アングラー (潜水艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1942年11月9日 |
進水: | 1943年7月4日 |
就役: | 1943年10月1日 |
退役: | 1967年4月1日 |
除籍: | 1971年12月15日 |
その後: | スクラップとして売却、 1974年3月4日解体 |
性能諸元 | |
排水量: | 1,526トン(水上) 2,424トン(水中) |
全長: | 307ft (93.6m)(水線長) 311ft 9in (95m)(全長) |
全幅: | 27.3 ft (8.3 m) |
吃水: | 19.3 ft (5.9 m) |
機関: | |
最大速: | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
航続距離: | 11,000カイリ(10ノット時) (18.5 km/h 時に 20,400 km) |
試験深度: | 300ft (90m) |
巡航期間: | 75日 |
乗員: | 士官6名、兵員54名(平時) 士官、兵員80 - 85名(戦時) |
兵装: | 3インチ砲1基 21インチ魚雷発射管10基 (艦首6基、艦尾4基) 魚雷24本ほか |
アングラー (USS Angler, SS/SSK/AGSS-240) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の1隻。艦名はアンコウに因む。
目次 |
[編集] 艦歴
アングラーは1942年11月9日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1943年7月4日にパトリック・H・ドゥウェリー夫人(下院海事委員会の委員、下院議員パトリック・H・ドゥウェリーの妻)によって進水し、10月1日にロバート・I・オルセン中佐の指揮の下コネチカット州ニューロンドンで就役する。整調訓練はニューロンドン、ロードアイランド州ニューポートの海域で行われた。アングラーはフロリダ州キーウエストに向けて航海し、11月21日に到着後、1週間にわたって艦隊音響学校で訓練を受け27日真珠湾へ回航。その後、さらに真珠湾からフリーマントルに回航された。
[編集] 第1・第2の哨戒
1944年1月10日、アングラーは最初の哨戒でマリアナ諸島に向かった。1月29日、アングラーはマリアナ諸島の北側で輸送船団を発見し攻撃。1隻を撃沈し2隻を撃破したと報告したが、実際は特設捕獲網艇珠江丸(三光汽船。890トン)を撃沈した[1]。その後、静粛航行の妨げになる不具合が明らかになったので哨戒を打ち切り、2月4日に25日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投し、修理を行った。
2月15日、修理が完了したアングラーは2回目の哨戒でミンダナオ海、スールー海に向かった。アングラーがフィリピンに近づきつつあった時、南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサーが「日本軍がパネー島で民間人を虐殺していた」ことを知り、パネー島から生き残った民間人を助ける作戦を検討した。その作戦にアングラーが起用されることとなった。アングラーは3月20日にパネー島に接近し、虐殺から逃れて生き残った老若男女58名を救助した。作戦自体は成功裏に終わったものの、その後が大変だった。難民を収容するのに、魚雷発射管室の一角を提供し、食事は乗組員向けのものを一部難民に回したため、乗組員食事は1日2回と減った。フリーマントルに近づくにしたがって乗組員も難民も不快感が増し、オルセンに至っては「真水タンクが汚染されたかも知れない」と信じ込む始末となった。4月9日に53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投後、真水タンクを綺麗にするよう整備員に要求した。
[編集] 第3・第4の哨戒
5月3日、アングラーは3回目の哨戒でジャワ海に向かった。この方面では、当時この方面にいた空母サラトガ(USS Saratoga, CV-3) とイギリス空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) の搭載機がスラバヤを空襲する予定だったので、攻撃を支援する8隻の潜水艦の1隻にアングラーも選ばれ、搭乗員救助と脱出艦船に対する攻撃を命じられていた。5月17日に行われたスラバヤ空襲は成功裏に終わった。その後、スンダ海峡とロンボク海峡が交差する海域で哨戒していたアングラーは、5月20日にスマトラ島スマンカ湾沖で戦時標準船大鳥丸(大阪商船。2,105トン)を撃沈した[2]。反撃も受けたが大したことはなかった。しかし、翌日になって大問題が発生した。吐き気をもよおす乗組員が続出したのである。アングラーはフリーマントルの司令部に緊急報告を行い、アングラーは急遽帰投することとなった。その間にも乗組員の健康状態は悪くなる一方で改善する気配がなかった。オルセンは5月22日の艦長日誌に「乗組員は上級幹部も水兵も問わず、健康状態を維持しているのが難しい」、「食器洗浄や料理を作る際の特別な訓練を行う」と書き、翌日の日誌には「我々には、健康状態を維持できる強壮な男がいない」と記した。