李承晩
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李承晩 이승만 |
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1951年5月1日 |
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任期: | 1919年 – 1925年 |
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任期: | 1948年7月24日 – 1960年3月14日 |
副大統領: | 李始栄 1948年7月24日 - 1951年? 金性洙 |
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出生: | 1875年3月26日 黄海道 |
死去: | 1965年7月19日 ハワイホノルル |
政党: | 韓国民主党→自由党 |
配偶: | フランチェスカ・ドナー |
李承晩(イ・スンマン、이승만、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。[1]本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出自から大韓民国建国まで
李承晩は黄海道平山の没落両班の家に生まれた。全州李氏。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔[2]。
1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩もこの時逮捕され、拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。同年、日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗などが、1882年の朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカに韓国の独立維持のための援助を求めるため李承晩を釈放し、アメリカに派遣した。ハワイを経由して、アメリカに渡った李承晩は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出したが、ルーズベルトは、請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。それをうけて、李承晩は駐米韓国公使館に赴いたが、そこはすでに日本が押さえており、請願書のルーズベルトなり国務省なりへの送付を拒否したため、李承晩のルーズベルトへの要請は、失敗に終わった(ルーズベルトは、駐米韓国公使館が日本に押さえられていることをすでに承知しており、またすでにアメリカのフィリピン支配と日本の韓国での優越を認め合った桂・タフト協定に承認を与えていたため、李承晩との面会時の回答は、自分への要請に対する暗黙の拒否に他ならなかった)。
李承晩 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이승만 |
漢字: | 李承晩 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
り・しょうばん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
イ・スンマン |
ラテン文字転写: | Syngman Rhee 別表記としてI Seung-man 等。 |
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その後李承晩はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経て、プリンストン大学で博士号を取得した。ちなみにジョージ・ワシントン大学においての成績は、平均「C」と落第寸前の成績だった(Cの下はFで落第)。大学院卒業後の1911年(明治44年)に帰国するが、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(韓国では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再びアメリカに渡った。ちなみに、アメリカに渡る途中に日本へ立ち寄り、下関、京都、東京を観光し、鎌倉市で開催された韓人学生大会にも参加した。渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイのホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮の独立運動に携わった。そして、長年の功績が他の独立運動家たちによって評価され、上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、その後、臨時政府大統領となった。ちなみに上海へは、中国人の服を着てお棺に入り、密航により到着した。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。その初代大統領であったということが有名だった李承晩を後々さらに有名にした。しかし、李承晩は、臨時政府発足後に左派の李東輝と対立するや早々と上海を去った。さらには1919年(大正8年)の三・一独立運動勃発の直前の同年2月、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領およびパリ講和会議のアメリカ代表団に宛てて設立が確定的だった国際連盟による朝鮮の委任統治を独断で請願していたことを理由に臨時政府内で弾劾されるにまで至った。以降はアメリカでのロビー活動に専念した。
アジア・太平洋戦争の終結と解放から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は帰国し、独立建国運動の中心人物となった。彼は当時すでに70歳であり他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(以下「臨政」)の初代大統領であったこと、左派も多く擁していた朝鮮建国準備委員会(以下「建準」[3])からも一時的に支持されていたこと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。しかし、李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には強力な右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。
李承晩は名声を享受しつづけていたものの、実際には外国に滞在していた要人に過ぎなかった。そのため地盤も基盤も富ももちあわせていなかった。これを支えたのが全羅道地方の資本家・湖南財閥[4]と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。一方で、李承晩自身は連合国が決定した朝鮮の信託統治案に反対していた。しかし、アメリカ軍政はおそらく当初の予定どおり李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する[5]。両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という三つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。
李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った [6]。 アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ。この選挙は大反対の中で強行された。各地で反対派による武装闘争が展開された。選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突がつづき内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。
総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。
1948年8月13日、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。政権は地主・資本家および旧植民地官僚[7]を勢力基盤としていた。
[編集] 政治的対立
