航空事故の一覧
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航空事故の一覧(こうくうじこのいちらん)では、民間航空機の運用中に起きた主な航空事故の概要を紹介する。
各事故について、1) 事故日 (現地時間)、2) 航空会社と便名、3) 機種と製造元、4) 犠牲者数、5) 事故発生地、6) 事故の状況、7) 原因、を簡略にまとめた。ただし特筆に値する事故や事件、また航空事故に関連した特に興味深い事実などがある場合はこれを詳述した。また、航空ショーなどのデモ飛行中に起きた事故や軍用機が引き起こした事故についても、それが民間航空機に絡むものであればこれを含めた。
なお、
- 航空会社別に見た過去の事故については「航空会社別の航空事故一覧」を、
- 民間航空機に絡むテロや破壊行為については「航空機テロ・破壊行為の一覧」を、
- 航空機同士が飛行中に衝突した事故については「空中衝突」を、
- 軍用機が平時に訓練や航空ショーなどで起した事故については「軍用機事故の一覧」を、
それぞれ参照されたい。
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[編集] 1930年代
[編集] 1930年
- 1930年 1月19日
- 便名: トランスコンチネンタルエアトランスポート 7便
- 機種: フォード 5AT-C トライモーター
- 死者: 14人死亡【要確認】。
- 状況: エンジントラブルでカリフォルニア州オーシャンサイド近郊に墜落。
[編集] 1931年
[編集] 1937年
- 1937年 5月6日
- 便名: ツェッペリン飛行船会社 「ヒンデンブルク」号
- 機種: ツェッペリン 硬式飛行船 LZ129
- 死者: 乗員乗客97人中35人と地上の1人が死亡。
- 状況: ニュージャージー州レイクハーストに着陸の際、静電気による放電で尾翼付近の船体外皮から出火し爆発炎上。この事故が飛行船の安全性への信用を失墜させ、飛行船が航空輸送の担い手としての役割を終える契機となった。
- 詳細:「ヒンデンブルク号爆発事故」を参照。
[編集] 1938年
- 1938年 8月24日
- 便名: 1) 日本飛行学校訓練機、2) 日本航空輸送旅客機
- 機種: 1) アンリオ複葉機、2) フォッカー スーパーユニバーサル機
- 死者: 両機に搭乗の計5人と地上の45人が死亡。
- 状況: 羽田飛行場を離陸後空中衝突し墜落後に燃料タンクが爆発、付近の工場や民家に延焼。
- 詳細:「大森民間機空中衝突墜落事故」を参照。
[編集] 1939年
- 1939年 5月17日
- 便名: 大日本航空 下り便
- 機種: ロッキード スーパーエレクトラ 球磨号
- 死者: 乗員乗客11人中6名が死亡。
- 状況: 福岡市にあった雁ノ巣飛行場から京城(ソウル)に向けて離陸した直後にエンジントラブルのため墜落。短い滑走路から無理して離陸上昇しようとしてエンジン異常が発生したものと推定された。
- 詳細:「大日本航空球磨号墜落事故」を参照。
[編集] 1940年代
[編集] 1940年
[編集] 1941年
[編集] 1942年
- 1942年 1月16日
- 便名: トランスワールド航空 3便
- 機種: ダグラス DC-3
- 死者: 乗員乗客22人全員が死亡。
- 状況: ニューヨーク発ロサンゼルス行きが、最終給油地のラスベガスを離陸後まもなく近郊の山腹に墜落。俳優クラーク・ゲーブルの妻で女優のキャロル・ロンバードが母とともに巻き込まれた。
[編集] 1943年
[編集] 1946年
[編集] 1947年
[編集] 1949年
[編集] 1950年代
[編集] 1950年
- 1950年 6月24日
- 便名: ノースウエスト航空 2501便
- 機種: ダグラス DC-4
- 死者: 乗員乗客58人全員が死亡 (確定)。
- 状況: 深夜飛行中にミシガン湖に墜落。湖底堆積土のため機体は発見されず、墜落原因は不明。多くの遺体も回収できなかった
- 詳細:「ノースウエスト航空2501便墜落事故」を参照。
- 1950年 8月31日
- 便名: トランスワールド航空 903便
- 機種: ロッキード L-749 コンステレーション
- 死者: 乗員乗客55人全員が死亡。
- 状況: カイロ空港を離陸後、ベアリングに欠陥があったためエンジン火災を起こし砂漠上に墜落。
[編集] 1951年
[編集] 1952年
- 1952年 4月29日
- 便名: パンアメリカン航空 202便
- 機種: ボーイング 377 ストラトクルーザー
- 死者: 乗員乗客50人全員が死亡。
- 状況: プロペラの設計ミスでブラジル北部を飛行中にエンジンが脱落し空中分解し墜落。
- 詳細:「パンアメリカン航空202便墜落事故」を参照
[編集] 1953年
- 1953年 5月2日
- 便名: 英国海外航空 (BOAC) 783便
- 機種: デハビランド DH106 コメット1
- 死者: 乗員乗客43人全員が死亡。
- 状況: コルカタのダムダム空港を離陸直後に墜落。原因は雷雲に遭遇した際の操縦ミスとされるが、落雷説もある。ジェット旅客機全損事故の第一号。
- 詳細:「英国海外航空783便墜落事故」を参照。
- 1953年 9月1日
- 便名: エールフランス 【便名?】
- 機種: ロッキード L-749 コンステレーション
- 死者: 乗員乗客42人全員が死亡。
- 状況: アルプス山脈のセメント山に激突。来日の途上にあった世界的バイオリニストのジャック・ティボーが秘蔵の名器ストラディヴァリウスとともに巻き込まれた。
- 1953年 10月29日
- 便名: イギリス連邦太平洋航空 (BCPA) 306便
- 機種: ダグラス DC-6
- 死者: 乗員乗客19人全員が死亡。
- 状況: 霧のサンフランシスコ空港への着陸アプローチ中にパイロットミスで山間部に墜落。天才ピアニストと呼ばれたウィリアム・カペルが巻き込まれた。
- 詳細:「英連邦太平洋航空304便墜落事故」を参照。
[編集] 1954年
- 1954年 1月10日
- 便名: 英国海外航空 (BOAC) 781便
- 機種: デハビランド DH106 コメット1
- 死者: 乗員乗客35人全員が死亡。
- 状況: ローマ発ロンドン行きがエルバ島上空で、空中分解し墜落。(後の調査で与圧構造の欠陥と金属疲労が原因と判明)
- 詳細:「コメット連続墜落事故」を参照。
- 1954年 4月8日
- 便名: 南アフリカ航空 201便
- 機種: デハビランド DH106 コメット1
- 死者: 乗員乗客21人全員が死亡。
- 状況: ローマ発カイロ行きがティレニア海上空で空中分解し墜落。同一機種による半年間で2度目の事故のため、これ以降全てのDH106 コメット1が運行停止となり、事故原因の徹底的な調査がイギリス政府の指導のもとで行われた結果、機体の与圧構造の欠陥と金属疲労という、これまでになかった新たな原因が判明した。
- 詳細:「コメット連続墜落事故」を参照。
[編集] 1955年
