ABCD包囲網
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ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。ABCDの部分は制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain)、オランダ (Dutch)と、対戦国であった中華民国 (China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。
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[編集] 経過
1941年、第二次世界大戦中の西太平洋地域における戦争、太平洋戦争と呼ばれる戦争の開戦以前、日本は1937年から中華民国と日中戦争を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件等の日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に関心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明にアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカはくず鉄、航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主にオクタン価の高いガソリン)やくず鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。
1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への侵出など日本の拡大政策を牽制するために、アメリカはくず鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った。
1941年7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁のため、アメリカは対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、ウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」[1]。と論評している。
1941年9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に、甲案、乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかしアメリカは、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは、暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると判断した日本政府は、交渉の継続を断念した[2]。なお、日本側が乙案を最終提案と考えており、交渉終了の目安を11月末程度と考えていたことは、暗号解読と交渉の経過により、米国側にも知られていた[3]。
[編集] 包囲網の実際
この包囲網は、「欧米各国の日本に対する経済・軍事同盟」に近い実態があった。「包囲網とはあくまで日本側からの呼び名であり、連合国側にはそのような意識は無かった」との指摘がある。その根拠としては、「これらの国が何らかの条約を結んだ記録は発見されていない。ましてや、軍事同盟などは結ばれていた形跡はない」といったものである。
当時のイギリス首相であるチャーチルは、1941年の対日政策について、「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」としており、1941年7月のアメリカによる経済制裁措置を受けて、「イギリスも同時に行動を取り、二日後にはオランダがこれにならった」と述べている[4]。イギリスの同時代人の戦史家、リデル・ハートやJ・F・C・フラーも、「オランダは誘導されて、追随した」[5]、「オランダは、アメリカとイギリスの措置に加わった」[6]と述べている。また、アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは、「1941年の後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」[7]としている。これらの事実から英米蘭が協調的に対日政策を実行していたことが読みとれる。
[編集] 脚注
- ^ ウィンストン・チャーチル 『第二次世界大戦』 P35、河出文庫、2007年5月20日 --参考文献
- ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 P107-108 、中公文庫、2007年3月25日 --参考文献
- ^ コーデル・ハル 『ハル回顧録』 P180-183 、中公文庫、2001年10月25日 --参考文献
- ^ ウィンストン・チャーチル 『第二次世界大戦』 P35、河出文庫、2007年5月20日 --参考文献
- ^ B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』P199, Dacapo Press edition 1999 --参考文献
- ^ J.F.C.Fuller 『The Second World War』P128, Dacapo Press edition 1993 --参考文献
- ^ Samuel Eriot Morison 『The Two-Ocean War』P42, Naval Institute Press 2007年4月6日 --参考文献