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ヨハネス・ブラームス - Wikipedia

ヨハネス・ブラームス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヨハネス・ブラームス
基本情報
出生名 Johannes Brahms
出生日 1833年5月7日
出身地 ドイツ ハンブルク
死没日・地 1897年4月3日
オーストリア ウィーン
ジャンル ロマン派音楽
職業 作曲家ピアニスト指揮者
担当楽器 ピアノ
活動期間 1843 - 1897
  
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ヨハネス・ブラームスJohannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツ作曲家ピアニスト指揮者大バッハベートーヴェンと並びドイツ音楽に於ける「三大B」と称される一人である。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。作風は概ねロマン派音楽の範疇にあるが、古典主義的色彩も濃い。

多くの人は、ブラームスをベートーヴェンの後継者であると信じており、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評し、その通称は未だに広く使われている。

目次

[編集] 生涯

ブラームスは、ハンブルクで生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者であった。ピアノの早熟な才能を現し、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。レストラン居酒屋でピアノを演奏することによって家計を補った。

ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であった。演奏活動は行っていたが後に作曲専業になることを決意してほとんど演奏活動からは手を引く。しかしながら、1859年1881年には、ピアノ協奏曲第1番ピアノ協奏曲第2番の初演を自ら行っている。この2曲のピアノ・パートは共に難度が高く、これを自分で弾きこなしたブラームスのピアノ演奏技術は高いものであったのではないかと思われる[要出典]

その後、演奏よりも創作活動に興味を持つようになって作曲を始めたが、1851年になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことがブラームスの創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒムフランツ・リストロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった。シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララを知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。1855年ごろのクララへの手紙の中でブラームスが彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。アガーテ・フォン・ジーボルトという娘(いわゆる『シーボルト事件』で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従兄弟の子に当たる)と婚約しながら、「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしたこともある。

1862年からウィーンに永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲を書き上げるための自信になったと考えられる(もっとも、伝記によれば「私は交響曲を全く作曲しないだろう」と示唆していた)。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年に完成した。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年には第2番が、1883年第3番が、そして1885年に最後の第4番が、それぞれ発表された。

ブラームスはしばしば春のイタリアを訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲した。1889年12月2日、ブラームスはトーマス・エジソンの代理人の依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音した。[1]このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている[2]。翌1890年、57才になり意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。

しかし彼は自身の決心を守ることができなかった。クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻し、クラリネット三重奏曲(作品番号112)、クラリネット五重奏曲(作品番号115、1891年)、2つのクラリネット・ソナタ (ヴィオラ・ソナタ)(作品番号120、1894年)を書き上げた。そして、『8つの小品』(作品番号76、1871年)から『4つの小品』(作品番号119、1892年)までの5つのピアノ小品集、『4つの厳粛な歌』(作品番号121、1896年)などの傑作を生み出した。これらの作品は、晩年の寂寥と宗教的境地に満ちていると評価されている。また、1890年ごろにはの演奏も聞いており、当時出版された日本の民謡集の楽譜に書き込みが残されている[3]

ブラームスは1897年4月3日肝臓癌によりウィーンで逝去し、中央墓地に埋葬された。ハンブルクの生家は長く残っていたが、1943年7月のハンブルク大空襲で焼失し、現在は記念碑がある。

[編集] ブラームスに対する影響

大部分のロマン派の作曲家と同様に、ブラームスはベートーヴェンを崇拝していた。彼の作品には交響曲第9番と『ハンマークラヴィア・ソナタ』を含むベートーヴェン作品の明白な模倣も含まれる(前者は交響曲第1番、後者はピアノソナタ第1番において認められる)。

また古典派の作曲家モーツァルトハイドンを敬愛していた。彼らの作品の第一版と自筆稿を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。古典派への愛情はジャンルの選択においても現れている。彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。

しかし、シェーンベルクのようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる[4]。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏」(英語:developping variation)と呼び、自らの作品において展開することになる。

さらにブラームスはそれ以前のバロック音楽にも多大な関心を払っていた。とりわけ大バッハに心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。その成果として最も有名なものが第4交響曲の終楽章に置かれた「パッサカリア」である。そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。また、バッハ研究家フィリップ・シュピッタとも親交が深かった。

ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番』などにその語法を取り込んでいる。

ブラームスは、彼の生きた時代にほぼ現在の形態に到達したベーゼンドルファースタインウェイに代表されるピアノの、技術的な発達の影響を非常に大きく受けている。彼のピアノ音楽と歌曲の多くは、豊かで力強い音を得るためにピアノの重低音とペダルを使用する。

[編集] ブラームスの性格

ヨハン・シュトラウスⅡ世と共に
ヨハン・シュトラウスⅡ世と共に

ブラームスはベートーヴェンのような個性を備えていた。自然が好きで、しばしばヴィーンのまわりに散歩に行った。子供たちにしばしばペニー・キャンディをあげた。大人に対してはしばしば無愛想で皮肉屋だった。自分の気持ちを率直に伝えることが苦手で、自分の作品についても語ることを嫌がったという。ピアニストとしても優れていたため、友人のサロンなどでしばしば演奏を求められたが、求めに応じることは少なく、応じたときでも、いかにも弾き飛ばして早く終わらせようとしている様子を見せることが多かった。

こうした気性から、時々他の人々を疎遠にもし、その性向は年齢とともに嵩じたようだ。彼と友人関係を保った人たちには、前述のクララ・シューマンとヨアヒム、外科医のテオドール・ビルロート、ピアノの弟子でもあったエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクらがいたが、ヨアヒムやビルロートのような親友とも晩年に諍いを起こしている。
同時代の作曲家ではヨハン・シュトラウス2世と親交があり、シュトラウスはブラームスとその作品のよき理解者であった。実際、ある婦人に送った扇には、シュトラウスの代表作『美しく青きドナウ』の一節が書かれ、さらに「遺憾ながらこの曲はヨハネス・ブラームスの作にあらず」と書き込まれている。

一方、唯一の作曲の弟子であったグスタフ・イェナーによると、音楽的に間違った音は一音たりとも弾かせず、曲の出来が悪いと「君に必要なのは才能だ」などと容赦なく罵倒した。しかしその後で「これくらいのことで挫けていては、君の全てが台無しになってしまう」と励ます優しさもあったという。

1860年代以降、作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、単純な3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。朝はプラーター公園を散歩し、昼には「赤いはりねずみ」というレストランに出かけるのが彼の習慣だった(なお日本ブラームス協会の会誌の名前はこのことから「赤いはりねずみ」と名付けられている)。ブラームスは親戚たちへ金品を惜しみなく渡し、そのうえ匿名で多くの若い音楽家を支援した。また、アントニン・ドヴォルザークの才能を見出し、支援したのもブラームスである。

ブラームスはリヒャルト・ワーグナーとは性が会わなかった[5]。そのワーグナーの影響を受けたアントン・ブルックナーともしばしば衝突した。もっとも、ブラームスはオルガニストとしてのブルックナーは高く評価していたが、ブラームスの支持者である評論家のエドゥアルト・ハンスリックとブルックナー支持者との間に論争が起こったので、勢い作曲家としては認めることはできなかった。それでも、同じウィーンに住む者同士の反目は良くないと間に立つ人がいて、両者はブラームス行き付けの「赤いはりねずみ」で会食した。このとき、2人とも肉団子が好物だった事がわかり、打ち解けた雰囲気となった。そのときのブルックナーの言葉は「ブラームス博士!この店の肉団子こそ我々の共通点ですな!」。1896年のブルックナーの葬儀にはブラームスは会場の扉にたたずんでいた。中に入るように促されたが「次はわしが棺桶に入るよ」と寂しそうにつぶやいたと言う。

ブラームスは極端な完全主義者であり、その事はおそらく最初の交響曲の完成の遅れに結びついた。彼の基準や品質に満たない作品は、何度か完全に破棄されているため、現在、彼の「第1番」として知られている交響曲は、彼が最初に作曲した交響曲ではない可能性もある。

また、ブラームスはドイツ愛国主義者でもあり、普仏戦争の勝利を祝った『運命の女神の歌』や、『ドイツ軍勝利の歌』などの作品を残している。彼の部屋にはベートーヴェンの像と、ドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルクの像が飾られていた。

[編集] 作品

ブラームスの主要作品には、4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲、合唱と管弦楽のための『ドイツ・レクイエム』などがある。これらの作品は世界各地のオーケストラで、現在でも主要な演奏レパートリーとして取り上げられている。

