フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
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フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)はドイツの医師・博物学者。名前は高地ドイツ語(標準ドイツ語)読みではジーボルトである。本人は現在の南ドイツの人であるため、自らの名を「シーボルト」と発音していた。
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[編集] 経歴
[編集] 誕生
当時神聖ローマ帝国と呼ばれたドイツの司教領ヴュルツブルクに生まれる[1]。シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ。シーボルトという姓の前にvonと言う文字が添えられており貴族階級を意味した。祖父の代から貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
父親ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で亡くなったが、ヴュルツブルグ大学の内科学、生理学教授だった。妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に二男一女を設けるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。父の死は一歳一ヶ月のときである。母方の叔父に育てられる。
[編集] 尊大で権力好きそして無遠慮な大学時代
シーボルトが9歳になったとき、母はヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングフェルトに移住し、シーボルトは13歳でヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。1815年にヴュルツブルク大学に入学した。家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のデリンガー家に寄寓した[2]。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。
しかし、一方で大学在学中のシーボルトは鼻持ちならない性格の悪い人物でもあった。自分が名門の出身という誇りと自尊心が彼の心を支配し、「尊大で権力好き、そして無遠慮」「目的を達成するためには自分や他人に危険を及ぼすようなことがあっても平気な性格である」との酷評がなされている。この性向は後のシーボルト事件で地図は禁制と知っているはずなのに、平気で地図をほしがるところなど、その片鱗がうかがえる。またメナニア団という一種の同郷会に属し、議長に選ばれ、乗馬の奨励をしたり、33回の決闘をやって顔に傷も作った。決闘は当時常識だったとはいえ、普通ではない。江戸参府のときに商館長ステューレルが学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。
[編集] 植物学との出会い
デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた[3]。各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等についてエーゼンベックは『植物学便覧』という著作を残している。
先のように自分が名門の貴族出身だという誇りと自尊心が強く町の医師で終わることはプライドが許さなかった。1820年に卒業し、国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。
東洋研究を志し、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。
[編集] 日本へ
9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、直ぐに日本の対外貿易窓であった長崎の出島駐在の医師となる。6月に来日し、江戸幕府の長崎奉行にはオランダ語に怪しいところがあったのを山地オランダ人だからと偽り(オランダに山地はない)、鎖国時代の日本へ入国する。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある[4]。
出島内において開業。1824年には鳴滝塾を開設し、医学教育を行う。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らに西洋医学を講義、日本を探索した。
1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行。道中を利用して地理や植生、気候や天文などを調査する。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友、徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられたが、スパイ活動の一環であったとする説もある。
その間に楠本滝との間に、娘楠本イネをもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otakusaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。
1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。
[編集] 帰国後
オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)』を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
日本学の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ヴィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。
1845年にはドイツ貴族(爵位は持っていない、日本の感覚では華族ではなく士族相当の層)のヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、3男2女をもうける。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。1862年に官職を辞して帰国。1866年10月18日、ミュンヘンで死去、70歳。
