金平正紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金平 正紀(かねひら まさき、1934年2月10日 - 1999年3月26日)は、ボクシング指導者。広島県広島市出身。長男は現・協栄ボクシングジム会長の金平桂一郎。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 青年期‐ジム設立
父親も広島市内段原でボクシングジム「金平ジム」を経営していた。自身も高校時代にボクシングを始め、呉市にあった芸南高校(荒廃校として著名であった。現在は廃校)を1年で中退して上京。野口ボクシングジム(目黒ジム)に入門しフライ級で活躍する。日本チャンピオンにはなれなかったが、国内ランキングでは1位、師匠譲りのファイター型のボクサーとして目黒ジムの四天王と呼ばれた。
1958年に引退後、しばらくはマネージャーとして活動するが、ボクシングから身を引くことと決意し、とんかつ屋を開業する。新規にアルバイトを募集したところ、応募してきたのが海老原博幸であった。海老原とグローブを交え、天与の才能を見出した金平は、とんかつ屋を畳み1959年、「金平ジム」(のちの協栄ジム)を設立する。ジム生は海老原一人であった。
[編集] トレーナーとしての活躍‐永久追放
4年後の1963年、遂に海老原をWBA・WBC世界フライ級王者に導く。その後は西城正三(WBA・フェザー)、具志堅用高(WBA・Jr. フライ)、上原康恒(WBA・Sフェザー)、渡嘉敷勝男(WBA・Lフライ)、鬼塚勝也(WBA・Sフライ)、勇利アルバチャコフ(WBC・フライ)、オルズベック・ナザロフ(WBA・ライト)、佐藤修(WBA・Sバンタム)、坂田健史(WBA・フライ)、と国内最多10人の世界チャンピオンを育てた。佐藤修と坂田健史は金平の他界後にチャンピオンになったが、高校アマボクシングで凡庸な戦績だった彼らの才能を見出し、ジムに入門させたのは金平である。
プロモーターとしてまとめた世界タイトルマッチ級の試合は100を超え、米国のドン・キングになぞらえ「日本のドン」、あるいは「顔役」などの異名を取った。自らは「業界の暴れん坊」を自称、1972年には王座を明け渡した西城を擁してキックボクシングの興行にも乗り出す。全日本ボクシング協会から利敵行為だと除名され、同名の「第二協会」を結成するが1980年、両協会の和解に伴う会長選で当選し全日本ボクシング協会会長に就任した。
名声の一方で「巨悪」の影は付いてまわったが1982年、世界戦で具志堅・渡嘉敷の対戦相手の選手の食べ物に毒物を入れる薬物投与事件が発覚、永久追放となった(1989年解除)。
[編集] 晩年
こうした挫折をものともせず、いち早く国際戦略にも乗り出す。実子の桂一郎をロシアに、甥のマック金平をメキシコに語学留学させ、ソ連解体を見て取るや、アントニオ猪木と組んでロシア人ボクサーの輸入を実現。晩年には北朝鮮から五輪金メダリストの招聘を画策した。
1997年にはK-1 JAPAN GP参戦も表明し、シュートボクシング初代全日本カーディナル級王者大村勝巳を専属トレーナーに招聘しK-1キョウエイジムの看板も掲げていた。
1966年、静岡県で起きた袴田事件の「無実のプロボクサー袴田厳を救う会」の発起人になる(現在も係争中)。
1992年、女性ファンの多かったミッキー・ロークを来日させて試合をさせたが、ロークの軽くかすったような猫なでパンチ一発で相手が倒れ、ロークの1ラウンドKO勝ち。この試合をメインにして、ソ連の崩壊(ペレストロイカ)で連れて来た勇利アルバチャコフ戦を前座にしたため、ボクシング・ファンからは大顰蹙を買ったが大きな話題を呼んだ。
1999年、大腸がんで死去。享年65。協栄ジムの経営は長男の桂一郎が引き継いだ。
金平最後の弟子・坂田健史が苦節10年目の2007年3月19日、WBA世界フライ級チャンピオンに輝いた。
[編集] 逸話
- 中学卒業後、横浜でケンカ、ケンカの毎日を送っていたジョー山中の腕っぷしの強さを聞きつけ自ら出向いて1962年スカウト、その日のうちに上京させ協栄ジム入りさせた。ジョーは三年間、きついトレーニングとアルバイトを両立させ頑張ったが、プロテスト後の新人戦前の無理な減量で脱水症状を起こし棄権、そのままジムもボクシングも辞めてしまった。横浜に戻って友人に誘われ程なくして音楽を始めという[1]。