カヴァラ (潜水艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1943年3月4日 |
進水: | 1943年11月14日 |
就役: | 1944年2月29日 |
退役: | 1969年12月30日 |
除籍: | 1969年12月30日 |
その後: | テキサス州ガルヴェストンで博物館船として公開 |
性能諸元 | |
排水量: | 1,526トン |
全長: | 311 ft 9 in |
全幅: | 27 ft 3 in |
吃水: | 15 ft 3 in |
機関: | ゼネラルモータース16-248型V16ディーゼルエンジン4基ほか |
最大速: | 水上21ノット (39 km/h)、水中9ノット (17 km/h) |
航続距離: | 水上10ノット時11,000カイリ (20,000 km) |
試験深度: | 300ft (90m) |
巡航期間: | 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間 |
乗員: | 士官6人、下士官兵54人 |
兵装: | 3インチ砲1基、21インチ魚雷発射管10基(艦首6基、艦尾4基)、魚雷24本 |
カヴァラ (USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の33番艦。艦名はケープコッドからラプラタ川にかけての南北アメリカ東部海岸沖合の海域に生息するコバンアジ科の鹹水魚に因む。同名の米軍艦(USS Cavalla)としては初代。
目次 |
[編集] 艦歴
カヴァラは1943年3月4日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボートで起工する。1943年11月14日にM・コムストック夫人によって進水し、艦長ハーマン・J・コスラー少佐の指揮下1944年2月29日に就役する。4月11日にニューロンドンを後にして真珠湾に向かった。
[編集] 第1の哨戒・マリアナ沖海戦
5月31日、カヴァラは最初の哨戒でフィリピン海に向かった。当時、マリアナ諸島に対するアメリカ軍の反攻作戦が行われつつあり、日本艦隊の出現が予想された。そこで、アメリカ軍は日本艦隊の予想進路上に潜水艦を多数配備し、動向をつかもうとした。カヴァラも、そうした1隻として参加したのである。6月9日にミッドウェー島に立ち寄って給油し出港した後、航海中にクジラと接触したが異常はなかった。帰投中のボーフィン(USS Bowfin, SS-287)と会合した後、担当海域に到着した。
6月16日も終わろうとする23時3分、サンベルナルジノ海峡の方向に向かっていたカヴァラのレーダーに4つの点が浮かび上がった。これは小沢艦隊に合流すべく航行中だった第二補給部隊(タンカー2隻、駆逐艦雪風ほか)であり、とりあえずカヴァラはこれを追跡することとした。カヴァラは反転し、距離を約15,000メートル置いて16ノットの速力でこの目標を追跡した。翌17日3時40分になって、カヴァラは第二補給部隊を攻撃すべく接近しようとしたところ、駆逐艦の反撃を受け、避退を余儀なくされた。5時ごろに浮上したが何も見えず、とりあえず司令部に「タンカー部隊発見」と報告し、7時4分に司令部からの「タンカーの追跡を続けよ」との返事を得て追跡を続行した。その結果、17日20時過ぎになって、カヴァラはついに小沢艦隊と接触することに成功した。この時点では攻撃より報告が優先されていたため、カヴァラは潜航して小沢艦隊をやりすごした後、22時45分にカヴァラは浮上し「15隻以上と思われる戦闘艦発見」と打電した。司令部では翌18日8時に、この近辺にいた潜水艦に「カヴァラが発見した地点を目標に、小沢艦隊との接触を試みよ」「攻撃を第一に。報告はその次でよい」との指令を出した。この指令を受けた潜水艦の中には、大鳳を撃沈することとなるアルバコア(USS Albacore, SS-218)もいた。
カヴァラは打電後も、一時潜航することもあったが19ノットの速力で依然小沢艦隊の触接を続け、6月19日早朝、小沢艦隊の本隊である甲部隊に追いついた。そして11時20分、カヴァラは艦隊攻撃を行う絶好のポジションを得た。「艦橋にベッドのスプリング状のもの(二一号電探)をつけて、マストに大きな旗(軍艦旗)をはためかせていた」日本海軍の空母翔鶴の右舷側に対し、魚雷設定深度を4.5メートルに調整し、距離約1,100メートルから魚雷6本を発射。直ちに深深度潜航に移った。やがて3発の命中音が聞こえてきたが、この後には駆逐艦からの3時間に及ぶ爆雷攻撃が待ち受けていた。カヴァラは100発以上もの爆雷に見舞われたが難を逃れ、64日間の行動を終えた。北緯11度50分、東経137度57分の地点で翔鶴が4発の魚雷を食らって沈没したことは、少し遅れてから司令部が日本側の暗号を解読して判明した。コスラーには、太平洋艦隊司令部の暗号担当班から、心づくしのスコッチ・ウイスキーが贈られる話もあったが、ボツになった[1]。
[編集] 第2・第3の哨戒
8月、カヴァラは2回目の哨戒でフィリピン海に向かった。マリアナ諸島攻略に続いてフィリピンをうかがうアメリカ軍は、それに先立ち日本軍の反抗の芽を摘むべく、9月にウィリアム・ハルゼー率いる第3艦隊によるパラオ諸島攻略支援作戦が実施されることとなり、ハルゼーはその支援のために潜水艦がフィリピン海を中心とする広大な海域を哨戒することを望んだ。カヴァラはホエール(USS Whale, SS-239)、シーホース(USS Seahorse, SS-304)など他の9隻の潜水艦とともに"ZOO"とあだ名されたウルフパックを組んでフィリピン海に張り付いたが、さしたる戦果を挙げることもなく、第3艦隊による作戦が終わるとともに、別の哨戒海域を移動することとなった。カヴァラは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
