オーストリア=ハンガリー帝国
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- オーストリア=ハンガリー帝国
- Österreichisch-Ungarische Monarchie (ドイツ語)
Osztrák–Magyar Monarchia (マジャル語) -
← 1867年 - 1918年 ↓ 国旗 国章(1915年) - 国歌 : 神よ、皇帝フランツを守り給え
帝国の領域(1913年)-
公用語 ドイツ語(オーストリア帝国内)、マジャル語・ラテン語(ハンガリー王国内) 首都 ウィーン(連邦、ならびに、オーストリア帝国の首都)、ブタペスト(ハンガリー王国の首都) 通貨 オーストリア=ハンガリーガルデン
オーストリア=ハンガリークローネ(1892年より) -
先代 次代 オーストリア帝国 オーストリア第一共和国
ハンガリー・ソビエト共和国
チェコスロバキア共和国
ポーランド共和国
ウクライナ国民共和国
西ウクライナ国民共和国
コマンチャ共和国
セルブ・クロアート・スロヴェーン国
セルビア王国
バナート共和国 -
正式名称
日本語:帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦
ドイツ語:Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
マジャル語:A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országa
オーストリア=ハンガリー帝国(—ていこく、ドイツ語:Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、マジャル語:Osztrák-Magyar Monarchia)は、ハプスブルク家の君主が統治した多民族の(国家連合に近い)連邦国家。1867年に、それまで同君連合であったオーストリア帝国とハンガリー王国が連邦を形成することで成立し、1918年に解体するまで存続した。オーストリア=ハンガリー二重帝国、オーストリア=ハンガリー君主国、オーストリア=ハンガリー二重君主国、ハプスブルク帝国、ドナウ帝国などともいう。
前身はオーストリア帝国(Kaisertum Österreich)とハンガリー王国(Magyar Királyság)である。領土には、オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレジエン・ガリチア・ロドメリア・スロヴァキア・ルテニア・トランシルヴァニア・バナート・クロアティア・クライン・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・イストリア・ダルマティアなど、多くの地域を抱える大国であった。
正式名称はドイツ語で Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone、マジャル語で A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai で、日本語に訳すと「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」となる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] オーストリア帝国の衰勢
1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナンド1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅してその面目を失うなど、確実に国際的地位を低下させた。
[編集] 二重帝国の成立
この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。
だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。
[編集] 自治獲得の動き
しかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達した。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めたのだった。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。
その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。工業を握るボヘミア(チェコ)人の発言力が増し、資本家が多いユダヤ人もまた発言力を増した。地位を保持しようとするドイツ人と、権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリーでも、マジャル化に反して民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、ドイツとロシアという大国に挟まれたこの地域で、小国が生き残れないことを自覚していたためである。「独立」ではなくオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。
[編集] 王家の不幸
民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。まず1863年、ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・ファレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされため、マクシミリアン皇帝はそのまま取り残され、1867年に銃殺刑に処された。1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクで謎の情死事件により落命した(暗殺の疑惑も残る)。皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。皇帝は激しく落胆し、以後それまで以上に政務に没頭するようになる。そして1914年のサラエボ事件で、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。
[編集] サラエボ事件
1908年、トルコで青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。
1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエボを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、セルビア民族主義組織「黒手組」の一員プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエボ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀はあまりにも貧相に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。
[編集] 第一次世界大戦の勃発
オーストリア側は、7月24日期限付きの最後通牒をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、三国同盟関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。三国協商関係にあったイギリス・フランスも相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。
開戦当初、どこの国も3ヶ月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。1916年には、68年間帝国に君臨してきた国父フランツ・ヨーゼフ1世が崩御し、国内に動揺が走った。さらに1917年にはアメリカが協商側で参戦し、連合国(協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「民主主義と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアでボリシェビキ革命が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝カール1世は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。
[編集] ハプスブルク帝国崩壊
そのような中、マニフェストどおりロシアのボリシェビキ政府(レーニン政府)はドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。