[編集] 1956年
- 1956年 6月30日
- 便名: 1) トランスワールド航空 2便、2) ユナイテッド航空 718便
- 機種: 1) ロッキード L-1049 スーパーコンステレーション、2) ダグラス DC-7C
- 死者: 両機の乗員乗客計128人全員が死亡。
- 状況: アリゾナ州 グランド・キャニオン上空で空中衝突し、両機とも墜落。原因は双方の見張り不足と推定。
- 詳細:「グランドキャニオン空中衝突事故」を参照。
[編集] 1957年
[編集] 1958年
- 1958年 2月6日
- 便名: 英国欧州航空 609便
- 機種: エアスピード AS-57 アンバサダー
- 死者: 乗員乗客43人中23人が死亡。
- 状況: ミュンヘン空港でエンジン出力が上がらず離陸にてこずり、3度目の離陸を試みた際に滑走路をオーバーラン、近隣の旧宅に激突した。この事故でサッカーのマンチェスター・ユナイテッドFCの選手8人が死亡しイギリス中に衝撃を与えた。
- 詳細:「英国欧州航空609便オーバーラン事故」を参照。
- 1958年 10月17日
- 便名: アエロフロート・ソ連航空 SSSR-42362
- 機種: ツポレフ Tu-104
- 死者: 乗員乗客80人全員が死亡。
- 状況: 北京発モスクワ行きが、巡航高度で上昇旋回して進路変更中に乱気流に巻き込まれ失速して墜落。機長が最期に報告した通信記録により、事故機は高高度での自動操縦での飛行では突然の乱気流に対応することに難点があったことが判明し、8月の事故原因も同様であったとされた。そのため水平安定板の改良が行われた。
[編集] 1959年
- 1959年 6月26日
- 便名: トランスワールド航空 891便
- 機種: ロッキード L-1649A
- 死者: 乗員乗客68人全員が死亡。
- 状況: ギリシアからアメリカに向かっていたTWA機が、経由地のミラノ空港を離陸後、空中爆発し墜落。事故の原因は判明しなかったが、静電気もしくは落雷で右翼タンク内の気化燃料に引火して吹き飛ばされ、操縦不能になり墜落したと推定されている。
[編集] 1960年代
[編集] 1960年
- 1960年 3月17日
- 便名: ノースウエスト航空 710便
- 機種: ロッキード L-188 エレクトラ
- 死者: 乗員乗客63人全員が死亡。
- 状況: プロペラ取り付け部分の設計ミスが原因で、インディアナ州上空を飛行中に片方の翼が破損、機体が空中分解し墜落。
- 1960年 12月16日
- 便名: 1) ユナイテッド航空 826便、2) トランスワールド航空 266便
- 機種: 1) ダグラス DC-8-11、2) ロッキード L-1049 スーパーコンステレーション
- 死者: 両機の乗員乗客計134人全員と地上の6人が死亡。
- 状況: ニューヨーク スタテンアイランドのミラー空軍基地上空で空中衝突、両機とも墜落。当時としては世界最大の航空事故となる。原因はDC-8のパイロットが計器表示を誤解し、通常航路から約15km逸脱したため。
- 詳細:「1960年ニューヨーク空中衝突事故」を参照。
[編集] 1961年
- 1961年 9月17日
- 便名: 国際連合 チャーター機
- 機種: ダグラス DC-6
- 死者: 乗員乗客16人全員が死亡。
- 状況: 国際連合事務総長 ダグ・ハマーショルドがコンゴ動乱の停戦調停に赴く途上、搭乗機が旧北ローデシアのエンドーラで墜落。現職の国連事務総長の事故死というニュースに加え、操縦士が警護上の理由から事前にフライトプランを提出していなかったこと、ソ連が国連のコンゴ動乱への介入を反ソビエト的だと非難し、事務総長の辞任を求めていたことなどから、同機の撃墜説や事務総長暗殺説が信憑性をもって広まったが、事故調査では事故機に被弾や爆発の痕跡は発見されなかった。同機の経由地である北ローデシアのエンドーラ (Ndola) 空港は海抜1270m、ところが最終目的地のコンゴにはエンドーロ (Ndolo) 空港という海抜279mの空港があり、この両者を操縦士が混同した結果、エンドーラ空港への着陸進入中高度が低くなりすぎたことが事故原因と結論された。
[編集] 1962年
- 1962年 3月1日
- 便名: アメリカン航空 1便
- 機種: ボーイング 707-120B
- 死者: 乗員乗客95人全員が死亡。
- 状況: ニューヨークのアイドルワイルド空港を離陸直後に機体が制御を失いジャマイカ湾に墜落。不適切な機体整備の結果翼内のケーブルが損傷してラダーが動かなくなったのが原因。
- 詳細:「アメリカン航空1便墜落事故」を参照。
- 1962年 3月16日
- 便名: フライングタイガーライン 739便
- 機種: ロッキード スーパーコンステレーション
- 死者: 乗員乗客107人全員が死亡 (確定)。
- 状況: アメリカ陸軍が南ベトナムへ兵士移送のためチャーターした機が、フィリピン東方近海で行方不明になる。機体の痕跡を発見できなかったため原因は不明。
- 詳細:「フライング・タイガー・ライン739便失踪事故」を参照。
[編集] 1963年
- 1963年 5月1日
- 便名: 日東航空 「つばめ」号
- 機種: デハビランドカナダ DHC-3 オッター
- 死者: 乗員乗客11人中9人が死亡。
- 状況: 大阪発徳島行きのつばめ号が兵庫県諭鶴羽山に墜落。乗客全員が死亡したが乗員2人は救助された。
- 詳細:「日東航空つばめ号墜落事故」を参照。
- 1963年 8月17日
- 便名: 藤田航空 臨時便
- 機種: デハビランド DH114 ヘロン1B
- 死者: 乗員乗客19人全員が死亡。
- 状況: 八丈島空港を離陸直後エンジン不調で八丈富士に激突。捜索活動の遅れが批判を浴びた。
- 詳細:「藤田航空機八丈富士墜落事故」を参照。
- 1963年 9月4日
- 便名: スイス航空 306便
- 機種: シュドアビアシオン カラベル
- 死者: 乗員乗客80人全員が死亡。
- 状況: チューリヒ空港を離陸後に炎上し墜落。離陸滑走中に操縦士が意図的にブレーキを多用したために過熱により主脚が炎上、これを格納したことから機内火災が発生、電気系統や油圧系統などを焼損し操縦不能に陥ったのが原因。
- 詳細:「スイス航空306便墜落事故」を参照。
- 1963年 12月8日
- 便名: パンアメリカン航空 214便
- 機種: ボーイング 707-121
- 死者: 乗員乗客81人全員が死亡。
- 状況: フィラデルフィア空港上空で着陸待機旋回中に落雷を受け機体が爆発、墜落。
- 詳細:「パンアメリカン航空214便墜落事故」を参照。
[編集] 1964年
- 1964年 2月25日
- 便名: イースタン航空 304便
- 機種: ダグラス DC-8
- 死者: 乗員乗客58人全員が死亡。
- 状況: ニューオーリンズ空港を離陸した直後に墜落。ピッチ・トリム・コンペンセーター (PTC) に欠陥があり、水平安定板が誤作動して失速したのが原因。
- 1964年 11月15日
- 便名 : ボナンザ航空 114便
