タニー (潜水艦)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1941年11月10日 |
進水: | 1942年6月30日 |
就役: | 1942年9月1日 |
退役: | 1969年6月28日 |
除籍: | 1969年6月30日 |
その後: | 1970年6月19日に標的艦として海没処分 |
性能諸元 | |
排水量: | 1,525トン(水上) 2,424トン(水中) |
全長: | 311.8 ft (95.0 m) |
全幅: | 27.3 ft (8.3 m) |
吃水: | 16 ft 10 in |
機関: | ゼネラル・モーターズ278A 16気筒ディーゼルエンジン 4基 ゼネラル・エレクトリック発電機2基 |
最大速: | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
航続距離: | 11,000カイリ(10ノット時) (19 km/h 時に 20,000 km) |
試験深度: | 300ft (90m) |
巡航期間: | 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間 |
乗員: | 士官、兵員80名 |
兵装: | 5インチ砲1門、40mm砲1門 20mm砲1門、50口径機銃2基 21インチ魚雷発射管10基 |
タニー (USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はマグロに因む。
目次 |
[編集] 艦歴
タニーは1941年11月10日にカリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍造船所で起工する。1942年6月30日にフレデリック・G・クリスプ夫人によって進水し、艦長エルトン・ワッターズ・グレンフェル少佐の指揮下1942年9月1日に就役する。カリフォルニアからの整調訓練後12月12日に真珠湾に到着した。タニーは同地でさらなる訓練及び2週間の信頼性試験に従事した。この間に、艦長がジョン・A・スコットに代わった。
[編集] 第1・第2の哨戒
1943年1月12日、タニーは最初の哨戒で東シナ海に向かった。哨戒海域へ航行中、ほぼ一週間におよぶ荒天でタニーの航行は困難を極めた。南西諸島に接近すると、多数の艦影を発見するようになる。特にサンパンやトロール船を頻繁に発見し、これらからの発見を回避するためタニーはしばしば潜航した。1月26日の早暁、タニーは400トンのトロール船を改造した特設監視艇を発見。半日も追跡した後夕刻に浮上し、浮上砲戦でこれを撃沈しようとした。しかし、程なく日が暮れて目標を確認することが困難となり、攻撃は打ち切られた。3日後、タニーは台湾海峡とその周辺に移動。1月31日には高雄港に出入りしていた西寧丸(大連汽船。4,913トン)に向けて魚雷2本を発射したが回避された。その後は香港沖に移動して哨戒を続けた。しかし、2月2日、2月3日といずれもレーダーで敵船の接近を探知し雷撃を行ったが、損傷を与えただけに終わった。2月4日には汕頭沖に移動し、病院船を発見した。汕頭沖は海底の形状が潜航して行動するには不向きであり、また海上ではジャンクばかりが目に付いたが、2月8日20時ごろ、タニーは北緯22度30分、東経119度3分の地点で楠山丸(山下汽船。5,307トン)を発見し、魚雷を命中させて撃沈した。翌日にも大型の貨物船に対して雷撃を行ったが効果は不明だった。2月11日に哨戒海域を後にして、途中でサンパンを撃沈。タニーは2月20日にミッドウェー島に到着した後、2月24日に43日間の行動を終えて真珠湾に帰投し、潜水母艦スペリー (USS Sperry, AS-12)による整備を受けた。
