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感染症の歴史 - Wikipedia

感染症の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

死の舞踏(Michael Wolgemut画、1493年)14世紀の「黒死病」の流行は全ヨーロッパに死の恐怖を引き起こした
死の舞踏(Michael Wolgemut画、1493年)
14世紀の「黒死病」の流行は全ヨーロッパに死の恐怖を引き起こした

感染症の歴史(かんせんしょうのれきし)では、世界の歴史において、特に後世に社会的経済的文化的に甚大な影響を与えた感染症について略述する。

目次

[編集] 概略

詳細は感染症を参照

フレミング(1881-1955)
フレミング(1881-1955)

感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒト疾患の大きな部分を占めてきた。また、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではない。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行してきた。

細菌による感染症は1929年に初の抗生物質であるペニシリンアレクサンダー・フレミングによって発見されるまで根本的な治療法はなく、ウイルスによる感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きい。また、抗生物質の普及や公衆衛生の改善によって感染症を過去の脅威とみなす風潮もみられたが、耐性菌の拡大経済のグローバル化による新興感染症の出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じている。

こうして感染症(伝染病)は長い間、人びとのあいだで大きな災厄ととらえられてきており、今なおその脅威は人類社会に大きな影を投げかけている。災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまであったが、その背景となった疫病観、死生観信仰哲学科学の発達などを考察することにより、人類の歴史経済社会のあり方への理解を深めることができる。

[編集] ペスト

詳細はペスト東ローマ帝国百年戦争ルネサンスをそれぞれ参照

ユスティニアヌス1世(483-565)
ユスティニアヌス1世(483-565)

[編集] アテナイのペスト

ペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリスアテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出した。この疫病は、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていた時期もあったが、記録に残る症状の分析と検討により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス、あるいはそれらの同時流行と考えられており、ペスト説は否定されている。なお、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招いた。

[編集] ユスティニアヌスのペスト

記録に残る歴史的な感染症の流行のうち、現代医学で言うところのペストと同じと推定される感染症の最初の流行は、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世治下の東ローマ帝国で流行した「ペスト」である。「ユスティニアヌスの斑点」(「ユスティニアヌスのペスト」)と呼ばれて多くの死者が発生し、人口の半分を失って、帝国が一時機能不全に陥るほどであった。ユスティニアヌス自身も感染したが、軽症で済んだようである。

[編集] 14世紀の「黒死病」

ペストは、中国雲南を起源とするペスト菌による感染症で、感染したネズミからノミを介して伝染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点ができるところから「黒死病」と呼ばれた。

ヨーロッパにおけるペストの伝播
ヨーロッパにおけるペストの伝播

1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっている。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィアジェノヴァピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツ毛織物スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料絹織物宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋紅海地中海を結ぶエジプトアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配していた。

1347年10月、ペストは、中央アジアからシチリア島の港町メッシーナに上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人前後、イギリスフランスでは過半数が死亡したと推定されている。

黒死病に冒された聖職者に祝福される僧(1360-75年、イングランド)
黒死病に冒された聖職者に祝福される僧(1360-75年、イングランド)

ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされているが、ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害虐殺の対象となった。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある。

黒死病患者(1411年、Toggenburgの聖書の挿絵)
黒死病患者(1411年、Toggenburgの聖書の挿絵)

黒死病は、ヨーロッパの社会、特に農奴制領主の側からみれば荘園制)に大きな影響をおよぼした。農村人口の激減はかえって封建領主に対する農民の地位を高めることとなった。たとえば、イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世1349年にペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めている。

それ以外にも、領主は地代を軽減したり、農民保有地の売買を認めるなど、農民の待遇改善に努力するようになった。イギリス、フランス両国においては百年戦争によって封建領主が没落するいっぽう王権の伸張がはかられ、中央集権国家へと脱皮していった。聖職者を失った教会も混乱し、人手不足による賃金の急騰、ヨーロッパ全体における戦争の停止など「黒死病」の影響は多岐にわたった。

なお、ルネサンスの著名な文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョ1349年から1353年にかけて著した『デカメロン』(十日物語)[1]は、

さて神の子の降誕から、歳月が、1348年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に、恐ろしい悪疫が流行しました。ことの起こりは、数年前東方諸国に始まって無数の生霊を滅ぼしたのち、休止することなく次から次へと蔓延して、禍災(わざわい)なことには西方の国へも伝染して来たものでございました。

で書き出されており、ペストの流行についてふれている。『デカメロン』は、ペストを逃れて郊外に住んだフィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されており、人間の欲望がすなおに表され、人間解放の精神にあふれた人文主義の傑作とされている。

[編集] 17世紀のペストの流行

その後も、ペストは何度か流行しているが、17世紀は、14世紀とともに小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行して飢饉が起こり、英蘭戦争三十年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため、「危機の時代」と呼ばれた。

