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逸見政孝 - Wikipedia

逸見政孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

いつみ まさたか
逸見 政孝
プロフィール
愛称 いっつみい
出身地 日本 大阪府大阪市
生年月日 1945年2月16日
没年月日 1993年12月25日(満48歳没)
最終学歴 早稲田大学第一文学部
所属事務所 オフィスいっつみい
(現・オフィスいつみ)
職歴 フジテレビアナウンサー
活動期間 フジテレビアナウンサー時代
1968年1988年
フリー、タレント時代
1988年~1993年
配偶者 逸見晴恵
家族 逸見太郎(長男)
逸見愛(長女)
出演番組・活動
過去 FNNスーパータイム
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!
平成教育委員会』など
  

逸見 政孝いつみ まさたか1945年2月16日 - 1993年12月25日)は、タレント、フリーアナウンサー、元フジテレビアナウンサー。愛称はいっつみい(It's me)大阪市阿倍野区出身。戒名は誠實院温譽和顔政孝居士。妻はエッセイスト逸見晴恵、長男は俳優逸見太郎、長女はタレント逸見愛

目次

[編集] 人物

フジテレビ在籍時代は主にニュースキャスターとして活躍。1988年3月31日付でフジテレビを退職してフリーとなり、テレビではバラエティ番組の司会やラジオ番組パーソナリティなどを務めて人気を博した。1993年9月6日、極めて異例の「ガン告白会見」を行い、社会に「中年男性の働き盛りにおけるガン」という問題提起をすることになったが、3ヶ月半後である12月25日午後0時47分、ガン性悪液質のため東京女子医科大学病院で死去した。まだ48歳の若さでの早世だった。

[編集] 略歴

[編集] 局アナ時代

大阪府立阿倍野高等学校を卒業後、関西学院大学を受験するが失敗したのが原因で恋人に振られ、その悔しさのあまり「有名になって見返してやりたい」と自分の将来について真剣に考えるようになった。たまたまテレビニュースに出演していたアナウンサーを見たのがきっかけで、また高校時代に放送部に所属していた影響もあり、アナウンサーの道を志すことを決意。アナウンサーになるためには、東京の大学の出身のほうが有利と考え、一年の浪人。早稲田大学合格を目指して猛勉強に励む。本人は後に「今の私があるのは、関学が落としてくれたから。受かっていたら野球部のマネージャーになって、全く別の人生を歩んでいた」と語っている。

念願叶って、早稲田大学第一文学部演劇科(最も入りやすい学科だったからという)に入学、アナウンス研究会に所属。大阪出身であったため大阪方言を話していたが、アナウンス研究会の3期先輩だった舛方勝宏(元日本テレビアナウンサー、現日本テレビ常務取締役)の影響を受けてか、共通語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも共通語で話すようにした。フジテレビのアナウンサー試験では試験官から出身地を確かめられたというほどの実力で、フジテレビ入社後には「アクセント辞典を食べた男」と語られるようになる。逸見は自著で「大学時代、フランス語辞典は真っ白だったがアクセント辞典は真っ黒だった」としている。父親に「アナウンサーになりたい」と告げると「やりたい様にやれや」と父親が認めた。

大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破。大学卒業後の1968年、フジテレビに入社。当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、三迫ボクシングジム所属輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心にプロボクシング中継を担当。ボクサーより先に倒れるのではないかと思われるほどの絶叫調の実況で頭角を現した(後に自身が司会を務めた日本テレビクイズ番組クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』でもVTRで紹介された)。同時にワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者としても活躍した。

その後報道へ転出。1976年、『FNNテレビ土曜・日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『FNNニュースレポート6:30』(関東ローカル番組)のキャスターとなる。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過したころ、TBSの『テレポート6』を見て感銘を受けたので、当時同番組のキャスターであった山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」と指導を受けた。その後、逸見は共演の田丸美寿々とともに様々な現場へ取材に出向き、行動力のあるニュースワイド番組として定評を得る。取材範囲は、原則的には関東地方に限られたが、神戸などそれ以外の地域に赴いた事もある。

1984年4月からは全国ニュース『FNNニュースレポート6:00』のキャスターを務める。そして同年10月にスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターに抜擢され、幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。同番組の予告コーナーが設けられていたバラエティ番組『夕やけニャンニャン』において、司会の片岡鶴太郎とんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めて人気は全国区となり、ブロマイドまで発行された。当時のニュースキャスターといえばまだお堅いイメージしかなく、当時の彼の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが(フリーに転身してからは徐々におしゃれをするようになっていった)、関西出身のひょうきんなキャラクター、そしてそのギャグセンスの高さとのギャップが視聴者に意外性をもって受け入れられ、一般的なニュースキャスターとは一線を画すキャラクターで人気が高まったものと思われる。人気の高まりを受け、1986年には内田裕也主演の映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年からそれまで21年連続で司会を務めてきた高橋圭三の勇退を受けて、『新春かくし芸大会』の司会を芳村真理とのコンビで担当、名実ともにフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立した。

