レイ (潜水艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1942年7月20日 |
進水: | 1943年2月28日 |
就役: | 1943年7月27日 |
退役: | 1958年9月30日 |
除籍: | 1960年4月1日 |
その後: | 1960年12月18日にスクラップとして売却 |
性能諸元 | |
排水量: | 1,526トン(水上) 2,424トン(水中) |
全長: | 307ft (93.6m)(水線長) 311ft 9in (95m)(全長) |
全幅: | 27.3 ft (8.3 m) |
吃水: | 15.3 ft (4.6 m) |
機関: | フェアバンクス・モース38D8 1/8型9気筒6,500馬力ディーゼルエンジン 4基 ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機 2基 |
最大速: | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
航続距離: | 11,000カイリ(10ノット時) (19 km/h 時に 20,000 km) |
試験深度: | 300ft (90m) |
巡航期間: | 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間 |
乗員: | 士官6名、兵員54名 |
兵装: | 3インチ砲1基、21インチ魚雷発射管10基、機銃4基 |
レイ (USS Ray, SS/SSR-271) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はエイの一種に因む。
目次 |
[編集] 艦歴
レイは1942年7月20日にウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で起工する。1943年2月28日にS・C・ルーミス夫人によって進水し、艦長ブルックス・J・ハーラル少佐の指揮下1943年7月27日に就役する。8月15日までミシガン湖で訓練を行った後、レイはニューオーリンズを経由して8月31日にパナマ運河地帯のココ・ソロに到着した。10月5日にパナマを出発して、レイは10月30日にブリスベンに到着し、ニューギニアのミルン湾の前進基地に回航された。
[編集] 第1・第2・第3の哨戒
11月13日、レイは最初の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。ニューハノーバー島とトラック諸島間の航路で哨戒していた。11月26日、レイはトラック南西300海里の地点で、レーダーにより3隻の輸送船と3隻の護衛艦と思われる輸送船団を探知。レイは夜明け前に攻撃を行い、護衛艦の反撃をかわしつつ日海丸(日産汽船。2,562トン)に魚雷を3本命中させて撃沈した。レイはその後も別の輸送船団を発見し2度の攻撃を行ったが、戦果を挙げることはできなかった。12月6日、レイは24日間の行動を終えた。
12月11日、レイは2回目の哨戒でチモール島近海、フローレス海を経てセレベス海に向かった。ダーウィンで補給した後、12月26日、レイはチョロ海峡西方15海里の地点で護衛なしで航行中のタンカー巨港丸(拿捕船、元オランダ船セミラミス/飯野海運委託。5,792トン)を発見。レイは巨港丸の動きを封じて雷撃し、魚雷が命中した巨港丸は巨大な炎のきのこ雲を残して沈没していった。1944年1月1日、レイはアンボン灯台220度10キロ地点で護衛艦のいる2隻の船を発見。このうち特設砲艦億洋丸(東洋汽船。2,904トン)を撃沈した。もう1隻の船がレイに体当たりを試みて接近し、また上空を警戒していた航空機も接近して制圧してきたので、レイは深深度潜航で退避して難を逃れた。3日後の1月4日には、千鳥型水雷艇に護衛された2隻の貨物船を発見し攻撃したが、戦果を挙げることはできなかった。1月12日、レイは24日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
2月6日、レイは3回目の哨戒で南シナ海、インドシナ半島方面に向かった。2月22日、レイはサイゴン沖に機雷を敷設。3月2日夜には昭南に向かうヒ47船団を発見し、タンカーに向けて魚雷を4本発射して命中したと判断した[1]。3月18日には2隻の千鳥型水雷艇と哨戒艇を発見し魚雷を6本発射し、乗組員は命中音を聞いた。しかし、直後から爆雷攻撃にさらされ、日没後に何とか脱出できた。3月27日、レイは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
[編集] 第4・第5の哨戒
4月23日、レイは4回目の哨戒でモルッカ海を経てミンダナオ島方面に向かった。5月21日午後、レイは護衛艦と水上機によって護衛されハルマヘラ島に向かっていたH26船団を発見。レイは夜になってから浮上して船団を追跡した。5月22日朝になってから攻撃し、北緯5度16分、東経127度42分のダバオ南西400キロ地点で天平丸(白洋汽船。6,094トン)を撃沈した。レイは間断なく攻撃を続け、艦首と艦尾の発射管を使ってタンカーと小型貨物船に向けて雷撃したあと、混乱する船団を尻目に浮上して一旦船団の視界外に去っていった。翌5月23日、レイはセロ (USS Cero, SS-225)と合流して、折からのスコールの中でレーダーにより探知したH26船団を再び攻撃。セロが大順丸(大阪商船。2,825トン)を撃沈し、レイはセロとともにタンカー建和丸(日東汽船。6,384トン)を撃破した。レイは水柱が立ったり船が火災を起こす様子を確認したが、空からの反撃に備えて潜航して避退したので、結果的にどうなったのかは確認できなかった。6月14日、レイは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投し、艦長がウィリアム・T・キンゼラに代わった。