- 機種 : フォッカー F27「フレンドシップ」
- 死者 : 乗員乗客29人全員が死亡
- 状況 : ラスベガスのマッカラン空港へ着陸侵入中に空港手前の山頂に激突。計器進入時に使用するチャートの通過高度記載が不適切であったために機長が進入高度と激突した山頂との標高を読み誤った事が原因とされている。
[編集] 1965年
[編集] 1966年
- 1966年 2月4日
- 便名: 全日本空輸 60便
- 機種: ボーイング 727-100
- 死者: 乗員乗客133人全員が死亡。
- 状況: 羽田への着陸進入中東京湾に墜落、単独機として当時世界的に重大な事故となる。事故原因についての綿密な調査が行われたものの、コックピットボイスレコーダーやフライトデータレコーダーを搭載していなかったため、事故調査委員会は高度計確認ミスや操縦ミスを強く示唆つつも最終的には原因不明と結論。この事故を教訓としてブラックボックスの搭載が全ての旅客機に義務付けられることになった。
- 詳細:「全日空羽田沖墜落事故」を参照。
- 1966年 3月4日
- 便名: カナダ太平洋航空 402便
- 機種: ダグラス DC-8
- 死者: 乗員乗客72人中64人が死亡。
- 状況: 濃霧の中羽田へ地上誘導着陸方式で着陸進入中、操縦士が早く滑走路を視認するために意図的に高度を下げ、機体が進入灯に激突して墜落炎上。犠牲者の多くは焼死だった。羽田沖では1ヵ月前に全日空機がやはり着陸進入中に墜落したばかりで、関係者に衝撃を与えた。
- 詳細:「カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故」を参照。
- 1966年 4月22日
- 便名: アメリカンフライヤーズ航空 チャーター便
- 機種: ロッキード L-188C エレクトラ
- 死者: 乗員乗客98人中83人が死亡。
- 状況: 兵士移送のためチャーターされた機が、給油のためオクラホマ州アードモア空港に着陸進入中、機長が過労のため心臓発作を起こし、操縦不能となって墜落。機長には心臓病と糖尿病の長い病歴があったが、自らが運航会社の社長という地位を利用して健康診断報告書を偽造し機長免許を更新していた。
- 1966年 8月26日
- 便名: 日本航空 「銀座」号 (訓練機)
- 機種: コンベア 880-22M
- 死者: 乗員5人全員が死亡。
- 状況: 羽田で訓練中、離陸直後に操縦ミスで墜落炎上。
- 詳細:「日本航空羽田空港墜落事故」を参照。
[編集] 1968年
- 1968年 11月22日
- 便名: 日本航空 002便「しが」号
- 機種: ダグラス DC-8-62
- 死者: なし。
- 状況: サンフランシスコ空港への着陸進入時に空港手前の海上に着水。操縦士が新型計器の取り扱いに習熟していなかったことが原因。
- 詳細:「日本航空サンフランシスコ湾着水事故」を参照
[編集] 1969年
[編集] 1970年代
[編集] 1970年
- 1970年 7月27日
- 便名: フライングタイガーライン 45便
- 機種: ダグラス DC-8-63AF貨物機
- 死者: 乗員4人全員が死亡。
- 状況: 羽田発那覇行きが、特殊な気象現象が原因で操縦士が一時的に盲目状態となり、操縦が困難となって那覇沖に墜落。
- 詳細:「アメリカ貨物機那覇沖墜落事故」を参照。
[編集] 1971年
- 1971年 6月6日
- 便種: 1) ヒューズ・エア・ウエスト 706便、2) アメリカ海兵隊 151458
- 機種: 1) ダグラス DC-9-31、2) マクドネル F-4B
- 死者: 双方の乗員乗客49人中48人が死亡。
- 状況: ロサンゼルス郊外で離陸上昇中の民間機に戦闘機が直角に衝突し、双方が墜落。脱出した迎撃士官以外が死亡。双方の見張り不足が原因であったが、有視界飛行の戦闘機が酸素系統のトラブルのため通常よりも低く飛行したうえに、航空管制官に空域進入の許可を受けていなかった上にトランスポンダーが故障しレーダーにはっきり写らなかったため戦闘機の存在を認識していなかった事や、双方の針路がコリジョンコースであったことなど様々な不運が重なっていた。そのためアメリカ国内では大部分の軍用機が計器飛行に切り替えられた。
- 1971年 7月30日
- 便名: 1) 全日本空輸 58便、2) 航空自衛隊 訓練機 92-7932
- 機種: 1) ボーイング 727-200、2) ノースアメリカン F-86 セイバー
- 死者: 全日空機の乗員乗客162人全員が死亡。
- 状況: 北海道千歳市の千歳飛行場を離陸した全日空機と航空自衛隊 松島基地を離陸したF-86F戦闘機が岩手県岩手郡雫石町上空で衝突、全日空機は空中分解し墜落した。その後の刑事裁判では双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。今でもこの事故は、当時のマスコミの一方的な自衛隊側批判に対して、全日空機側批判とする主張が交錯している。
- 詳細:「全日空機雫石衝突事故」を参照。
- 1971年 7月30日
- 便名 : パンアメリカン航空 845便
- 機種 : ボーイング 747-121
- 死者 : なし(重軽傷者29人)
- 状況 : ロサンゼルス発羽田行が途中経由地のサンフランシスコ空港での離陸の際に主脚を進入灯に激突。その際機内に構造材が飛び込んだために直上の座席の乗客が重傷を負う。油圧系統4つのうち3つが破損したが残り1系統にてサンフランシスコ国際空港に緊急着陸をするが避難の際に怪我人を出した。当時使用制限が係っていた滑走路について管制官と運行管理者との間で行き違いがあった上に、乗務員が離陸速度の見直しを行なわなかった事が原因。
- 詳細 : 「パンアメリカン航空845便離陸衝突事故」を参照。
- 1971年 12月24日
- 便名: LANSA ペルー航空508便
- 機種: ロッキード L-188 エレクトラ
- 死者: 乗員乗客92人中91人が死亡。
- 状況: ペルーのリマからイキトスへ向かう途中、アマゾン上空で激しい乱気流と落雷に遭遇、右翼を大きく損傷しその後空中分解、山岳地帯の森林へ墜落。片目の怪我や鎖骨骨折などの重傷を負ったものの即死を免れた17歳の少女は密林の中を歩き続けカヌーを発見し、何時間か昏睡していたところをハンターによって事故後10日後になって奇跡的に救助された。事故機の残骸は事故後14日を経て発見されたが、墜落直後には10人以上が生存していたものとみられ、捜索救助活動の遅れが悔やまれた。
[編集] 1972年
- 1972年 6月18日
- 便名: 英国欧州航空 548便
- 機種: ホーカーシドレー トライデント 1C
- 死者: 乗員乗客118人全員が死亡。
