ホーカー・シドレー トライデント
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HS121 トライデント
ホーカー・シドレー トライデント (Hawker Siddeley Trident) はイギリスの航空機メーカーであったホーカー・シドレーが開発した3発ジェット旅客機である。 またの名をDH121もしくはHS121といい、現在ではホーカー・シドレー社の後継であるブリティッシュエアロスペース社の名をとってBAe 121ともいうが、本稿ではトライデント(海神ネプチューンが持つ三叉矛の意)に統一する。
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[編集] 概要
トライデントはイギリスの航空機メーカーであったデハビランドが1950年代にBEA(英国欧州航空、現:ブリティッシュ・エアウェイズ)が要望していた欧州域内用の中距離旅客機として開発開始されたのが最初で、ホーカー・シドレーに経営統合された1962年に初飛行し、路線就航したのが1964年であった。機体レイアウトはボーイング727と同様に尾翼付近にエンジンを3発設置するリア・エンジン方式を採用しており、こちらの方がコンセプトとしては早かった。また世界で初めて自動操縦による着陸が認可された機体であった。
しかしながら、高度の先進性を備えていたにもかかわらず、パワー不足や営業力不足などにより受注を取ることは出来ず、総生産数は117機とあまり多くはない。採用された機体も1980年代には、ボーイング737やボーイング757といった新世代の旅客機に押され退役していったが、1990年代にも中華人民共和国のVIP輸送機として中国人民解放軍空軍(傘下の中国聯合航空所属)で運用されていた機体もあった。
[編集] 開発の経緯
BEAは1956年7月に欧州域内の路線にビッカーズ バイカウントを就航させたが次世代の旅客機のためのコンセプトをイギリス国内の航空機メーカーに出した。短距離用に採用されたのはBAC 1-11であったが、中距離用にはブリストル 200、アブロ 740、ビッカース VC11といった機体案を抑えデハビランドのDH.121が1958年に選ばれ、これがトライデントの原型となった。DH.121は、最初の「三発ジェット機」であり、エンジンが1機故障した場合であっても離陸安全性を確保していると考えられ、またエンジンの装着方法と垂直尾翼がT-字翼が特徴的であった。
当初案ではロールス・ロイス製メッドウェイ エンジンを装着し航続距離3,330kmと2クラスで111席としていた。しかし、BEAはそれでは大きすぎるとして妥協して小さなサイズの機体を製作するとして1959年8月12日に正式契約したが、結果的にはこれが商業的失敗の原因になってしまう。
[編集] 就航まで
1960年に合併により発足したホーカー・シドレー・アビエーションは新規市場開拓のため1960年にアメリカン航空との商談に入った。そこで彼らはより長い航続距離を要求した。しかし皮肉なことにその彼らが要求したスペックは最初のDH.121案に適合していた。そのためいくぶん航続距離を大きくしたトライデント1Aを開発することになったが、結局アメリカン航空はボーイング727を発注した。その後原型機は改良が加えられトライデント1C(登録記号G-ARPA)として1962年1月9日に初飛行し、1964年4月1日に路線に就航した。1965年までに15機が就航し、1966年3月までに21機に増加した。
[編集] その後
ホーカー・シドレーは、中央燃料タンクを増設したトライデント1Cなどのさまざまな派生型を開発していき、キプロスやクウェート、パキスタンなどの航空会社にも販売された。しかしながら大口の受注が見込めるはずのアメリカの航空会社からは導入されなかった。
そうしたなかBEAはトライデントよりもさらにより大きな旅客機を求めて1965年にHS.132として知られているトライデントに類似した双発機、主翼にエンジンを設置する185席のHS.134、そして現在とは異なるコンセプトのボーイング757などが候補にあったが結局はBEAボーイング727とボーイング737を購入することに決定した。しかし、この計画はBEAの所有者であるイギリス政府によって撤回された。