なお朝日放送アナウンサーの乾浩明は高校の先輩であるが、逸見との間には交流がなかった(ちなみに逸見は朝日放送の筆記試験には合格したものの、フジテレビ合格が分かったため辞退)。

[編集] フリー転身後

1987年に勤続20年を迎えた逸見は、管理職に昇格したことによって『FNNスーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌1988年3月末をもって、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立(社長は晴恵夫人で逸見は平社員。現在は「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)してフリーとなる。逸見自身はフジテレビ退職と同時に『FNNスーパータイム』の降板を希望したが、フジテレビと『FNNスーパータイム』でキャスターとしてコンビを組んでいた安藤優子の強い希望により、その後1年間のみという約束でキャスターを続けた。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』(いずれも日本テレビ系)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい」の愛称とその笑顔で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めたこともある。『たけし・逸見の平成教育委員会』放映期には、裏番組である『クイズダービー』(TBS系)と『おぼっちゃまくん』(テレビ朝日系)が終了している。

個性がまったく異なる大物達、タモリビートたけし明石家さんまからなるいわゆるBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、また日本を代表する「名(迷)司会者」として語り継がれている。なお、逸見は著書で「『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』と『たけし・逸見の平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事である」と述べている。クイズ関係の仕事が晩年に続いたためか、最期の言葉は朦朧とする意識で言った「三番が正解です」だったと言われる。また、BIG3との共演に関して、「あれ(=BIG3の仕切り役)だけは絶対誰にも譲らない」と語った。また『夜も一生けんめい。』では音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。また1992年秋に世田谷区奥沢に12億円(当時)の英国風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住まわせた。

司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春のTBSテレビオールスター感謝祭』に、自身が司会を務める『逸見のその時何が!』の解答者として出演した(以降も出演する予定だったと思われるが、この時が最初で最後の出演となった)。

ちなみに1993年8月1日、目黒のカトリック碑文谷教会で催された『夜も一生けんめい。』で共演した設楽りさ子と当時ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)の主将三浦知良の披露宴で司会を務めた(媒酌人渡辺恒雄夫妻)。奇しくもこれが最後の披露宴での司会であった。

[編集] エピソード

前記の通り、逸見は大学の同期で友人でもある松倉悦郎とともにフジテレビに入社したが、最終面接の際、重役の1人が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。困り果てた逸見はとっさに「そ・・・それは困ります」と答え、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。逸見は「松倉にも同じ質問をして松倉も同じように答えたのだな」と思ったという。この言葉が最終的に2人そろっての採用の決め手になったと言われる。

『FNNニュースレポート6:30』時代、CMに入るとジョークを連発して共演者の田丸美寿々を笑わせていた。田丸はCM明けに毎回顔を取り繕うのに苦労したという(著書によればその内容は下ネタが多かったという)。ちなみに逸見は田丸を「強い影響を受けた女性の1人」「20年に1人の逸材」と評している。

1985年8月12日、夏休みを取って大阪への帰省のため家族4人で日航機に搭乗する予定だったが、晴恵夫人が「新幹線で大阪へ帰りたい」と願い出て、直前に東海道新幹線に変更したため、日本航空123便墜落事故の難を逃れた。これは夫人が飛行機嫌いであったためとも言われる。日航ジャンボ機墜落事故のニュースを大阪の実家で知った逸見は「東京に戻るべきか」と思ったが、「今から戻ってもニュースの一番おいしい所を良いとこ取りするだけだ」と思い直し、実家で先輩の露木茂がキャスターを務めるFNN報道特別番組を見守った。この時、10時間にわたって原稿なしでコメントを続けた露木のキャスターぶりを後に著書で大絶賛した。

1980年頃から、自宅新築のために結婚式の司会などのアルバイトを始めた。有名になるにつれてだんだんとアルバイトでの収入も増え、フジテレビを退職する頃には会社からもらう給料の倍以上の額を稼ぐほどになっていた。このため、20年返済で組んだ住宅ローンもわずか6年で完済。さらに自らの小遣いもアルバイトで稼いでいたという。その一方、副収入が増えたことで追徴課税がなされるようになっていた。逸見がこのことを知人に相談したところ「必要経費が認められるから独立するのが一番良い」と返答された。それまで「フリーには絶対ならない」と公言していた逸見は前述の「管理職昇進でアナウンスの現場から離れたくない」という気持ちもあって、フリーになることを考え始めるキッカケになったという。