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れつづけた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。
最初の対立は大統領制をとりつづけるか議院内閣制を採用するかを巡っておきた。李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。[8]
初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。
1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党が生まれた。民主国民党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民主国民党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。
[編集] 朝鮮戦争
李承晩は大統領就任前から「北進統一」を主張していた。この事から一昔前までは「朝鮮戦争は北進で起きたものか南侵で起きたものか」という議論が隆盛であった。しかし、1950年、いざ朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国が韓国に圧倒的な戦力で攻め込んでくると、韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落。釜山まで引くことになった。朝鮮戦争はマッカーサーの「仁川上陸作戦」以降、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、朝鮮戦争を望んでいた李承晩の存在感は徐々に薄れていった。
朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李承晩が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身 の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。李承晩が朝鮮語で慰問の言葉をかけたところ、その在日韓国人義勇兵はとっさの事で、朝鮮語が思い浮かばず、日本語で返事をした。李承晩は思いもかけない言葉で返事が返ってきたので「日本が密かに兵を送っている」[9]として、日本に対して抗議する声明を出したというエピソードがある。[要出典]
李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋をつくり、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。しかし、李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令。抑留捕虜2万5000人を釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。(送還と釈放の質的違いを説明されたい=>送還:本国に自国が責任を持って送り返すこと。 釈放:拘束を解いて自国内に解き放つこと。本国へ帰すことを意味しない。)
また、李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連軍/アメリカと激しく対立した。7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は「ここ三年というものは李承晩について聞いたことがなかった。三年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、<国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない>と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ」と伝えた。[10]
しかし、あまりにも強大で強力な李承晩は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。李承晩はやむなく休戦に同意(署名はしていない)し、7月27日に朝鮮戦争は休戦した。休戦後も李承晩はアメリカ議会に出向き、「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。
[編集] 朝鮮戦争期の政争
朝鮮戦争のさなか、李承晩は湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、京城紡績の預金引き出しを停止する。このために京城紡績は李承晩派に資金供給先を変更する。これによって韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる[11]。
1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。1952年7月4日、国会が警察に包囲されているなか、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。このころまでに李承晩派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われている。
[編集] 独裁者/貴いお方
1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領にかぎって三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。惜しくも1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の通念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した。(四捨五入改憲)
1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、民主党を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。
民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。
選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の電車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた。
高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件[12]を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。同年7月には長年の政敵であった曹奉岩[13]を処刑している。
李承晩とフランチェスカ夫人に直接の子供はいなかったが、三期で落選・幻の第四期に副大統領を務めた李起鵬の長男・李康石を養子に迎えていた。「独裁者の息子」はたびたび問題を起こしていた[14]が、1957年、ソウル大学に特恵入学をする事が発覚すると、大騒ぎになった。しかし、誰にもそれを批判する事は出来なかった。「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」[15]
その一方で、風潮に便乗する勇気ある若者も存在した。1957年8月末、姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり、金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、「貴いお方」という言い回しが全国的に流行した。風刺四コマ漫画家の金星煥は「景武台の住人が貴いお方だったら、糞尿を運ぶ人も貴いお方」といった趣旨の独裁体制を暗に批判する四コマを発表した。金星煥は当局に4日間拘留され、国家元首侮辱罪で、罰金450ファンを払わされる事になった。
[編集] 失脚
1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した。
1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正がひどかった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した。(馬山事件)
馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。
