スカルノ
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スカルノ Sukarno |
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インドネシア共和国初代大統領
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任期: | 1945年 – 1967年 |
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出生: | 1901年6月6日 ジャワ島スラバヤ |
死去: | 1970年6月21日 ジャカルタ |
スカルノ(Sukarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。
Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父として敬意をもって愛され続けている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 独立前
ジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。
幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学。同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年にバンドゥンに創設した高等工業学校(現バンドゥン工科大学)に入学。1926年5月に卒業している。
大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。1927年7月4日、オランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成。インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
1929年12月に植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月、恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。
[編集] 戦争と革命
太平洋戦争が始まり、日本軍がオランダ領東インドを占領すると、日本軍はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、軍政当局は民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した。他方のスカルノらもまた、インドネシアの独立のために日本軍に協力することを選択した。
日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言。しかし、これを認めないオランダは軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。戦局はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダはインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられ、また、インドネシアを再植民地化しようとするオランダへの国際的な非難も高まったため、外交交渉による紛争の解決がはかられた(インドネシアとオランダの戦争については「インドネシア独立戦争」の項を参照)。
スカルノ自身は、1948年12月のオランダ軍による臨時首都ジョクジャカルタ侵攻のさなか、オランダ軍によって逮捕されており、バンカ島に幽閉されていたが、1949年12月、ハーグ協定の締結によって、インドネシアはオランダから主権委譲を受け、独立国家としての第一歩を踏み出すことになった。
[編集] 独立後
1955年には、ジャワ島西部の都市バンドゥンにて第一回アジアアフリカ会議(バンドゥン会議)を主催し、「第三世界」のリーダーの1人として脚光を浴び、会議を成功に導くなど、国際社会での知名度を高めた。
しかし、オランダからの独立を達成してからのインドネシアの前途は多難だった。対オランダ独立戦争期をとおして、国内統治機構は中央においても地方においても権力が分散しており、独立後に成立した諸政権による政治運営はいちじるしく困難をきわめた。
その時期、大統領職にあったスカルノは、オランダからの独立時に採用された新憲法(1950年憲法)のもとで強い権力を付与されておらず、リーダーシップを発揮できない状況にあり、困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていった。政局の混乱を収拾するべくして行なわれた同国初の総選挙(1955年)、そしてその結果を受けて実施された議院内閣制によっても、事態は打開されなかった。インドネシアは、民族の統一よりも、国家分裂の危機へと向かっていた。
こうした事態を収拾するためにスカルノが1950年代末頃から打ち出したのが「指導される民主主義」の構想である。これは、混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢力の調停者として、国家を指導するというもので、国内にも支持者が拡大した。そして1959年7月5日、スカルノは議会を解散し、彼の行動を制約していた1950年憲法を停止して、強大な大統領権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。スカルノの「指導される民主主義」体制の成立である。
[編集] 9月30日事件へ
1950年から1965年にかけてのスカルノ政治のキーワードの1つが「ナサコム(NASAKOM)」である。これは「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」から造語されたものであり、国内のさまざまな対立勢力の団結を訴え、スカルノがその調停者としてふるまうためのスローガンとして期間中くりかえしスカルノによって叫ばれ続けた。スカルノにとって重要だったのは、国内で支持者を急激に増やしていたインドネシア共産党と、実力を持ちつつあった国軍、この両者の拮抗状況をたくみに利用して、権力のバランサーとして生き延びることだった。
国内では大衆からの支持を維持するため、スカルノはたえず、ナショナリズムを鼓舞しつづけた。反帝国主義、反植民地主義を掲げて、1963年に成立したマレーシアとの対決を宣言した。そのため国際社会からの経済援助を停止され、西側諸国との関係はさらに険悪となり、スカルノは共産主義勢力への接近を強めていった。そして1965年1月には国際連合を脱退した。
以上が、1965年に起こった9月30日事件直前の状況である。急進左派軍人による国軍首脳部暗殺というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする反クーデタ、そして、その後の国内での共産主義者狩り。この事件後、国内で共産主義勢力が一掃されたことにより、バランサーとしてのスカルノの求心力は失われ、東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことはアメリカなど西側諸国にも歓迎されることになった。共産主義への接近の責任を追及されたスカルノは、大統領の権限を奪われ、1966年3月には大統領職を停止され、実権を失った。
インドネシアはその後、スカルノから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルト「新秩序」体制のもとで、東南アジアにおける反共政権として西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていく。一方のスカルノは軟禁状態におかれたまま、1970年6月21日、ジャカルタで死去した。
[編集] 家族
- 第1夫人:ファトマワティ(Fatmawati, 1923年-1980年)
- 五子をもうける。メガワティは第二子
- 末子であるグルーは芸術の分野で活動し、彼の音楽作品はCD化されてもいる
- 第2夫人:ハルティニ(Hartini, 1925年-2002年)
- 第3夫人:デヴィ(Dewi, 1940年-)(日本名:根本七保子、タレント)
- 第4夫人:ハリアティ(Haryati)
- 長女:メガワティ(Megawati)-第5代大統領。
[編集] 関連文献
- 永積昭 『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会、1980年
- 土屋健治 『インドネシア民族主義研究』、創文社、1982年
- 白石隆 『スカルノとスハルト - 偉大なるインドネシアをめざして -』(現代アジアの肖像11)、岩波書店、1997年
- 後藤乾一・山崎功 『スカルノ - インドネシア「建国の父」と日本 -』、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、2001年
[編集] 関連項目
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