- 状況: ロンドンのヒースロー空港を離陸直後に墜落。直接の原因は、上昇中まだ十分な高度に達していない段階に高揚力装置が誤ってたたまれた結果失速したことだが、事故機にはフライトレコーダーのみが搭載されコックピットボイスレコーダーが搭載されていなかったため、この誤操作を行ったかのは誰か、またなぜそれが修正されなかったかについては不明とされた。ただし搭乗前、労使関係の問題から機長が別の機長と声を張り上げるほどの大喧嘩をしていたこと、コックピット内に八つ当たりの落書きを残すほど機長が立腹していたこと、またそのストレスが原因と思われる血管亀裂が機長の胸部大動脈に発見されたこと (ただし死に至るものではない)、そして最年長ベテラン機長と若年の副操縦士という人間関係上の問題がこれに絡んでいたとなどが事故調査で明らかになっている。
- 詳細:「英国欧州航空548便墜落事故」を参照。
- 1972年 10月13日
- 便名: ウルグアイ空軍 571便 (チャーター機)
- 機種: フェアチャイルド FH-227D
- 死者: 乗員乗客45人中29人が死亡。
- 状況: ウルグアイの大学ラグビーチームを乗せてチリへ向かったターボプロップ機が、航空管制の誤誘導によりチリとアルゼンチン国境のアンデス山中に墜落。事故直後に12人、翌日までに5人、8日目にもう1人が死亡した。墜落地がアンデスの山中の奥地であったこと、白い機体が雪に紛れて上空から目視できなかったことなどから、3ヵ国からの救助隊は事故機を発見できず、捜索は打ち切りとなった。生存していた27人の頑健な若者はラジオで捜索の打ち切りを知り、自力で下山を開始、このうちの16人が事故から72日目に生還した。しかし彼らは力尽きて倒れた他のチームメートの遺体を食べて生き延びていたことから、その生還は賛否両論で迎えられるという皮肉な結果となった。なおこの事故を契機に、航空事故の捜索は事故機を発見するまで決して打ち切らない、というのが不文律となった。
- 詳細: 「ウルグアイ空軍機遭難事件」を参照。
- 1972年 11月28日
- 便名: 日本航空 446便
- 機種: ダグラス DC-8
- 死者: 乗員乗客76人中62人が死亡。
- 状況: モスクワのシェレメーチエヴォ空港を離陸直後に失速し墜落。スポイラーを誤作動させたことが原因といわれる。
- 詳細:「日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故」を参照。
- 1972年 12月29日
- 便名: イースタン航空 401便
- 機種: ロッキード L-1011 トライスター
- 死者: 乗員乗客176人中103人が死亡。
- 状況: マイアミ空港へ着陸進入中、前脚が正常に降りたことを示す緑ランプが付かず着陸復航をしたが、着陸をやり直すまでの間、機長も副操縦士も球切れした緑ランプの交換に気を取られているうちに誤って誰かが操縦桿を押してしまい、自動操縦装置が解除されてしまった。このことから高度が下がり、さらにクルーは操縦室の下の狭い空間でのランプの交換に気を取られていたために高度が下がったことにも気づかないまま旋回をし、エバーグレーズ国立公園の湿地の中に墜落してしまった。トライスターは当時としては最新鋭の自動操縦装置を備えていたが、乗員がそれを過信して計器の確認をしなかったことが要因の一つであるとされている。なお、この事故はワイドボディ機初の全損事故である。
- 詳細:「イースタン航空401便墜落事故」を参照。
[編集] 1973年
[編集] 1974年
- 1974年 3月3日
- 便名: トルコ航空 981便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10-10
- 死者: 乗員乗客346人全員が死亡。
- 状況: パリのオルリー空港発ロンドン行きのトルコ航空機が離陸直後に墜落、重大な事故となった。原因は設計上のミスで貨物室のドアが完全に閉まらず、上昇に伴い与圧された機内の空気がそのドアを吹き飛ばし、それに伴い後部客席床下を通る油圧系統が切断されて操縦不能に陥ったため。この事故以前にもアメリカン航空で同じような欠陥から貨物室のドアが破損する事故が起きており(その際は幸いにも緊急着陸に成功していた)、メーカーは設計上のミスがあることを認識していながら販売を継続していたことが非難された。
- 詳細:「トルコ航空DC-10パリ墜落事故」を参照。
- 1974年 11月20日
- 便名: ルフトハンザドイツ航空 540便
- 機種: ボーイング 747-100
- 死者: 乗員乗客170人中59人が死亡。
- 状況: フランクフルト発ヨハネスブルグ行きが、経由地のナイロビを離陸直後に墜落。航空機関士が離陸前にニューマチックシステムのバルブを開け忘れたために、スラットが出ず失速したのが原因。ジャンボ機初の全損死亡事故となった。
- 詳細 : 「ルフトハンザドイツ航空540便墜落事故」を参照。
[編集] 1975年
[編集] 1976年
- 1976年 9月10日
- 便名: 1) アドリア航空 550便、2) 英国航空 476便
- 機種: 1) マクダネルダグラス DC-9-32、2) ホーカーシドレー トライデント3C
- 死者: 両機の乗員乗客計176人全員と地上の1人が死亡。
- 状況: アドリア航空の西ドイツ行きと、英国航空のイスタンブル行きが、ユーゴスラビア上空でほぼ正面衝突し墜落。ザグレブ航空管制センターの管制官が担当便の移管を円滑に行なわなかったうえ、業務に忙殺されて「現状高度維持」の誤った指示を出したのが原因。ユーゴスラビア当局は管制官を全員拘束し、実際に誤った指示を出した管制官は懲役刑を受けたが、国際的な批判を浴びたためチトー大統領が恩赦を与えている。
[編集] 1977年
- 1977年 1月13日
- 便名: 日本航空 1054便
- 機種: ダグラス DC-8-62AF貨物機
- 死者: 乗員5人が死亡。
- 状況: アンカレッジ空港を離陸直後に墜落。後に機長が飲酒していたこと明らかになり問題となった。
- 詳細:「日航貨物機アンカレッジ墜落事故」を参照。
- 1977年 3月27日
- 便名: 1) KLMオランダ航空 4805便、2) パンアメリカン航空 1736便
- 機種: 1) ボーイング 747-206B、2) ボーイング 747-121
- 死者: 両機の乗員乗客計644人中583人が死亡。
- 状況: カナリア諸島のテネリフェ島 ロスロデオス空港の滑走路で、濃霧の中KLM機の機長が航空管制官のミスがあったために離陸許可を得たと勘違いして離陸滑走を開始し、同じ滑走路上を逆向きに移動中のパンナム機と鉢合わせになった。パンナム機を視認したときKLM機はすでにフルスロットル状態で、KLM機は慌てて機首を上げ、パンナム機は左に機首を向けて正面衝突を避けようとしたが、間に合わずKLM機の胴体腹部とパンナム機の胴体上部が衝突。KLM機は滑走路の先に墜落して爆発炎上し乗員乗客248人全員が死亡、パンナム機も滑走路場で炎上し乗員乗客396人中335人が死亡、あわせて583人が死亡し、航空史上最大の惨事となった。気象状況や上下関係などの様々な要因が重なったために起きた事故であった。
- 詳細:「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」を参照。
- 1977年 9月27日
- 便名: 日本航空 715便
