最上徳内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
最上徳内(もがみとくない、宝暦4年(1754年) - 天保7年9月5日(1836年10月14日))は、江戸時代中後期の探検家。出羽国(後の羽前国)楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家の子、父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子は2男3女。
目次 |
[編集] 伝記
家業を手伝い、たばこの行商などをしつつ独学で学ぶ。父が死去し、天明元年(1781年)には江戸へ出府。奉公しつつ学び、天明4年(1784年)には本多利明の音羽塾に入門し、天文や測量、海外事情にも明るい利明の経済論などを学ぶ。長崎への算術修行も行っている
幕府ではロシアの北方進出に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785年)には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年(1786年)には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。
同年に江戸城では10代将軍徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となる。徳内と青島は江戸へ帰還。徳内は天明7年(1787年)に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明8年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。
寛政元年(1789年)、蝦夷地において、和人に虐待されていたアイヌが蜂起する事件が起こり、事態を知った徳内は江戸の青島へ知らせる。真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となる。蝦夷地ではアイヌの騒動は収まっており、徳内らは宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を廻り調査。江戸へ戻った青島は調査書を提出するが、幕府は青島らの蝦夷地における職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、青島は背任を疑われ、徳内とともに入牢する。青島は牢内で病死、徳内も病に冒されるが、師の利明らの運動で釈放され、寛政2年(1790年)には無罪となる。
同年には普請役となり、幕府が松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため、蝦夷地へ派遣される。4度目の蝦夷上陸では、クナシリ、エトロフからウルップ北端まで行き、各地を調査。交易状況を視察し、量秤の統一などを指示、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みる。また、ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航するという噂を得る。
寛政4年(1792年)には樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査し、鎖国の国法に接する松前藩のロシア、満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知する。10月には松前へ戻るが、この年に、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航し、滞在を延期して越冬。翌年には江戸へ戻る。
寛政5年(1793年)には、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられる。徳内は関東地方の河川を調査して水系地図を作成し、効率化に務める。のちに山林御用に命じられる。
寛政10年(1798年)には老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。このときに見分隊の総裁松平忠明と意見が衝突し、免職される。江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出するが、忠明はこれを受け取らず公職のままとなる。
文化元年(1804年)まで再び山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化2年(1805年)には遠山景晋のもとで8度目の蝦夷上陸。
文政6年(1823年)に長崎へ来日したドイツ人医師シーボルトは文政9年(1826年)に江戸へ参府する。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力する。文政11年(1828年)にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追求を免れている。晩年は江戸の浅草に住み、天保7年(1836年)に死去、享年82。
著作に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』、アイヌ語集『蝦夷方言藻汐草』など。
[編集] 最上徳内を描いた作品
[編集] 余談
2006年度のスーパー戦隊シリーズ、「轟轟戦隊ボウケンジャー」のキャラクター・ボウケンブルー/最上蒼太の苗字の由来となっている。