「音痴」とよく評されるが、カラオケに関しては師匠に付いて習ったこともあるという本格派である。フジテレビ時代からたびたびその腕前を披露していたが、音痴ではなく持ち歌が古いという理由で受けはあまり良くなかったという。また、『夜も一生けんめい。』でもリハーサル中はリラックスしているせいか「意外と上手い」と共演者たちが口を揃えて評価している。

「アナウンサーの仕事の中で一番好きな仕事は何か?」と質問された逸見は「インタビュー」と答えている。実際に『夜も一生けんめい。』や『いつみても平平凡凡』などの仕事を経て「同じインタビューでもタレントの聞き方とアナウンサーの聞き方はまったく違う自負がある」と発言。また、「『夜も一生けんめい。』で下手な歌を歌っていられるのもその前のインタビューのパートではきちんと仕事をしているという自信があるからだ」とも発言している。ちなみに逸見は「自然体だが鋭く切り込んでいく」スタイルのインタビューを理想としていた。自らが取材やインタビューをする立場を経験していることもあり、逆に取材やインタビューを申し込まれた時には極力受けるようにしていたという。ただし、インタビューへの思い入れの強さもあってか特に若手の記者・インタビュアーへの評価はかなり厳しかった。

子供の頃から映画鑑賞が趣味だった。特に好きだったのがチャップリン黒澤明でこの2人の作品はすべて見たという。「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていた。逸見が挙げた日本映画の最高傑作も黒澤の『生きる』だった。フジテレビに入社して間もない頃は映画番組を担当している先輩アナウンサーのところに映画の試写会の案内が多く届くのを見て「自分もああなりたい」と思っていたという。後年、映画賞の審査員にも起用され、それがきっかけで逸見にも映画試写会の招待状が届くようになって希望は果たされた。ある映画の試写会で逸見は招待状を忘れ名刺を出そうとしたら「逸見さんでしょう? いいですよ。お入り下さい」と顔パスで通してもらえた。逸見は「俺も出世したものだな」と感じたという。

『たけし・逸見の平成教育委員会』では、国語と社会の正解率が高かった反面、算数の解答は相当苦手であった。ようやく出来たと思った算数の問題(三角形の面積を求める問題)では、公式中の「÷2」をせずに解答。正解だと思っていた本人は、一瞬唖然とした後、相当頭にきていた(同じく生徒であった天本英世高田文夫も国語が得意で算数をかなり苦手とした)。逸見に言わせると「算数の問題は、鬼門だなぁ」とのこと。一方、逸見一人だけ全問正解した国語の時間では、田中康夫岡本夏生など生徒達から「逸見君、変」「逸見君おかしい」などと散々言われ、北野先生ですら「事前にイースト(当番組の制作会社)から答えを教えてもらっていたんじゃないですか?」とまで言われた。『たけし・逸見の平成教育委員会』で成績優秀者に与えられる「たけし落とし」を見事に完成させ、めでたく海外一周留学の旅を獲得したが、直後に北野先生が「ここで嬉しいお知らせです。何と逸見君が世界一周の旅を視聴者プレゼントとして・・・」と勝手に段取りを進めてしまい、本当に視聴者プレゼントとなった。

大阪弁を完全に矯正して専ら標準語で話したことで、上岡龍太郎など一部の関西出身の芸能人からは「関西を捨てた男」と呼ばれ軽蔑されたこともあった。また、やしきたかじんは共演をしたがらないほど逸見のことを批判していた。一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。当時大阪から東京に進出したばかりで全国的には無名だったダウンタウンなどの関西出身若手タレントを可愛がり、プロ野球は当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続けた(関東での阪神の試合に家族で頻繁に応援に訪れていた。父親、逸見、そして息子と親子3代続くタイガースファンだと著書で公言している)。晩年には時に関西弁で話すこともあったという。

後輩アナウンサーへの指導も非常に厳しかった。それだけに「(アナウンサーなら)ちゃんとしゃべれ!」と指導するところを「ちゃんとちゃべれ!」と言ってしまう、他の人物ならなんでもないエピソードが語り継がれている。