- 機種: ダグラス DC-8-62
- 死者: 乗員乗客78人中34人が死亡。
- 状況: クアラルンプール空港に着陸進入中、悪天候により航路を見失い墜落。この事故の翌日にダッカ日航機ハイジャック事件が起こった。
- 詳細:「日本航空クアラルンプール墜落事故」を参照。
[編集] 1978年
- 1978年 9月25日
- 便名: パシフィックサウスウェスト航空 182便
- 機種: ボーイング 727-214
- 死者: 両機の乗員乗客137人全員と地上の7人が死亡。
- 状況: 訓練飛行中のセスナ機との衝突後、高度約750mから住宅街の道路に墜落。この間に「管制塔、パシフィックサウスウェスト航空、墜落します」「了解」という交信記録が残っている。公式ではないが、パイロットがセスナ機の位置を誤認していたことが原因であると言われている。
- 1978年 12月23日
[編集] 1979年
- 1979年 1月30日
- 状況: ヴァリグブラジル航空 967便
- 機種: ボーイング 707F貨物機
- 死者: 乗員6人が行方不明 (死亡確定)。
- 状況: 成田を離陸30分後、銚子沖740kmのVORを最期に消息を絶つ。機体や残骸はまったく発見されず、なんらかの原因で墜落した機体が日本海溝の深海に水没したものと推定されたが、緊急信号を発することもなく突然墜落に至るのは不自然で、同機の消息や遭難原因は今日に至るまで不明というミステリーとなった。積荷の中には日系ブラジル人画家による極めて高価な抽象絵画53点があったため関係者が衝撃を受けた。
- 詳細:「ヴァリグブラジル航空機遭難事故」を参照。
- 1979年 5月25日
- 便名: アメリカン航空 191便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10-10
- 死者: 乗員乗客271人全員と地上の2人が死亡。
- 状況: シカゴオヘア空港発ロサンゼルス行きが離陸直後に墜落。原因はマニュアルに沿わない不適切なエンジン整備の結果パイロンが損傷し、離陸中に左エンジンが脱落、同時に左翼の油圧系統を喪失し、制御不能に陥ったため。NTSBは直ちに国内の全てのDC-10に「追って知らせがあるまで飛行を全面禁止」という異例の通達を発したが、これが解除されてからもDC-10のイメージダウンは拭えず、マクダネルダグラス社には発注のキャンセルが相次ぎ、これがDC-10シリーズと同社の衰退の遠因となった。今日に至るまでこの事故はアメリカン航空史上最大の惨事であり、またこの事故を契機にNTSBの役割が事故調査専門になるなど、各方面に大きな影響を与えるものだった。なお不適切な整備を指示していたオヘア空港の整備担当主任は事故調査委員会での証言直前に自宅で自殺している (アメリカ人の引責自殺は極めて稀)。
- 詳細:「アメリカン航空191便墜落事故」を参照。
- 1979年 11月28日
- 便名: ニュージーランド航空 901便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10-30
- 死者: 乗員乗客257人全員が死亡。
- 状況: 南極を観光飛行中、誤ったフライトプランが航法システムに入力されていたためエレバス山山腹に激突。南極における初の民間機事故。
- 詳細:「ニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故」を参照。
[編集] 1980年代
[編集] 1980年
- 1980年 3月14日
- 便名: LOTポーランド航空 007便
- 機種: イリューシン IL-62
- 死者: 乗員乗客86人全員が死亡。
- 状況: ニューヨークからワルシャワに着陸しようとしていた007便が、着陸装置が確実に出ていないことを示す警告等が出たため、着陸復航するためエンジン出力を上げたところ、左第二エンジンのタービンディスクは金属疲労のために破裂分解しエンジンを破壊、その破片が他のエンジン2基と操縦系統を破壊したため操縦不能に陥り、空港近くにあった19世紀の要塞の掘割に墜落。
- 1980年 8月19日
- 便名: サウジアラビア航空 163便
- 機種: ロッキード L-1011 トライスター
- 死者: 乗員乗客301人全員が死亡。
- 状況: リヤドのハリド空港を離陸直後に貨物室から出火、火災が油圧系統の一部を切断して尾翼下の第2エンジンが制御不能となったが、すぐにハリド空港に引き返し、無事緊急着陸を行った。しかし事態を甘く見た機長が緊急脱出を指示せず、そのまま誘導路を走行したうえ、機体停止後もしばらくエンジンを停止しなかったため、救助隊は機体に近づけなかった。またトライスターに不慣れな救助隊が非常ドアに手こずり、これが開けられたのは着陸から約29分後のことだった。この間に火災は延焼し、乗員乗客全員が有毒ガス吸引などで死亡していた。機体前方部に折り重なるようにして息絶えていたという。
- 詳細:「サウジアラビア航空163便火災事故」を参照。
[編集] 1981年
[編集] 1982年
- 1982年 1月13日
- 便名: エア・フロリダ 90便
- 機種: ボーイング 737-200
- 死者: 乗員乗客79人中74人と自動車の4人の計78人が死亡。
- 状況: 翼に着雪・着氷の状態でワシントンナショナル空港を離陸、直後に氷結したポトマック川に墜落。操縦士の雪に対する認識不足が原因だった。
- 詳細:「エアフロリダ90便墜落事故」を参照。
- 1982年 1月23日
- 便名: ワールドエアウェイズ 30H便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10-30
- 死者: 乗客2人が行方不明 (死亡確定)。
- 状況: ボストンのローガン空港で着陸時に雪の影響でブレーキが利かなくなり海に突入。
- 詳細:「ワールドエアウェイズ30H便オーバーラン事故」を参照。
- 1982年 2月9日
- 便名: マクダネルダグラス 試験機
- 機種: マクダネルダグラス MD-80
- 死者: なし。
- 状況: カリフォルニア州エドワーズ空軍基地での試験飛行中、滑走路上にハードランディング、機体後尾が折損される。幸い爆発を伴わなかったため、乗員7人は全員無事だった (1人が骨折)。
- 1982年 6月24日
- 便名: ブリティッシュ・エアウェイズ 009便
- 機種: ボーイング747
- 死者: なし。
- 状況: クアラルンプールからパースへ向かって飛行中、インドネシアのジャワ島上空で当時噴火していたガルングン火山の噴煙の中に入ったために火山灰がエンジンに詰まってしまい、747の4つのエンジン全てが停止、滑空状態になってしまった。機長は一時は洋上への着水を覚悟したが、幸い高度が低くなったところで火山灰から抜け出し、エンジンも再始動に成功。ジャカルタへ緊急着陸した。着陸後、クルーが機体を見たところ火山灰でこすれたために塗装が剥げ落ち、窓も擦りガラスのようになっていたという。火山の噴煙はレーダーでは観測できなかったために起こった事故であり、この後火山の噴煙への対策が急がれることになった。
