イラン進駐 (1941年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラン進駐 | |
---|---|
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1941年 8月25日 - 1941年 9月17日 | |
場所:イラン | |
結果:連合国軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
イギリス軍 英国領インド軍 ソビエト連邦軍 |
イラン軍 |
指揮官 | |
エドワード・クイナン ドミトリー・コズロフ |
レザー・シャー・パフラヴィー |
戦力 | |
3個軍 2個師団、3個旅団 |
9個師団 |
損害 | |
22人死亡、42人負傷 | 2隻の軍艦が沈没、4隻が損傷、6人が死亡 |
第二次世界大戦中の1941年8月25日から9月17日まで行われたイラン進駐は、イギリスとソビエト連邦によるものである。これは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance、顔色作戦の意味)と呼ばれる。この侵攻作戦の目的は、イギリスの油田の安全確保と、東部戦線でナチス・ドイツに対して戦っているソビエト連邦に対する補給線の確保である。(ペルシア回廊を参照)
目次 |
[編集] 背景
第二次世界大戦前のイランはイギリスのアングロ・イラニアン石油会社がその石油生産の権限をほとんど握っており、一方的に価格を決定する状況となっていた。イランはイギリス領インドとソビエト連邦に挟まれる位置に存在しており、その両者に対抗する第三国に接近した。レザー・シャー(Reza Shah Pahlavi)は、最初はアメリカ合衆国に接近するが、限定的な関係しか持てず、その後ナチス・ドイツに接近する。1941年6月のドイツのソビエト侵攻により、イギリスとソビエト連邦が連合国となった。これにより、イランは連合国にとって非常に重要な拠点となった。
アーバーダーンの油田は1940年で800万トンを産出し、連合国の戦争遂行においてきわめて重要なものであり、それがナチスの手に落ちることをイギリスは恐れた。また、ソビエトにとっても、イランは戦略的に重要な拠点であった。
1941年当時、ドイツ陸軍は順調にソビエト領内を進軍しており、連合国にとって、アメリカ合衆国が制定したレンドリース法による武器貸与をソビエトへ送る方法は非常に限られていた。ソビエトの北極海に面した港であるアルハンゲリスクやムルマンスクへの輸送は、それらの港が不凍港であっても、大量の流氷や沿岸の氷結が物資の輸送を困難にしていたし、Uボートによる群狼作戦をはじめ通商破壊による損失も無視できなかった。そのため、南方のイラン経由での鉄道輸送は、これらの問題を解決してペルシャ湾経由の輸送ルートとしては非常に適しているものであった。イギリスとソビエト連邦の2つの連合国は、イランとシャーに圧力をかけていたが、これは緊張を増加させ、首都テヘランで親ドイツの暴動を引き起こすのみであった。レザー・シャーはイラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否した。この鉄道の使用の拒否は、上記の様な戦略的な意味で、1941年8月25日にイギリスとソビエト連邦にイランへの侵攻を開始させた。
[編集] 侵攻
この侵攻は、迅速にかつ容易に行なわれた。南からイギリス軍イラク司令部(イラク軍団として知られている)、これは、6日後にイラン・イラク司令部(パイ軍団)と改名されるが、エドワード・クイナン中将(Edward Quinan)の指揮下で前進した。パイ軍団は、第8インド歩兵師団と第10インド歩兵師団、第2機甲旅団、第9機甲旅団、第21インド歩兵旅団より構成されていた。ソビエト軍は北より、ドミトリー・コズロフ大将指揮下のザカフカース戦線の第44軍、第47軍、第53軍が侵攻した。 航空戦力と海軍戦力も戦いに参加した。ペルシア軍は9個師団を動員した。レザー・シャーは大西洋憲章の元、アメリカ大統領のフランクリン・D・ルーズベルトに訴えた。
しかし、以下に示すルーズベルトからの返答により、シャーの国をアメリカ合衆国大統領が救済する気が無いことから、嘆願は失敗に終わった。
ルーズベルトは「イギリスもしくはソビエト政府が、イランの独立や領土に何の意図も持たないと言うイラン政府への声明」によりシャーを安心させた。しかし、後にソビエトは北部で州の独立主義者の支援を行ない、その一方で、アメリカと英国は1953年のイラン石油国有化運動の間に、民主主義的に選ばれたイランのモハンマド・モサッデグ首相の転覆を支援した。
戦いは8月25日の夜明けに、イギリスのスループ ショアハム (HMS Shoreham) がアーバーダーン港を攻撃することで始まった。アーバーダーンに停泊していたイランのスループ パラング (Palang) はショアハムによって撃沈され、残った船は破壊されるか捕獲された。抵抗を準備する時間も無く、アーバーダーンの石油産出施設は、事前に移動していたバスラからシャッタルアラブ川を下ってきた艦艇(武装ヨット シーベル (Seabelle) など)から上陸してきた2個大隊によりその日のうちにイギリスの手に落ちた。小部隊が武装商船カニンブラ (HMAS Kanimbla) から、石油生産設備と港を保護するために、バンダレ・シャープールに上陸した。英国空軍は空軍基地と通信施設を攻撃した。