Der Doktor Schnabel von Rom(疫病を避けるためにガスマスクをした医師、Paul Fürst画、1656年)
Der Doktor Schnabel von Rom(疫病を避けるためにガスマスクをした医師、Paul Fürst画、1656年)

ペスト菌の存在がわからなかった時代には大流行のたびに原因が特定の人びとにおしつけられ、魔女狩りがおこなわれたり、特にユダヤ教徒をスケープゴートとして迫害する事件が続発した。清教徒革命を経て王政復古後のロンドン1665年に流行したペストでは、およそ7万人が亡くなっており、のちに、ロビンソン・クルーソーで有名なダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年)を著して当時の状況を克明に描いている。

その後、先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、中国の雲南省では1855年に大流行し、インドでは1994年に発生し、パニックが起きたほどであった。日本では、明治になって国外から侵入したのが初のペスト流行であるとされている。

北里柴三郎
北里柴三郎

2004年にイギリスで出版された『黒死病の再来』によると、14世紀流行の「黒死病」は腺ペストではなく出血熱ではなかったかとされている。

1894年明治27年)、ロベルト・コッホに師事した北里柴三郎日本政府により調査派遣された香港で腺ペストの病原菌を共同発見した。同じ年のほぼ同時に、スイスとフランスで活躍した医師でパスツール研究所の細菌学者でもあったアレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見し、ペストと結びつけて発表した。

これ以後、北里の命をかけた努力などによって抗血清によって腺ペストを治す方法は確立されたが、出血熱に関してはいまだ有効な治療法が確立されていない。

[編集] ハンセン病

詳細はハンセン病忍性聖ラザロ騎士団をそれぞれ参照

歴史上では「レプラ」、「らい病」などとよばれてきたハンセン病は、らい菌によって引き起こされる感染症である。感染力は弱く、進行も遅い病気で、皮膚末梢神経が冒される。白い斑点が皮膚上に現れるほか、患部が変形する。顔面が変形したり、が欠損するといった症状を引き起こすために、世界史上では、感染力が弱く致死性に乏しいという病気の実態以上に、人びとに恐怖感をもってとらえられてきた。

イエス・キリストがハンセン病患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』にあり、イエスの絶対愛(アガペー)のあり方を物語っている。日本では、光明皇后が医療施設である「施薬院」を設置して、毎年諸国に命じて薬草を買い取り、らい病の予防と救護に力をそそいだといわれる。

ハンセン病に冒されたRichard of Wallingford(1292–1336)
ハンセン病に冒されたRichard of Wallingford(1292–1336)

ヨーロッパでは13世紀をピークとして流行し、各地に隔離施設ができた。

西暦300年ころ、ローマ教会が患者救済のため、ラザロの寓意よりなる「ラザレット」を設け、患者の救済・保護がはじまった。民族大移動などによってヨーロッパ中に広がったためヨーロッパ各地にラザレットが設けられた。中世ヨーロッパでは、ハンセン病は「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称された。教会によって「らい院」が多くの場所に設置されたが、フランク王国カール大帝勅令などによって、強制隔離政策もしばしば行われた。また、当時のローマ教会は旧約聖書にもとづく「ツアーラハト」の措置として「死のミサ」や「仮装葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。

アッシジのフランチェスコ(1181・82-1226)生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像
アッシジのフランチェスコ(1181・82-1226)
生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像

いっぽう、1209年に組織されたフランチェスコ会アッシジに「らい村」を建設した。そこでは、1つの共同自治が目指され、聖書の精神にもとづく救済がおこなわれた。十字軍の東方遠征においては、ハンセン病に罹患した兵士を看護するためラザロ看護騎士団パレスティナで組織され、エルサレムのらい院では患者の救済がおこなわれている。なお、英邁で知られるエルサレム王国の国王ボードゥアン4世はハンセン病患者として知られる。

日本では、古代中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れたる穢れと考えられており、発症した者は非人身分に編入されるという不文律があった。これにより、都市では重病者が各地の悲田院や京都の北山十八間戸、鎌倉の極楽寺など「非人救済」に尽力した忍性らによって開かれた施設に収容された例がある。戦国武将大谷吉継はハンセン病患者であったことが知られ、面体を白い頭巾で隠して戦場に臨んだことはよく知られる。また、茶会での自らに対する石田三成の振るまいに吉継が感激し、関ヶ原の戦いでは三成に味方をする決意をしたとされるエピソードも著名である。

江戸時代には、発症すると、家族が患者を四国八十八ヶ所熊本加藤清正公祠などの霊場巡礼に旅立たせることが多かった。このため、これらの地に患者が多く物乞をして定住することになった[2]。旅費がない場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落をなして勧進などによって生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。横浜をはじめとする乞食谷戸(こじきやと)はその一例である。また、患者が漁にでるとマグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、患者には漁業に携わる者も少なくなかった。