3月18日、タニーは2回目の哨戒でカロリン諸島へ向かった。カロリン諸島に向かう途中の3月27日、タニーはウェーク島沖で哨戒していた。翌28日、タニーはウェーク島の環礁に通じる水道で、入港しつつあった諏訪丸(日本郵船。10,672トン)を発見。諏訪丸に対し魚雷を2本発射し命中させた。諏訪丸は沈没を防ぐためにウェーク島の南海岸に座礁した[1]。日本側からの反撃もあったが、タニーは難なく攻撃から逃れることが出来た。その後、トラック諸島沖に到着したタニーは、4月2日に北緯7度22分、東経149度18分のプルワット島近海で第二東洋丸(澤山汽船。4,162トン)を撃沈し、4月7日にもトラック西方30海里の地点で特設給糧船厚生丸(日本海洋漁業。8,282トン)を撃破し、厚生丸は軽巡洋艦長良に曳航されたが、4月9日に沈没した。4月8日、タニーはウェストハユ島沖で浮上中に空母大鷹、冲鷹、重巡洋艦鳥海を中心とする艦隊と遭遇した。タニーは艦隊の前方に進出し浮上状態で攻撃を仕掛けようとした。しかし、駆逐艦が接近してきたので潜航。タニーは2隻の空母の間に位置する形となった。まず艦尾の発射管から大鷹に向けて、800メートルの至近距離から魚雷を4本発射した。程なく爆発音が聞こえたため命中と判断したが、この音は実際は大鷹の手前わずか50メートルで早爆した音だった。大鷹は破片でわずかなダメージを負っただけだった。次いでタニーは艦首発射管から冲鷹に向けて600メートルの至近距離から魚雷を6本発射した。やがて3つの爆発音が聞こえ、やはり命中と判断されたが、これもまた命中音ではなく早爆した音だった。撃沈こそできなかったが、艦隊の真ん中に割って入って、両方の魚雷発射管で敵艦を攻撃した技術だけは、「プロの能力と軍人らしい攻撃性」の証明として評価された。4月11日には伊9を発見し、前部発射管に残っていた3本の魚雷で攻撃したが、いずれも命中しなかった。その夜、今度は駆逐艦から反撃を受け、タニーは小破したが行動に支障は出なかった。帰投中にはサイパン島ガラパン港を偵察して2隻の貨物船の存在を認めたが、暗礁の存在により攻撃できなかった。4月23日、タニーは36日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投し、殊勲部隊章が授けられた。
[編集] 第3・第4の哨戒
5月25日、タニーは3回目の哨戒でカロリン諸島及びマリアナ諸島へ向かった。5月27日にジョンストン島に寄港し給油した後、マリアナ諸島海域に進出。5月31日、この哨戒で初めてのレーダーによる接触があったが、そのスピードから相手は哨戒機と判断され、潜航して退避した。しばらくすると対潜爆弾が投じられ、魚雷発射管室の近くで爆発し、艦の機器類に様々な損傷を与えた。応急修理の上哨戒を続け、2日間エニウェトク環礁沖で哨戒した後、トラック諸島方面に移動した。6月7日には輸送船団に対して攻撃する間際に、複葉機[2]と駆逐艦によって不意に制圧され、レーダーの調子が5月31日の損傷以来今ひとつであったことを改めて思い知らされた。6月14日にも別の輸送船団を発見したが、護衛艦の巧みな制圧で不本意にも潜航してじっとしている他はなかった。6月28日、タニーはロタ島沖で特設砲艦昭徳丸(嶋谷汽船。1,964トン)を発見し、魚雷を3本発射して命中させ撃沈した。撃沈後、武装トロール船の制圧を受け、一度は深深度でじっとしていたが、様子をうかがうために潜望鏡深度に浮上した。その時、上空には哨戒機がおり、タニーはこのあと4時間もの間浮上できなかった。7月4日までグアム島沖で哨戒を行った後、帰路7月11日にジョンストン島に立ち寄って給油した後、7月14日に50日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
8月5日、タニーは4回目の哨戒でパラオ諸島方面へ向かった。8月9日にミッドウェー島に寄港し給油の後哨戒海域に向かった。8月18日にパガン島とアラマガン島を確認。8月22日に担当海域に到着し、哨戒を開始した。8月24日早朝、タニーはパラオから出港して来た輸送船団を発見。以後、絶好の攻撃態勢になるまで船団を追跡し続け、8月25日未明、タニーは潜航して船団に向けて3本の魚雷を発射。すぐに深深度潜航で退避し、爆雷攻撃に備えた。やがて魚雷の命中音は聞こえたが、戦果は確認できなかった。夜明けごろに潜望鏡深度に戻り、2度目の攻撃で6本の魚雷を発射したが不成功に終わった。2度の攻撃で護衛艦側にタニーの存在が知れた。しかし、護衛艦は6発の爆雷を投下していくと、そのまま去っていた。タニーは浅深度で観測したが、船団の姿は見えなかった。タニーは15時間ぶりに浮上して哨戒を続けた。8月26日午前、タニーは別の輸送船団を発見し、魚雷を5本発射した。しかし、まもなく猛烈な爆雷攻撃に見舞われ、艦内に火災が発生した。