4月20日、アメリカのマカナギー駐韓大使が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワーの訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。
政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。翌4月26日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。
副大統領の李起鵬は4月28日に一家心中し、大統領の李承晩は5月29日に夫人を引き連れ、アメリカハワイに亡命した。1965年7月19日、その地で李承晩は90年の生涯に幕を閉じた。因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後韓国に戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。
[編集] 反共独裁
李承晩は、本来ならば「建国の父」と称えられるべき存在だが、それを不可にしたのは「長期の独裁」や「民衆の弾圧」などの要因があげられる。
李承晩の政策は李承晩個人の反共を軸にした「反共に執心して全く見えてない」物だった。李承晩は南半部による単独政権をまず樹立し、さらに軍事力による北半部の併合を構想した(北進統一論)。朝鮮民主主義人民共和国が建国されても、それを国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとしたうえで、大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。
朝鮮戦争の前後から、反共政策・プロパガンダは激しさを増した。激しい戦禍を経験した韓国社会には共産主義者を敵視する強い反共意識が芽生え、これはほぼ国民的合意となった。
李承晩は生涯大統領を望んだ。建国の父となるべき反共の大統領は、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた。憲法改正を強行してまで大統領でありつづけようとし、選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て、激しく弾圧した。しかし、最終的に、彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、4・19学生革命での民衆の力であった。
李承晩政権下の混乱を観察したグレゴリー・ヘンダーソン[16]は、日本による植民地統治の歴史は朝鮮の政治意識・構造を変えることがなかったと考え、李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐ物と指摘した。
独裁者李承晩は「本当に貴いお方」朝鮮国(朝鮮王朝)最後の王位継承者李垠とその夫人李方子の帰国を許さなかった。王政復古を疑っていたという側面もあるが、李承晩には、朝鮮半島の2度の支配(日本による併合、米軍による軍政)から大韓民国という独立国家を立ち上げたプライドがあった。李氏朝鮮時代の残滓、特に属国主義[17]などは真っ先に忌諱すべきもので、それを支えていた王家の人間などは、自分が築き上げた独立国家に入国させるべきではないと考えていたが、当時の大韓民国に政治を運営する能力のある人間もない上に、財政基盤も日本が撤退してからは世界最低の最貧国のひとつに数えられるほど貧しく、アメリカの後ろ盾や援助なしには国の運営もままならない状態であったことは有名である。そのためアメリカに見放されると、傀儡政権でしかなかった彼には国を運営することもできず、亡命するに至った。李承晩には大清皇帝功徳碑を恥さらしだと埋めた逸話が残っている。
しかし、李承晩とその他の政治家との対立を、かつての李氏朝鮮時代における王(君主)と両班(官僚-貴族層)との権力争いになぞらえる論者、『朝鮮王朝最後の君主』とする論者も多数存在する。事実、李承晩の政権は、文治国家であった李氏朝鮮の系譜の延長線上にあった。その系譜が絶たれるのは、次の独裁者朴正煕の軍事政権でのことである。
[編集] 経済政策
大韓民国建国後、李承晩が真っ先に取り組むべき課題は経済政策のはずだった。しかし、李承晩は前述の通り、反共に明け暮れ、経済政策を疎かにした。日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代ととらえられることが多かった。[18]
韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは、鉱物資源が比較的豊富な朝鮮半島北部に集中して位置し、朝鮮半島南部は工業施設と日本が建設した道路・橋・港湾施設の他はただただ農地と日本が積極的に植林をした元禿山のみだった。建国直後の大韓民国は、非常に困難なスタートを余儀なくされた。そこに追い討ちをかけたのが朝鮮戦争で、農地も敢え無く荒廃し、社会インフラ(港・道路・橋)なども破壊することとなった。李承晩は朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)する事を条件にアメリカに経済支援を迫った。
休戦直後、アメリカと大韓民国は米韓相互安全保障協定を締結し、アメリカからの多大な経済支援が行われた。資源が全く存在しない大韓民国は当面の間、それに依存した「非自立経済」の形を取らざるを得なかった。李承晩自身がアメリカの傀儡であり、アメリカの後ろ盾によって大統領の座に就いていたのは有名である。
李承晩政権時代の主要産業となったのは、アメリカの経済支援(原資)に依った「三白産業」(製粉・精糖・紡績)であった。原資は「実需要者制」に従い、割り当てられるはずだった。しかし、実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的にそれを受けることになり、その原資すら企業の中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取る形になっていた。それをさらに後押しする形になったのが、公定為替レートと実勢レートの不均衡(ドルの過小評価、ウォンの過大評価)と李承晩政権の打ち出した低金利政策で、特定の財閥が肥えることになった。これらの手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し、1957年には経済成長率は8.7%に達したが、李承晩政権の末期には、過剰設備投資が顕在化し、深刻な不況が起きた。この事から、1961年の朴政権成立まで、一人当たりのGNPも80ドル前後に止まる事となる。
農業政策はほぼ無策で、工業政策の踏み台に近かった。インフレ抑制の一環として、低米価政策が取られたが、これは「三白産業」の発展を利すものであり、農業従事者の賃金の低下/不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した[要出典]。
このような経済状況を反映してか、当時の韓国では戦争末期の日本と同様に砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに、複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「あなた方の国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私どもの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」といった自虐的とも取れるジョークを発言したことがある。[19]
[編集] 対日政策
李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。[20]
李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月~1956年1月、1959年6月~1960年4月に日本と通商断交している。また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。
後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。[21]
李承晩政権は、おおむね旧植民地官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。今日の韓国教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている。(→日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法)