明治維新以降、近現代になると、そうした患者の寺社周辺などへの集住状態を解消すべく療養所への隔離政策が行われ、その中で「救らい」の名目で近世までとは異なった形での患者の迫害が生じた。感染症としての感染力の弱さが明らかとなり、また治療法が確立してからも患者や既に治癒して身体の変形などの後遺症を持つのみとなった元患者への強制隔離政策は続き、非人道的な人権侵害が行われた。2002年に、小泉純一郎首相が公式に謝罪し、治療法確立後も強制隔離をつづけた国の責任を認めて元患者との和解がようやく成立した。しかし、今もなお病気に対する正確な知識の欠如から、後遺症に対する差別に苦しむ人が多い。

[編集] コロンブス交換と梅毒

詳細はコロンブス交換梅毒大航海時代世界の一体化をそれぞれ参照

コロンブス交換(Columbian Exchange)は、1492年ののち発生した東半球西半球の間の植物動物食物奴隷を含む人びとなど甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉で、1492年のクリストファー・コロンブス新世界の「発見」にちなむ。その結果、トウモロコシジャガイモ18世紀ユーラシア大陸できわめて重要な作物となり、ピーナッツキャッサバは、東南アジア西アフリカで栽培されるようになるなど、世界の生態系農業文化の歴史において重大な出来事となった。ただし、ここでは多くの感染症もまた交換されることとなった。

1498年のメディカル・イラスト梅毒の原因には占星術が関係すると考えられた
1498年のメディカル・イラスト
梅毒の原因には占星術が関係すると考えられた

すなわち、コレラインフルエンザマラリア麻疹ペスト猩紅熱睡眠病(嗜眠性脳炎)、天然痘結核腸チフス黄熱などが、ユーラシアとアフリカからアメリカ大陸へもたらされた。

免疫をもたなかった先住民はこれらの伝染病によって激減した。アメリカ大陸には、スペインポルトガルをはじめとしてヨーロッパ各地から多くの植民者がわたったが、スペイン王室は植民者に先住民支配の信託を与え、征服者や入植者に対し、その功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してカトリック改宗させることを義務づけた。これがエンコミエンダ制である。

まもなく先住民(インディオ)を使役して鉱山で金や銀を掘り出し、カリブ海域ではサトウキビの栽培が始まった。どちらも現地の人びとのためではなく、ヨーロッパ大陸における需要のための生産であった。先住民は、過酷な労働条件と感染症のために激減し、深刻な労働力不足に陥った。これを補うため、ヨーロッパ人は黒人奴隷をアフリカ大陸に求めて奴隷貿易がはじまった。ここに西ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸を結ぶ人とモノの貿易連鎖、いわゆる三角貿易が成立し、大西洋をはさむ4大陸のあいだに大西洋経済とよばれる世界システムが形成されていった。

いっぽう、アメリカ大陸より旧大陸にもたらされた感染症には、シャーガス病梅毒、イチゴ腫、黄熱(American strains)がある。

梅毒は、元来はハイチの風土病だったのではないかと考えられ、コロンブス一行が現地の女性との性交渉によりヨーロッパにもち帰ったとされる。アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったといわれている。徳川家康の次男結城秀康も梅毒に罹患している。なお、梅毒は、ヨーロッパ諸国も介入した16世紀のイタリア戦争を通じてヨーロッパ各地に広がったため「ナポリ病」と称することも多い。

[編集] 麻疹

詳細は麻疹を参照

一般にはしかといわれ、麻疹ウイルスによって感染する。高熱、咳、鼻水、全身性の発疹をともない、口中にコプリック斑と呼ばれる白い斑点ができる。日本でも古くから知られ、平安時代以降の文献にしばしば登場する「あかもがさ」は麻疹であろうと考えられている。正暦から長徳への改元のあった995年(正暦6年、長徳元年)に全国的な伝染病となって都を直撃、貴族も多数死亡して政治に混乱をきたした。

全国各地に麻疹に関する民間信仰が伝わっている。富山県高岡市では「はしか」が流行すると九紋龍の手形の紙をもらい、「九紋龍宅」と書いて門口に貼って病除けにした伝承がのこる。神奈川県横浜市大和市藤沢市に点在する鯖神社(左馬神社、佐婆神社とも)を一日で巡る「七さば巡り」をおこなうと「はしか」や百日咳の病除けになるといい、愛知県三重県ではアワビの貝殻を戸口につるして「はしか除け」をしたという。

麻疹根絶をかかげる世界保健機関(WHO)では現在、中国と日本を2つの問題国として名指ししている。21世紀に入って、日本では数年にわたり、麻疹の集団感染がみられる。