番組出演時とは対照的に、家庭内では「頑固オヤジ」や「亭主関白」とも言われ、追悼特番でも逸見の頑固ぶりが紹介された。しばしば妻に手を上げることもあったと著書などで告白している。「夫は外を攻め、妻は家を守る」が逸見の理想とする夫婦像だった。このため、休みなどで家にいる時でも家の手伝いは一切せず、また妻には「仕事のことには口を出すな」と言い渡していた。ただし、『夕やけニャンニャン』で人気が出て執筆、講演、レコード収録などそれまでのアナウンサー業務と異質な仕事が舞い込んでくると必ず妻に相談していたという。妻は「やっちゃえ、やっちゃえ」とその都度前向きな姿勢を見せて逸見を励ましていた。妻との間に1男1女がいるがどちらの出産時にも妻に「一人で病院に行くように」と言って、出産には立ち会わなかった。子育てについても完全に妻任せであった。「子供たちが自分の背中を見て何かを感じてくれれば良い」と考えていた。長男の妊娠中、性別がまだわからない段階で逸見は妻のお腹にいる子供に「お前は太郎だ」と呼びかけていた。一方、長女「愛」の名は長男「太郎」と対になる名前で日本的な名前にしたいということで熟慮の結果選んだという。

一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、著書『新版 逸見政孝 魔法のまじめがね』では山城新伍とビートたけしの親友2人がそろって「マジメだとは思わない」と述べた。山城は「必要以上に人に気を使う人。良しにつけ、悪しきにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるという(本人は笑って否定したという)。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだったが、逸見さんは色んなことに夢中になっているからね・・・」と述べている。

NHK朝の連続テレビ小説青春家族』に出演した際、逸見の演ずる岩井一之はアメリカに永住してビデオレターを送ったりもしたが、アルコール依存症で途中帰国するという役設定だった。また、この役柄設定は業務提携していた三木プロダクションの三木治常務(生粋の酒飲み)をモチーフにしたものである(三木自身が著書で述べている)。なお、実際の逸見は消毒用のアルコールに触れただけでも皮膚がかぶれてしまうというほど極度のアルコールアレルギー体質で酒はまったく飲めなかった。

また、上記と同じような事例で『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番の番宣CMにてスーパーマンの衣装を身に着けた際にも、家族を驚かそうとそのままの格好で帰宅した。『3時のあなた』でもチンドン屋の衣装に扮した際にそのままの格好で局に戻り、社内を練り歩いた。周囲は「カマっ気があるんじゃないのか」と言ったという。

[編集] ガンとの闘い

[編集] 弟・憲治のガン発症

逸見の2歳年下の実弟である憲治も1980年にスキルス胃ガンで半年間の闘病の末に32歳の若さで死去。このことから逸見は人一倍ガンに対して気をつけていたが、弟の死から13年後に皮肉にも弟と同じ病により夭折となった。

憲治は婚約が決まった直後に受診した精密検査で末期の胃ガンを発見されたが、結局最後までガンの告知はしなかった。逸見は「幸せの絶頂にある弟に末期の胃ガンだと告げることはとても私にはできなかった」「ガンの告知をすべきか否か、私自身このことについてはまだ結論を出せずにいる」と著書で告白している。また、憲治の婚約者にも逸見は自分から知らせることができず、結局は仲人から事実を伝えることとなった。ちなみに、後に逸見自身がガンだと告知された時には「助かる望みがあるからこそ告知されたんだ」と言い聞かせながら闘病生活を送っていたという。

逸見が『FNNスーパータイム』のキャスターを務めていた1988年、当時運輸大臣だった石原慎太郎にインタビューした際、石原の弟・裕次郎が前年肝臓ガンで亡くなったことを踏まえて、逸見は自らの弟もガンで亡くなったという話を切り出した。石原は一瞬表情を変え、「やっぱり兄弟は生まれた順に死んでいく方が良いよね」としんみりとした口調で話した。また、患者本人にガンを告知しなかった点についても逸見は触れたが、石原は「僕は告知した方が良かったと思う」と語っている。

1991年古舘伊知郎の姉がガンで他界した時には、同じフリーアナウンサーであり、比較的若い年齢できょうだいをガンで亡くした同じ悲しみを知る者として、逸見は古舘にお悔やみの手紙を送った。また、四十九日法要の際には逸見が古舘のもとを訪れて霊前に手を合わせ、思い出話をしていったという。それまで特に親しい関係ではなかった逸見と古舘はこれがきっかけで親交を持つようになり、逸見がガンで入院した際には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の店長代理として古舘が2度出演している。

