際に、小林も自分の体験を引き合いに出しつつ主張をする論法を得意とする。
[編集] 愛称・通称
- かつて「小林先生」「よしのり」だったが、『おぼっちゃまくん』半ばから「よしりん」が登場した。さらに、埼玉県立所沢高等学校(作中では所左派高校)の卒業式問題あたりから「ちょんまげよしりん」も登場している。
- 一人称は「わし」。30代の頃から使用していた。説教臭い年寄りに憧れがあり、男が若く見られても外人にナメられるだけで何もいいことは無い、早く年を取りたいという思いから来ている。また、生前の父親が、よその子供などにもかまわず説教をしていたなどのエピソードを語っている事から、父親への尊敬が由来しているとも。しかし、生来の声の高さ、声の細さなどが災いしてか、インターネットコミュニティなどでは「『わし』は似合わない」と言われている。
- インターネット上を中心に「コヴァ」という別称が使われていることがある。これは小林よしのり本人はもちろんのこと、小林のファンの通称としても使われている。元々はアンチ小林ファンによる小林やそのファンに対する蔑称で、「こばやし→こヴぁゃιぃ→コヴァ」という変遷から生じたものであるが、あまり定着していない。
- 小林よりのり(主に左派系の者やアンチ小林が使う)という表記もある。
- 高澤秀次による「小林やすのりは言論のルール違反だ」という批判を、そのままゴー宣に載せ、「わしの名前間違いながら批判しとる」と笑った事もある。
[編集] 漫画
- 元々『サザエさん』の様な誰でも親しめるファミリーな漫画を目指していたそうだが、いざプロになってみると、賛否両論が激しい漫画家になってしまった。特に内容については少しでも密度を高くすると、すぐ拒否反応を起こす読者がいるとこぼしている。この事から相原コージと並び「日本で最も1ページあたりの密度が濃い漫画家」と呼ばれた事がある。また身体虚弱児、障害者、被差別者などの読者からは、熱狂的に愛読されていると言う事実が、ファンレターの内容分析から判明している。
- 漫画そのものに対する侮辱、漫画家であることをもって批判することに対しては、激しく怒ることで有名。先述の授賞式での一件や後述する西部邁との一件もそこから勃発した。当初はゴー宣の作中で、「権威主義に負けるな」と漫画を低く見る事を批判していたが、その後に西部の発言に一定の理解を示し、漫画はあくまでもサブカルチャーと考え、サブカルチャーに過ぎない漫画が日本で各世代から幅広く支持され、また日本の文化の担い手的立場を求められていることを批判し、その原因がメインカルチャーである文学などが堕落していることにあるとして、「自分のような漫画家に、知識人が負けてはならないのだ」と主張している。
- これを新ゴー宣1巻で主張するに先立ち、1995年7月放送の討論番組「朝まで生テレビ!」にて、小林は西部と同席し、西部の主張に同意する形で、「朝生で、西部さんが電車の中で漫画を読んではいけないと言ったが、昔なら凄く怒っていたが、今は駄目だと思うようになった」と主張した。番組では宮台真司や大島渚らから反論を受け、大島からは「メイン、サブと、カルチャーの高さを分ける事に意味はないよ」という趣旨の批判を受け、観覧からも、西部邁を批判していた頃のゴーマニズム宣言を礼賛しながら、同様の意味の批判を受けたが、小林の姿勢はその後も一貫している。なお、メインが本当にだらしないのなら、サブの立場から、その地位を取るとも警告している。
[編集] 趣味・好きなもの
- プロレス
- 有名な趣味はプロレスで、締切前に仕事を急いで仕上げ、観戦に行く時間をわざわざ作る程である。観戦専門としており、自らすることはしない(技をかける事ぐらいは出来る)「暴力への憧れがあるのかも知れない」と語っており、これまでの作品やギャグにも、プロレスや格闘技をモチーフにしたものが多い。国内プロレスではアントニオ猪木派で、選挙で猪木に投票したり、その後の猪木の体たらくぶりで逆に投票しなかったこともある。他に障害者プロレスを世に広めたのも『ゴー宣』の功績の一つで、障害者プロレスで挨拶をしたこともある。