- 詳細:「ブリティッシュ・エアウェイズ9便エンジン故障事故」を参照
- 1982年 7月9日
- 便名: パンアメリカン航空 759便
- 機種: ボーイング 727
- 死者: 乗員乗客145人全員と地上の8人が死亡。
- 状況: 乱気流によりニューオーリンズ空港からの離陸に失敗し墜落。
[編集] 1983年
- 1983年 7月23日
- 便名: エアカナダ 143便
- 機種: ボーイング 767-200
- 死者: なし
- 状況: モントリオールからエドモントンへ向かう途中、オンタリオ州レッドレーク上空1万2000mを飛行中に両方のエンジンが突然フレームアウト(エンジン停止)、油圧系統と電気系統のすべてを失い滑空状態に。最寄りにダイバートできる空港はなかったが、同機は一分間に600mという急降下をしたのちマニトバ州ギムリーの元カナダ空軍基地の跡地に残されていた滑走路に緊急着陸、けが人はなかった。事故の直前にエアカナダでは燃料計算を従来のヤード・ポンド法からメートル法に切り替えていたが、これに伴う混乱で同機に約「2万キログラム」搭載されていたはずの燃料は実は「2万ポンド」(約9000キログラム)に過ぎず、燃料切れを起したのが原因。その後、事故機は修復されて2008年1月まで飛び続けており、「ギムリー・グライダー」と呼ばれた。
- 詳細:「エアカナダ143便滑空事故」を参照。
[編集] 1985年
- 1985年 8月2日
- 状況: デルタ航空 191便
- 機種: ロッキード L-1011 トライスター
- 死者: 乗員乗客167人中138人と地上の1人が死亡。
- 状況: 悪天候の中、ダラスフォートワース空港に着陸進入中に乱気流に遭遇、滑走路手前の住宅地に墜落。
- 詳細:「デルタ航空墜落事故」を参照。
- 1985年 8月12日
- 便名: 日本航空 123便
- 機種: ボーイング 747SR
- 死者: 乗員乗客524人中520人が死亡。
- 状況: 過去のしりもち事故の際にボーイング社が機体に施した修理にミスがあったため、羽田を離陸して間もなく後部圧力隔壁が破損、機内から圧縮空気が一気に垂直尾翼内に吹き込み、これを破壊したため全油圧系統を喪失し、操縦不能に陥る(有力な説)。32分間の迷走飛行の後、群馬県 多野郡上野村の高天原山 (いわゆる「御巣鷹の尾根」) に墜落、一機の航空事故としては史上最大の犠牲者を出す。歌手の坂本九、元宝塚娘役で女優の北原遥子、阪神タイガースの中埜肇球団社長、ハウス食品の浦上郁夫社長、大相撲の伊勢ヶ浜親方 (元大関 清國) の妻子、脳神経学者の塚原仲晃など、著名人の多くが巻き込まれたこともあり大きく報道された。
- 詳細:「日航ジャンボ機墜落事故」を参照。
[編集] 1986年
- 1986年 8月31日
- 便名: 1) アエロメヒコ航空 498便、2) 自家用機
- 機種: 1) マクダネルダグラス DC-9、2) パイパー PA-28
- 死者: 両機の乗員乗客計67人全員と地上の15人が死亡。
- 状況:ロサンゼルス近郊のホーソン民間空港へ向かっていたパイパー自家用機が、航路を逸脱してロサンゼルス空港の進入路へ侵入、 同空港へ着陸進入中のAM機と遭遇した。パイパー機はAM機の左水平尾翼に接触して空中分解し乗員3人全員が即死、アエロメヒコ機も機体制御を失ってセリトスの住宅地に墜落。パイパー機にトランスポンダが装備されていなかったのが航路を誤った原因だった。
- 詳細:「アエロメヒコ航空498便空中衝突事故」を参照。
[編集] 1987年
[編集] 1988年
- 1988年 6月26日
- 便名: エールフランス 296便 (エアバス社デモ機)
- 機種: エアバス A320
- 死者: 乗員乗客136人中3人が死亡。
- 状況: フランスのアブシーム空港でエアショーのデモ飛行中、空港脇の森に墜落し炎上。低空飛行に気を取られた機長が高度計のチェックを忘れ、コンピュータの警告音を無視したのが原因とされるが、機長本人は邦訳「エアバスA320は、なぜ墜ちたか」を出版し反論中。
- 詳細:「エールフランス296便事故」を参照。
[編集] 1989年
- 1989年 1月8日
- 便名: ブリティッシュ・ミッドランド航空 092便
- 機種: ボーイング 737-400
- 死者: 乗員乗客126人中47人が死亡。
- 状況: 離陸から13分後にエンジンのファンが一部破壊したため、エンジンが損傷。さらに全てのエンジンが停止し、滑空状態になったあと滑走路前に墜落した。ちなみに、ボーイング737-400初の全損事故であった。
- 1989年 7月19日
- 便名: ユナイテッド航空 232便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10-10
- 死者: 乗員乗客296人中111人が死亡。
- 状況: シカゴオヘア空港発フィラデルフィア行き。飛行中に垂直尾翼下の第2エンジンが爆発し油圧系統を喪失。偶然乗り合わせていたDC-10教官が、日本航空123便墜落事故を教訓とし油圧系統を喪失した場合を想定した訓練を行っていたこともあり、クルーは残った左右のエンジンによる出力操作のみで飛行してアイオワ州スーシティのスーゲートウェイ空港に緊急着陸を試みた。機体は接地寸前までかなり良い状態にあったが、接地寸前にバランスを崩して翼端が滑走路に接触して発火、機体は火の車のように回転しながら分解しつつ炎上。しかし185人が奇跡的に生存した。
- 詳細:「ユナイテッド航空232便不時着事故」を参照。
[編集] 1990年代
[編集] 1990年
[編集] 1991年
[編集] 1992年
[編集] 1993年
[編集] 1994年
- 1994年 9月8日
- 便名: USエアウェイズ 427便
- 機種: ボーイング 737-200
- 死者: 乗員乗客132人全員が死亡。
- 状況: ピッツバーグ国際空港へ着陸進入中に突然機体が傾き、その16秒後に地面に激突。ボイスレコーダーにも直前まで何の異変があった様子もなく、原因はなかなか判明しなかったが、3年後のイーストウイング航空517便の事故の原因を解明することによって、ボーイング737のラダー装置はサーボ機構が経年劣化すると操縦士の操作とは逆に作動してしてしまうということが明らかとなった。これにより、この事故もそれを知ることが出来なかった操縦士が機体を立て直そうとラダーを過剰に操作した結果、最終的にこれが折損して機体が制御不能に陥ったことが墜落の原因だった、ということが判明した。
- 詳細:「ボーイング737-200型機連続墜落事故」を参照
[編集] 1995年
- 1995年 12月20日
- 便名: アメリカン航空 965便
- 機種: ボーイング 757-223
- 死者: 乗員乗客163人中159人が死亡。