また変奏曲の大家でもあり、管弦楽曲『ハイドンの主題による変奏曲』、ピアノ独奏曲『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』、『パガニーニの主題による変奏曲』などがある。小品も数多く作曲しており、多くの室内楽作品と、独奏のためのピアノ作品がある。

さらには、最大の声楽の作曲家の一人であるという意見もあり、実際に200の歌曲合唱曲を書いている。

しかし、ブラームスは歌劇を書くことはなく、19世紀の音楽を特徴付ける交響詩にすら手を染めることはなかった。

作品一覧はブラームスの楽曲一覧を参照のこと。

[編集] 代表曲

[編集] 交響曲

[編集] 管弦楽曲

[編集] 協奏曲

[編集] 室内楽曲

ブラームスは室内楽曲にも傑作が多い。

  • ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」 ト長調 op.78 - 自作の歌曲「雨の歌」を転用。
  • ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調 op.100
  • ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 op.108
  • ピアノとヴァイオリンの為のスケルツォ(F.A.E.ソナタの3楽章) ハ短調 WoO 2

[編集] ピアノ独奏曲

[編集] ピアノ連弾曲

[編集] 声楽曲

ブラームスは一時デトモルトで女声合唱団の指揮者をしていたことなどもあって、合唱曲歌曲を数多く作曲している。

  • ドイツ・レクイエム』 op.45 - 一般的なレクイエムの祈祷文ではなく、ルターによる旧約及び新約聖書のドイツ語訳から編集された。
  • ゆりかごの歌(ブラームスの子守唄) op.49-4
  • カンタータ『リナルド』 op.50
  • アルト・ラプソディ op.53
  • 勝利の歌(Triumphlied) op.55
  • 運命の歌(Schicksalslied) op.54
  • 運命の女神の歌(Gesang der Parzen) op.89
  • 悲歌(Nänie) op.82
  • 葬送歌(Begräbnisgesang) op.13
  • 2つのモテット op.29
  • 2つのモテット op.74
  • ジプシーの歌(Zigeunerlieder) op.103
  • 3つのモテット op.110
  • 聖歌 op.30

[編集] 歌曲

  • 永遠の愛(Von ewiger Liebe) op.43-1
  • 五月の夜(Die Mainacht) op.43-2
  • 子守歌(Wiegenlied)
  • まどろみはいよいよ浅く(Immer leiser wird mein Schlummer)
  • 甲斐なきセレナーデ
  • 野の寂寥(Feldeinsamkeit)
  • 歌曲集「ティークのマゲローネによるロマンス」

[編集]

  1. ^ ハンガリー舞曲は当初録音を恥ずかしがったブラームスがさっさと演奏を始めてしまい、立会人があわてて「1889年12月、(リヒャルト・)フェリンガー博士邸、ただいまの演奏はブラームス博士!ヨハネス・ブラームスのものだ」と叫んでいるのが冒頭にかぶっている。テンポは相当速い。
  2. ^ 1997年8月31日TBS系列で放送された『過ぎし日のブラームス~没後100年に聴く幻のピアノ録音~』(北海道放送製作)でこの説が唱えられている。この番組では、北海道大学伊福部達らにより蝋管のレーザー光線による再生が試みられたが、蝋管自体の損傷が酷く、貧弱な音しか得られなかった。
  3. ^ 研究者の間では、当時オーストリアの全権公使だった戸田氏共夫人極子(1859年-1936年)がウィーン公使館において琴を演奏したのをブラームスが聴いたのではないかと言われている(残念なことに関東大震災により戸田邸が全焼したため、上記の楽譜以外に確証といえるものが残っていない)。この出来事を題材として、日本画家・守屋多々志は「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」(平成4年第77回院展出品、大垣市守屋多々志美術館所蔵)を描いた。また、上記の『過ぎし日のブラームス~没後100年に聴く幻のピアノ録音~』でもこの話が取り上げられた。
  4. ^ アーノルト・シェーンベルク「革新主義者ブラームス(Brahms the Progressive)」。『音楽の様式と思想 Style and Idea』(上田昭訳。三一書房)収録。
  5. ^ もっとも、ワーグナーはブラームス自身が演奏した『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』を聴いて、「古い様式でも、本当に出来る人にかかると、いろいろなことが出来るものだ」と評価している。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


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