クレタ島の戦い
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クレタ島の戦い (Battle of Crete) は、第二次世界大戦中の1941年5月20日-6月1日にかけてドイツ軍の空挺部隊とクレタ島を防衛するイギリスを中心とする連合軍の間に戦われた戦闘を指す。ドイツ軍はメルクール作戦(独:Unternehmen Merkur,ギリシャ神話の商業・盗賊の神)と呼んだ。
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[編集] 侵攻前夜
1940年10月28日、イタリアがギリシャ本土に侵攻した時にイギリス軍はクレタ島に進駐した。イタリア軍は当初ギリシャ軍に撃退されたが、援軍のドイツ軍はギリシャを攻略し、連合軍兵士57,000人はギリシャ本土から撤退した。イギリス海軍は彼らの多くを輸送し、一部は当時14,000名であったクレタ島守備隊のもとに派遣した。1941年5月までには、10,000名からなる11個のギリシャ人の民兵大隊が組織され、最終的に防衛軍は30,000人にまで増やされたが、武器・弾薬などの装備は極度に不足していた。また、ギリシャ本土からのドイツ空軍の頻繁な空襲により、クレタ島のイギリス空軍はエジプトに退避していたため、クレタ島の制空権はドイツの手にあった。1941年4月30日、クレタ島を防衛するイギリス、ギリシャ、オーストラリア、ニュージーランド連合軍の総司令官にニュージーランド人のベルナルド・フレイバーグ (Bernard Freyberg) 将軍が任命された。
ドイツにとってクレタ島の奪取は戦略的に重要であった。東地中海で活動するイギリス地中海艦隊の重要な港となっているだけでなく、クレタ島に駐留する連合軍の航空機は、枢軸国側のルーマニアの油田地帯をその航続範囲内に収め、これに対する脅威となっていた。さらにドイツにとっては独ソ戦を開始するにあたり、東地中海の安全を確保しておくことは必要不可欠であった。
クレタ島周辺の制海権はイギリス海軍が握っており、制空権は枢軸国側にあったことから、海上からの侵攻作戦を伴わずにクレタ島を空から攻撃、占領するという大空挺作戦が立案された。以前、フランスなどへの侵攻時に小規模な空挺作戦が実施されたことがあったが、今回のように主攻作戦としてパラシュートやグライダーの空挺部隊を主力とする大規模な空挺作戦は初めてのものであった。
ドイツ軍は、第7落下傘師団 (1st Fallschirmjäger Divisin)、第22空輸歩兵師団 (22nd Air Division) から成る第11空挺軍団 (XI Luftkorps) の降下猟兵約21,000名がクレタ島の西部・中部・東部の三ヶ所に二波に渡って、空挺降下を行い、複数の飛行場を制圧する。その後、飛行場に物資や増援部隊を空輸して島全体の占領を目指すというものであった。
計画は4月25日にヒトラーにより承認され、総統指令第28号として発動された。作戦開始日は5月16日とされたが、輸送機の整備と燃料輸送の関係上、5月20日に延期され、参加部隊も第22空輸歩兵師団から第5山岳師団 (5th Mountain Division) に変更された。
[編集] 戦闘の経過
1941年5月20日午前8時、飛行場制圧のためマレメとチャニア近郊にドイツ軍パラシュート部隊が降下した。第二波は、レティムノンとイラクリオンに降下した。
降下に先立ちドイツ空軍の3時間に渡る激しい爆撃により、ほとんどの対空兵器を破壊したにもかかわらず、ドイツ軍の降下部隊は大打撃を受けた。マレメでは、敵部隊の激しい銃撃のなかに降下し、共に降下した重火器を回収することもできず、被害が拡大した。チャニアでは降下地点がひどい岩場のせいで多くの死傷者が出た。