[編集] 天然痘

詳細は天然痘フレンチ・インディアン戦争エドワード・ジェンナーをそれぞれ参照

天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。痘瘡ともいい、ウイルスによる高熱、嘔吐腰痛があり、全身に発疹する。

天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプトのラムセス5世であり、また、上述の「アテナイのペスト」は、現在では天然痘であった可能性が高いといわれている。天然痘は4世紀以来、アジア各地で流行した。16世紀スペインがアメリカ大陸を侵略した際、このウイルスを持ち込み、奴隷労働とあいまって先住民人口が激減する不幸な事態となった[3]。17世紀前半には北アメリカ東部のインディアンで天然痘が流行している。また、18世紀のフレンチ・インディアン戦争では、イギリス軍により生物兵器としてインディアン殲滅を目的に使用された例がある。なお、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも11歳のとき天然痘にかかり、その痕跡がいくつもあったといわれている。

種痘法を確立したジェンナー(1749-1823)
種痘法を確立したジェンナー(1749-1823)

1721年オスマン帝国で発達したトルコの人痘接種法がヨーロッパに伝わったが、これは天然痘自体の発病の危険をともなうものであった。1798年、自らも人痘接種を受けたことのあるイギリスの医師エドワード・ジェンナーが牛痘にかかった者は人痘にもかからないという農婦の話を聞き、種痘を開発して8歳の少年に牛痘を接種した。これが世界における予防接種のさきがけであり、一種の人体実験でもあった。これ以降は種痘の普及に伴い急速に天然痘の流行は少なくなったが、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは顔にはっきりと痘痕が残っており、天然痘によるものとされている。

天然痘は、1958年世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアソマリアが流行地域として残ったが、1977年、ソマリアの青年の患者を最後に天然病患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘ウイルスは現在、アメリカとロシアのバイオセーフティーレベル4の施設で厳重に管理されている。天然痘は人類が根絶した感染症としては唯一のものである。

ジェンナーの種痘人びとは牛痘を人間に植え付けることに抵抗感をもち、普及には時間を要した
ジェンナーの種痘
人びとは牛痘を人間に植え付けることに抵抗感をもち、普及には時間を要した

日本でも、過去には定期的な大流行を起すことで知られていた。天平年間に遣唐使遣新羅使を通じて侵入したと考えられる天然痘が西日本を中心に大流行し、737年(天平9年)、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。その後も歴史上の著名人物で天然痘に苦しんだ 例は少なくない。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。また、豊臣秀頼は顔にあばたを残し、上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。孝明天皇の急死は幕末の政局に大きな影響を及ぼしたが、これも天然痘によるものであったと記録されている。天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、なお根強く暗殺説を唱える人もいる。蘭学者の緒方洪庵は幼少時に発症しており、のちに種痘の普及による天然痘対策に尽力した。1955年の患者を最後に、日本では天然痘は根絶されている。

[編集] コレラ

詳細はコレラコレラ菌をそれぞれ参照

コレラを残忍な死神として描いている("Le Petit Journal",1912.12)
コレラを残忍な死神として描いている
"Le Petit Journal",1912.12)

コレラコレラ菌による感染症で、突然の高熱、嘔吐、下痢脱水症状が起こり、その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。そののち7世紀中国17世紀ジャワでもコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まっている。

コレラの原発地はガンジス川下流のインドベンガル地方、およびバングラデシュにかけての地方と考えられる。1817年カルカッタで起こったコレラの流行はアジア全域とアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にもおよび、のちに「文政コレラ」とよばれたものである。朝鮮半島経由か琉球経由かは明らかでないが、九州地方から東方向へひろがり東海地方にまでおよんだ。このときは箱根より東には感染せず、江戸での被害はなかった。

1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年1863年から1879年1881年から1896年1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。この大流行の背景には、産業革命によって蒸気機関車蒸気船など交通手段が格段に進歩し、また、インドの植民地化をはじめ世界諸地域が経済的、政治的にたがいに深く結びつけられたことがある。

コレラ病棟(1892年、ハンブルク)
コレラ病棟(1892年、ハンブルク

日本では2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目の流行は再び日本におよび、安政五カ国条約が結ばれた1858年から3年にわたって全国を席巻する大流行となった。いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれる。1862年には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3,000人が死亡した。以後、明治に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年1886年には死者が10万人台を数えた。

なお、日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。

コッホ(1843-1910)
コッホ(1843-1910)

1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などとともに、アジア型コレラについては世界的流行は起こらなくなった。ただし、アジア南部、東部においてはコレラの流行が繰り返され、中国では1909年1919年1932年に大流行があり、インドでは1950年代までつづき、いずれも万単位の死者を出すほどであった。

