小沢治三郎
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小沢治三郎 | |
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1886年10月2日 - 1966年11月9日 | |
海軍中将 小沢冶三郎 |
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生誕地 | 宮崎県児湯郡 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1909年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
指揮 | 南遣艦隊司令長官 第一南遣艦隊司令長官 第三艦隊司令長官 海軍大学校校長 第一機動艦隊司令長官 海軍総司令長官 連合艦隊司令長官 海上護衛司令長官 |
戦闘 | 太平洋戦争 |
小沢 治三郎(おざわ じさぶろう、明治19年(1886年)10月2日 - 昭和41年(1966年)11月9日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の連合艦隊司令長官。宮崎県児湯郡出身。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 少年時代
小沢治三郎は、明治19年(1886年)宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の父小沢寅太郎と母ヤツの次男として誕生した。暴力沙汰(言いがかりをつけてきたチンピラを柔道技で橋の下に投げ飛ばした)で宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)を退学処分となる。失意の所、陸軍軍人だった兄宇一郎の上官牛島貞雄大尉が日露戦争の戦場満州から「過ちを改むるに憚ること勿れ」の手紙を送った事をきっかけに一念発起して上京、成城学校へ転入した。なお、この手紙は終生大切に保管してあり、また小沢の座右の銘となった。
第七高等学校工科に進学するも、同年11月に海軍兵学校の合格に伴い中退。明治42年(1909年)11月、海軍兵学校を卒業。同期だった井上成美によると、成績は入学当時は183人中150番位だったが、卒業時には40番位で、たいへんな前進ぶりであったという(実際の卒業席次は179人中45番)。少尉候補生となると巡洋艦「宗谷」乗組となる。この時の艦長は後に終戦時の首相となる鈴木貫太郎大佐、候補生の指導は山本五十六大尉と古賀峯一中尉であった。訓練航海の途中皇居にて明治天皇に拝謁。明治43年(1910年)12月15日、正式に少尉に任官した。
[編集] 太平洋戦争開戦時
開戦直前まで第一航空戦隊司令官を務め、後に連合艦隊の主力となった機動部隊の育ての親ともいわれる。開戦当時は馬来部隊指揮官兼南遣艦隊司令長官。 マレー沖海戦では馬来部隊隷下の第二二航空戦隊が大英帝国海軍東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(T・フィリップス中将座乗、同艦沈没と共に戦死)、巡洋戦艦レパルスを撃沈するという大戦果を挙げる。
当時本人は南遣部隊の旗艦であった重巡洋艦「鳥海」艦上にあり、12月8日の開戦前に米哨戒機を発見、これを打ち落とす命令を出したといわれている。また、マレー沖海戦によって英戦艦が沈む前、鳥海を含めた艦隊に対してこれを撃退すべく出撃をさせている。砲撃では太刀打ちできないため、夜戦による雷撃での戦闘を行うことになっていたが、結局英艦隊の反転によって会敵はしなかった。なお、英艦隊反転前後に小沢艦隊は味方航空機による接近を受けており(悪天候で航空機が小沢艦隊を英艦隊と誤認したため)、これらの混乱から英艦隊撃滅は困難であるとして、一時戦場を撤退、南方部隊と合流するために進路を北北東にとった。この双方の反転によって、両艦隊の距離は急速に開いていった。なお、のちの資料によると両艦隊の距離は英戦艦の艦砲の射程まで近づいていたことがわかっている。このときの海域の天候は視界はほぼ0で霧中標的を流してようやく航海できるほどの状態であったという。
[編集] 連合艦隊司令長官
後に南雲忠一中将の後任として第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦時には第三艦隊を率いて出撃した。マリアナ沖海戦ではアウトレンジ戦法という航空戦法を採用するが、搭乗員の練度の低さと、米側のVT信管による迎撃などのために失敗に終わる。レイテ沖海戦の段階では、日本の機動部隊はすでにその能力を失っており、囮部隊としてハルゼーの機動艦隊を引き付ける役割を担い、これを完遂するも、突入部隊である栗田艦隊が反転したため徒労に終わってしまった。レイテ沖海戦の結果、第三艦隊・第一機動艦隊が解隊した後は軍令部次長を務める。そして、昭和20年(1945年)5月に、最後の連合艦隊司令長官(海軍総隊司令長官と海上護衛司令長官を兼任)に就任し、終戦を迎える。なお、連合艦隊司令長官に就任する際、彼を大将に昇進させようとする動きもあったが、小沢は、大将昇格を断り、中将のままで連合艦隊司令長官に就任したという。