代表的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本が戦後の混乱期にある間に豊富な水産資源の漁場の確保とともに、日本の竹島が韓国が主権を主張する『獨島』として国際法違反の武装占拠し実効支配下におかれた。これにより日本船がたびたび拿捕され、多くの罪の無い日本人が韓国側に多数殺害された。このような韓国の卑劣な手段で実効支配された竹島の処遇は当然現在に至るまで日韓の懸案問題になっているが、日本国民の希薄意識により占拠後50年を超えていまだに解決に至る積極的な日本政府の関与はない。
領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けていたほど、日本を占領したいと発言している。
また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。著作権の概念が一般に浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなった事もあって絶対数は減ったが、現在でもたびたび日本などの先進国から問題視され、不法な著作権侵害は未だ減る気配はなく、二大市場には今でもまがい物が多数売られており減る様子は一向にない。
[編集] 年譜
- 桃洞書堂で漢学を学ぶ。
- 1896年(明治29年)アメリカ人宣教師が設立した培材学堂で学び始める。
- 1896年 徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わる。
- 1897年(明治30年) 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。投獄中にプロテスタントの監理教会派に入信。
- 1904年(明治37年) 渡米。
- 1907年(明治40年) ジョージ・ワシントン大学卒(学士)。
- 1908年(明治41年) ハーバード大学卒(修士)。
- 1910年(明治43年) プリンストン大学で政治学博士号を得る。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する。
- 1911年(明治44年) 寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される。
- 1912年(明治45年) アメリカに亡命。
- 1919年(大正8年) 上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンに欧米委員部設立。
- 1920年(大正9年)大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。
- 1933年(昭和8年)満州事変を討議する国際連盟総会に臨時政府全権代表として出席。
- 1934年(昭和9年)オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。
- 1941年『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。
- 1945年(昭和20年)10月 帰国。
- 1946年 2月 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。
- 1948年(昭和23年)8月13日 大韓民国成立 初代大統領に就任。
- 1948年(昭和23年)10月 日本を非公式訪問(マッカーサーGHQ司令官などと会談のため)。
- 1952年(昭和27年)1月18日 海洋主権宣言。いわゆる李承晩ラインを設定。
- 1952年(昭和27年)5月26日 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(五・二六政治波動)。
- 1956年(昭和31年)5月15日 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
- 1958年(昭和33年)進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
- 1960年(昭和35年)3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
- 1960年(昭和35年)4月19日 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。
- 1965年(昭和40年)7月19日 ハワイにて客死。享年90。
[編集] 注釈
- ^ 通常日本では「りしょうばん」と音読みすることが一般的だが、1990年代以降は韓国の要求により、朝鮮語読みである「イ・スンマン」が積極的に使われることが多くなった。また、北朝鮮では「リ・スンマン」と呼ばれるほか、本人の英文の署名は Seungman Rheeである。朝鮮語は漢字語の読み方の規則が南北で一部異なっているためである。
- ^ これは朝鮮王位(韓国皇帝位)継承権を持つ傍系王族の一人であることを意味する。
- ^ 呂運亨の項目を参照。
- ^ 湖南財閥はこの時期、最大の朝鮮人資本である。湖南財閥がつくったものに東亜日報・高麗大学などがある。
- ^ 韓民党の臨政との決裂から李承晩への接近に至る過程は木村幹, 韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の成立-, ミネルヴァ書房, 2003, 第2章第4節に詳しい。
- ^ 建国準備委員会のリーダー呂運亨は左右両翼による統一戦線の維持に腐心し、アメリカ軍政が左派・共産主義者の排除を意図していることを意識して、自らは中道派として振る舞い、建準の路線も中道へと切り替えようとした。
- ^ 旧植民地官僚は、いわゆる「親日派」に該当する。
- ^ 木村幹, 前掲書, p.118。
- ^ 北朝鮮国内での中国人義勇兵が問題化していたこともそう判断した理由の一つかもしれないし、単に日本嫌いを軸に悪意あるすり替えをしただけなのかもしれない。
- ^ 神谷不二『朝鮮戦争』
- ^ 木村幹, 前掲書, 第3章第5節。
- ^ 李政権崩壊後に政権上層部が関与を認めている
- ^ 進歩党の党首、1958年1月に国家保安法違反容疑で逮捕、後にスパイ容疑に切り換え
- ^ 余談だが、朴正煕の息子もまたパターンは違うが、問題の多い人物だった。
- ^ 朝鮮日報社『韓国現代史119事件』
- ^ グレゴリー・ヘンダーソンは米占領軍の通訳としても働いた朝鮮政治研究の先駆者。日本語訳著書に『朝鮮の政治社会-渦巻型政治構造の分析』(鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会、1973年)がある。
- ^ 李氏朝鮮は小国主義を貫き、冊封体制を執った。
- ^ 1950年代と1960年代の断絶のみならず連続性の観点から、経済面での李承晩を再評価する機運が1990年代から徐々に高まってもいるが、それは李承晩が始めた反日政策を評価するものであって、それ以外の何者でもない。- 李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会、1996年。金三洙『韓国資本主義国家の成立過程 1945-53年 政治体制・労働運動・労働政策』東京大学出版会、1993年。木村幹、前掲書。
- ^ 尹浩根『恨半島―ある外交官の生き方』
- ^ 1954年のサッカーワールドカップアジア予選で「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードが有名である。
- ^ 丁振聲「1950年代の韓日経済関係 ―韓日貿易を中心に―」[1]
[編集] 参考文献
- 神谷不二『朝鮮戦争』中央公論社、1966年
- 菊池正人『板門店』中央公論社、1987年
- 金星煥・植村隆『マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年』
- 渡辺利夫『韓国 ヴェンチャー・キャピタリズム』
- 李泳采・韓興鉄『なるほど!これが韓国か 名言・流行語・造語で知る現代史』
- 長田彰文『セオドア・ルーズベルトと韓国―韓国保護国化と米国』未来社、1992年
- 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年
- 尹浩根『恨半島―ある外交官の生き方』エネルギーフォーラム、2002年
[編集] 関連項目
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