一方、エルトール型コレラは1906年シナイ半島のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりをみせており、1991年にはペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生がみられる。1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行しており、1977年和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があった。なお、2007年1月初めに、コンゴ共和国の首都ブラザビルから500キロメートル離れた石油積み出し港ポアンノアーレでのコレラ発生が確認されている。

コレラの流行を防止するため、大都会の公衆衛生政策が発達し、その多くは現代に引き継がれている。

[編集] 発疹チフス

詳細は発疹チフスリケッチアをそれぞれ参照

かつらをかぶったニュートン(1689年)
かつらをかぶったニュートン(1689年)

発疹チフスとはコロモジラミが媒介するリケッチアによる感染症で、高熱、せき発疹が特徴である。人口密集地域、不衛生な地域にみられ、冬期、または寒冷地での流行が顕著である。1490年、スペイン兵がキプロス島から発疹チフスをもちこみ、ヨーロッパで流行し、1545年にはメキシコで流行した。17世紀以降、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な中・上級市民の間で頭髪を丸刈りにしてかつらをかぶる習俗が大流行した背景にはシラミ予防の意味もあったという。

1812年ナポレオンのロシア遠征の際にはフランス軍で大流行し、大勢の死者を出した。19世紀の発疹チフスの流行は、コレラとともに労働運動活発化の一因となり、各国は都市の改造や公衆衛生を徹底させるなどの都市政策をおこなった。第一次世界大戦下のロシアでは3,000万人が罹患し、その1割にあたる人びとが死亡している。また、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺のための強制収容所内でも大流行した。

[編集] 結核

古代エジプトで結核で死亡したと思われる人のミイラ(大英博物館)
古代エジプトで結核で死亡したと思われる人のミイラ(大英博物館

詳細は結核結核菌産業革命をそれぞれ参照

結核は、結核菌によって引き起こされ、全身の倦怠感食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続く、就寝中に大量のをかくなどの症状をともない、咳嗽(痰をともなうこともともなわないこともある)が疾患の進行にしたがって発症してくる。かつては「不治の病」「死の病」「難病」と呼ばれた。「白いペスト」と呼ばれることもあった。

結核は太古より存在する病気として知られ、発掘調査で出土した紀元前5000年ころの人骨に結核の痕跡が認められるものもある。また、紀元前1000年ころのエジプト第21王朝のミイラには、骨の結核である脊椎カリエスの認められる遺体がある。中国後漢末の武将で三国志の英雄曹操も死因は結核だといわれる。ポーランドの音楽家で「ピアノの詩人」といわれたショパンも結核で亡くなっている。

産業革命期イギリスの炭坑で働く少年労働者(18世紀)
産業革命期イギリスの炭坑で働く少年労働者(18世紀)

結核は、産業革命後に「世界の工場」と呼ばれて繁栄したイギリスで大流行した。最も繁栄を謳歌していたはずの1830年ころのロンドンでは5人に1人が結核で亡くなったといわれている。当時の労働者は賃金が低く抑えられていたうえに1日15時間もの長時間労働が一般的であった。また、急激な都市への人口集中によってスラムが形成され、人びとは生活排水をテムズ川などの河川に投棄し、その川の水を濾過して飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。過労と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生的な都市環境がそれに拍車をかけたものと考えられる。

日本では、明治初期まで肺結核を称して労咳(癆痎、ろうがい)と呼んだ。新選組沖田総司、幕末の志士高杉晋作はともに肺結核のために病死した。正岡子規も結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規の号を用いた。陸奥宗光樋口一葉堀辰雄梶井基次郎なども結核で亡くなっている。特に犠牲となったのは、製糸工場ではたらく女工であった。『女工哀史』にみられるように、ここでも長時間労働による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となっているが、工場内では蚕糸を保護するためスチームが焚かれたことも結核菌の増殖をおおいに助けることとなった。日本で結核による死亡者が最も多かったのは1918年であった[4]。また、第二次世界大戦前後は、徴兵され、狭い兵舎で集団生活を送る若い男性に結核が蔓延した。1935年から1950年までの15年間、日本の死亡原因の首位は結核であった。

結核については、徳富蘆花の『不如帰』、堀辰雄の『菜穂子』、トーマス・マンの『魔の山』など結核患者やそれをめぐる人間関係、サナトリウムでの生活などを題材、舞台にした小説も多い。

結核菌は1882年、細菌学者ロベルト・コッホにより発見され、第二次世界大戦後はストレプトマイシンなどの抗生物質があらわれて結核は完治する病気となって、患者はいったん激減した。しかし、近年、結核治療中の患者は日本だけで約27万人にのぼり、新たな結核患者が年間3万人も増加している。世界保健機関(WHO)の推計では世界人口60億人の3分の1にあたる20億人が結核菌に感染していると発表している[5]。これは、抗生物質の効かない耐性結核菌の発生によっている。