火災自体は大したことがなかったが、煙が充満してきて被害調査を困難にした。タニーは80メートル、さらに116メートルの深度まで逃げ、その間に応急措置班が冷静に行動し修理したたためタニーは救われることとなった。夜に浮上したタニーは改めて被害状況を調べた。すると、艦首部分を初めとして魚雷の気密室などに大ダメージがあり、甲板上には爆雷の破片が散らばっていた。以後2日間にわたって修理に全力を傾けたが、どうしても現場での修理では手に負えないダメージがあり、タニーは任務を打ち切って8月29日に海域を去り、9月8日に34日間の行動を終えて真珠湾に帰投。真珠湾での調査後に西海岸のハンターズ・ポイント海軍造船所に回航され、1944年2月2日までオーバーホールに入った。
[編集] 第5回哨戒
オーバーホールなったタニーは、1944年2月2日に真珠湾に帰ってきた。2月27日、タニーは5回目の哨戒で再びパラオ諸島に向かった。3月27日給油艦石廊を撃破した後、翌28日夜には浮上中の伊42をレーダーで探知。徐々に自艦に有利な体勢に持ち込み、1700メートルの距離から伊42へ向けて魚雷を4本発射した。程なく、うち2本が命中し猛烈な閃光が確認され、乗員の中には「反撃を食らった」と錯覚した者もいた。潜航して様子を窺うと、伊42が圧壊する音が聴取された。3月29日、タニーは巨大な目標を含む艦隊と遭遇した。この巨大な目標は予期される第58任務部隊のパラオ空襲から逃れようとパラオから出港してきた戦艦武蔵であり、軽巡洋艦大淀や駆逐艦を従えていた。タニーは武蔵に接近し、魚雷6本を発射した。うち1本が武蔵の艦首部に命中。武蔵は左右12メートル、上下は喫水線から艦底に至る10メートルの破口を生じ、多量の浸水を生じた。タニーは護衛の駆逐艦から反撃されたが交わした。3月30日、第58任務部隊はパラオを空襲。タニーは搭乗員の救難任務も請け負っていたが、ヨークタウン搭載機に日本潜水艦と誤認され誤爆。損傷を受けたタニーは任務を打ち切ってミルン湾に回航。応急修理の後ブリスベンに帰投した。
[編集] 第6回・第7回哨戒
4月29日、タニーはブリスベンから6回目の哨戒でマリアナ諸島と台湾の中間海域にサンドランス (USS Sand Lance, SS-381) とともに向かった。5月17日、マリアナ諸島海域で船団を襲撃し日和丸(日産汽船、4,955トン)を撃沈、6月16日にはルソン海峡で漁船を浮上砲戦で撃沈した。7月2日に真珠湾に帰投し、8月4日に南シナ海に向けて、クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) 、バーブ (USS Barb, SS-220) とウルフパックを組み7回目の哨戒に出た。9月1日、3隻はルソン海峡でヒ73船団を発見したが、その時空母雲鷹の搭載機がタニーを発見。対潜爆弾を投下した。爆発の衝撃でタニーの船体は所々へこんだ。また、舵がゆがみ電気系統もショートが頻発した。おまけにバラストタンクも損傷を受け、その結果浮力のバランスが歪になった。変に浮力がついたタニーは、元特設水上機母艦讃岐丸の5メートル以内に船体の前部3分の1ほどを30度の角度をつけ浮上してしまった。讃岐丸乗員が一瞬「降伏か」と思う間もなく再び水没。爆雷攻撃を辛うじて交わしたタニーは作戦を打ち切って9月17日に真珠湾に帰投。そのまま2度目のオーバーホールに入った。
[編集] 第8回・第9回哨戒
タニーが再び戦線に復帰したのは1945年2月3日であった。サイパン島に進出後3月5日に九州南方海域に向けて8回目の哨戒に出た。この哨戒では艦船撃沈こそ帰還中の4月4日にトローラー1隻を撃沈しただけに留まったが、沖縄戦の準備のために西日本各地を空襲した第58任務部隊のベニントン (USS Bennington, CV-20) 搭載機とイントレピッド (USS Intrepid, CV-11) 搭載機の乗員を救出することに成功した。4月14日に真珠湾に帰投後、タニーは整備の後グアム島に向かった。日本海に大挙して潜入する「バーニー作戦」に参加するためである。タニーはボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 、スケート (USS Skate, SS-305) と Pierce's Polecats と名乗る小ウルフパックを組んだ。