ボーンフィッシュ (SS-223)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1942年6月25日 |
進水: | 1943年5月7日 |
就役: | 1943年5月31日 |
退役: | |
除籍: | |
その後: | 1945年6月19日に戦没と考えられる |
性能諸元 | |
排水量: | 1,526トン(水上) 2,424トン(水中) |
全長: | 307ft (93.6m)(水線長) 311ft 9in (95m)(全長) |
全幅: | 27.3 ft (8.3 m) |
吃水: | 19.3 ft (5.9 m) |
機関: | ゼネラル・モーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン 4基 ゼネラル・エレクトリック発電機2基 |
最大速: | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
航続距離: | 11,000カイリ(10ノット時) (18.5 km/h 時に 20,000 km) |
試験深度: | 300ft(90m) |
乗員: | 士官、兵員70名(平時) 士官、兵員80 - 85名(戦時) |
兵装: | 3インチ砲1基、 21インチ魚雷発射管10基 |
ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の12番艦。艦名は回遊魚の一種、ボーンフィッシュに因む。
目次 |
[編集] 艦歴
ボーンフィッシュは1942年6月25日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1943年5月31日にフリーランド・A・ドービン少将夫人によって進水し、艦長トーマス・W・ホーガン少佐の指揮下1943年5月7日に就役する。
就役後はコネチカット州ニューロンドンおよびロードアイランド州ニューポート沖で整調訓練を行う。7月23日に太平洋へ向けて出航し、8月4日にパナマ運河を通過、30日にオーストラリアのブリスベンに到着する。同所で一週間の訓練の後、モアトン湾に向かい訓練を再開する。その後、ブリスベンを出撃しポートダーウィンに進出する。
[編集] 第1・第2の哨戒
ボーンフィッシュは9月16日に最初の哨戒に出航する。ビルフィッシュ (USS Billfish, SS-286)、ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) とウルフパックを組んで南シナ海方面へ向かう。9月22日にバラバク海峡を通過し、南シナ海に入った。9月25日に輸送船団を攻撃したが、爆雷攻撃を避けるべく深深度潜航に移る前に貨物船に向けて雷撃を行ったが、成果は不明であった。9月27日6時52分ごろ、北緯10度10分、東経109度40分のインドシナ半島南東カムラン湾より約100海里の海面で、護衛なしで昭南に向かっていた324船団を発見。7時39分にこの船団最大の船舶であった鹿島丸(日本郵船。9,908トン)を撃沈した。鹿島丸は第二次世界大戦開戦までは欧州航路で活躍した豪華客船であった。また、この時鹿島丸に異常接近していた貨物船千早丸(拿捕船、元オランダ船Chisaloa。7,089トン)を撃破した[1]。10月6日には3番目の輸送船団を接触したが、攻撃には至らなかった。10月10日15時ごろには、北緯14度40分、東経110度12分のカムラン湾北東約110キロの海域で高雄に向かっていた432船団を捕捉、距離2,400メートルから魚雷6本を発射。うち3本が五十鈴川丸(東洋海運。4,214トン)に命中しこれを撃沈。40度に回頭して魚雷を避けようとしていた帝美丸(帝国船舶、元フランス船 Bernardin Saint-Pierre/大阪商船委託。10,085トン)にも2本命中(うち1本は不発)させ、15時21分に撃沈した。ボーンフィッシュは10月21日にフリーマントルに帰投した。45日間の哨戒で、6隻40,200トンの戦果を挙げたと報告したが、実際は3隻24,206トンの戦果だった。
11月22日、ボーンフィッシュは2回目の哨戒にフローレス海へ向けて出撃した。11月28日、ボーンフィッシュはロンボク海峡北東で船団を発見した。追跡を続け、翌29日にボーンフィッシュはその船団の中にいたすゑず丸(栗林商船。4,645トン)を撃沈したが、同船には連合軍捕虜が多数乗船していた。攻撃を受け沈没したすゑず丸では、そのほとんどを見殺しにした。12月1日22時過ぎ、ボーンフィッシュはマカッサル海峡からセレベス海に入る地点でパラオに向かう2612船団を発見。日遼丸(三菱汽船。2,721トン)に魚雷1本を命中させてこれを撃沈した。12月4日から6日まではサンダカン沖合いで潜航哨戒を実施し、次いでタラカン沖でも実施した。12月11日にはToyohime Maruを攻撃して損傷を与えた[2]。ボーンフィッシュは27日間の哨戒を終えて、12月19日にフリーマントルに帰投した。
