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具志堅用高 - Wikipedia

具志堅用高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

具志堅 用高
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基本情報
本名 具志堅 用高
通称 カンムリワシ
階級 ライトフライ級
国籍 日本
誕生日 1955年6月26日(52歳)
出身地 沖縄県石垣市
命日
死地
スタイル 左ファイタータイプ
プロボクシング戦績
総試合数 24
勝ち 23
KO勝ち 15
敗け 1
引き分け
無効試合

具志堅 用高(ぐしけん ようこう、1955年6月26日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロボクサーで、第3代WBA世界ライトフライ級王者。

目次

[編集] 人物

ニックネームは"カンムリワシ"。右利きからの改造サウスポーが多い[要出典]ボクシング界には珍しく、生来のサウスポー(左利き)。ボクシングスタイルはファイタータイプ。血液型A型。

父の具志堅用敬は現在、故郷石垣島の具志堅用高記念館館長を務めている[1]

協栄ジム初代会長の金平正紀が具志堅の世界初挑戦の時に“100年に一人の選手”というキャッチフレーズで売り出した[要出典]

トレードマークは独特のアフロヘアーと口ひげ

[編集] 来歴

沖縄県石垣市生まれ。地元の中学卒業後、沖縄本島に渡り、興南高校に入学。3年時、インターハイモスキート級で優勝。高校卒業後上京。拓殖大学の体育推薦入試に合格していたが、入学を辞退し、協栄ボクシングジムに入門。

  • 1974年5月 プロデビュー。
  • 1976年10月10日 わずか9戦目で世界初挑戦。"リトル・フォアマン"の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・グスマン(ドミニカ共和国)に挑む。前評判では圧倒的に王者有利とされたが、挑戦者が開始当初から軽快に動き回り、2回、4回にダウンを奪う。7回、3度目のダウンを奪ったところで10カウント。沖縄出身者初の世界王者が誕生した。試合後「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と話したことから「カンムリワシ」の異名がついた。
  • 1979年4月8日 8度目の防衛戦を7回KOで勝つ。1977年10月の3度目の防衛戦から6連続KO防衛であり、"世界王座6連続KO防衛"は日本人世界王者では具志堅しか達成していない。
  • 1979年10月28日 防衛回数を遂に"10"の大台に乗せる。
  • 1980年6月1日 12度目の防衛でライトフライ級の世界王座防衛世界新記録(当時)を達成。その後、13度目の防衛にも成功。13連続世界王座防衛もまた全階級を通して日本ボクシング界史上最多記録である。
  • 1981年3月8日 14度目の防衛戦で地元沖縄での"凱旋試合"が実現。前回の防衛戦で対戦したペドロ・フローレス(メキシコ)と再戦。回が進むにつれ、挑戦者のプレッシャーをかわし切れなくなっていく。12回、挑戦者の右ストレートをまともに浴びてダウン。立ち上がり試合続行に応じたが、挑戦者の追撃に襲われる。ここでセコンドからタオルが投入され世界王座陥落。この試合を最後に現役を引退した。

引退後は解説者として活躍する一方、芸能界でのタレント活動にも参加。1994年には日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設。現在は同ジムの会長として後進育成に力を入れ、元日本スーパーフライ級王者の名護明彦、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣らを育てている。

[編集] 戦績

戦目 日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1974年5月28日 4R 判定 牧公一 日本 プロデビュー戦
2 1974年9月10日 4R 判定 牧公一 日本 -
3 1974年12月9日 5R KO 三原忠広 日本 -
4 1975年3月9日 4R KO 新田恭信 日本 -
5 1975年6月29日 6R 判定 ジョー康雄 日本 -
6 1975年10月19日 6R KO 萩野昭二 日本 -
7 1976年1月23日 7R KO セザール・ゴメス・キー アメリカ合衆国 -
8 1976年7月16日 3R KO 滝井利久 日本 -
9 1976年10月10日 7R KO ファン・グスマン ドミニカ共和国 WBA世界ライトフライ級王座獲得
10 1977年1月30日 15R 判定 ハイメ・リオス パナマ 防衛1
11 1977年5月22日 15R 判定 リゴベルト・マルカノ ベネズエラ 防衛2
12 1977年10月9日 4R KO モンシャム・マハチャイ タイ 防衛3
13 1978年1月29日 14R KO アナセト・バルガス フィリピン 防衛4
14 1978年5月7日 13R KO ハイメ・リオス パナマ 防衛5
15 1978年8月13日 6R KO 金莫童 大韓民国 ノンタイトル
16 1978年10月15日 5R KO 鄭相一 大韓民国 防衛6
17 1979年1月7日 7R KO リゴベルト・マルカーノ ベネズエラ 防衛7
18 1979年4月8日 7R KO アルフォンソ・ロペス パナマ 防衛8
19 1979年7月29日 15R 判定 ラファエル・ペドロサ パナマ 防衛9
20 1979年10月28日 7R KO チト・アペラ フィリピン 防衛10
21 1980年1月27日 15R 判定 金龍鉉 大韓民国 防衛11
22 1980年6月1日 8R KO マルチン・バルガス パナマ 防衛12
23 1980年10月12日 15R 判定 ペドロ・フローレス メキシコ 防衛13
24 1981年3月8日 12R KO ペドロ・フローレス メキシコ WBA世界ライトフライ級王座陥落