タニーが先任艦となった。6月5日に朝鮮海峡を通過し、作戦初日の9日に早速船団を襲撃したが、取り逃がした。6月16日、タニーは丹後半島沖合いでボーンフィッシュと会合。ボーンフィッシュから戦果報告を受けた。2日後に再びボーンフィッシュと会合し、ボーンフィッシュに富山湾潜入の許可を与えた。ボーンフィッシュはタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。6月19日には4,000トン級貨物船と出合ったが、取り逃がした。結局、バーニー作戦参加潜水艦中、雑魚すら得られなかったのはタニーだけであった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。ボーンフィッシュは6月19日に富山湾で撃沈されていた。7月6日に真珠湾に帰投し終戦を迎えたタニーは西海岸へ向かい、1945年12月13日に退役した。タニーは第19艦隊メア・アイランド・グループで保管される。
[編集] 戦後
朝鮮戦争が勃発すると、海軍はその戦力を増強する必要が生じ、予備役にあったタニーは1952年2月28日に再就役する。しかしながらタニーは実戦に参加することなく1952年4月に再び退役する。1953年3月6日に三度就役し、巡航ミサイル運用のための改修が行われる。タニーは SSG-282 (巡航ミサイル潜水艦)に艦種変更され、12年間にわたってレギュラス・ミサイルを運用した。最初の4年間、タニーはレギュラス・ミサイル開発のためポイント・ムグーを拠点として活動した。定期の訓練による短期間を除いて、タニーはミサイル発射システムの開発と評価期間の大半に参加した。1957年にはその拠点をハワイに移し、抑止哨戒およびミサイル発射実験を行った。
[編集] ベトナム戦争
1965年5月にレギュラス・ミサイルシステムは段階的に撤去され、タニーは SS-282 に再び艦種変更される。その後も年末までハワイ水域に留まり、訓練及びその他の様々な任務に従事した。1966年には APSS-282 (輸送潜水艦)に艦種変更され、1967年2月にベトナムの沖合で不正規戦任務に従事する。タニーは上陸攻撃作戦に備えた偵察を行い、航行・海洋情報を収集した。情報収集のための特殊任務に当たる小チームを運搬するのに適した構造であったタニーは、オペレーション・デッキハウス VI に参加した。任務終了後の1968年1月1日にタニーは LPSS-282 (揚陸輸送潜水艦)に艦種変更される。タニーは1969年6月28日に退役し、1969年6月30日に除籍された。タニーは1970年6月19日に標的艦としてヴォラドール (USS Volador, SS-490) の雷撃によって沈められた。
タニーは第二次世界大戦の戦功で9個の従軍星章と2個の殊勲部隊章を受章し、ベトナム戦争の戦功で5個の従軍星章を受章した。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 自昭和十八年一月一日 至昭和十八年一月三十一日 馬公警備府戦時日誌(昭和17年12月1日~昭和18年5月31日 馬公警備府戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード: C08030510200
- 自昭和十八年二月一日 至昭和十八年二月二十八日 馬公警備府戦時日誌(昭和17年12月1日~昭和18年5月31日 馬公警備府戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード: C08030510300
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 牧野茂「日米戦艦比較論 その1 序説 大和・武蔵の被雷損傷を追想して」『世界の艦船 第383号』海人社、1987年
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
- 林寛司、戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
[編集] 外部リンク
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