[編集] 第3・第4の哨戒
1944年1月12日、ボーンフィッシュは3度目の哨戒で南シナ海に向かった。1月22日にマカッサル海峡で機帆船を発見。7人の乗組員が不審な動きをしたため、直ちに攻撃を開始。ボーンフィッシュは沈み行く機帆船から39人の日本軍兵士が脱出するのを確認した。2月6日にカムラン湾に17隻からなる輸送船団が在泊しているのを発見。ボーンフィッシュはいくつかの目標を狙って攻撃したが、護衛艦艇からの反撃もあり、ボーンフィッシュは戦果を確認できなかった。3日後の2月9日、ボーンフィッシュは13隻からなる船団を発見。大きな目標であるタンカー第二図南丸(日本水産。19,262トン。第三図南丸の姉妹船)に魚雷5本を発射したが、損傷を与えただけに終わった[3]。この時も反撃で避退を余儀なくされ、戦果を確認することができなかった。ボーンフィッシュは3月15日に60日間の哨戒を終えてフリーマントルに帰投、2隻21,300トンの戦果を挙げたと報告したが、実際はゼロだった。
4月13日からは、セレベス海方面へ向けて4度目の哨戒に出た。4月26日、ダバオ湾口で小型貨物船Tokiwa Maru(806トン)に魚雷2本を中央部と船尾に命中させて撃沈[4]。次の日も貨物船[5]に魚雷3本を命中させたが、損傷にとどまった。その後も5月3日と5月7日にも輸送船団を接触したものの、戦果を挙げる事はできなかった。5月14日、ボーンフィッシュはセレベス海で駆逐艦2隻とタンカー3隻からなる船団を発見した。駆逐艦は響と電であり、マニラからバリクパパンに燃料を取りに向かっていたものであった。3時46分、ボーンフィッシュは電に向けて魚雷を5本発射。1分後、後部と中央部にそれぞれ1本が命中。電はV字型に船体を折って沈没した。この後、ボーンフィッシュはタウイタウイの日本艦隊の偵察を実施。3隻の戦艦、1隻の空母、3隻の重巡洋艦、1隻の軽巡洋艦を確認し、その周囲を8隻の駆逐艦が警戒していた。5月17日から19日にかけて再度偵察した後、5月30日にフリーマントルに帰投した。ボーンフィッシュは48日間に4隻27,400トンの戦果を挙げたと報告したが、実際は小型貨物船と電の撃沈のみだった。また、艦長がローレンス・L・エッジに交代した。
[編集] 第5・第6の哨戒
6月25日、ボーンフィッシュはセレベス海へ向けて5度目の哨戒に出た。7月5日、ボーンフィッシュはマカッサル海峡で機帆船を、7日にはタラカン沖で龍栄丸(日本製鉄、207トン)、翌8日にもスクーナー、スールー海に入った10日にもサンパンと、小物4隻を相次いで撃沈した。7月29日、ボーンフィッシュはスールー海でタンカー国洋丸(国洋汽船。10,026トン)を発見し追跡。翌30日にこれを撃沈した。8月13日にフリーマントルに帰投後、9月5日にフラッシャー (USS Flasher, SS-249)、レイポン (USS Lapon, SS-260)とともにシブヤン海方面へ6度目の哨戒に出た。9月27日、マニラ西方240海里にて特務艦神威を大破させた[6]。翌9月28日、ミンドロ島西北西海域で小型タンカーAnjo Maru(2,086トン)を撃沈した[7]。この後、フラッシャーとレイポンから別れ、新たにガーナード (USS Gurnard, SS-254) とハンマーヘッド (USS Hammerhead, SS-364) とともに新しいウルフパックを組んで活動した。10月14日、リンガエン湾南西沖で貨物船伏見丸(東洋海運。2,546トン)を撃沈した。10月18日にはルソン島を攻撃した際に撃墜された第38任務部隊の搭乗員2名を救助した後、サイパンと真珠湾経由で本土に帰還し、ベスレヘム・スチールで1945年2月13日までオーバーホールに入った。
[編集] 第7・最後の哨戒
3月20日、真珠湾に到着し戦列に復帰したボーンフィッシュは、7度目の哨戒に出た。途中グアム島に立ち寄った後、東シナ海、対馬海峡方面を31日間行動した。この頃になると日本側にめぼしい艦船は存在せず、ボーンフィッシュもあまり艦船と遭遇することは少なかった。数少ない遭遇のうち、4月13日には対潜艦艇を発見したが、取り逃がした。4月16日には朝鮮半島南方で2人の日本人搭乗員を救助した。4月21日から22日にかけて、対馬海峡における機雷の敷設状況を探索した後、5月7日にグアム島に帰投した。
