輪島功一
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基本情報 | |
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本名 | 輪島 公一(わじま こういち) |
通称 | 炎の男 |
階級 | スーパーウェルター級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1943年4月21日(65歳) |
出身地 | 樺太(ソ連領になり北海道に移住) |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス(右変則ボクサータイプ) |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 51 |
勝ち | 31 |
KO勝ち | 25 |
敗け | 6 |
引き分け | |
無効試合 |
輪島 功一(わじま こういち、本名輪島 公一、1943年4月21日 - )は、日本の元プロボクサーで現在はタレント兼団子屋経営者。北海道士別市出身。世界スーパーウェルター級王座を3度獲得(1度目と2度目はWBA、WBC統一王座。3度目はWBAのみ)。"炎の男"の異名を持ち、"カエル飛び"等で知られる変則右ボクサー。具志堅用高、ガッツ石松、輪島功一の三人でボクシング界の重鎮として共演することが多い。
目次 |
[編集] 来歴
生まれ故郷の樺太が3歳の時にソ連領となり、北海道に移住。士別開拓作業に彼の両親は苦労。過酷な労働を強いられるも暮らしは楽にならず、一時期久遠村(のちの大成町、現在は合併によりせたな町)に養子に出された。
養父母に養われていた中学時代は夕方から明け方まで漁師の仕事(本人曰くアルバイト的なものではなく家族で生計を立てるためのもの)もした。大人たちは明け方から寝るが、輪島少年は学校へ行く時間。寝る時間は授業中しかない生活(本人談)が続く。
放課後、漁に出るまでの時間、友達と野球をして楽しむ。その当時から超人的なスタミナや並外れたど根性が培われた。
「みんな、俺の事を苦労したんだなあと言ってくれるんだけど、当時、俺は苦労だとか思った事がなく、当然誰もがしてる事だと思ってた」(自伝より)。
いつもはケンカなどはしない輪島少年だが、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた。決して乱暴者とか不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であった。
のちに所属する三迫ボクシングジムの会長・三迫仁志は輪島を評し、「輪島のすごいところは苦労人に在りがちな暗い表情が全く無く底抜けに明るくてひょうきんなところだ。たくさんの友人がいて、みんなが楽しそうにしてるのを見たら輪島の人柄がわかるでしょう」と愛弟子を自慢げに語る。
中学卒業後上京。トラックの運転手などいくつかを経て、仕事の行き帰りにリングを眺めていた三迫ボクシングジムに入門。1968年3月、プロボクサーとして極めて遅い25歳という年齢で、プロデビュー。全日本ウェルター級新人王に輝いた。
ある日プロ選手とスパーリングをし1日目はノックアウトされたが、翌日は輪島の判定勝ち。ボクシングの技よりも「真髄」を先に見出したような男である。
これが相手の強打を外して打ち、大男の顎を打ち抜きマットを這わせ、観衆を感涙に導いた変則ボクシングの序章であった。
1969年9月、日本スーパーウェルター級王座獲得。一度は王座防衛に失敗するも、すぐさま奪回に成功。
1971年10月31日、東京・両国の日大講堂で世界初挑戦。WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者カルメロ・ボッシ(イタリア)に挑む。体をかがめ相手の視界から消え、次の瞬間跳ね上がるようにしながら拳を振り上げる「かえる跳びアッパー」で一躍有名になる。試合は15回判定勝ち。世界王座奪取に成功。この頃から三迫会長の実兄の長男三迫将弘が輪島の付け人やスパーリングパートナーを務めていた。しかし、当の試合は郡司信夫氏に「あんなのはボクシングではない」と酷評されてしまった。しかし、輪島はそんな言葉をあざ笑うかのように、今度は正統派のボクシングで防衛を重ねていくことになる。
