聖域なき構造改革
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聖域なき構造改革(せいいきなきこうぞうかいかく)とは、日本の小泉純一郎内閣のスローガンである。「小泉構造改革」とも呼称する。
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[編集] 概説
発想そのものは新自由主義経済派の小さな政府論より発したものである。政府による公共サービスを民営化などにより削減し、市場にできることは市場にゆだねることとしている。
ちなみに、構造改革という用語自体はイタリア共産党のパルミロ・トリアッティ書記長が第二次世界大戦後に打ち出した路線が根源であり、議会制民主主義の枠内で政治・経済体制などの基本構造を根本的に変更し、社会問題を解決するという方針に基づく大規模な社会改革を指している。従って、構造改革の目標は資本主義体制の維持を認めた上で分配の平等・公正化や社会的連帯の実現を目指す社会民主主義的社会の実現とも考えられるため、保守政党の政治家である小泉の「聖域なき構造改革」とは本来は異なるが、既存の社会体制の維持を拒絶し、基盤組織の全面改編を反対派の抵抗を押し切って強行する点で、小泉による構造改革は本意としての構造改革との共通性も見られる。
[編集] 経過
アメリカの年次改革要望書における、日本への市場開放の要求も含めながら郵政事業の民営化、道路関係四公団の民営化を含めた、小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を柱としている。また、小泉個人は「構造改革なくして景気回復なし」と発言しており、郵政民営化や企業法整備などの日本国内の供給面での構造改革を通じた拡充と安定が日本経済の回復にも貢献すると考えていた。しかし、首相就任以前に会合で経済評論家植草一秀と政策を巡り激しい口論となり、その会合で植草は、小泉の「構造改革」が実行されれば日本経済は破滅的結末を迎えると警告した。しかし小泉は頑に拒絶し「構造改革」を実行することになる。
「改革」を巡っては、骨太の方針などを発した経済財政諮問会議や、郵政民営化や公共事業費削減により、自民党の改革反対派議員や官公庁と対立することとなる。
また旧来の主に地方の支持者を切り捨て、マスメディアを使ったパフォーマンスにより都市部の有権者(主にB層)に感情に訴えかける宣伝手法への転換を図った。これが功を奏し、2005年夏には郵政民営化問題の衆議院審議に端を発した、衆議院解散、総選挙が行われることになり、これに自民党が大勝した。
しかし、国会召集後、相次いで構造計算書偽造問題(耐震強度偽装問題)、ライブドア事件、村上ファンド事件、福井日銀総裁の株取引疑惑が明るみに出ると、規制緩和などの一連の「改革」の是非と企業倫理問題点が議論され、それまで小泉内閣を支持していた国民の一部では小泉政権の「改革」を疑問視する声が出て、例えば総選挙直後に比べて、支持率が減少するなどした。
「聖域なき構造改革」を提唱した小泉自身は2006年9月に首相を退任。後任者である安倍晋三は就任後初の会見で「構造改革を加速させ、補強していきたい」と語り、政策面では基本的に小泉路線を継承した。
[編集] 「聖域」とは?
特殊法人と特別会計をさして、今まで改革を行うことの出来なかった分野として聖域と言われることが多い。政府、自民党が用いた例としては以下の2例を記す。主として、小泉元首相が所属している森派(現町村派)と対立関係にある旧経世会の権益に属する分野のことをさす。
- ここまで進んだ小泉改革(首相官邸ホームページより)では、行財政改革のページ(郵政民営化を初めとする特殊法人改革を紹介。P35)で、「聖域なき改革」という言葉を使用。
- 自民党
- 「骨太の方針」説明の中の、予算の編成について「聖域なく見直しを行う」という言葉を使用(参考)。
[編集] 経済状況の推移
聖域なき構造改革を標榜した、小泉内閣における経済状況の推移は以下のとおり。
- 株価
- 小泉が首相に就任した2001年4月の株価は、13,934円。就任以前から株価は低下傾向にあり、その後も上昇と低下を繰り返しながら、2003年4月には7,831円となった。その後は、踊り場局面もあるものの、上昇傾向で推移。2006年9月には、16,127円となった。
- 失業率
- 首相に就任した2001年には5%台となった。その後、2002年夏の5.5%をピークに徐々に低下。首相退任時の2006年9月には、4.2%となった。
- 倒産件数