[編集] インフルエンザ

詳細はインフルエンザインフルエンザウイルススペインかぜ第一次世界大戦をそれぞれ参照

紀元前412年、「医学の父」と呼ばれたヒポクラテスは、すでにインフルエンザと思われる病気の大発生について記録している。

[編集] スペイン風邪

スペイン風邪の患者でごった返すアメリカ軍の野戦病院(アメリカ合衆国・カンザス州)
スペイン風邪の患者でごった返すアメリカ軍野戦病院(アメリカ合衆国・カンザス州

鳥インフルエンザの一種と考えられるスペイン風邪は、1918年アメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)となり、感染者は6億人、死者は最終的には4,000万人から5,000万人におよんだ。当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したことになる。この値は、感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである。

死者数は、第一次世界大戦の死者をはるかにうわまわり、日本では当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、アメリカでは50万人が死亡した。詩人ギヨーム・アポリネール、社会学者マックス・ヴェーバー、画家エゴン・シーレ、劇作家エドモン・ロスタン、作曲家チャールズ・ヒューバート・パリー、革命家ヤーコフ・スヴェルドロフ、音楽家チャールズ・トムリンソン・グリフスが亡くなっており、日本でも、元内務大臣末松謙澄東京駅の設計を担当した辰野金吾、劇作家の島村抱月大山巌夫人の山川捨松、皇族の竹田宮恒久王、軍人の西郷寅太郎などの著名人がスペイン風邪で亡くなっている。「黒死病」以来の歴史的疫病で、インフルエンザの免疫が弱い南方の島々では島民がほぼ全滅するケースもあった。

1918年のシアトル警察(アメリカ合衆国・ワシントン州)全員、マスクをしている
1918年のシアトル警察(アメリカ合衆国・ワシントン州
全員、マスクをしている

流行の第1波は、1918年3月に米国シカゴ付近で最初の流行があり、アメリカ軍の第一次世界大戦参戦とともに大西洋をわたって、5月から6月にかけてはヨーロッパで流行した。第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まって重症な合併症を起こし死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけてで、やはり世界的に流行した。日本ではこの第3波が一番被害が大きかった。

インフルエンザウイルスの病原性については1933年フェレットを用いた実験から証明されたが、スペイン風邪の病原体の正体は、アラスカ凍土から1997年8月に発掘された4遺体から採取された肺組織検体からやがてウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやく明らかとなった。これにより、H1N1亜型であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであった可能性が高いことが証明された。つまり、スペイン風邪は、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったことが原因と考えられる。したがって、当時の人びとにとっては全く新しい感染症(新興感染症)であり、スペイン風邪に対する免疫を持った人がきわめて稀であったことが、この大流行の原因だと考えられるようになったのである。

なお、アメリカ発であるにもかかわらず「スペイン風邪」と呼ばれたのは、第一次世界大戦中で当時、世界中で情報が検閲されていたのに対し、スペインは中立国であったため、主要な情報源がスペイン発であったためである。一説には、スペイン風邪の大流行により第一次世界大戦終結が早まったともいわれている。

[編集] アジア風邪とホンコン風邪

20世紀以降、最近100年間でインフルエンザのパンデミックは3度ある。上述のスペイン風邪、、H2N2亜型ウイルスによる1957年アジア風邪、H3N2亜型による1968年ホンコン風邪である。

アジア風邪では、世界で200万人が死亡した。日本での死者は7,700人以上である。ホンコン風邪では、世界で100万人が死亡し、日本の死者は2,200人以上である。これまでパンデミックを起こしたインフルエンザウイルスは、いずれも鳥類に由来するものであり、しかも弱毒性のものであった。今後、発生が心配されているのはH5N1亜型の強毒性のものである。世界保健機関(WHO)の李鍾郁(イ・ジョンウク)元事務局長は「もはや新型インフルエンザが起こる可能性を議論する時期ではなく、時間の問題である」と述べており、2005年、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、新型インフルエンザ対策を優先度の高い国家戦略とすると表明し、国際的な協力体制の構築を各国によびかけた。

[編集] エボラ出血熱

詳細はエボラ出血熱を参照

2000年にウガンダで流行した際の隔離病棟に収容された患者
2000年ウガンダで流行した際の隔離病棟に収容された患者

エボラ出血熱は、1976年6月のスーダンのヌザラ(Nzara)という町で倉庫番を仕事にしていた男性が急に39度の高熱と頭や腹部に痛みを感じて入院、その後消化器から激しく出血して死亡したことを最初の確認例とする新興感染症である。その後、その男性の近くにいた2人も同様に発症して、それを発端に血液や医療器具、エアロゾルを通して感染が広がった。最終的にヌザラでの被害は、感染者数284人、死亡者数151人というものだった。