翌1972年5月の初防衛戦ではドメニコ・チベリア(イタリア)を開始109秒で速攻KOし、その後、通算6度の防衛に成功。
1974年6月4日、オスカー・“ショットガン”アルバラード(米国)を挑戦者に迎え、7度目の防衛戦を行うが、最終15回KO負けを喫し、王座陥落。
王座陥落から7ヵ月後の1975年1月21日、アルバラードと再戦。15回判定勝ちで雪辱し、WBA・WBC王座返り咲きに成功。3月22日にWBC王座を剥奪され、以後WBA王者。6月7日の初防衛戦で柳済斗(韓国)に7回KO負けを喫し、WBA王座陥落。だが、翌1976年2月17日、柳と再戦し15回KO勝ち。2度目の世界王座返り咲きを果たす。5月18日の初防衛戦でホセ・デュラン(スペイン)に14回KO負けを喫し、三たび世界王座から陥落。
1977年6月、3度目の世界王座返り咲きを懸け、WBA王者のエディ・ガソ(ニカラグア)に挑むも、11回KO負けを喫し、結局この試合を最後に引退。
最終戦績は31勝(25KO)6敗1分。
現在は東京・西荻窪で『輪島功一スポーツジム』を運営。後進の指導に当たる一方、だんご店『だんごの輪島』経営、『東日本ボクシング協会』前会長、さらには芸能界でのタレント活動と幅広く活躍中。大相撲の横綱・輪島として活躍した輪島大士と従兄弟と言っていたことがあるが、後に本人が語った所によれば、2人が同じ苗字でプロスポーツで頂点に立ち、タレント活動をしていた事と共通点が多いため従兄弟という設定で売り出したとの事(本人は横綱の事を「ひろし」と呼び、横綱には「こうチャン」と呼ばれていた為、交友は有った)。
2006年11月、元世界王者の渡嘉敷勝男、玉熊幸人、飯田覚士、戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。
[編集] 逸話
- 洒落っ気のある性格で、世界タイトルマッチ勝利後にファンとの約束でリング上にて歌を披露した事もあり大いに人気を集めた。(後に亀田大毅も歌を披露しているが、亀田は他の歌手の歌なのに対して、輪島の場合は自らの持ち歌『炎の男』)
- 日本中を感動の渦に巻き込んだ柳済斗との第2戦の翌日、都内で強盗が銀行に立て籠もる事件が起こった。このとき警察官が犯人に対し「お前も昨日の輪島の試合を見ただろう。輪島を見習い人生をやり直せ」と説得したという。あまりにも劇的な輪島の王座復活は、当時の国民的関心事だったことが伺える。
- 本名の「公一」から「功一」に改名した理由は、ある試合でリングアナウンサーに「ハム一」とコールされたためである。(本人談)
- ちょっととぼけたキャラクターで現在もバラエティ番組などに引っ張りだこの存在であるが、実生活においても、日課の犬の散歩がてら、ゴミ拾いを欠かさない好人物である。
- 引退後は団子屋をはじめ、成功を収めている。現在は国分寺市の中央本線国分寺駅の北側に団子屋『だんごの輪島』がある。輪島本人はジムに専念するため、店舗経営を義弟に任せているが、「ファイト最中」など輪島にあやかった商品もある。1994年に『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の「だんごバスツアー」と称した企画にも団子屋が登場したことがある。1999年には『だんご3兄弟』が流行った頃、歌にあやかった団子「だんご3姉妹」を売り出し大売れした。実際に串に刺していたのは4個だった(テレビを見ていた薬師寺保栄の証言)という話もある。
- TBS系ドラマ『3年B組金八先生』の第1シリーズ・第2話にボクシングジムのトレーナー役で特別出演したことがある(金八の教え子と実際にリング上でスパーリングも行った)。
- 亀田問題ではどっちつかずの曖昧な発言を繰り返していた。
- 柳済斗との再戦時、記者会見にマスクをして現れ、風邪を引いて体調不良であるように装った。
- 引退セレモニーの10カウントの時、引退することの寂しさからか輪島は両耳をふさいでしまった。
- フジテレビボクシング中継の解説者として、技術論を語る矢尾板貞雄に対し、苦労人らしく人情論を説いた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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