- 首相に就任した2001年の倒産件数は、19,164件。その後は減少を続け、首相退任時の2006年は、13,245件となった。
[編集] 反対意見
自民党の一部の議員は郵政事業の民営化に反対したが、小泉の支持者達は反対派議員を十把一絡げにして「選挙に際して全国の特定局長OBによる組織『大樹』から支援を受けている為だ」と喧伝した。また、小泉内閣は財政の健全化のためとして公共事業費を削減しているが、これに対しても自民党議員の一部が反発している。
小泉はこうした構造改革に反対する議員達(後には、改革に反対する官庁なども含まれるようになる)を「抵抗勢力」と呼んだ。この抵抗勢力はあくまで小泉からの呼称という性格が強く、その議員や諸勢力が小泉と妥協する、あるいは小泉に屈服すると、小泉は「抵抗勢力が考えを改めて改革勢力に転換した」と称賛することもあった。郵政民営化に反対した亀井静香などは抵抗勢力の中心人物と目され、国民新党の結成と自民党からの除名へ発展した。ただし、自民党の政務調査会長時代の公共事業の大幅削減を実施や、運輸大臣としての道路公団入札改革などでは小泉による改革を先取りしていた。また、「抵抗勢力」と称された議員や諸団体の多くはこの用語を「小泉によるレッテル貼り」として嫌う傾向があるが、亀井の場合はむしろ肯定的に受け入れ、自分こそが「真の改革派」と反論するために利用する場合もある。
公共事業の削減は地方経済の衰退、雇用の悪化を招くとする議論もあり、主に野党(政権を巡り対立)や労働組合(公務員削減問題などで対立)、医師会(診療報酬や医療費改革問題で対立)などは、本改革をさして構造改悪と揶揄したりした。
また、公共事業の削減によって生じた国庫負担の削減分は、金融機関の不良債権処理等、金融セクターにおける私企業の救済に充てられており、利権が建設族から金融族に移行したに過ぎないとする意見も強い。
日米安全保障条約に基づいた在日米軍に対する財政支出(いわゆる「思いやり予算」)について、依然として放漫に行われている(義務では無い)ことから聖域ある構造改革と揶揄されることがある(参考)。
特に郵政民営化の内容については、アメリカ通商代表部から日本政府へ毎年出される年次改革要望書において、長年一貫して要求されていたものに忠実なだけであったとの指摘がある(もっとも郵政民営化自体は年次改革要望書が出る1994年以前から小泉が主張していたものである)。
「改革」によって道路公団の民営化や財源移譲が行われたが、これらについては「改革」が不十分だという批判もある。また、この間問題になった官僚の天下り等についてもほとんど手がつけられていない。
[編集] 「改革」による影響
郵政民営化、道路公団の民営化、独立行政法人の統廃合が行われた。また、労働者派遣法の規制緩和、三位一体改革、診療報酬本体の初のマイナス改定や市場化テストなどの拡大が行われた。旧来の地方の支持者を切り捨て、大企業および外資系企業を優遇する政策を次々と実行した結果、これらの企業の業績は急速に好転し、求人が増えたため失業率が低下した。一方で、地方で「構造改革」の弊害をまともに受け、経済がより疲弊し、財政に余裕のなくなった地方自治体は合併へと追いやられた。
具体的には福祉・公共サービスの縮小、市場原理主義の浸透により、以下の点が指摘されている。
- 福祉の分野では障害者自立支援法により障害者福祉の分野で自己負担が増え障害者の生活が逼迫した。
- 医療の分野では、医療制度改革のため患者の医療費負担が増大し、高額な医療は受けづらくなった。また、医療費抑制は医師の労働環境を悪化させ、地域の医療システムを疲弊させている。
- 構造改革特区では地方での限定的な規制緩和を行い、一定の成果を挙げ、地方の景気や雇用の掘り起こしがなされたと喧伝されるが、地方交付税や公共事業の縮小により、成長産業を持たない多くの地方自治体が財政赤字に苦しんでいる。赤字に苦しむ自治体の公共サービスは切りつめられ、採算性が取れず廃業する学校、病院が出現した。
- 労働の分野では、労働の供給システム(学校等教育)と労働の需要側(企業等)との間に亀裂が入り、不安定な環境に置かれる労働者が増加した。
- 経済は、ニューエコノミーへの転換により活性化し、景気は上向いた。ただし、転換の影響によって労働構造が変化(多数の熟練者を求める社会から、少数の創造的な社員と多数の単純作業を求める社会へと変化)したことに対し、学校等教育の現場は労働構造の変化に対応できず、アルバイト等、多数の非正社員が生まれた[1]。
[編集] 「改革」の柱
[編集] 官から民へ
[編集] 国と地方の三位一体の改革(中央から地方へ)
詳細は三位一体の改革を参照。