この最初の男性は、ザイール(現コンゴ民主共和国)のエボラ川付近の出身で、森深く入り炭焼き小屋に長く生活したことあり、病原菌との関係が考えられるため、この病気を引き起こしたウイルスの名前を「エボラウイルス」と名づけ、病気も「エボラ出血熱」と名づけられた。その後エボラ出血熱はアフリカ大陸で10回、突発的に発生・流行し、感染したときの致死率は50ー89%と非常に高い。

[編集] エイズ

詳細は後天性免疫不全症候群ヒト免疫不全ウイルス薬害エイズ事件をそれぞれ参照

1981年にアメリカのロサンゼルスに住む同性愛男性に初めて発見され症例報告された新興感染症である。ただし、これはエイズと正式に認定できる初めての例で、疑わしい症例はすでに1950年代から報告されており、中部アフリカ各地などで「痩せ病」(slimming disease)という疾患群が報告されていた。1981年の症例報告後、わずか10年程度で感染者は世界中で100万人にまで広がった。

アメリカでエイズが広がり始めた当初、原因不明の死の病に対する恐怖感に加えて感染者に同性愛者や麻薬常習者が多かったことから、感染者に対して社会的な偏見が持たれることも多かった。現在は、病原体としてヒト免疫不全ウイルス(HIV)が同定され、異性間性行為による感染や出産時の母子感染も起こりうることが広く知られるようになった。しかし、未だこの病気に対する知識の不足から来る差別や偏見がみられる。

日本では、おもに血友病の患者に対して非加熱製剤を治療に使用したことから、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生む薬害エイズ事件をひきおこし、大きな社会問題となった。

アメリカをはじめ世界各地で患者や感染者が増加しており、現代医療の大きな課題といえる。各国でエイズ予防キャンペーンが繰り広げられている。

[編集] マラリア

詳細はマラリアを参照

マラリア原虫を媒介するハマダラカ
マラリア原虫を媒介するハマダラカ

単細胞の寄生虫であるマラリア原虫が赤血球に寄生して起こる感染症で、発熱や悪寒、頭痛、吐き気などの症状をともなう。日本ではおこりとも呼ばれた。

歴史的には、マケドニア王国アレクサンドロス大王、古代ローマ帝国の軍人ゲルマニクス平清盛堀河天皇室町時代の僧一休宗純神聖ローマ帝国の皇帝オットー2世ルネサンス期の文豪ダンテ・アリギエーリ日本陸軍諜報員であった谷豊(ハリマオ)、イタリア出身の自転車選手ファウスト・コッピなどはマラリアによって死去した人物として知られており、第二次世界大戦中に沖縄県、とくに八重山諸島で発生した集団罹患を「戦争マラリア」と呼んでいる。

の中でハマダラカの一部の種だけが病原体を媒介する。メスのハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がる。効果的なワクチンはないが、抗マラリア薬で治療できる。アフリカではエイズ、結核と並ぶ3大感染症のひとつであり、視覚や聴覚を失うなどの後遺症で悩む人も少なくない。感染者は毎年3.5億人から5億人にかけてと推測され、アフリカでは子どもの主要な死因のひとつになっている。

蚊帳
蚊帳

2008年3月にマスメディアに流れた情報によると、ケニアウガンダタンザニアにまたがるアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖は、年々水位が下がっており、係留していたと思われるボートが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたという。NASAなどの衛星観測データは、ヴィクトリア湖の水位がピークの1998年にくらべ1.5メートルも低下しており、1990年代の平均と比べても約50センチメートル低くなっていると伝える。原因としては、降雨量の減少と下流にあるダムへの過剰な流出が考えられている[6]。干上がりかけた水たまりにハマダラカのボウフラ(カの幼虫)が泳ぐなど蚊の繁殖に好適な水域が広がり、従来はマラリアが非流行地だったケニア西部の高地にも多発する傾向が顕著となっている [6]

日本もマラリア対策に協力しているが、そのひとつに蚊帳づくりがある。

[編集] SARS

詳細は重症急性呼吸器症候群SARSウイルスをそれぞれ参照

台湾のSARS治療医院(2004年)
台湾のSARS治療医院(2004年)

20世紀にはいると、次々と新しいウイルスが登場したが、SARSウイルス21世紀に見つかったウイルスであり、それによる感染症は重症急性呼吸器症候群(SARS)と呼ばれる。高熱、咳嗽、息ぎれ、呼吸困難、低酸素血症あるいは肺炎などの症状をともなう。