[編集] 日本学における貢献
シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルガーには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。
2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館として公開され、シーボルトの事跡や日蘭関係史を公開している。
[編集] 生物学
生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。
植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者がSieb.et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まったものもある。
動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定している。
[編集] 代表的な著作
- P. F. von Siebold Nippon1832-1882『日本』
- 『日本及びその隣国属国の沿海地図』
- 『日本海国に関する蘭・露の活動』
- P. F. von Siebold and J. G. von Zuccarini Flora Japonica, Leiden, 1835-1870 『日本植物誌』
[編集] 親族
- シーボルトの息子アレクサンダー・フォン・シーボルトは1859年(安政6年)以来日本に滞在、イギリス公使館の通弁官を勤め、1867年(慶応3年)徳川昭武らのフランス派遣(パリ万国博覧会のため)に同行している。陸奥宗光・井上馨などの明治元勲との付き合いも深く、後年は井上馨外務卿の特別秘書となる。
- 次男ハインリッヒ(別名小シーボルト)も日本に滞在し日本で岩本はなと結婚し1男1女をもうける、またオーストリア・ハンガリー帝国大使館の通訳官外交官業務の傍ら考古学調査を行い、考古説略を発表、考古学という言葉を日本で初めて使用する。なお、2008年はハインリッヒの没後100年となり、各所で記念企画が行われている。同年3月に行われた法政大学での記念シンポジウムにはハインリッヒの子孫でシーボルト研究家関口忠志氏も招待された。
- 従兄弟の子供に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835-1909)は、ブラームスの婚約者だったことで知られる。
[編集] シーボルトの登場する作品
- 小説
- 吉村昭 『ふぉん・しいほるとの娘』
- 吉村昭 『長英逃亡』
- ねじめ正一『シーボルトの眼 出島絵師 川原慶賀』集英社 ISBN 4-08-774693-3
- 漫画
[編集] シーボルトの名前を冠したもの
- 県立長崎シーボルト大学
- JR九州が佐世保駅~長崎駅間を運行した特急「シーボルト」→シーサイドライナー (列車)#大村線優等列車沿革を参照のこと。
- 十八銀行シーボルト支店 - 入金照合サービスで使用する仮想口座の支店で、実店舗としては存在しない。
[編集] 献名
シーボルトに対する献名として、学名に"sieboldi"または"sieboldii"が命名されている生物は数多い。
- 植物
- 動物
- アコメガイ(イモガイの一種)Conus sieboldii (Reeve,1848)
- ベニガイ(サクラガイに近縁の二枚貝)Pharaonella sieboldii (Deshayes,1855)
- シーボルトミミズ(大型のミミズ)Pheretima sieboldi (Horst,1883)
- オニヤンマ(日本最大のトンボ)Anotogaster sieboldii Sélys,1854
- ヌマムツ(コイ科の淡水魚)Zacco sieboldii (Temminck et Schlegel,1846)
- ヒメダイ(フエダイ科の海水魚)Pristipomoides sieboldii (Bleeker,1857)
- アオバト(森林性のハトの一種)Treron sieboldii (Temminck,1835)
[編集] 参考文献
- 長崎歴史文化博物館「特別企画展 シーボルトの水族館」冊子
- Dr. M.J.P. van Oijen"A short history of the Siebold collection of Japanese Fishes in the National Museum of Natural History, Leiden, The Netherlands"(M.J.P.ファン・オイエン『オランダのライデン国立自然史博物館に収蔵されるシーボルトの日本産魚類コレクション小史』)(平岡隆二訳)
- 山口隆男『シーボルト、ビュルガーと川原慶賀の魚類写生図』
[編集] 関係項目
[編集] 脚注
- ^ シーボルト誕生の1796年頃、神聖ローマ帝国の一部としてヴォルツブルク大公国としていたが、10年後の1806年には神聖ローマ帝国は滅亡し、ウィーン会議後の1815年からバイエルン国に属するようになった。
- ^ デリンガーという人物は後にミュンヘン大学の教授や上級宮中顧問官になるなど、生理学者、比較解剖学者としてヨーロッパの学会に広く名を知られた人物だった。彼は医学だけでなく、自然科学全般に深い関心をもち、自宅に当時名高い多くの学者が集まり、様々な問題について議論をしていたといわれる。
- ^ シーボルトを教えた教授の中で特に賞賛されているのが、デゥトルポン産科学教授、テクストル理論外科学教授、そしてシェーンライン教授である。特にシェーンラインは特殊治療および臨床学教授でありシーボルトは多大な影響を受けている。自然史研究の方法論に似た、観察、記述、比較を重んじ、ドイツで初めて聴診、打診、血液や顕微鏡による観察と科学的分析を導入した
- ^ シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ(内情探索官)」と答えたと渡辺崋山が書いている。
[編集] 外部リンク
記念施設
著作
- 日本動物誌 京都大学
- 日本植物誌 京都大学
- 『日本』 PDFファイル
- シーボルト著または関するカタログ ドイツ国立図書館
標本・展覧会
- シーボルト日本植物コレクション 東京大学