そのためBEAはトライデント2Eの胴体延長型であるトライデント3Bを購入することになった。このタイプは最高180人の乗客のために5mの胴体を延長し主翼を改良したが、搭載エンジンであるスペイ512をパワーアップするのが限界に達していたため、離陸時の時にだけ使用する4つ目のエンジン(RB.162ターボジェットエンジン)を尾翼に取り付ける奇妙な改良をしていた。この変則4発エンジンをもつ機体は1971年4月1日に就航した。
トライデントは1975年に中国民航に引き渡された機体で生産が終了した。最終的に117機が生産されたが、トライデントの最初の設計案にちかいスペックの機体を実用化したボーイング727の方が全世界で1,700機以上も販売されたというのは、大きな皮肉であった。
[編集] 保存機体
4機のトライデントがイギリス国内で保存されており、トライデント2Eとトライデント1Cがシュロップシャーで保存されており、ケンブリッジの近くのDuxfordとロンドンにはトライデント3Bが保存されておりマンチェスター空港のAviation Viewing Parkへの移動を待っている。また中華人民共和国山東省煙台市開発区の海岸に中国民航スタイルのトライデント2Eが展示されているという。
[編集] 派生型
- トライデント 1C : 24機製造
- トライデント 1E : 15機製造
- トライデント 2E : 50機製造
- トライデント 3B : 28機製造
[編集] 要目
トライデント 2E
- 全長: 35 m
- 全幅: 28.9 m
- 高さ: 8.3 m
- 巡航速度: 972 km/h
- 航続距離: 3,860 km
- 実用上昇高度: 27,000 ~ 36,000フィート(8,000 ~ 11,000 m)
- 最大離陸重量: 65,000 kg
- エンジン:ロールス・ロイス RB.163-25 スペイ 512
- 乗員3 + 乗客149
トライデント 3B
- 全長: 40 m
- 全幅: 28.9 m
- 高さ: 8.6 m
- 巡航速度: 936 km/h
- 航続距離: 3060 km
- 実用上昇高度: 27,000 ~ 36,000フィート(8,000 ~ 11,000 m)
- 最大離陸重量: 70,300 kg
- エンジン:ロールス・ロイス RB.163-25 スペイ 512を3発とRB.162を1発
- 乗員3 + 乗客180
[編集] そのほか
- トライデントには事故調査のためにフライトレコーダーが初めて搭載され、また霧が多いヒースロー空港のために自動操縦による着陸が1966年に初めて行われるなど先進的な技術を導入していた。
- 日本の全日空も自社初のジェット旅客機としてトライデントの導入を検討していた。最終的には運輸省の行政指導によってボーイング727が導入されたが、全日空はボーイング727よりもトライデントのほうが先進的であること、そしてボーイング社は第二次世界大戦中に日本の都市を焦土にした爆撃機B-29を開発・製造したメーカーであり、反米的雰囲気が色濃く残る当時の世情からすれば営業上好ましくないとする判断があったという。そのため「もしアメリカ製だったら絶対、トライデントを購入していた」との声があったという[1]
- 中国人民解放空軍の機体のうち1機(シリアルナンバー256、パキスタン国際航空が1965年に導入して運用後に中華人民共和国に譲渡。塗装は中国民航であった)は、反毛沢東クーデターに失敗した林彪がソビエト連邦へ逃亡するという、いわゆる「林彪事件」の際に使用されたが、燃料不足でモンゴル領ヘンティー県イデルメグ村で墜落している。現場は中蒙両国政府によって封鎖されたが、現在でも残骸が転がっていた。一部が文革を物語る物証として中華人民共和国に持ち出されている[2]。
- 前述のように、中国民航が多くのトライデントを保有・運航していたが、これはソ連からは中ソ論争による関係悪化のためジェット旅客機を購入できない反面、イギリスは西側諸国のうち、唯一中華民国ではなく中華人民共和国政府を承認(国連の代表権までは認めなかったが)しており、唯一のジェット旅客機購入先であったからである。そのため、中国民航では1980年代まで主力機種であり続け、日中間の航空路線にもトライデントで就航していたが、その後アメリカ製旅客機が導入されたために引退した。