ブレスト=リトフスク条約
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ブレスト=リトフスク条約(ブレスト=リトフスクじょうやく;ブレスト条約、まれにブレスト=リトウスク条約とも;ドイツ語:Friedensvertrag von Brest-Litowsk;トルコ語:Brest Litovsk Barış Antlaşması;ブルガリア語:Брест-Литовски договор;ウクライナ語:Брестський мир;ロシア語:Брестский мир)は、第一次世界大戦の終結を巡り、ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシのブレスト)で締結された講和条約である。条約は1つであるが、立場の異なる2者によって協議が行われたため実質的に以下の2つの条約が存在している。
- 1918年2月9日(ユリウス暦1月27日)に結ばれた条約 - 中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)とウクライナ国民共和国とが講和を結び、反ボリシェヴィキ共同戦線を張ることを合意した。なお、ウクライナではベレスチャ条約(Берестейський мир)とも呼ばれる。
- 1918年3月3日に結ばれた条約 - 中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)とロシア共和国およびウクライナ人民共和国のボリシェヴィキ政府(ソ連の前身)とが講和を結んだ。この条約により、ロシアが第一次世界大戦から離脱することとなった。
通常、ブレスト=リトフスク条約といって想定されるのは後者である。これは政治的な事情によるものである。
なお、ウクライナやロシアではそれぞれこの時期にそれまでのユリウス暦からグレゴリオ暦への転換を行っており、表示される年月日に混乱が生じがちであるので注意されたい。以下では原則として現代のグレゴリオ暦で表示することとする。
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[編集] 概要
[編集] 背景
ロシア帝国では1917年3月(ユリウス暦2月)の二月革命でロマノフ朝の政府が倒され、政治・経済が大混乱に陥り戦争の継続が困難となっていた。こうした中でヴラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキ党は即時休戦を訴え、国民からの支持を拡大していった。特に、ドイツ・オーストリアの軍隊と対峙していた前線部隊は、挙ってボリシェヴィキ支持を表明した。
11月7日、ボリシェヴィキ政府は十月革命によって政権を奪取した。旧ロシア帝国領であったウクライナのキエフでは、11月10日にボリシェヴィキ派と臨時政府派が軍事衝突を起こした。当時ウクライナで最大の勢力を持っていたウクライナ中央ラーダ政府はこの機会に2番手であった臨時政府の駆逐を狙い、ボリシェヴィキに加担して臨時政府派をウクライナから一掃した。この後、中央ラーダはボリシェヴィキの暴力的な革命を批判し、両政府は険悪な対立状態に入った。中央ラーダは11月20日にウクライナ国民共和国の成立を宣言し、これが事実上のウクライナの独立宣言となった。
ボリシェヴィキ政府は中央ラーダの乗っ取りを図ったが失敗、いよいよ武力による介入を図ることになった。しかし、12月11日にキエフで決行されたボリシェヴィキ派工作員による最初の武装蜂起は失敗に終わり、前線からキエフへ向かった増援部隊も途中でウクライナ軍によって武装解除され、ボリシェヴィキはロシアまで追放された。12月15日に急遽中央同盟国側と休戦したボリシェヴィキ政府は、12月17日、中央ラーダ政府に対し最後通牒を突きつけた。ウクライナにとって到底呑むことのできない条件を並べた通告により、即刻、ウクライナ・ソヴィエト戦争が開戦された。
[編集] 和平交渉
旧ロシア帝国領内における混乱から、ドイツなど強国がウクライナ問題へ干渉することは不可避であると予想された。ロシアの生命線であったウクライナの喪失を阻止するため、ボリシェヴィキは早急なる講和条約の締結に迫られた。ロシアと中央同盟国との和平交渉は12月22日、ボリシェヴィキ政府と同盟国側との休戦の1週間後にブレスト=リトフスクにおいて始められた。レフ・トロツキー外相を代表とする交渉団は、まず初めにベラルーシとポーランドの国境の画定を議題とした。中央同盟国側の代表は、ドイツのマックス・ホフマンであった。これに、エーリヒ・ルーデンドルフやトルコのリヒャルト・フォン・キュールマン、オーストリア・ハンガリーのオットカル・チェルニンらが加わっていた。しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を要求し、交渉はすぐに頓挫した。
12月25日にはハリコフにてボリシェヴィキ派のウクライナ人民共和国の成立が宣言され、ウクライナにおけるボリシェヴィキの新たな拠点となった。同日、ロシアの赤軍はウクライナ領内への侵攻を開始、1月初旬までの間に東ウクライナの大半の地域を占領した。ウクライナ側の守りは、ボリシェヴィキのプロパガンダ工作とスパイによる武装蜂起などによって脆くも崩れ去った。
一方、中央ラーダはウセーヴォロド・ホルボーヴィチを長とする代表団をブレストへ送った。交渉団は、ムィコーラ・レヴィーツィクィイ、ムィコーラ・リュブィーンシクィイ、ムィハーイロ・ポーロズ、オレクサーンドル・セヴリュークら政府の重役によってなっていた。1月1日にブレストへ到着した交渉団は、ロシアとは別に中央同盟国側との交渉を開始した。
[編集] ウクライナの講和