2002年11月16日中華人民共和国広東省で40歳代の農協職員が発症した例が最初とされたが、広州市呼吸病研究所は最初の患者は7月にさかのぼると発表している。11月の発症後、中国政府はこの疾患が広まらないよう対策を採るいっぽう、世界保健機関(WHO)にこの情報を知らせたのは2003年2月であり、自国の名誉と信用をまもるため報道を規制した。秘密にした結果、国際的な対応が遅れ、被害を拡大させてしまったため、中国政府はのちにこのことを謝罪している。

4月3日、日本政府はSARSを新感染症として取り扱うことを発表、さらに4月17日、原因が判明したため指定感染症へ切り換える方針を発表した。4月上旬、SARSが大問題としてメディアで取り扱われている頃、中国政府の公式方針は変わったが、北京の軍病院で実際の患者数より少なく発表していたのが判明したのもこの頃である。国際世論の強い圧力ののち、中国政府はWHOなどの国際公務員がこの件に関する調査をおこなうことに同意した。これにより、過度の分散、形式主義、コミュニケーションの不足など、中国医療制度の古い体質が暴かれた。4月下旬、中国政府は患者数のごまかしが医療制度上の問題であることを認め、蒋彦永博士は中国政府のもみ消しを暴露した。こののち、北京市長や保険局長を含む多くの人が解任され、ようやくSARS調査と予防に向けた効率的で透明なシステムがつくられるようになった。

なお、WHOは2003年、異例の「地球規模的警告」を発した。

[編集] パンデミックの要因

農業のために焼き払われたメキシコ南部のジャングル
農業のために焼き払われたメキシコ南部のジャングル

交通手段の発達は、地球上の特定地域で発生した未知のウイルスをいっきに世界中に広める要因となっている。

古くは14世紀のペスト、20世紀のスペイン風邪などがそうであったが、2003年に起こった新型肺炎SARSの場合は、未知のウイルスがわずか数日のうちに香港からシンガポールベトナムカナダなどへと拡散した典型的な例である。また、エボラ出血熱も拡散する寸前であった。赤道周辺の熱帯雨林をすみかにし、それ以外の地域に出現することのなかったエボラウイルスが、感染者によって商業用の旅客機南アフリカ共和国に運ばれた。致死率の高いことで知られるこのウイルスは、ヨハネスブルク国際空港から世界中に拡散する可能性さえあったのである。そしてまた、このことは世界経済グローバル化という動きと深い連関をもっていることは言うまでもない。

人類による、オゾン層の破壊や産業廃棄物の不法投棄、地球温暖化、熱帯雨林の減少などの環境破壊もまた、パンデミックを誘引する大きな要因となっている。

オゾンホール
オゾンホール

オゾン層の破壊によってオゾンホールが生じ、紫外線がかつてないほど地球にふりそそいで人間や動物の皮膚細胞を破壊、免疫力を弱めるため、病原体が侵入しやすく、感染が起こりやすくなっている。産業廃棄物やゴミの不法投棄もヒトの免疫力を低下させる。また、生物の摂取する有毒物質の濃度は食物連鎖の段階を経るほど高くなり、これを生物濃縮と呼んでいるが、あらゆる生物を食糧とし、特に食物連鎖の頂点にいて最終消費者となる人間がこの点ではもっとも危険な地位にあるといえる。地球温暖化は、これまで特定地域に限定されていた病原体を他地域でも生息できる環境をつくりだしている。さらに森林破壊は、小動物の住みかを奪い、それまで小動物に感染していたウイルスが都市に住むヒトや家畜に感染せざるをえなくなる状況をつくるいっぽう、地球温暖化や砂漠化の原因ともなっている。高地でのマラリアの多発は、巨大湖が縮み、蚊の繁殖地が拡大していることに原因があるが、もとよりこれは地球温暖化と密接な関係をもっている。

このように、地球環境問題は、人類の「持続可能な開発」を困難にするばかりではなく、人びとの生命をパンデミックによって直接奪うことにつながる重大な問題なのである。

[編集] 脚注

  1. ^ 野上素一訳、『西洋史料集成』より
  2. ^ 山本成之助『川柳医療風俗史』(1972)参照
  3. ^ W.H.マクニールは、エルナン・コルテスが600人弱の部下で数百万の民を擁するアステカ王国を軍事的に征服したのみならず、文化的、精神的にも征服しえたのは、コルテス一行が持ち込んだ天然痘ウィルスによってアステカ王国の首都で天然痘が猛威をふるっていたためだとしている。マクニール『疫病と世界史』(1985)
  4. ^ 人口10万人あたり257人。1991年には人口10万人あたり2.7人まで低下した。
  5. ^ 生田哲『感染症と免疫のしくみ』(2007)
  6. ^ a b 「アフリカ 縮む巨大湖、蚊の巣窟に マラリアが高地にも」 朝日新聞 asahi.com 2008年3月9日

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク



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