午後4時ごろ、第三波が再びレティムノンとイラクリオンに降下した。別の飛行場の制圧が目的だったが、彼らもまた防衛軍による激しい抵抗に遭遇した。5月20日の夕刻、マレメのドイツ軍は、重要な空港をすべて見下ろせる要地であった107高地から徐々にイギリス軍を圧倒していた。
21日夜、クレタへ向かっていたイタリアの水雷艇ルポに護衛された船団は、スパダ岬沖でグレニー少将が率いる軽巡洋艦ダイドー、エイジャックス、オライオン、駆逐艦ジェイナス、キンバリー、ヘイスティー、ヘレワードからなるイギリス海軍D部隊の攻撃を受け多数の船が沈められた。翌朝キング少将が率いる軽巡洋艦ナイアド、パース、防空巡洋艦カルカッタ、カーライル、駆逐艦カンダハー、キングストン、ヌビアンからなるイギリス海軍C部隊は2隻の船を沈め、さらにミロス島南方で水雷艇サジタリオに護衛された船団を発見した。だが、キング少将は対空用弾薬の不足などから攻撃を断念して西へ退避を開始した。この日C部隊およびその救援に向かったローリング少将が率いる艦隊は激しい空襲を受けて軽巡洋艦グロスター、フィジーと駆逐艦グレイハウンドを失った。
22日、ドイツ軍は第5山岳師団をマレメの飛行場の西と海岸に強行空輸した。午後4時頃、同部隊がマレメの飛行場の制圧に成功した。これ以後、ドイツ軍は増援部隊、物資をここに空輸することができるようになった。
[編集] 連合軍の撤退
連合軍はドイツ軍の増援を受けて、戦闘を継続しながらも後退を強いられた。イギリス軍の司令部は絶望的な情勢であると判断し、クレタ島南部の港町スファキア (Sfakiá) から撤退を命じた。また、イラクリオンからも脱出を試みられたが、ドイツ空軍の爆撃を受け甚大な損害を被った。レティムノは5月30日の夜に陥落し、ドイツ軍は東部にあるミラベラ湾に上陸したイタリア軍との連絡が可能になった。
イギリス軍は危険な状況のなか28日から31日の夜にかけてイギリス海軍の支援により約17,000人が撤退した。しかし、1,000名以上の死者があとに残され、スファキアに残った5,000人を含めて多くの者が捕虜になり、支援したイギリス海軍も29日に空襲を受けて損害を受けた。一方で撤退できなかった連合軍の部隊は1941年までに約500人が抵抗を続け、非戦闘員に紛れ込む者もいた。
侵攻から10日後、ドイツ軍はクレタ島全域を占領し、6月1日にクレタ政府が降伏した。空軍は主にJu 87とJu 88が軽巡洋艦カルカッタ、駆逐艦ヘレワード 、ケリー、カシミール、インペリアル、ジュノーを撃沈し、戦艦ウォースパイト、ヴァリアントも損傷させた。しかし、ドイツ軍の損害は非常に大きく、パラシュート兵の4人に1人の割合にあたる6,600人が戦死し、13,000人以上が負傷した。
[編集] 戦いの影響
この戦いで両軍が導き出した結論は異なっていた。連合軍は、ドイツ軍の大規模な空挺作戦が鮮やかに成功した印象を受け、空挺部隊を育成し、後のシチリア島上陸作戦、ノルマンディー上陸作戦、マーケット・ガーデン作戦、ルール降下作戦などで多用・活用されることとなった。
一方、ヒトラーはドイツ軍の多すぎる犠牲に衝撃を受け、決して再び大規模な空挺作戦を実施しようとはしなかった。その後ドイツのパラシュート部隊は、実質上エリート地上部隊として扱われるようになった。また、ドイツ空軍はこの作戦に飛行学校の訓練用Ju52部隊(教官がパイロットを勤めた)まで投入して多数を失い、パイロットの育成に支障が出始めた(この貴重な教官と訓練機の浪費は、スターリングラードの戦いでも繰り返された)。
クレタ島を占領された連合軍はクレタ島を足がかりにエジプトへの侵攻を警戒したが、クレタ島を掌握したことで不安要因を取り除いたヒトラーは、ひと月にも満たない6月22日ソ連侵攻に踏み切ることとなった。
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