出島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出島(でじま)は、1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型になっており面積は3924坪(約1.3ha)。1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われた。
目次 |
[編集] 沿革
出島は1634年から2年の歳月をかけてポルトガル人を管理する目的で幕府が長崎の有力者に命じて作らせた。築造費用はひとまず長崎の十数人の有力者が出資したが、ポルトガル人は土地使用料を有力者に毎年80貫を支払う形式となっていた。オランダ人が借地するようになってのち、55貫(現在の日本円で約1億円)に引き下げられた。平和の訪れと共に検疫が重視されたと思われる。 その扇の形は貿易の発展を願う末広、その坪数3,924坪は三千世界二十四節季九星人の世の吉凶を占う。と縁起を担いだ。
貿易上問題が懸念されたが、1639年布教と植民地化をさけるためポルトガル人追放後、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館を移し、武装と宗教活動を規制しオランダ人を住まわせた。以後、約200年間、オランダ人との交渉や監視を行った。原則、日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなど)を除いて狭い出島に押し込められた。ポルトガルの植民地状態になった長崎も長崎諏訪神社が勧請造営され、祭礼長崎くんちも始められ、祭礼には唐人などとともにオランダ紅毛も桟敷席での観覧が許されていた。 1670年頃 スピノザは「神学・政治論」に出島のヨーロッパ人には幸福があると書いている。
1855年(安政2年)の日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可され、翌年には出島開放令が出されて出島の日本人役人が廃止されたためにその存在意義が失われた。1859年出島オランダ商館は閉鎖された。
[編集] 意義
鎖国によって閉ざされた日本にとって、出島は唯一欧米に開かれた窓だった。
オランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690年-1692年滞日、主著『日本誌』)、ツンベルク(1775年-1776年滞日、主著『日本植物誌』)、シーボルト(1823年-1828年および1859年-1862年滞日、主著『日本』『日本植物誌』)らは、西洋諸科学を日本に紹介し日本の文化や動植物を研究しヨーロッパに紹介したことから「出島の三学者」と称される。
徳川吉宗が実学を奨励して洋書を解禁した結果、出島からもたらされる書物は、医学、天文暦学などの研究を促進させた。蘭学を通して生じた合理的思考と自由・平等の思想は幕末の日本にも大きな影響を与えた。
[編集] 現在
出島の周辺は1904年の港湾改良工事で埋め立てられ、島ではなくなっている。かつての出島の範囲を示すため、道路上に出島のへりを示す鋲が打たれている。
また、1991年には地元テレビ局・NIB長崎国際テレビが開局。情報発信拠点としても活躍している。
1996年度から長崎市が約170億円かけ、出島の復元事業を進めており、2000年度までの第1期工事で商館長次席が住んだヘトル部屋など5棟が完成。そして、第2期復元工事は2006年4月1日に完成公開、オランダ船から人や物が搬出入された水門、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など5棟を復元。
長崎市のホームページ(当ページ下の外部リンク)によれば、中央、東部分の計15棟を2010年までに復元した後、周囲に堀を巡らし、扇形の輪郭を復元する予定。
[編集] 交通アクセス
- 長崎電気軌道(路面電車)本線 出島電停から徒歩すぐ。
[編集] 参考文献
- 片桐一男『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』(講談社現代新書、1997年) ISBN 4-06-149377-9
- 西和夫『長崎出島オランダ異国事情』(角川書店、2004年) ISBN 4-04-702128-8
- 西和夫 編『復原オランダ商館 長崎出島ルネサンス』(戎光祥出版、2004年) ISBN 4-900901-35-0
- 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』(講談社選書メチエ、2005年) ISBN 4-06-258336-4
[編集] 外部リンク
- 蘇る出島 - 長崎市による観光情報