[編集] ガン発症までの病歴

1970年代後半ごろから糖尿病を発症していた。学生時代から下宿の窓にコーラの瓶がズラリと並ぶほどのコーラ好きであり、また全般に甘いものが大好きだったため、それが原因であると推測される。医師の勧めで運動不足解消のためゴルフを始め、食事制限をするなどして血糖値を正常に戻した。また、弟・憲治のガン発症もあってそれまで1日3箱吸っていたタバコもきっぱりとやめた。それでも、糖尿病は亡くなるまで逸見について回った。また、仕事優先のあまり糖尿病の治療がおろそかになりがちだったとも言われる。

1981年には胆石で入院。自宅の新築を控えて、すでに当時から休日返上で結婚式の司会などのアルバイトをこなしていたこともあり、見舞いに訪れた上司から「これからはアルバイトは一切禁止だ」と叱責され、逸見も「わかりました」と殊勝にうなずいていたが、実際にはこの後もアルバイトを続けた(休みは年間で10日ほどしか取らなかったという)。

1988年秋、本番前の控え室で突然倒れて1週間近く入院。当時担当していた『FNNスーパータイム』を3日間休んだ。フリーになった直後で精神的なストレスが増大した結果の発症であった。

1989年は年末に腰痛が悪化。ついには歩けないほどになったため、1990年の元日から10日間入院した。この時、内臓疾患が腰痛の原因となることもあるということで内臓の検査も受け、慢性びらん性胃炎十二指腸憩室症、大腸ポリープなどいくつかの症状が認められたため担当医師は仕事を休んで精密検査を受けるよう勧めたが、逸見は腰痛が回復するとすぐに仕事に復帰したという。結局、「過労による腰痛」という診断になったが、はっきりとした原因は最後までわからないままだった。なお、この頃から痩せ始めたが、イメージチェンジのためのダイエットをした時期とも重なることから病との因果関係は明確でない。

[編集] 最初のガン発見と手術

1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴えた逸見は、野球評論家の江川卓に紹介された港区元赤坂の前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)を年に1度の定期健診も兼ねて受診することにした。その際に担当医から「胃に初期のガン細胞を見つけた」と診断された。

1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長と新谷弘実医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。逸見本人には胃の3分の2のみを取り除いたと伝えられたが、この際、晴恵夫人だけには院長が「ご主人の病状は、実際は初期のガンではなかった。ギリギリの所で全てのガン細胞を取り除いたが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近い」と宣告していた。

そして逸見はわずか1ヶ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院を続けていて、同年春から新番組も始まったことで逸見は再び軌道に乗り始めたかに思えた。

しかし、同年5月下旬頃になると、メスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状である」と言われたものの、その突起物が次第に大きくなり始めて服を着るにも邪魔なほどになってしまった。スケジュールの都合により夏休み中の同年8月12日にその突起物を除去するという名目で2度目の手術を受けたが、ガンはすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、ガン性腹膜炎という末期状態であった。だが、そのような状態であったにもかかわらず、執刀医は逸見にガンの再発を告知しなかった。

一方、同時期に米国でゴンザレス医師によるビタミン治療も検討されていたが、渡米前夜になって突然先方から治療をキャンセルされた(ガンの末期状態であったため治療が不可能であったことが理由であると思われる)。逸見は当時前田外科病院に絶対の信頼を置き、その性格から晴恵夫人ら周囲から別の病院での診察を勧められても一切聞き入れず、またこの時期レギュラー番組を週5本も抱えており、極めて多忙な日々を送っていた。

[編集] ガン再発と告白会見、そして闘病期

前田外科病院での再手術に当たって院長に直接執刀をしてくれるのかを尋ねたところ「ちょうどその頃、僕は夏休みに入っているんだなあ」と思わぬ返答をされたこと、米国での治療がドタキャンになったことから不信感を抱き始めた逸見は、同年9月3日、ようやく新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めてガンの再発を宣告された。羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に烈火のごとく怒られ「どうしてこんなになるまで放っておいたのだ!?明らかに状態がおかしいじゃないか!!この状態で放射線治療をするのは腹膜に対して危険だ、100%完治する状態ではないが、直ちに手術をしないと腸閉塞のおそれがあり、このまま放置すれば1年持たない、月単位で病気が広がりかねない」と厳しい現状を告げられた。そのことを受けとめた逸見は再々手術を決意する。

同年9月6日午後3時、日本テレビ(現日本テレビ放送網麹町分室)内2Fの大型ホールで緊急記者会見を行い、各局のワイドショーで生中継された。逸見は冒頭のコメントでこう述べた。

こういう(生中継の)形でのこういう(内容の)記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まって頂きました・・・最初に皆さんにお詫びをしなければいけないのですが、今年の1月から2月にかけて私が入院いたしまして、手術、そして退院した時にやはり(記者会見に)集まっていただきました。そのときに私が発表した病名は大変申し訳無かったのですが、嘘の病名を発表致しました。(中略)本当のことを申し上げます。私が今、侵されている病気の名前、病名は・・・ガンです