トロツキーらは、ウクライナと中央同盟国との交渉の妨害を図った。しかし、ドイツ軍の武力を必要とするウクライナとウクライナの穀物を必要とする中央同盟国の利害はまったく一致しており、ロシアの介入する余地はなかった。1918年2月9日、中央ラーダの代表団は中央同盟国との講和条約となる「ブレスト=リトフスク条約」を結び、独墺軍が中央ラーダ軍とともに反ボリシェヴィキ戦線を張ることで一致を見た。これは第一次世界大戦で結ばれた最初の講和条約となり、またウクライナにとっては初めて自国の独立が国際的に認められたことになった。ウクライナは、中央同盟国の軍事協力の見返りに、100万 tの穀物の提供を約束した。
これを受け、2月10日にはロシア側代表団のトロツキーは交渉の一方的な打ち切りを宣言した。このとき、ボリシェヴィキ政権は、ロシア革命に賛同するヨーロッパの労働者たちが決起することを期待していた。また、この時点でボリシェヴィキはキエフを含む中部ウクライナと東ウクライナの大半を手中に収めており、まったく油断していたといえる。ウクライナと中央同盟国との講和に驚いたレーニンは慌ててウクライナへの懐柔策を採ったが、時すでに遅かった。
中央同盟国側は、ウクライナとの講和とロシアとの交渉決裂とに応じて2月18日にロシアとの休戦を破棄し、ウクライナ軍と合同して赤軍占領地へ攻め上った。合同軍は続く2週間のあいだにウクライナを奪還、さらにバルト海沿岸も占領した。ドイツ艦隊はフィンランド湾を目指し、ペトログラートに迫りつつあった。戦術が稚拙で装備にも劣る赤軍は、独墺軍の敵ではなかった。ドイツやオーストリア・ハンガリーの労働者たちへの期待も潰え、ボリシェヴィキ政権はさらに悪い条件での合意を余儀なくされた。
[編集] ロシアの講和
1918年3月3日、ロシアと中央同盟国との講和条約となるブレスト=リトフスク条約は、ボリシェヴィキ政府と、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国との間で調印された。
条約によってロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄した。トルコとの国境地域を除くそれらの地域の大部分は、事実上ドイツ帝国に割譲された。ドイツ軍の影響下に入った地域では、次々と独立国家が誕生した。また、6月12日、ロシアはウクライナに対し休戦協定を結ばざるを得なくなった。なお、ウクライナでは4月29日に中央ラーダ政府はドイツ軍のクーデターによって倒され、かわってパーヴェル・スコロパーツキイを首班とするウクライナ国が成立した。
加えて、ブレスト=リトフスク条約の調印の後、8月27日にベルリンで調印された追加条約によって、ロシアに多額の賠償金の支払いが課せられた。
[編集] その後
その後、1918年11月13日には、中央同盟側の降伏と第一次世界大戦の終結を受けて、ボリシェヴィキ政府が条約を破棄したことで、結局、ブレスト=リトフスク条約は8ヶ月しか効力を持たなかった。1919年に調印されたヴェルサイユ条約でドイツはブレスト=リトフスク条約の失効を受け入れ、1922年のラパッロ条約では、ソ連・ドイツ双方が、協議されたすべての地域に対する権利と賠償を相互に放棄することが合意された。
ブレスト=リトフスク条約により旧ロシア帝国領が大きく割譲されたため、条約を受け入れたボリシェヴィキ政府には、左右の立場を問わず国内のあらゆる層から非難が向けられボリシェヴィキも分裂の危機にさらされた。この争いに乗じて協商国側が干渉し、2年におよぶ白軍(白衛軍)との内乱が続いた(ロシア内戦)。また、ポーランドの干渉によりポーランド・ソヴィエト戦争も行われた。1920年には西ウクライナを除くウクライナの大部分は赤軍の働きとスパイの工作活動によってボリシェヴィキ側に奪回されたが、バルト海沿岸部やポーランドに帰属された広い領域は、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの領土となり、第二次世界大戦までソ連の手を離れることになった。
その後ソ連が政治的な主導権を完全なものとすると、ウクライナ中央ラーダと中央同盟国間で結ばれた最初のブレスト=リトフスク条約は歴史から消されることとなった。そのため、現代に至るまでブレスト=リトフスク条約といってまず想定されるのはボリシェヴィキと中央同盟国間の条約となっている。
このようになった理由としてはまず、前者の当事者であった中央同盟国政権とウクライナ政権がいずれも存在しなくなったことが挙げられる。従って、この条約を主張する有力な政治的主体がなくなった。第二に、各国がこの時期にウクライナが民族自決の理念をもとに独立していたという事実を黙殺してしまいたかった事情が挙げられる。ウクライナを併合したソ連政府は無論のこと、ソ連との関係を重視する西欧各国の思惑や、内戦に乗じてウクライナの一部を自国領に編入した中・東欧各国の都合が関係し、理想として掲げていた民族自決権の侵害を各国の都合により是認したことは好ましくない事実であったからである。こうした事情から、各国ではウクライナの独立を国際的に認定した中央同盟国・ウクライナ間の条約を黙殺することにより、歴史の正当化を図ったのである。
学術的にも前者の条約の黙殺が行われた。ソ連の歴史学ではウクライナと中央同盟国間で結ばれた軍事的協定についてのみ歪曲して強調し、ウクライナが帝国主義ドイツによって不当に占領されたという物語を作り出した。これにより、ボリシェヴィキがウクライナを帝国主義者の手から解放したという、休戦協定を破った1918年末の赤軍のウクライナ侵攻が歴史的に正当化された。この試みは成功を収めた。帝国主義からの解放というわかりやすい歴史観は広く欧米各国にも受け入れられ、主流派の歴史観として定着していった。
こうした政治的問題により、ウクライナ・中央同盟国間の条約についてはウクライナ史の文脈でしか登場することがなくなった。それとて、各国の親ソ連・保守的な旧主流派の史学観からは今以て完全に無視されている。