思わぬアクシデントに際悩まされているアングラーを助けるため、フラッシャー (USS Flasher, SS-249)とクレヴァル(USS Crevalle, SS-291)、駆逐艦改造水上機母艦チャイルズ(USS Childs, AVD-1)が派遣され、クレヴァルは医師をアングラーに派遣し、容態の芳しくない乗組員を収容した。アングラーが5月29日に27日間の行動を終えてフリーマントルに帰投すると徹底的な調査が実施され、アクシデントの原因は四塩化炭素によるものと結論付けた。四塩化炭素の使用はこの頃には実質禁止されていたが、2回目の哨戒の際に不快の元凶として槍玉に挙げられた真水タンクの洗浄に、この四塩化炭素が使用されたのであった。そして、タンク内の四塩化炭素が十分に除去されないまま、3回目の哨戒に出てしまったものと判断された。なお、一連の騒動との因果関係は不明だが、艦長がフランクリン・G・ヘスに代わった。
6月23日、アングラーは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。6月24日、エクスマウス湾で給油を行うべく操縦していたところ、海図にない暗礁に接触したため、アングラーは一度フリーマントルに引き返す羽目となった。損傷した右舷側のスクリューを交換した上6月29日に再出撃した。哨戒海域では3回目の哨戒で迷惑をかけたフラッシャー、クレヴァルとともにウルフパックを構成した。南シナ海の中央あたりからルソン島西岸海域を所定の哨戒海域とした。7月25日、アングラーらのウルフパックは北上してきたヒ68船団を発見し、数日間執拗に攻め立てた。アングラーは7月26日に元特設水上機母艦聖川丸を攻撃し損傷を与えたのが唯一の成果で[3]、ウルフパック全体では6隻36,000トンの戦果を得た。アングラーは8月23日に、54日間の行動を終えて「無事に」フリーマントルに帰投した。
[編集] 第5・第6・第7の哨戒
9月18日、アングラーは5回目の哨戒でブルーギル(USS Bluegill, SS-242)とともにパラワン水道、スールー海、マニラ近海方面に向かった。10月14日、タブラス海峡で南嶺丸(東亜海運。2,400トン)を撃沈した。10月22日1時45分、アングラーの見張り員は男の叫び声を聞いた。声の主を見つける試みは成功しなかったが、夜明けとともに「最も気味悪いものの、辛うじて想像可能な光景の一つ」をアングラーは見ることとなった。周囲の海面は、生死不明の日本軍兵士で埋め尽くされていた。アングラーはボートを出して夕方まで収容作業にあたり、生存していた兵士は26人に達した。アングラーではこの26人の兵士を尋問し、誰が上級士官かを尋ねた。そして、階級の高い順に島津正義中尉、藤セイ軍曹、西川トヨナガ軍曹の3人が情報提供者としてアメリカ軍に協力する旨宣誓し、残りの兵士は80マイル離れたところで水と食料、海図を与えて解放した。10月23日19時15分、アングラーはパラワン島の北端沖でギターロ(USS Guitarro, SS-363)とともに日本艦隊の動静を監視していたところ、栗田艦隊を探知し、翌24日2時40分ごろまで追跡し、司令部に報告した。アングラーはこの時重要な輸送船団に接触していたものの、より重要な栗田艦隊を追跡すべく、好餌を敢えて捨てて作戦に寄与することとなった。11月1日、アングラーはハードヘッド(USS Hardhead, SS-365)と会合し、少し前にハードヘッドが救助した戦闘機パイロットのフレッド・E・バクティスを引き取った。アングラーは11月9日に50日間の行動を終えてフリーマントル帰投した。
12月4日、アングラーは6回目の哨戒で南シナ海方面向かった。その途中、アングラーは「損傷したバーゴール (USS Bergall, SS-320) の救援をせよ」との命令を受けた。バーゴールは12月13日にインドシナ半島サンシャック沖で、重巡洋艦妙高を浮上したまま雷撃し損傷を与えたものの、直後に妙高自身が主砲と高角砲で反撃し、そのうちの主砲弾がバーゴールの前部魚雷発射管室を左から右へ貫通し、惜しくも不発弾だったものの船殻を破られたため潜航不能状態に陥っていたのである。アングラーは12月15日にバーゴールと会合し、バーゴールを浮上状態のままオーストラリアまで護衛することにした。バーゴールの乗組員はアングラーに移されたが、バーゴール艦長ジョン・M・ハイドは責任者として他の主要幹部とともにバーゴールに残った。アングラーには予め、「状況が困難な場合はバーゴール乗員を完全に移乗させた上で、バーゴールを自沈処分してもよろしい」という命令も与えられており、実際に処分のための魚雷もセットされていたが、奇跡的にそのような切羽詰った状況にならず。結局、日本がいまだ制海権を保持していた水域を無事通過し、12月20日にエクスマウス湾に到着しバーゴールと別れた。この後、アングラーは哨戒を再開した後、本国でオーバーホールを受けるためオーストラリアを離れ、2月6日に72日間の行動を終えてサイパンに帰投。2月24日に本土に帰還し、サンフランシスコのベスレヘム・スチールでオーバーホールの後、1945年6月12日に真珠湾に回航され、次いで6月27日にサイパン島に進出した。また、艦長がH・ビセル・ジュニアに代わった。