逸見はこの会見で、自ら進行胃ガン(スキルス胃ガン・ガンの中で最も性質の悪い病状)である事を初めて公の場で告白した。そして、これから3ヶ月間のガン闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「僕はやっぱり人間が出来ていないので恐ろしいです・・・」と吐露した。会見の最後の方では、「もう一回、いい形で生還しましたという風に言えればいいなと思っています・・・どうもありがとうございました」と復帰に賭ける闘病への意気込みを語ると、記者からは「生還して下さい!」という声が飛び、記者会見終了後は、会場から逸見に対して「頑張って下さい!」と拍手喝采となった。

ガンと闘う決意表明に多くの芸能タレントは感動したが、明石家さんまをはじめ親しい芸能人の中には、「逸見にとってこの記者会見が生涯最後の仕事になるだろう」と悲観視する者も少なくなかった。

その記者会見の翌日から全ての仕事を休止。逸見は東京女子医科大学病院に入院して、本格的な闘病生活に入った。そして、羽生冨士夫消化器病センター所長ら数名の権威の執刀により、同年9月16日に13時間(臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間)にも及ぶ大手術を受けた。

[編集] 術後の容態悪化と最期

手術後の逸見は歩行訓練を行ったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を多く摂るなど、順調に回復している様子も見せた。

ところが、大手術から1ヶ月が経過していた同年10月下旬に突然腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。奇しくもこの日は一時帰宅日であったが、その後の検査結果が腸閉塞と判明したために中止となった。これにより普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたため高栄養の点滴をつけられたが、逸見は徐々に衰弱していった。その状態にも拘らず、同年11月上旬から抗がん剤の投与が開始され、副作用の影響から日頃の表情豊かであった逸見とは程遠い姿に陥った。

激しい吐き気を催して意識が朦朧となり、うわごとを発するなど、益々病状は悪化していった。同年10月にマスコミに公表された病室での容姿よりもさらに痩せ細り、体重が50kgを下回っていた逸見に、同年12月16日にはすでに切除して消滅したはずのガンが再び腸に見つかった事が再検査で判明。主治医は12月1日に「年を越せるかどうか分からない」と妻の晴恵ら家族に宣告していた。

12月24日は、長男である太郎の誕生日だったが、ついに意識不明の危篤状態に陥った。そして早期復帰の願いも空しく、最初のガン発見から341日後、そして「私は1年後に他界するのは本意ではありません」と述べた記者会見から3ヶ月半後である翌12月25日午後0時47分、ガン性悪液質のため、東京女子医科大学病院で亡くなった(享年48)。

[編集] 死後の賛否両論と波紋

結果的にガンの再発を根治する事は出来なかった訳で、逸見の患ったガンの特質上、逸見の死後「末期の状態であったにも拘らず、何故大手術を行ったのか?」「クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)を無視した手術だった」という疑問・批判の意見が多数あった。

さらに、手術を行わず他の治療で処置した方が、1年程度は長く生きることが出来たとの見方もある。一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためにはこのような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある。なお、慶應義塾大学医学部の近藤誠医師は、前田外科病院と東京女子医科大学の治療・手術方法を自著『がんは切ればなおるのか』で指摘している。「同年2月の手術の段階の病状でいかなる治療を行なっても、逸見は助かる見込みは100%無かった。またこの際に手術を行わなければ、ガン再発は起こらずあと数年は生きられた」とも語っている。

ただし、結局としてはどのような手段を施しても逸見のガンの完治は不可能であったが、逸見自身が闘病方法を選択して積極的に病と向き合ったことや、スキルス胃ガンを患った場合の医学的理論から、逸見は遅かれ早かれ数年の内に死を迎えざるを得なかった、死を避ける方法が事実上存在しなかったという見方から、この様な議論については虚しいものとして沈黙を貫いている人が逸見の周囲や知人には多い。

[編集] 没後

[編集] 放送業界に衝撃

人気絶頂期にいた彼の死は、芸能界に留まらず日本社会に改めて衝撃を与えた。

これは、死の直後にテレビ全局がニュース速報で「闘病中の逸見さん、力尽きる」と(ラジオ番組ではアナウンサーや番組パーソナリティから直接)伝えたこと、また古巣のフジテレビのみならず、他系列の民放各局でも追悼特番が組まれるなど、アナウンサー出身の芸能人としては異例の扱いを受けた事がわかる。