生涯戦績 24戦23勝(15KO)1敗

[編集] エピソード

  • 琉球王国貴族の家系である[要出典]
  • 上京後は、後援者から沖縄との習慣の違いなどの生活面を気遣われ、紹介された剣道家卯木照邦の元で下宿していた。
  • 文化放送くにまるワイド ごぜんさま~』の邦流のコーナーにゲスト出演した際に、高校卒業後の話題になり、拓殖大学と協栄ボクシングジムとの間で激しい争奪戦があり、具志堅本人は当初、拓殖大学に入学するつもりで上京したが、空港に到着すると協栄ボクシングジムの高橋勝郎マネージャーが待ち構えていて、状況を把握しきれないままジムに連れて行かれ、そのままなし崩し的にプロ転向する事になってしまい、大学への入学を辞退する事になったと発言している。
  • 本人が「そうですねぇ」と言うとき「チョッチュネ」と聞こえることが、片岡鶴太郎らのものまねもあって日本中に浸透。この「チョッチュネ」は具志堅の代名詞にもなっているが、知らない子供から「チョッチュネ」と突然話しかけられるので、一時期困っていたらしい。ちなみに沖縄にはその名も『ちょっちゅね』というお菓子がある。公式サイトのドメインも「www.chocchune.com」(ちょっちゅね・こむ)である。
  • 現役時代、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」にゲスト出演。"CHAGE and ASKA"のASKAとパンチングマシン対決で負け、再挑戦するもまた負けてしまった。ASKAは身長171cm(体重非公開)と一回り以上大きいのだが、それでも具志堅は最後まで納得できない様子であった[要出典]
  • 屋外でのランニングの際に、トレードマークのアフロヘアに飛んで来たハエが絡まり、脱出不能になって死んでいた事がある[要出典]
  • 具志堅が14度の防衛戦で敗れた当時、小学校卒業間際だった八尋史朗は試合をテレビ観戦し将来の同王座奪取を決意した。
  • オールスター感謝祭で、渡辺二郎について島田紳助が「今日はメンバーが1人足りませんねー?」と具志堅に言うと、「1人(拘置所に)入っているから」と平然と返答した[要出典]
  • ユーモラスな発言による笑い話は有名で『カモンはコンクリート(ブロック塀)(”家紋”を”家の門”と勘違いしたらしい)』『デントウは蛍光灯(これも”伝統”と”電灯”の勘違い)』『おとうさんは海を歩いています(”うみあっちゃ~”=”海で歩く人”=方言で”漁師”の意味 ”うみあっちゃ~”を標準語でなんというのかわからず直訳してしまった)』『(クイズ番組で)ラッキーセブンの5』などは沖縄の人間で知らないものはいないほど。2006年はこの発言集をまとめた本まで出版されている。
  • 元プロボクシング世界チャンピオン有志が中心となって関西で開催している「チャンプチャリティーゴルフ大会」を通して、盲導犬の普及活動を進めている。2004年10月から2005年3月には、サンテレビジョンで盲導犬の社会啓発活動番組「具志堅用高のチョッチュネー!盲導犬~光に向って走れ~」のパーソナリティーを務めた。
  • ラーメンチェーン店「ラーメンとん太」の千葉県流山市内の店舗のオーナーだった事もある。とん太イコール具志堅のラーメン屋というイメージが強いが、あくまで1店舗のオーナーでとん太の社長ではない。新メニュー「ソースラーメン」発売の際CM出演している。
  • なぜか全日本ホストグランプリの審査委員長も務めている[2]
  • ガッツ石松輪島功一と共に出演した奥の細道を題材にした旅番組の俳句を作るコーナーで、指を折りながら五七五を数えていたにもかかわらず、出来た俳句は「みちのく 一人旅 志」というものだった。また、同番組でボケまくるガッツ石松、本気で酔っ払ってしまった輪島功一の行動に対して、「先輩!先輩!」と二人をコントロールする一面も見られた[要出典]
  • 亀田兄弟の非常識な振る舞い、対戦相手・戦績の問題点、反則スタイルなどに対し、くりかえしテレビ番組などで問題を指摘し、改めるよう発言している[3]
  • 2008年1月8日、千代田カントリークラブ(茨城県かすみがうら市)の西コース7番ホール(154ヤード、パー3)で、ホールインワンを達成した[要出典]

[編集]

  • 拳(こぶし)(1979年)

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
ヤクルトスワローズ
日本プロスポーツ大賞受賞者
1979~1980年
次代:
中野浩一
前王者

ファン・ホセ・グスマン

第3代WBA世界ライトフライ級王者

1976年10月10日 - 1981年3月18日

次王者

ペドロ・フローレス

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