- 歌謡曲・カラオケ
- 赤ん坊の頃から歌謡曲を聴いて育ち、現在に至るまでほとんどの流行曲を把握、「ヒットするかの許可をわしが審査している」と語る程の歌謡曲通。取材に来たマスコミが「よしりん企画の入社試験には、カラオケがあるんですか?」と、スタッフに聞いた程のカラオケ上手で、専用のマイクを持っている者もいる。古くはピンク・レディー、沢田研二、庄野真代、柏原よしえなどを『東大一直線』に登場させていた。特に演歌が好きで、なかでも藤あや子(男なら冠二郎)の大ファン。『ゴー宣』にも彼女を登場させた回が二度存在し、藤本人との面会も実現している。アンジェラ・アキなど近頃のヒット曲もよく聴くようになっているが、その理由は「みなぼんがカーステレオでよくかける曲だから」とのこと。
- 映画鑑賞
- あまり知られていないが、映画好きである。漫画家にならなければ、映画監督になっていたと自負しており『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』が公開された時は早くに鑑賞した。また、当時の作品にはパロディ的表現が多数ある。現在は『ゴー宣』以降の超多忙により、ビデオにより映画を見る際は、早送りで鑑賞しているとのことである。
- 似顔絵
- 小林の仕事場を訪ねてくる人間については、ほとんど似顔絵を描いていた。その中でも特に個性的な人物は、登場人物に昇格することもあった。その長年の似顔絵修行で、『ゴーマニズム宣言』の〈特徴を掴んだ、そっくりな似顔絵〉が生まれたと思われる。
[編集] 生活・健康
- 喘息は「大学時代に若干再発したものの、いつの間にか治っており、漫画家デビューしたら他人より強じんになってしまった」との事であるが、2006年1月に死去した郵便職員の父・携次郎が、その数年前から再び喘息を患うようになっていたのを見て「年を取ったら再発するかも」とも語っている。
- ペン等細長い物を持つ場合、通常は人差し指と中指の間で挟むが、小林は人差し指と親指の間で挟む。この為人差し指と親指の間にペンだこが6つもあり「日本一多くのペンだこを持つ漫画家」と自称する。風変わりなペンだこは、自らをモデルにした漫画家・小林やしゃのりが主人公の『夜叉』にも登場した事がある。
- 深夜にペン入れをしていた時、あくびで顎が外れて、大急ぎで病院に駆け込んだこともある。
- 生活サイクルは「2日間起きて6時間寝る」と『おぼっちゃまくん』時代のアシスタントが語り、本人も長らく夜型生活であると語っていたが、視力回復手術を行った後は朝型生活に変わったと語る。
- 歴代秘書曰く、「潔癖症レベルの清潔好き」。自宅以外のトイレには行きたくないが為に、外での水分摂取を極度に避けていたらしい(現在は医師に水分の不足を指摘され、積極的に摂っている)。また、バスタオルが敷かれた椅子(通称「タオルイス」)を愛用していることはファンの間でも有名である。本人曰く「タオルが無いと不安」。
- 2005年秋に白内障のため視力が著しく悪化した事により手術を行い、『新ゴー宣』を休載する。旧『ゴー宣』時代、「噂の真相」の記事が引き金となって当時の秘書が退職したショックで原稿を落として以来の休載となった。視力は回復したものの、「眼圧が強すぎる」との理由で翌週も休載。
- なおこれら生活・健康についての話は、近年では珍しく無思想の書き下ろし漫画「目の玉日記」に詳しい。
- オウム真理教教団に暗殺されかかったことはあまりにも著名。((路上での尾行車への威嚇、店舗内での監視を切り抜けた逸話等)(寺の生まれゆえ不動明王、密教の高僧の守護とも言われる。))
[編集] 討論番組
以前は『朝まで生テレビ!』をはじめ、テレビ番組に積極的に出演し、数々の名場面を演出して来た。