その後、新宿区信濃町にある千日谷会堂で行なわれた通夜が終わった後にはTBSテレビ朝日テレビ東京NHKを回り、翌日営まれた告別式の後は、フリー後最初の他局レギュラーを持った日本テレビ(当時の麹町本社)、そして一番お世話になった古巣のフジテレビ(当時の河田町本社)を経由し、落合斎場で荼毘に付された。棺には、逸見の遺体と共に『たけし・逸見の平成教育委員会』で逸見が着た学級委員長の制服も一緒に納められた。

遺影は、自身が司会を務める予定であった『平成初恋談義』(1993年10月よりスペシャル番組からレギュラー番組に昇格)のPR番宣ポスターなどに使用するために撮影されたものである。

[編集] 親交が深かった関係者たちの反応

逸見が初代キャスターを務めた『FNNスーパータイム』では、彼の訃報をトップ項目として扱い、死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは逸見の13期後輩である山中秀樹であり、『FNN NEWSCOM』の土曜版でも訃報をトップ項目として扱い、逸見の14期後輩である牧原俊幸が訃報を伝え、15期後輩である向坂樹興が生い立ち等のVTRナレーションを務めた。

翌月曜日には5期先輩である露木茂もニュースを読み上げ、またかつて同番組でコンビを組んだ安藤優子が葬儀の模様をレポートし、放送中に号泣した。 また、亡くなる前夜、危篤の一報を『FNN NEWSCOM』内で伝えた木村太郎は、逸見に最後のエールを送った。

また、逸見が亡くなった直後に日本テレビで放送された緊急追悼番組のCM中に徳光和夫がスタジオの隅で号泣していた。最初は、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共に司会をした渡辺正行と電話をつないだときに、すでに渡辺はショックのあまり嗚咽を漏らし続けながら号泣し、終始声にならない声で心境を語った。さらに、逸見のレギュラー番組だった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『たけし・逸見の平成教育委員会』(亡くなった当日に放送があったが、急遽追悼番組に切り替わった。なお、この追悼番組に出演した天本英世は「テレビ業界は狂っている。先日もスタッフが1人自殺した。逸見さんは2人目の犠牲者だ」と発言。以後『平成教育委員会』には一切出演しなかった)、『いつみても波瀾万丈』、『夜も一生けんめい。』(亡くなった当日に生放送。このため、同日放送予定だった回は翌年1回目の放送となった)では追悼特番を放送した。

現在もTBSの『オールスター感謝祭』のメイン司会者を務めている島田紳助は、1993年春の時点では逸見の真の病状を知らなかったが、この番組の本番中解答者席に座っていた逸見に向かって「実はガンなんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと言っていた。当時紳助は逸見がガンであることを冗談だと思っていたが、その後冗談が本当だった事に紳助自身も相当ショックを受けた。そして逸見の亡くなった日の夜に紳助は、インタビューで「ガンという重病を抱えているのに何で仕事し続けんねん。まったくのドアホですよ、逸見さんは」などと悔し泣きしながらコメントを述べていた。

北野武が告別式の間中、参列者席で号泣していたことは語り草になっている。また隣にいた山城新伍に対し「こんなに堪える事は無いね・・・」と語ったと言われている。ガン告白の記者会見を行う前日に逸見本人から事実を告げられたたけしはその日から告別式の日まで酒を断ち、また1993年12月上旬に闘病中の逸見を見舞って以降は、変わり果てた逸見の姿にショックを受け、仕事もすべてキャンセルしていた。告別式の折には、「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語ったという。1997年9月の『たけし・逸見の平成教育委員会』の最終回後の記者会見でも、たけしは「逸見さんと最後までやりたかったなぁ・・・それが心残りです」と述べている。逸見についての話は親交が深かった事もあり、彼の著書でも逸見はよくとりあげられる。また、辛口コラムニストとしても知られるナンシー関も「他の芸能人の時とは違い、まるで自分の親戚が死んでしまったかのような気持ちになった」と彼の死を悼んだ。

それから4年強経った1998年1月25日放送の『知ってるつもり?!』でも逸見のことが取り上げられた。追悼特番では『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で逸見と共に番組の司会を担当した渡辺正行が号泣、追悼特番の司会を務めた山城新伍も言葉を詰まらせた。また、同番組で共演し、親交が深かったジャイアント馬場も、彼のガン告知以降、大好きだった葉巻をやめて願掛けをしていたことを明かした。逸見が亡くなった後、馬場が葉巻を口にする事は生涯無かった。