7月18日、レイは5回目の哨戒で南シナ海、ルソン島方面に向かった。7月18日、レイはスラバヤ北方バウエアン島の北37キロ地点で、護衛なしで単独航行中の1TM型タンカーじゃんび丸(三菱汽船。5,244トン)を発見した。6時26分、レイはじゃんび丸の左舷側に対し魚雷を2本発射したが回避され、逆に砲撃を受けた。レイは2度目の雷撃で1本を命中させ、船体を大破させた。6時35分の第三撃の魚雷2本は船体の下部を通過し命中しなかった。レイはさらに魚雷3本を発射して2本を命中させ、盛んに砲撃してくるじゃんび丸を炎上させた。じゃんび丸の船体前部が亡失しつつも砲撃が止まなかったせいか、レイは7時に魚雷を5本発射して2本を命中させ、ようやくじゃんび丸の備砲を黙らせた。7時15分にじゃんび丸は沈没していった[2]。レイはじゃんび丸1隻を片付けるのに魚雷を無駄使いしたため[3]、一旦フリーマントルに戻って魚雷を補給し、7月28日に再出撃した。再出撃後の8月4日朝、レイは南緯4度5分、東経117度4分のマカッサル海峡で小輸送船団を発見し、光州丸(朝鮮郵船。2,295トン)を撃沈した。9日後の8月13日には北緯3度54分、東経113度0分の地点で瑞祥丸(栗林商船。5,289トン)を撃沈した。8月18日昼過ぎ、レイは北緯8度39分、東経116度39分のパラワン島南西沖バラバク海峡付近でミ12船団を発見し、陸軍タンカー南星丸(拿捕船、元イギリス船プレイドン/日東汽船委託。5,878トン)を撃沈した。レイはその後も船団を追跡し続け、その間に僚艦に船団の存在を報告した。レイの報告で合流してきたハーダー (USS Harder, SS-257)、ハッド (USS Haddo, SS-255) 、ギターロ (USS Guitarro, SS-363)とともにレイはミンドロ島バウエン湾に潜むミ12船団が出てくるのを待った。8月21日朝、ミ12船団が出港。レイが真っ先に応急タンカー武豊丸(日本郵船。6,964トン)に対して、この時点で残っていた魚雷4本を全て発射・3本は命中しなかったが、武豊丸に1本命中させてこれを撃沈した。僚艦もこれに続いて戦果を挙げていった。レイは海防艦などの反撃で潜航して避退したが、武豊丸の沈没は辛うじて確認できた。レイは爆雷攻撃をかわして戦場を離れ、8月31日に52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
[編集] 第6・第7・第8の哨戒
9月23日、レイは6回目の哨戒で南シナ海に向かった。10月6日と7日にタンカーを攻撃したが、戦果は不明だった。10月11日、レイは北緯13度32分、東経120度21分の地点で東崗丸(大連汽船。4,180トン)を撃沈した。3日後の10月14日、レイは日本の対潜哨戒機の制圧を受け潜航した。しかし、26メートルの深度になったころで対潜爆弾が炸裂し、レイは修理のため一旦ミオス・ウンディ島に寄って10月の最後の週まで修理を受けることとなった。哨戒再開後、レイは11月1日の午後に北緯12度57分、東経120度12分のミンドロ島カラビテ山南西60キロ地点でM246船団を発見し、ブラックフィン (USS Blackfin, SS-322)とともに攻撃。レイはタンカー第七蓬莱丸(蓬莱タンカー。834トン)を撃沈し、ブラックフィンも2隻撃沈した。この直後、レイはミンドロ島の海岸に接近し、3名の諜報員と2トンの貨物を陸揚げし、その代わりにコレヒドール島から脱走した2名の陸軍兵士と、政治犯として収容され脱走してきたフィリピン人を収容した。11月4日夕刻、レイはブリーム (USS Bream, SS-243)とギターロの雷撃により炎上している元水上機母艦香久丸(大阪商船。6,806トン)を発見。魚雷2本を発射し命中させ、香久丸の船首を吹き飛ばした。香久丸はこの後沈没していった[4]。11月6日、レイはブリーム、ギターロ、レイトン (USS Raton, SS-270)とともに重巡洋艦2隻を含んだマタ31船団を発見し、輸送船に曳航されている重巡洋艦熊野に対して集中的に雷撃した。レイは魚雷を6本発射したものの命中せず、逆に反撃を受け浅瀬の海に潜まざるを得なかった。その際、レイはギターロともに爆雷で損傷を受け、熊野に対する再度の攻撃は諦めたが、哨戒を打ち切るほどの損傷でもなかった。11月14日夜には、北緯17度46分、東経117度57分のルソン島ビガン西方300キロ地点でマタ32船団を発見し、第7号海防艦を轟沈させた。11月16日にも輸送船団を発見して魚雷2本を発射したが命中しなかった。11月19日には空母カウペンス (USS Cowpens, CVL-25)の搭乗員を救助。12月8日、レイは70日間の行動を終えて真珠湾に帰投し、メア・アイランド海軍造船所に回航されt12月16日に到着、オーバーホールに入った。