6月27日、アングラーは7回目の哨戒でモレイ (USS Moray, SS-300)、シー・ポーチャー (USS Sea Poacher, SS-406)、ソーンバック (USS Thornback, SS-418) らとともにウルフパックを組んで、日本近海に向かった。この頃になると日本の艦船で動けるのは石炭焚きか小さな船しかおらず、目ぼしい大型船は数える程度の状態であった。動けた艦船も、機雷によりほとんど身動きが取れない状況であり、外海で船舶を見ることはまれであった。アングラーのこの哨戒での活動も、3度にわたる対地攻撃が主となった感があった。7月26日、アングラーは金華山灯台沖に出現し、およそ3キロ離れた海上から25口径5インチ砲で攻撃。灯台の他密集した建物や放送塔を目標に20発発射したが、視界を遮られて与えた損害を確認することはできなかった。次いで7月31日夕刻、苫小牧沖に出現し、霧がかかっていたものの王子製紙苫小牧工場を攻撃。70発もの大量の弾丸を撃ち込み、うち少なくとも20発が事務所や調査室、火力発電所、製品倉庫などを破壊し、電線が損傷を受けたため工場の操業は停止してしまった[4]。翌8月1日、アングラーはシー・ポーチャー、ソーンバックらとともに様似周辺の漁船や陸上の艇庫、建物などを砲や機銃で手当たり次第に攻撃した[5]。アングラーは8月9日に56日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
[編集] 戦後
アングラーはミッドウェー島で終戦を迎え、8月26日に真珠湾に向けて出発。9月14日にパナマ運河を経て9月20日にはニューオーリンズに寄港。1ヶ月滞在の後フロリダ州ジャクソンビルに向けて出発。11月2日に搭載魚雷を降ろして11月6日にニューロンドンに帰還した。その後不活性化工事のため、1946年2月にはポーツマス海軍造船所に回航され、工事完了後4月21日ニューロンドンに戻り、翌年2月12日退役した。
その後1951年4月2日に再就役。カリブ海での訓練に従事した後1952年10月に再び予備役に編入され、オーバーホールのためグロトンのジェネラル・ダイナミクス(エレクトリック・ボートの後身)のヤードに入渠することとなり、1953年2月には対潜潜水艦(SSK)に分類された。1953年9月、オーバーホールが終わったアングラーは大西洋艦隊で再就役。カリブ海や西インド諸島での訓練活動を中心に、練習航海で何度かヨーロッパを訪問してフランスやイギリスなどのいくつかの港に寄港した。1962年10月24日、アングラーは第6艦隊に配属され、地中海沿岸のスペイン、フランス、イタリア、ギリシャを訪問した。1963年、実験潜水艦(AGSS)に分類され、各種学校の生徒のために活動を続けた。1967年4月1日再び退役し、ペンシルバニア州フィラデルフィアで予備役訓練艦として使用された。1971年12月15日除籍され、1974年2月1日ニューヨーク市のユニオン・ミネラル・アンド・アロイ社に売却された。同年3月4日、スクラップとして解体され30年に及ぶ艦歴を終えた。
アングラーは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。
[編集] 脚注
- ^ 『日本商船隊戦時遭難史』では「1月27日アンボン島付近で沈没。原因不詳」とある
- ^ 野間恒『商船が語る太平洋戦争』による。The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIでは元パナマ船Boyacaとしている。『日本商船隊戦時遭難史』には、大鳥丸は「拿捕船、2,559トン、1943年12月14日、暴風で沈没」とある。アメリカ側が、アングラーが撃沈した大鳥丸と暴風で沈没した元パナマ船大鳥丸を混同していたとも考えられる
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIおよび駒宮真七郎『戦時輸送船団史』による
- ^ 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑特集版 太平洋戦争下の労働者状態』による
- ^ この攻撃で鵜苫国民学校が被弾し、校長の桜田章賢が破壊された建物の下敷きになって殉職した
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑特集版 太平洋戦争下の労働者状態』東洋経済新報社、1964年
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
- 林寛司、戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
- 正岡勝直編「小型艦艇正岡調査ノート5 戦利船舶、拿捕船関係」『戦前船舶資料集 第130号』戦前船舶研究会、2006年
- 菊池慶一『語りつぐ北海道空襲』北海道新聞社、2007年、ISBN 978-4-894-53424-7
[編集] 外部リンク
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