- 状況: コロンビア・カリのアラゴン空港着陸進入中に、管制官との意志疎通不良と自動操縦装置の設定ミスや操縦ミスが原因でエルデルビオ山山腹に激突。乗客4人と犬1匹が奇跡的に生存した。パイロットは着陸しようとしてコンピューターにカリ空港の進入経路を入力した。しかし「ロゾVOR」と入力したつもりだったが実際は誤ったコースが入力されており直前までその経路を飛行していた。また当日、カリ空港のレーダーが故障しており管制官は965便が進入経路を外れたことに気づいていなかった。墜落直前に対地接近警報が作動したがパイロットはスポイラーを展開していることに気づかずに上昇しようとしたため十分に高度が上がらず山頂を擦るように墜落した。
[編集] 1996年
- 1996年 1月8日
- 便名: モスクワエアウエイズ 貨物機
- 機種: アントノフ An-32
- 死者: 乗員6人中2人と、少なくとも地上の350人が死亡。
- 状況: ザイールのエンドーロ空港を離陸しようとしたターボプロップ貨物機が過積載のため離陸に必要な速度が出せず、わずかに上昇するもすぐに滑走路先に墜落、そのまま90m地表を滑って買い物客で混雑する屋外マーケットに突入、爆発炎上した。あたりは火の海となり、350~600人の犠牲者を出したが、遺体の多くは原形をとどめないほどの損傷をうけ、正確な犠牲者数は不明。テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故、日本航空123便墜落事故に次ぐ航空事故となった。
- 1996年 2月6日
- 便名: アラス・ナショナル航空301便
- 機種: ボーイング757
- 死者: 乗員乗客189人全員が死亡。
- 状況: ドミニカ共和国プエルト・プラタのグレゴリオ・ルペロン空港を離陸した7分後に失速し、カリブ海に墜落。原因はピトー管に異物が詰まっていたために一部の計器が正確に作動せず、しかも機長が正しく作動していた副操縦士側の補助計器ではなく、誤動作を起していた機長側の計器に従って操作を行ったため。事故機はトルコのバージェン航空からリースされていたものだが、本来使用予定の機材が使えなくなったために急遽クルーともども手配されており、これが機長の判断を狂わせる要因の一つになったのではないかとも言われている。
- 1996年 5月11日
- 1996年 6月9日
- 便名: イーストウイング航空 517便
- 機種: ボーイング 737-200
- 死者: なし
- 状況: バージニア州への飛行中に突如機体が傾くトラブルが発生、一時操縦が困難になるが、機長が機転を利かせて舵を逆にとってみたところ修正可能な事が分かり無事帰還した。737型機では1991年3月3日にユナイテッド航空585便が、1994年9月8日にはUSエアウェイズ427便が同様の事故で墜落、いずれも乗員乗客全員が死亡しており、その原因については謎とされて関係者を悩ませていたが、今回の経験が原因究明の鍵となった。737-200型機のラダー制御装置はサーボ機構が劣化すると作動不良となり、操縦士の操作とは逆方向に動くという現象が発生することが判明したのである。過去二回の事故では、このことに気づかなかった操縦士が機体を制御しようとラダーをさらに過剰に操作した結果、最終的にこれが折損して機体が制御不能に陥ったことが墜落の原因だった。
- 詳細:「ボーイング737-200型機連続墜落事故」を参照。
- 1996年 6月13日
- 便名: ガルーダインドネシア 865便
- 機種: マクダネルダグラス DC-10
- 死者: 乗員乗客275人中3人が死亡 (負傷者多数)。
- 状況: 福岡空港でエンジントラブルに対する機長の不適切な判断により離陸に失敗して滑走路をオーバーラン、この際降着装置が燃料タンクを貫通したため機体が炎上した。
- 詳細:「福岡空港ガルーダ航空機離陸事故」を参照。
- 1996年 7月17日
- 便名: トランス・ワールド航空 800便
- 機種: ボーイング 747-100
- 死者: 乗員乗客230人全員が死亡。
- 状況: ニューヨークのケネディ空港を離陸の12分後、配線ショートによる火花が燃料タンク内で気化していたガスに引火して機体が空中爆発しニューヨーク州ロングアイランド沖に墜落。当初はアトランタ・オリンピック妨害を狙った爆弾テロ説や、テロリストの放った地対空ミサイル説、アメリカ原潜によるミサイル誤射説などが報道され、FBIやNTSBもその線で調査を始めたが、ばらばらになって散乱した機体破片の大部分を海中から回収して組み立て直すなど、4年1ヵ月にも及ぶかつてない徹底調査の結果、事故であることが確定。なおTWAは事故後遺族への補償で経営が悪化、これが同社破綻の原因となった。
- 詳細:「トランスワールド航空800便墜落事故」を参照。
- 1996年 11月12日
- 便名: 1) サウジアラビア航空 763便、2) カザフスタン航空 1907便
- 機種: 1) ボーイング 747-100、2) イリューシン Il-76
- 死者: 両機の乗員乗客計349人全員が死亡。
- 状況: ニューデリー空港を離陸し上昇中のサウジアラビア航空機と着陸降下中のカザフスタン航空機が同じ空路上でほぼ正面衝突して墜落。空中衝突事故として重大かつ航空事故とおいても重大な事故となった。カザフ機の操縦士が空港管制の指示した空路よりも低い空路で下降していたことが原因だったが、同機の機長も副操縦士も国際航空用語となっている英語による管制官の指示をよく理解していなかったことがわかった。
- 詳細:「ニューデリー空中衝突事故」を参照。
[編集] 1997年
[編集] 1998年
[編集] 1999年
- 1999年 8月22日
- 便名: チャイナエアライン 642便
- 機種: マクダネルダグラス MD-11
- 死者: 乗員乗客315人中3人が死亡。
- 状況: 発達した熱帯低気圧が接近する中、香港空港へ着陸中に強風にあおられ右翼から接地し、機体が180度回転して爆発炎上。
- 詳細:「チャイナエアライン642便着陸失敗事故」を参照。
[編集] 2000年代
[編集] 2000年
[編集] 2001年
- 2001年 1月31日
- 便名: 1) 日本航空 907便、2) 日本航空 958便
- 機種: 1) ボーイング 747-400D、2) マクドネル・ダグラス DC-10-40
- 死者: なし (ただし907便の100名が負傷)。
- 状況: 駿河湾上空で航空管制官が907便と958便の指示を取り違えたのと、907便が誤った指示を出している管制に従って空中衝突防止装置を無視したために空中衝突寸前まで至ったが、907便が異変に気づいて急降下し、958便も上昇したために回避成功。しかし、この急動作によって907便に100人の負傷者が出た。
- 詳細:「日本航空機駿河湾上空ニアミス事故」を参照。
[編集] 2002年
- 2002年 7月1日
- 便名: アメリカウエスト航空 556便
- 機種: エアバス A319
- 死者: なし。
- 状況: 前夜半から機長・副操縦士ともに多量の飲酒をし、酔いも覚めぬまま翌朝出発の556便に搭乗した。不可解な言動を不審に思った空港警備員が警察に通報、同機はゲートから押し出され誘導路を走行しはじめる一歩手前のところで停止させられ、機長・副操縦士は現行犯逮捕。空港警察の職務質問にもろくに答えられないほどの泥酔状態だったという。