- 基本的に『テレビなどの場で喋るのは苦手』と公言している為、自ら積極的に発言する場面は意外なほど少なく、自ら書き下ろした『ゴーマニズム宣言戦争論スペシャル』特集時は当の小林本人よりも、他の出演者の方が熱論を交わしていたほど。
- 小林はイラク戦争に反対の立場ゆえに、他の反対派と同じサイドの席を指定された事がある。この際、「えー、今日は左翼の末席に繋げられてしまって。これはますます誤解を受けてしまうなあ、と。思っているんですけれどもね。」と発言(2003年11月放送の朝生より)。
- 2005年末頃より「マスコミは政府の走狗に過ぎない」として、今後は一切のテレビ出演をしないと宣言した。が、2006年6月の段階で、NHKの生放送討論番組『日本の、これから』に出演し、宣言を破る。ちなみに『朝生』についても、以前に田原総一朗への批判などから「今後は出演しない」と宣言した後に出演した例がある。もっとも「宣言した」と言えども、あくまでギャグタッチで描いているため、どこまでが本気なのかは量りかねるものがある。その後、2007年の8月15日の『日本の、これから』にも出演する小林の姿があった。九条護憲に関して「本当に、日米安保も自衛隊もなくして、丸裸の状態になり、それでもやっていく覚悟があるのか。あるのならわしはそれに賛同しますよ?」「命が大事なら、ガンジー主義はできませんよ?」と発言し、その覚悟がないなら改憲すべきと主張した。なお小林は、「憲法九条はガンジー主義を具現化したものとパール判事が考えていた」と主張した中島岳志との論争(正論2007年11月号)で、「対米依存」「命こそが一番大事」の九条護憲と、ガンジー主義は別物であると主張している。
[編集] その他
- 霊、超能力、UFOなどのオカルトについては、いわゆる「自分の目で見たものしか信じられない」否定派。存在を信用しないと言うより「科学を使って理論的に(存在しない事を)解明しろ」とする主張である。特にオカルト研究家として有名になった、つのだじろうについては「本業の漫画がさっぱり売れなくなったもんだから、今やってるオカルトはほとんどギャグにしかならない」と強く攻撃、オカルトを皮肉った『うしろの中岡くん』(つのだじろうの『うしろの百太郎』と、心霊写真鑑定家の中岡俊哉のもじり)なる読切漫画も発表している。この反オカルト思想から、以前は大槻義彦のファンと称していたが、その後大槻の矛盾にも気がついたのか「大槻教授も回答を出していないのが欠点だ」と語っている。ところが小林自身は前述の密教寺に泊まった際、不可思議な霊らしき体験をしており、この点については『ゴー宣』でも完全に割り切れていないオチをつけている。もっとも『ゴー宣』は政治や民族思想を描くのに精一杯で、オカルトを再度描く余地がとても無い為、今後あまり書かれずに終わる可能性もある。
- 物欲が余り無い事や、タクシーや電車などの公共交通機関の利用が多かった事から、長らく自前の車を保有していなかったが、『ゴー宣』で有名になって以降、オウム事件での一件や、お喋りなタクシー運転手などから自分に関する情報が漏洩する状況が少なからず起こった為、免許未保有のままで車を購入するに至る。車種はメルセデス・ベンツ Cクラス(2代目)。選定の理由は「(イラク戦争に加担する)米国車や(中国に媚びる)日本車は買わない」として欧州車に絞り、(自分が座る)助手席の乗り心地が良く、かつ「便通が良くなりそうな名前だから」とのこと。運転は現秘書の岸端みなが担当する事が多い。なお小林の著作「おぼっちゃまくん」の主人公・御坊茶魔の愛車は「メルセデス・便ツ」である。
[編集] 交遊録
詳細は小林よしのりの関連人物を参照
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『ゴーマニズム宣言』
- 『新・ゴーマニズム宣言』
- 『小林よしのりの異常天才図鑑』
- 『小林よしのりのゴーマンガ大全集』
- 『オレの“まんが道”』