また、オーストラリアのスループ ヤラ (HMAS Yarra) がホラムシャハル (Khorramshahr) のイラン海軍基地を攻撃し、イランのスループ バブル (Babr) を沈めた。バスラからイギリスとインドの部隊は、ガスレ・シェイフ(8月25日に占領)へ前進し、シャーが戦闘の終結を命令した8月28日までに、アフヴァーズ(Ahwaz)に到達した。イギリスとインドの8個大隊はウィリアム・スリム少将(William Slim)の指揮下で、ハナーキーン(Khanaqin、バグダードの100マイル北東で、バスラから300マイル)から、ナフテ・シャー油田を通り、ケルマーンシャーとハマダーンへ抜けるパーイェ・ターフ渓谷に向かって前進した。防衛部隊が夜に撤退した後、パーイェ・ターフは8月27日に占領された。8月29日のケルマーンシャーに対する攻撃は計画されたものの、防御部隊が降伏文章の締結を行なうことを要求したため、中止された[1]。
ソビエト軍は北から侵入し、マークーに向かって前進した。マークーは爆撃により防衛を破壊された。同様にカスピ海の沿岸バンダレ・パフラヴィーにソビエト軍が上陸した。この時、ソビエト海軍は、同士撃ちを行なうという事件が発生した。海軍の作戦で、2隻のイラン軍の軍艦が沈み、4隻がイギリス海軍により捕獲された。6人のペルシア人の兵士は銃殺され、イギリス軍とインド軍の損害は死者22人、負傷者42人であった。
イランを助けるために何者も介入せず、イランの抵抗はソビエトとイギリスの戦車と歩兵により速やかに圧倒されて無効化された。イギリス軍とソビエト軍は、8月30日にセンナ(Senna、ハマダーンの100マイル西)と、8月31日にガズヴィーン(テヘランの100マイル西でハマダーンの北東200マイル)で遭遇した。イランは敗北し、油田は保護され、価値あるイラン縦断鉄道は連合国の手の内に入った。輸送手段の欠如により、イギリス軍はハマダーンとアフヴァーズの先に軍を進めないことに決めた。その間、イラン新首相モハンマド・アリー・フォルギーは、ドイツの大使とその人員がテヘランを去り、ドイツとイタリアとハンガリーとルーマニアの大使館は閉鎖し、残ったドイツ国民は、イギリスとソビエトの当局に引き渡されることに同意した。
レザー・シャーは9月16日息子のモハンマド・レザー・シャーに王位を譲り退位した。レザー・シャーは南アフリカに亡命した(1944年に死亡)。その翌日、イギリス軍とソビエト軍の部隊がテヘランに入城した。
イランは戦争中ソビエトとイギリスにより分割されていたが、ソビエト軍とイギリス軍は、ドイツの外交官と協議した後[2]、10月17日にテヘランから撤収した。
[編集] 戦後
このソビエト連邦への重要な補給路により、ペルシア回廊はソビエト連邦への大量補給物資を供給(軍需物資を500万トン以上)し、それのみでなく中近東のイギリス軍へも物資を供給した。新しいシャーは1942年1月に英国とソビエト連邦との間で、三国間条約に署名し、その条約の下でイランは連合国の戦争に必要な非軍事的な援助を提供した。この条約の第5条において、イランの指導者を完全に信頼していなかったため、連合軍がイランを撤収するのは「休戦後6月以上後」とされた。1943年9月イランはドイツに対して宣戦布告を行い、連合国の一員となることになった。その年の11月、テヘラン会談において、フランクリン・D・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相とヨシフ・スターリン書記長は、イランの独立と領圏への彼らの関与を再確認して、経済援助をイランに広げる意思を示した。
戦争が終結した際、イギリス軍は撤収したがソビエト軍はイランの北西部から撤兵することを拒んだだけではなく、この北西部に、1945年終わりにギーラーン社会主義共和国とイラン領アゼルバイジャンにクルド人民共和国という親ソビエトの非常に短命の国家の設立の反乱を支援した。両者はソビエトの傀儡政権で、1946年5月まで兵力を撤収させることは無かった。撤収したのは、石油採掘の契約を締結した後である。北のソビエト共和国はすぐに倒され、石油の採掘権は取り消された。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Compton McKenzie (1951). Eastern Epic. Chatto & Windus, London. ISBN?.
[編集] 外部リンク
- 同志社大学富田健次教授のイランの歴史に関する個人ページ
- BBC第二次世界大戦・人民の戦争・侵攻されたペルシア(BBC WW2 People's War - Persia Invaded)
- ペルシア・イラク司令部(Persia and Iraq Command)
- 風変わりな人々:1941年~1946年のイランにおける合衆国(Strange Menagerie: the US in Iran 1941-1946)
- バグダードへの道のピンクの象-侵攻時のイギリス兵の個人的な記録(Pink Elephants on the road to Baghdad - personal account of the invasion by a British soldier)
- ペルシアとイラク司令部における派兵1942年8月~1943年2月(Despatch on the Persia and Iraq Command Aug. 1942-Feb. 1943) by General Sir H. Maitland Wilson (PDF)
- 戦争の歴史(History of the campaign) イタリア語