5月28日から8度目の哨戒に出た。この哨戒は「バーニー作戦」と呼ばれる、9隻の潜水艦による日本海侵入作戦であった。ボーンフィッシュはタニー (USS Tunny, SS-282)、スケート (USS Skate, SS-305)とともに"Pierce's Polecats"と名乗る小ウルフパックを組んだ。タニー艦長のジョージ・E・ピアースが最先任艦長だったためタニーが先任艦となり、対馬海峡を経て日本海に侵入後は主に山陰地方から北陸地方にかけての海域に張り付いた。6月13日、ボーンフィッシュは能登半島輪島の沖合い120キロ付近でタンカーを発見した。このタンカーは新潟から清津に向かっていた2A型戦時標準船牡鹿山丸(三井船舶。6,892トン)であり、ボーンフィッシュは牡鹿山丸をあっさり撃沈した。6月16日、ボーンフィッシュは丹後半島の沖でタニーと会合し、戦果報告を行った。2日後の6月18日、ボーンフィッシュは富山湾での活動の許可をタニーに求め、タニーはそれを許可し、ボーンフィッシュはタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。7月30日、ボーンフィッシュは喪失したと判定された。
[編集] ボーンフィッシュの最期
6月19日、能登半島松波に面する七尾湾で坤山丸(興国汽船。5,488トン)がボーンフィッシュに撃沈された。この時、近くの富山湾では海防艦沖縄、第207号、第63号で編成されていた第三十一海防隊が訓練を実施していたが、「商船(坤山丸)一隻七尾沖にて沈没」の報を受けて現場に急行。坤山丸の生存者を発見することは出来なかったが、その時沖縄の三式水中探信儀が潜水艦の強いエコーを捉えた。沖縄は爆雷の爆発深度を90メートルと120メートルに設定し攻撃を開始。第207号、第63号もこれに続いた。また、たまたま近くを航行中だった2隻の海防艦、第75号と第158号が応援に駆けつけ爆雷攻撃を実施した。執拗に攻撃した結果エコーが消滅し、周辺の海面にはおびただしい重油の帯が流出していた。これがボーンフィッシュの最期であり、推定撃沈位置は北緯37度18分、東経137度55分で、だいたい糸魚川の沖あたりであった。ボーンフィッシュを撃沈した5隻の海防艦は、舞鶴鎮守府司令長官田結穣から感状を授与された。
- 舞鶴鎮守府司令長官からの感状
- 第二〇七、第六三、第七五、第一五八海防艦及沖縄ガ六月十九日緊密ナル連絡ノ下ニ七尾沖ニ於テ敵潜水艦ヲヨク捕捉シ適確ナル攻撃ヲ加ヘ確実ニ之ヲ撃沈本府担任海面ニ於ケル初ノ戦果ヲ挙ゲタルハ大ニ可ナリ 舞鶴鎮守府司令長官田結穣
ボーンフィッシュは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。また、第1、第3、4、5、6回目の哨戒の功績で海軍殊勲部隊章を受章した。
- 脚注
- ^ 千早丸撃破はThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War II、異常接近は『戦時輸送船団史』による
- ^ 英文版およびThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIに記載があるが、Toyohime Maruの仔細も含め実態は不明。『日本商船隊戦時遭難史』に名前がないので、戦後残存した可能性もある
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIによる
- ^ 英文版およびThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIに記載があるが、Tokiwa Maruの仔細も含め実態は不明。『日本商船隊戦時遭難史』には2隻「常盤丸」という船が記載されているが、喪失日やトン数が異なっている
- ^ 船名は不詳
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIおよび伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」による
- ^ 英文版およびThe Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIに記載があるが、Anjo Maruの仔細も含め実態は不明。『日本商船隊戦時遭難史』には記載がない
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 海防艦顕彰会『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
- 伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」『写真 日本の軍艦14 小艦艇II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0464-4
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
- 林寛司、戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
- 正岡勝直編「小型艦艇正岡調査ノート5 戦利船舶、拿捕船関係」『戦前船舶資料集 第130号』戦前船舶研究会、2006年
[編集] 外部リンク
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