[編集] 2004年
- 2004年 10月14日
- 便名: ピナクル航空 3701便
- 機首: ボンバルディア CRJ-200
- 死者: 乗員2名が死亡。
- 状況: 乗客がいないフライトにおいて、非プロフェッショナル的な飛行や当該機種の上昇限度での飛行を行いエンジンが停止、再始動できないまま滑空状態で墜落。
- 詳細: 「ピナクル航空3701便墜落事故」を参照。
[編集] 2005年
- 2005年 8月12日
- 便名:JALウェイズ 58便
- 機種:DC-10
- 死者:なし。
- 状況:福岡空港離陸直後にエンジンから出火、部品の破片が市街地に散乱した。ちょうどこの日は、日本航空123便墜落事故が起こってから20年目にあたる日で、事故が発生したのは当日行われた御巣鷹山慰霊登山で当時の日本航空社長が「二度と事故を起さない」と挨拶をした直後だった。
- 2005年 8月16日
- 便名: ウエストカリビアン航空 708便
- 機種: マクドネルダグラス MD-82
- 死者: 乗員乗客160人全員が死亡。
- 状況: パナマシティ発仏領マルティニーク行きが、巡航中ベネズエラ西部で着氷により制御を失い墜落。
- 詳細:「ウエストカリビアン航空708便墜落事故」を参照。
- 2005年 9月5日
- 便名: マンダラ航空 091便
- 機種: ボーイング 737-200
- 死者: 乗員乗客116人中108人と地上の47人が死亡。
- 状況: スマトラ島のメダン空港を離陸して1分後に住宅地に墜落。原因については現在調査中。過積載の可能性が指摘されている。
- 詳細:「マンダラ航空091便墜落事故」を参照。
- 2005年 9月21日
- 便名: ジェットブルー 292便
- 機種: エアバス A320
- 死者: なし。
- 状況: カリフォルニア州バーバンクのボブホープ空港を離陸後、前輪が90度横向きになったまま固まり格納不能となった。近隣のロサンゼルス空港に緊急着陸することにしたが、A320型機は燃料を投棄するためのシステムを備えておらず、そのため同機はロサンゼルス沖の太平洋上を2時間以上にもわたって8の字を描くよう旋回しながら燃料を消費しなければならなかった。着陸は可能な限りの低速で接地、前輪は火を噴いたが脚を失うことはなく、機は無事停止した。なおジェットブルーのA320には各座席のLCDスクリーンで36チャンネルの衛星テレビ放送が視聴できるようになっており、乗客は緊急着陸の一部始終をCNNの生中継で観ていたため、パニックになることもなかったという。
- 詳細:「ジェットブルー航空292便緊急着陸事故」を参照。
- 2005年 12月10日
- 便名: ソソリソ航空 1145便
- 機種: マクドネルダグラス DC-9-30
- 死者: 乗員乗客110人中107人が死亡。
- 状況: 雷を伴う悪天候の中ナイジェリアのポートハーコート空港で着陸に失敗し、滑走路上で胴体部分が炎上。
- 詳細:「ソソリソ航空1145便墜落事故」を参照。
[編集] 2006年
- 2006年 5月3日
- 便名: アルマビア航空 967便
- 機種: エアバス A320
- 死者: 乗員乗客113人全員が死亡。
- 状況: 悪天候の中操縦ミスで、ロシアのソチに着陸進入中、黒海の沖合6kmに墜落。
- 詳細:「アルマビア航空967便墜落事故」を参照。
- 2006年 7月9日
- 便名: シベリア航空 778便
- 機種: エアバス A310
- 死者: 乗員乗客203人中124人が死亡。
- 状況: 悪天候の中イルクーツク空港で着陸時にスリップし滑走路をオーバーラン、コンクリート壁に衝突して炎上。
- 詳細:「シベリア航空778便着陸失敗事故」を参照。
- 2006年 8月22日
- 便名: プルコボ航空 612便
- 機種: ツポレフ 154
- 死者: 乗員乗客170人全員が死亡。
- 状況: ロシア西部アナパ発サンクトペテルブルク行きが、ウクライナ東部上空を巡航中に乱気流による上昇気流が原因でTu-154の限界高度を超えたため墜落。
- 詳細:「プルコボ航空612便墜落事故」を参照。
- 2006年 9月29日
- 便名: 1) ゴル航空 1907便、2) エクセルエア 納入機
- 機種: 1) ボーイング 737-800、2) エンブラエル レガシー600
- 死者: ゴル航空機の乗員乗客155人全員が死亡。
- 状況: ブラジル北部のパラー州上空で管制ミスにより空中衝突しゴル航空機が墜落。ボーイング737NG初の全損事故でもあった。
- 詳細:「ゴル航空1907便墜落事故」を参照。
[編集] 2007年
- 2007年 3月7日
- 便名: ガルーダ・インドネシア航空 200便
- 機種: ボーイング 737-400
- 死者: 乗員乗客140人中23人が死亡。
- 状況: ジョグジャカルタの空港で、着陸に失敗し、滑走路上でバウンドしてオーバーラン。機体停止後に火災が発生し爆発。原因については現在調査中。
- 詳細:「ガルーダ・インドネシア航空200便墜落事故」を参照。
- 2007年 3月13日
- 便名: 全日本空輸 1603便
- 機種: ボンバルディア DHC-8-Q400
- 死者: なし
- 状況: 高知空港に着陸の際に前輪が出ず、前胴体着陸をした。けが人はなかった。原因は前輪格納扉内の固定ボルトが外れており、そのボルトが車軸などに引っかかりバックアップシステムも機能しなかった。
- 詳細:「全日空機高知空港胴体着陸事故」を参照。
- 2007年 9月16日
- 便名:ワントゥーゴー航空 269便
- 機種:マクドネルダグラス MD-82
- 死者:乗員乗客130人中89人が死亡。
- 状況:豪雨による視界不良のなか、プーケット空港への着陸が思うように行かず、着陸復航しようとしたところ機体後尾が滑走路上に激突。バランスを崩してそのまま滑走路上を滑ったのち、滑走路脇の林に激突、機体が真二つ折れて炎上した。原因については現在調査中だが、同空港の滑走路は水平ではなく中央部が両端よりも高い坂状になっており、事故機の後尾が接触したのは頂上部を過ぎて下り坂が始まる辺りだったことから、着陸復航を行った際に飛行士が機体と地上との距離を誤認した可能性が指摘されている。
- 詳細:「ワントゥーゴー航空269便着陸失敗事故」を参照。
[編集] 2008年
- 2008年 1月18日
- 便名: ブリティッシュ・エアウェイズ 38便
- 機種: ボーイング777
- 死者: なし
- 状況: 北京発ロンドン・ヒースロー空港行きのブリティッシュ・エアウェイズ38便が着陸に失敗し、滑走路手前の不整地に着陸した。機体は左主翼の付け根を破損し、18人のケガ人が出た。事故調査委員会の発表によれば、同機は着陸直前にエンジンが2基とも停止して滑空状態になっており、一歩間違えば大惨事になっていた可能性があるという。なおボーイング777としては就航以来初めての全損事故であった。
- 詳細:「ブリティッシュ・エアウェイズ38便事故」を参照