韓国民主党
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韓国民主党 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 한국민주당 |
漢字: | 韓國民主黨 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
ハングッミンジュダン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | The Democratic Party |
韓国民主党(かんこくみんしゅとう)は、韓国の政党の一つ。略して韓民党と呼ばれることも多い。
1945年9月16日にソウルで結成された。 右派独立運動家・宋鎮禹が初代主席総務となったが同年12月に暗殺された。金性洙がその後を襲った。
目次 |
[編集] 韓民党の進出
韓民党は、民族主義・保守系勢力を、日本の植民地支配下で育った全羅地方の資本家・湖南財閥が中心になって結集・組織した政党である[1]。財界の支持を得ていたことから、呂運亨ら朝鮮国内にいた左派系・中道系の独立運動家たちによって結成されていた朝鮮建国準備委員会による政権樹立を拒否すべく結集し、重慶に亡命していた大韓民国臨時政府の支持を打ち出した。さらに米軍政府にも多数の党員を送り込み、米軍政内部で大きな影響力をもった。
しかし、臨時政府派は韓民党やその支持母体に親日派が多いことから、やがて両者は対立する。国連による朝鮮半島の信託統治が提案されると両者は共に反対の姿勢を示すが、韓民党は他方では米軍政と協力し、臨時政府派による過激な反対運動を非難した。さらに、臨時政府派が左派との合作を始めると、これに反発し[2]、韓国民主党は孤立を深める。やがて韓国民主党は李承晩に接近していく。
その後、アメリカ軍政の仲介によって李承晩を支える役割を担った。韓民党は李承晩とともに政府準備組織「独立促成中央協議会」を発足させた。李承晩・韓民党連合は左派と中道派に対抗し、アメリカ軍政の力も借りて彼らを排除した。ほどなくして、韓民党は李承晩とともに解放直後のソウル政界で主導権を握るにまで至った。
[編集] 韓民党の野党への転落
韓民党と李承晩の連合は大韓民国樹立前の短い一時期にしか成立せず、両者は激しく対立した。最初の対立は大統領制をとりつづけるか議院内閣制を採用するかを巡っておきる。韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。[3]
つづいて国務総理の人選をめぐって両者の対立が起こる。金性洙を推す韓民党に対し、当初李承晩は李允栄を国務総理に任命しようとしたが、27対120の大差で否決される。しかし李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命し、110対84で承認を得る。さらに李承晩は初代内閣の組閣にあたり韓民党の勢力を徹底的に排除する。韓民党からは金度演のみが財務部長官に任じられた。こうして韓民党は野党となる[4]。
韓民党は、1949年1月26日には反李承晩勢力を糾合した民主国民党へと再編されていった。朝鮮戦争により、湖南財閥の中心企業であった京城紡績の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、韓民党は湖南財閥の支持を失い、金性洙も政治の表舞台から姿を消していく。
1955年には民主党へと再編・改称され、張勉政権の与党となった。
韓民党の流れをくむ政党は、第六共和国に至るまで野党勢力の中核をなして政権と対立しつづけた。そのため、李承晩と韓民党との連合は後の目から非常に奇妙なものとして映っている。
[編集] 脚注
- ^ 湖南財閥はこの時期の朝鮮で唯一の民族資本と言える存在である。京城紡績、東亜日報、高麗大学なども湖南財閥系である。
- ^ 左右合作委員会は土地の没収を伴う土地改革や重要産業の国有化を掲げており、資産家の支持を得ていた韓民党にとっては支持しがたいものがあった。
- ^ 木村幹, 韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の崩壊まで-, ミネルヴァ書房, 2003, p.118。
- ^ 木村幹, 前掲書, pp.114--118。