11月、カヴァラは3回目の哨戒でホー(USS Hoe, SS-258)、バヤ(USS Baya, SS-318)とともにウルフパックを組んで南シナ海に向かった。11月25日未明、カヴァラは北緯2度21分、東経107度20分のボルネオ島西方で巡洋艦と駆逐艦と思われる艦影を発見した。これは昭南からブルネイに向かっていた、前日11月24日に第三十一戦隊旗艦になったばかりの駆逐艦霜月と随伴の駆逐艦桃であった。カヴァラは浮上したまま接近し、大きい目標である霜月に対し魚雷を4本発射。うち2本が4時45分に霜月に命中し轟沈させた。第三十一戦隊司令官海軍少将江戸兵太郎以下司令部職員は全員戦死し、艦の乗員も46名しか生存しなかった。12月に入り、カヴァラはカムラン湾とミンドロ島を結ぶ海域を哨戒した。12月24日にカムラン湾から第二水雷戦隊などの艦艇がミンドロ島の艦砲射撃に向かったが(礼号作戦)、カヴァラはこれに気づかなかった。年が変わった1945年1月5日、カヴァラは南緯5度0分、東経112度50分のジャワ海で特設捕獲網艇漢江丸(三光汽船。909トン)と春川丸(朝鮮郵船。971トン)を撃沈した。カヴァラは60日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
[編集] 第4・第5・第6の哨戒
2月、カヴァラは4回目の哨戒で南シナ海に向かったが、哨戒中に特に大きな出来事もなく、46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
5月、カヴァラは5回目の哨戒でジャワ海、南シナ海に向かった。5月19日、ジャワ海の西方海域で作戦中のイギリス潜水艦テラピン(HMS Terrapin, P323)が爆雷攻撃を受けて大破し、フリーマントルに帰投することとなった。5月21日、カヴァラは哨戒を中止してテラピンを護衛するよう命じられ、5月27日にフリーマントルに到着。その後哨戒を再開した後、38日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
8月、カヴァラは6回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒ではB-29や艦載機の搭乗員救出を主な活動としていたが、哨戒中に8月15日の終戦を迎えた。しかし、その知らせを聞いてまもなく、日本の爆撃機の攻撃を受けた[2]。カヴァラは潜航して爆撃機が飛び去るのを待つ間、コスラーはブランデーをどうするべきか、いつ開けるかを部下に問うた。部下の1人が「日本が降伏の調印をするまで待ちましょう」と答えたのでその通りにした[3]。30分後、カヴァラは浮上して事の次第をハルゼーに報告した。数時間後、カヴァラはハルゼーが指揮下の全艦艇にあてた命令である「もしジャップが飛んできたら、敵対的ではなく友好的に撃て」[4]を受信した。8月31日、カヴァラはガトー(USS Gato, SS-212)ら他の選ばれし潜水艦とともに東京湾に入港し、9月2日の降伏調印式に立ち会った。翌日、カヴァラは日本を発ちアメリカ本土に向かった。10月6日にニューロンドンに凱旋し、1946年3月16日に予備役艦隊に編入された。
[編集] 戦後
カヴァラは1951年4月10日に現役に復帰し、第8潜水艦隊の1艦としてカリブ海やカナダのノバスコシア州近海での訓練に従事した。1952年9月3日からエレクトリック・ボート社のドックに入渠し対潜潜水艦(SSK)への改装工事を受け、1953年2月18日に対潜潜水艦に艦種変更され、ハルナンバーもSSK-244に改められた。同年7月15日、カヴァラは第10潜水艦隊に配属され、新しいソナーに関する実験に従事した。1954年1月1日には新しい兵器や装備を評価するための部隊に転属となり、またNATO演習に参加するため何度かヨーロッパに派遣され、1957年6月11日と12日にバージニア州ノーフォークで実施された国際観艦式にも参加した。1959年8月15日、艦種が潜水艦に戻され、ハルナンバーもSS-244に戻された。1963年7月には実験潜水艦に分類され、1969年12月30日に除籍された。
1971年1月21日にカヴァラは第二次大戦テキサス州退役潜水艦員会に移管された。現在テキサス州ガルベストン北部のペリカン・アイランドにあるシーウルフ・パークで記念艦として公開される。カヴァラは広範囲な補修が行われ、艦内も自由に見学できる。
カヴァラは第二次世界大戦の戦功で殊勲部隊章および4つの従軍星章を受章した。その6度の哨戒で、第1回と第3回が成功した物として記録された。カヴァラの戦果は4隻34,180トンに上る。
[編集] 脚注
- ^ 永井喜之・木俣滋郎『撃沈戦記 PART II』による
- ^ 詳細は不明
- ^ Clay Blair,Jr. "Silent Victory"による
- ^ 秦郁彦『八月十五日の空』、E・B・ポッター『BULL HALSEY』による。なお、この命令の続きには「『機銃は6挺ではなく3挺で撃て』という意味だ」というオチがつく
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- 秦郁彦『八月十五日の空 日本空軍の最後』文芸春秋、1978年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
- 石橋孝夫「「あ」号作戦における米潜水艦の作戦と戦果」『写真/太平洋戦争 第4巻』光人社、1989年、ISBN 4-7698-0416-4
- 永井喜之・木俣滋郎『撃沈戦記 PART II』朝日ソノラマ、1990年、ISBN 4-257-17223-1
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- 谷光太郎「コラム・潜水艦艦長列伝」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400982-4
[編集] 外部リンク
- history.navy.mil: USS Cavalla
- navsource.org: USS Cavalla
- hazegray.org: USS Cavalla
- CAVALLA WEBSITE - USS Cavalla SS-244 in Galveston Texas
- www.hnsa.org: Cavalla
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