オーバーホールを終えたレイは1945年3月26日にサンフランシスコを出港しグアム島アプラ港に回航された。4月29日に到着後、翌4月30日に7回目の哨戒で九州近海に向かった。5月7日、レイは撃墜されたB-29の搭乗員10名を救助。5月15日には、激浪で破壊したPBMマリナーの搭乗員10名を救助した。レイはポンポン (USS Pompon, SS-267)とライオンフィッシュ (USS Lionfish, SS-298)に救助した搭乗員を託して哨戒を続けた。5月19日、レイは3隻の小型貨物船を発見し雷撃したが、魚雷は貨物船の下部を通過していった。この小型貨物船は実は爆雷を搭載した特設艦艇で、3隻はレイが潜航したあたりを攻撃した。レイはその場から少し離れたところで浮上し、追跡してきた小型貨物船を浮上砲戦で撃沈した。哨戒の残り期間は、沿岸の小型船などへの攻撃に終始した[5]。6月16日、レイは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
7月11日、レイは8回目の哨戒でシャム湾に向かった。8月7日夕刻、レイはレムチョンの北沖で大量のジャンク群を発見して実に16隻を砲火で撃沈し、さらに乗組員が7隻のジャンクに乗り込んで焼き捨てた[6]。8月13日、レイは30日間の行動を終えてスービック湾に帰投し、2日後に終戦を迎えた。
[編集] 戦後・レーダー哨戒潜水艦
レイは戦争が終わるとスービック湾を出港し、サイパン島、真珠湾、パナマ運河を経由して10月5日にコネチカット州ニューロンドンに凱旋した。その後は1947年2月12日までニューロンドンで訓練艦としての任務に従事し、その後は予備役として保管される。1950年12月、フィラデルフィア海軍工廠へ牽引されレーダー哨戒潜水艦としての転換が行われる。レイは1951年1月3日に SSR-271 に艦種変更され、1952年8月13日に艦長A・C・バーレー少佐の指揮下再就役した。レイはフィラデルフィアを1953年3月27日に出航する。同年の残りは東海岸沿いおよびカリブ海での艦隊訓練、作戦活動に従事した。1954年3月1日から5月26日までレイは第6艦隊に所属し哨戒艦としての任務に従事する。母港のノーフォークには5月26日に帰還し、7月から8月にかけてノバスコシア沖で行われたカナダ軍との合同演習に参加する。1954年の残りと1955年は艦隊演習、定期訓練に費やされ、1955年4月から11月までチャールストン海軍工廠でオーバーホールが行われた。
1956年3月5日から6月4日まで再び地中海でレーダー哨戒艦としての任務に従事し、レイはアメリカ軍とNATO軍の部隊と共に作戦活動を行う。1956年の残りと1957年は大西洋とカリブ海で艦隊演習および定期訓練に従事し、1956年6月にはハンプトン・ローズでの国際観閲式に参加、1957年9月から10月にかけてNATOの演習「Strikeback」に参加しスコットランド、フランス、ポルトガルを訪問した。1958年の前半は東海岸とカリブ海での艦隊演習に費やされた。レイは1958年6月30日にノーフォークを出航し、不活性化のためにチャールストン海軍工廠入りする。レイは1958年9月30日に予備役となり、1960年4月1日に除籍された。レイの船体はスクラップとして1960年12月18日にコマーシャル・メタルズ社に売却された。
レイは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章と、フィリピン共和国の殊勲部隊章を受章した。
[編集] 脚注
- ^ このヒ47船団は2日後にブルーフィッシュ (USS Bluefish, SS-222)がサラワク沖で発見してタンカー大峰山丸(三井船舶。10,536トン)を撃沈することとなる
- ^ 船舶データは松井邦夫『日本・油槽船列伝』による。The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIでは元オランダ船Djambi
- ^ 使用魚雷数は、英文版では22本となっている
- ^ この経緯から、香久丸撃沈はブリーム、ギターロ、レイの共同戦果となっている
- ^ uboat.net Ray (SS-271)では、5月19日から5月30日までの間に合計18隻の小型船を撃沈したとしている
- ^ uboat.net Ray (SS-271)では、この戦闘以外に8月2日から5日までの間に9隻の小型船を撃沈したとしており、8月7日のもの(uboat.net Ray (SS-271)では24隻撃沈)と合わせると、実に33隻もの小型船を撃沈したことになる
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 海防艦顕彰会『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
- 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年、ISBN 4-425-31271-6
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
- 正岡勝直編「小型艦艇正岡調査ノート5 戦利船舶、拿捕船関係」『戦前船舶資料集 第130号』戦前船舶研究会、2006年
[編集] 外部リンク
- history.navy.mil: USS Ray
- hazegray.org: USS Ray
- navsource.org: USS Ray
- Sinkings by boat: USS Ray
- uboat.net Ray (SS-271)
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