終戦時、自決を叫ぶ部下達を厳しく叱責して制止した逸話が残っている。その際、同僚達にも「君、死んではいけないよ。君、死んではいけないよ。大西は腹を切った。宇垣は沖縄の海に飛び込んだ。皆がそうやっていたら、一体誰がこの戦争の責任を取るんだ。」と言って回っていたという。また、宇垣に対しては「自決するなら一人でやれ!」と部下11人を率いて沖縄に特攻出撃したことに激怒したといわれる。
[編集] 晩年
戦後は戦時中に関して殆ど何も語らず死ぬまで世田谷の自宅に隠棲した。作家の半藤一利が何度も訪れ取材しようと試みたが全て断られ、世間話に終始したという。ただ一度だけ、自分の指揮により部下の多くを死なせてしまったことを後悔する言葉を苦渋の顔で述べたといわれるが、それ以外は何も語らなかった。
昭和41年(1966年)11月9日、多発性硬化症のため死去。享年80。葬儀に際し昭和天皇は祭祀料7000円を下賜、アメリカ合衆国の戦史研究家サミュエル・E・モリソン博士より花束とともに「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージが贈られた。(モリソンがこうした賞賛を贈った日本の海軍軍人は小沢だけであり、通り一遍の社交辞令ではない)
戒名は「大雄院殿浄誉治濤大居士」、墓所は神奈川県鎌倉市にある朝比奈峠の鎌倉霊園、奇しくも若い頃橋から投げ飛ばしたという三船久蔵と同じ霊園である。また、産まれ故郷の宮崎県児湯郡高鍋町にも墓所がある。
[編集] 年譜
- 明治42年(1909年)11月19日 - 海軍兵学校卒業(37期)。海軍少尉候補生。
- 明治43年(1910年)12月15日 - 任海軍少尉。
- 大正元年(1912年)12月1日 - 任海軍中尉。
- 大正4年(1915年)12月13日 - 任海軍大尉。戦艦「河内」分隊長。
- 大正5年(1916年)12月1日 - 海大乙種学生。
- 大正6年(1917年)12月1日 - 海軍水雷学校教官。
- 大正8年(1919年)12月1日 - 海大甲種学生。
- 大正10年(1921年)12月1日 - 任海軍少佐。駆逐艦「竹」駆逐艦長。
- 大正14年(1925年)1月20日 - 第3号駆逐艦長。
- 大正15年(1926年)12月1日 - 任海軍中佐。
- 昭和2年(1927年)12月1日 - 海軍水雷学校教官。海軍砲術学校教官。装甲巡洋艦「春日」教官。
- 昭和5年(1930年)12月1日 - 任海軍大佐。
- 昭和6年(1931年)12月1日 - 海軍大学校教官。陸軍大学校兵学教官。
- 昭和9年(1934年)11月15日 - 重巡洋艦「摩耶」艦長。
- 昭和10年(1935年)10月28日 - 戦艦「榛名」艦長。
- 昭和11年(1936年)12月1日 - 任海軍少将。海軍大学校教官。
- 昭和12年(1937年)
- 昭和13年(1938年)11月15日 - 海軍水雷学校校長。
- 昭和14年(1939年)11月15日 - 第一航空戦隊司令官。
- 昭和15年(1940年)
- 11月1日 - 第三戦隊司令官。
- 11月15日 - 任海軍中将。
- 昭和16年(1941年)
- 昭和17年(1942年)
- 1月3日 - 第一南遣艦隊司令長官。
- 11月11日 - 第三艦隊司令長官(~1944年11月15日)。
- 昭和19年(1944年)
- 昭和20年(1945年)
[編集] 評価
当時一艦隊に1隻配備が常識だった空母の運用法に対して、空母のみの集中使用法を提案したことから日本海軍機動部隊の生みの親とされ、卓越した戦術能力と統率力を兼備した名将と評価される(特に米海軍での評価が高い)一方、理論家ではあるが統率が追いつかず理屈倒れの観があったという評もある。
「飛行機を弾丸と考える」と発言していることからも、その戦術思想は航空機の可能性を見通したものでは無く、彼自身の専攻分野である水雷戦(魚雷による遠距離攻撃と肉薄攻撃)そのものであったことも指摘できる。
しかし、苦労して練成した母艦用搭乗員・機材は半年先任の南雲忠一中将の部隊となり、また度々転用・消耗を余儀なくされ(い号作戦、ろ号作戦)、ようやく巡ってきた艦隊決戦の機会(マリアナ沖海戦)には、質・量ともに不十分な戦力をもって、圧倒的に優勢な敵に立ち向かわねばならなかった彼の不運は大いに考慮されて然るべきである。
[編集] 人物像
- 通称は“鬼瓦”。これは駆逐艦上で事故により顔面を負傷し、表情が変えられなかったことによる。
- 手が震える程のアルコール依存症だったとの証言もある。
- 柔道の猛者として有名。少年期は相当な乱暴者で、上記の武勇伝の他にも海軍兵学校に入学し、海軍軍人としての道を歩み始めてからは、空手家や、のちに柔道の名人となる三船久蔵と喧嘩になり、橋から投げ飛ばしたりしたことなど、若いころの武勇伝は数多い。
[編集] その他
昭和56年(1981年)に劇場公開された東宝映画『連合艦隊』(監督:松林宗恵。特技監督:中野昭慶)では、丹波哲郎が小沢役を好演し、準主役の扱いで取り上げられている。
[編集] 関連項目
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