[編集] 逸見に関するテレビ放映

「ガン告白会見」の直前の1993年7月23日に『金曜エンタテイメント』で放送された『人間ドキュメント 石原裕次郎物語』では、逸見がナビゲーターを務めたが、くしくも1周忌が迫った1994年12月23日に、同じ『金曜エンタテイメント』にて、逸見自身の生涯及び闘病生活を描いたドラマ『人間ドキュメント 逸見政孝物語』が放送され、俳優の三田村邦彦が逸見を演じた。なお、ビートたけしも本人役で出演予定だったが、収録に先立つ同年8月のバイク事故で出演はならなかった(入院中の逸見にたけしが面会するシーンは、イメージ映像で処理)。

一家の大黒柱であった逸見の死後、妻の逸見晴恵エッセイストになった。長男の逸見太郎は、逸見の死去直後、留学を取りやめてデビューすることを周辺が強く望んだが、逸見の大親友であったビートたけしにその時点でのデビューを強硬に反対された。その後、1998年俳優になり、長女の逸見愛タレントになった。

  • ダウンタウンDX』(読売テレビ制作・日本テレビ系)のクイズ時代の名物コーナー「1000人アンケート 2ケタを狙え!」(1995年~1997年頃)で「死んで欲しくなかった有名人」がテーマだった際、石原裕次郎、美空ひばり渥美清ら国民的スターが上位に入る中で、逸見政孝が第1位であった。
  • 2006年2月、十三回忌を少し過ぎたということで彼を偲ぶ会が催され、ビートたけし、山城新伍、明石家さんま、徳光和夫、安藤優子など生前交流が深かった有名人が多数参列し、彼の人柄を窺わせた。
  • ドリーム・プレス社』(TBS系)では、2006年7月19日(前編)と7月26日(後編、本田美奈子.編と合わせた2時間スペシャル)に2週にわたって特集を放送。スタジオゲストは古巣フジテレビ時代に親交があった露木茂と田丸美寿々。また、この番組で逸見が『NHK紅白歌合戦』の司会を目指していたことを明かした。
  • オジサンズ11』(日本テレビ系)では、命日の前夜に当たる2007年12月24日の生放送特番にて特集を放送。スタジオゲストは逸見のヘアメイクを担当したIKKOが出演。露木茂や徳光和夫ら、逸見と同年代のレギュラー出演者たちが逸見の思いでなどを語った。またこの際に逸見を出演者の一人であるかのように空席を一つ作り、その後ろに逸見を写したモニターを置くという演出がなされた。
  • 情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ系)では、逸見の死から15回忌にあたる2007年12月25日に『新・温故知人』のコーナーで逸見の特集が放送された。また、司会の小倉智昭は前述の『オジサンズ11』と『とくダネ!』に2日連続で出演したことになる。

逸見の死後、逸見がガン告白を行った日本テレビの大ホールや番組収録を行っていたGスタは本社が汐留に移転した現在も日本テレビ放送網麹町分室となりそのままの形で現存している。

[編集] 出演

[編集] テレビ番組

[編集] フジテレビ

[編集] 日本テレビ

[編集] TBS

[編集] テレビ朝日

[編集] テレビ東京

  • 湯原・逸見のゴルフ苦楽部

[編集] NHK総合

そのほか、1992年12月に年末特集番組(クイズ)の司会も担当していた。

[編集] 映画

  • コミック雑誌なんかいらない!(1986年)

[編集] CM

など

[編集] 書籍

[編集] 著書

  • マジメまして逸見です Majime it's Me(逸見政孝・著)(1985年
  • 素敵します 新装開店 いっつみいさん(逸見政孝・著)(1988年
  • 逸見政孝 魔法のまじめがね―ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著)(1989年
  • 新版 逸見政孝 魔法のまじめがね―ブラウン管は思いやり発信局(逸見政孝・著)(1993年
  • ガン再発す(逸見政孝・著、逸見晴恵・補筆)(1994年1995年文庫化)

[編集] 死後に発刊された関連書籍

  • 逸見政孝さんの生きかた―48年の人間記録 あなたは新たなる自分を発見する(三笠書房・1994年)
  • 天国へのメッセージ―逸見政孝 その出会いから別れまで(三木治・著)(1994年)
  • 二十三年目の別れ道―はじめて明かす夫・逸見政孝の闘病秘話とそれからのこと(逸見晴恵・著)(1994年2003年文庫化)
  • ゴンドラの詩―父が遺してくれたもの―(逸見愛・著)(1995年
  • 息子への遺書(てがみ)―夫・逸見政孝が遺した家族への愛と絆(逸見晴恵・著)(1995年2003年文庫化)

[編集] 音楽作品

[編集] シングル

[編集] 演じた俳優

[編集] 関連人物

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

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