そんな中、シベリアでチェコスロヴァキア軍団の活躍があった。その救出目的にシベリア干渉の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者トマーシュ・マサリクは、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクのチェコスロヴァキア国民会議を臨時政府として承認していた。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。
皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に退位して国外へ亡命した。ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。
[編集] 評価
19世紀後半から20世紀前半の世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」と断罪するものであり、民族自決理念による各民族の自立は、連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料として申し分なかった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たした連合国は天狗になった。
戦後処理は極めてずさんであり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたことで、東欧は戦雲が晴れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソヴィエト連邦やチェコスロヴァキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも戦争責任を問われて領土が縮小されたため、不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前より悪化した。オーストリアでは、基幹産業が無くなり深刻な不況に陥った。
ドイツでヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソ連の衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、更なる混乱が生まれたのである。
帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応1つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した1つの大国であった。昔からビザンツ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立は、緩やかな統合による他ない。その点だけでも帝国の存在意義はあった。
帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、それなりの地位を得ることはできた。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国のその場しのぎの餌食となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感を、諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。
逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となった、オーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊のみならず大ドイツ主義に基づくドイツとの合併までも禁止された事は、自己のアイデンティティの喪失を意味したものとなった。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついにはナチス・ドイツによる併合(「アンシュルス」)へと至らしめた。のちの悲惨さを思えば、民主的連邦制へ移行できなかったのが、激しく悔やまれたのだった。
[編集] 文化
詳細は世紀末ウィーンを参照
帝国の末期は、文化の終焉期ではなかった。立派な帝立の劇場や美術・音楽等の学校を有し、文化が振興されていた。その上、文化人だけでなく有能な学者も輩出しており、国勢の衰退傾向を思わせない文化・学問の花を咲かせていた。ことに音楽・美術の点では、当時のヨーロッパの中心的存在であった。若きヒトラー(画家志望だった)がウィーンの帝立美術学校に入学しようとやって来たのもこの時期である。
[編集] 作曲家
- グスタフ・マーラー
- アントン・ブルックナー
- ヨハネス・ブラームス - 生まれはドイツのハンブルクだが、活動の拠点はウィーン
- ヨハン・シュトラウス1世
- ヨハン・シュトラウス2世
- フーゴー・ヴォルフ
- エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト
- アルノルト・シェーンベルク
- フランツ・レハール
[編集] 学者
[編集] 画家
[編集] 略年表
- 1848年 - オーストリア・サルデーニャ戦争。ウィーン十月反動革命起こる。12月、フランツ・ヨーゼフ1世即位。
- 1849年 - 3月、オーストリア憲法成る。
- 1851年 - 12月、憲法を一時廃し、皇帝専制を布く。
- 1854年 - プロイセン王国と対ロシア帝国同盟。
- 1859年
- 1861年 - ライナー大公内閣成立。憲法発布。二院制国会創設。農奴開放令。
- 1866年 - 6月〜7月、普墺(プロイセン・オーストリア)戦争。
- 1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)。オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。
- 1873年 - 6月、三帝同盟成立。
- 1878年
- 1879年 - ドイツ帝国と同盟。
- 1882年 - 2月、三国同盟成立。
- 1888年 - ドイツとロシア再保障条約。オーストリア、三帝同盟の更新を受けず。
- 1907年 - 男子普通選挙法成立。
- 1908年 - ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言。ドイツ帝国はこれを支持し、ロシアを牽制。
- 1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビアの力を抑制すべくアルバニアの建国を支援。
- 1914年
- 6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエボで暗殺される。
- 7月5日 - セルビアに対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する。
- 7月23日 - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付。
- 7月25日 - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
- 7月26日 - イギリス外相エドワード・グレイが危機解決のための会議を提案するも、ドイツ・オーストリアはこれを拒否。
- 7月28日 - セルビアに宣戦布告。
- 7月29日 - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
- 7月31日 - ドイツがロシアに兵力動員の最後通牒、ロシア解答せず。
- 8月1日 - ドイツがロシアに宣戦布告。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツのルクセンブルク侵攻に対して兵力動員。
- 8月3日 - ドイツがフランスに宣戦布告。
- 8月4日 - ドイツがベルギーに侵攻、イギリスがドイツに宣戦布告。
- 1915年
- 1916年
- 11月21日 - フランツ・ヨーゼフ1世崩御、カール1世即位。
- 12月 - ルーマニアを降伏させる。
- 1917年
- 1918年
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 塚本哲也『エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋、1992年、ISBN 4163463305
- 大津留厚『ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して』中央公論社、1995年、ISBN 4121012232
- 百瀬宏ほか『東欧』自由國民社、2001年、ISBN 4426131014
- 中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社、2001年、ISBN 4101498229