景山民夫
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景山 民夫(かげやま たみお、男性、1947年3月20日 - 1998年1月27日)は、日本の小説家、放送作家。本名同じ。放送作家としてのペンネームに大岡 鉄太郎(おおおか てつたろう)。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
1947年3月20日、警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎を父として、東京都千代田区神田で生まれる。本籍地は広島県広島市[1]。元々、景山家は広島県三次市の出で親戚はみな三次市にいる[2][3]。母方の祖父橋本清吉は福島県知事や岡山県知事、衆議院議員(改進党)などを歴任。
千代田区内にある暁星小学校に入学後、父の中国管区警察局公安部長転任に伴い広島市に転居。私立の暁星から終戦数年の広島市立の普通の小学校に入ったため、強烈な広島弁、被爆で背中一面ケロイドの担任の先生、夜店で拳銃を売買する光景を目撃し大きなショックを受ける[4][5][6]。広島の後、山梨県に転校。さらに両親は秋田県に転勤となったが武蔵中学を受験・入学したため秋田には行かず、その後は東京・半蔵門で育つ。武蔵高校を経て、慶應義塾大学文学部、武蔵野美術短期大学デザイン科中退。武蔵高校の同級生に高平哲郎がいる。大学時代にカレッジフォークグループ「モダン・フォーク・フェローズ」にベースとして参加。
[編集] 作家として
1968年に放送作家となり『シャボン玉ホリデー』を手掛ける。1969年にアメリカに渡り、サンフランシスコのブロードウェイ近くのコーヒーショップでギターの弾き語りとして働いていたが、市民権やワーキングビザはおろか社会保障カードすら持っていなかったため移民局に目をつけられてニューヨークに逃亡。1年半の間ニューヨークで生活する。ニューヨークでは、グリニッチ・ビレッジのコーヒーショップ「フォーウィンズ」でフォーク歌手として出演していた。
帰国後、再び放送作家として『タモリ倶楽部』『11PM』『クイズダービー』等数多くの番組の構成を手がける。同じく放送作家の高田文夫と『民夫君と文夫君』のコンビを結成、「立川八王子」として落語立川流に入門、三浦和義のパロディー、「フルハム三浦」として『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんプロレス」にプロレスラーとして出演するなど、自身も盛んにメディアに登場した。
バラエティに対する確固とした哲学を持っており、当時テレビ界で活躍していた数々の人間が彼の批判の矛先となった(高平哲郎、萩本欽一など)。また数々の番組を降板し潰してきた事でも有名。ビートたけしから「この人ほど番組潰してきた作家はいない」と評されている。この辺の顛末は当時『宝島』誌に連載していた自身のエッセイ『極楽TV』に詳しい。
中学から大学を通じての後輩である小黒一三の依頼によりエッセイ『普通の生活』を雑誌『ブルータス』に連載しエッセイストとして注目される。1987年 『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞受賞。同時受賞は吉行淳之介。小説家としての処女作となる冒険小説『虎口からの脱出』で1987年 第8回吉川英治文学新人賞、第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞受賞。1988年 『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞受賞。
その感性は車を所有する点でも、印税を受け取りに行った帰りに当時47万円のスズキ・アルトを買ったり、払い下げられた消防車を「目立つし、合理的だから」と乗り回す。ロールス・ロイスに乗るビートたけしに対抗して、中古のキャディラック・セヴィルを衝動買いするなど、シャレのきつい面があった。
[編集] 幸福の科学
若い頃より、ネス湖のネッシーや幽霊などをはじめとする超常現象や、原子力発電やゴミ問題などの環境問題に深い関心を寄せる。後年には宗教法人「幸福の科学」の信者となり、1991年に「講談社フライデー全国被害者の会」の会長として同じく信者の小川知子とともに登場した際は、講談社の書籍を焚書するなどの過激な行動が話題となり世間を仰天させた。
その後、この強烈なマスコミ批判が敬遠され、相次いで連載が打ち切りになった他、景山と距離を置いた友人(高田文夫や小林信彦など)もいた。 そんな景山を、小林信彦は、「宗教に入ってからも、マスコミ人景山民夫はテレビやラジオに出、いろいろとサービスをしていた。使い分けをするつもりだったのだろうが、本心は宗教にあったとぼくは思う」(『人生は五十一才から』)と推察している。
[編集] 死去
1998年1月26日深夜に、自宅書斎で喫煙しながら趣味であるプラモデル制作をしていたところ、気化した溶剤に引火し火事が発生し、27日午前1時半頃に死去したとされる。享年50。死因に関しては当初、やけど、もしくは一酸化炭素中毒と報じられたが公式には特定されていない(検死は行われたが公表されていない)。景山民夫は実のところあまり器用なほうではなくプラモデルなど作らない人間であったことから、知人・友人の間ではその死に至る状況に疑念が残るという。文壇での近しい知人が遺体安置所に訪れたところ、顔も上半身もきれいで生命に関わるような重度のやけどは認められなかった、とのこと。
出棺の際、妻は、大好きだった『トラブルバスター』の田所局長の言葉を引用します、と前置きの後、「バカヤロー! 寂しいじゃねーか!」と、早すぎる死を悼んでいた。しかし、葬儀は幸福の科学がとりしきり(葬儀委員長は小室直樹)、高田文夫らかつての仲間達は一様に違和感を抱いたと言われる。北野武は「あいつも宗教の道に入らなければもっと長生きできたかもしれないのに」と嘆いたそうである。一説には、景山は死の一週間前には教団関連の書物をすべて処分し絶縁を図ったという噂もある。なお、死後、幸福の科学は機関誌で「霊界の景山から『私の人生も完全燃焼でした』という内容のメッセージが届いた」と発表した。但しこれは死因を焼死だとしたものである。また、教祖はその後、景山が霊として訪ねて来た、と発言をしている。
なお死後、長年審査員を務めた『料理の鉄人』には、彼を追悼するテロップが流された(逝去直前に収録されていた回があり、それを放送するため)。また、同日放送された他局番組『探偵ナイトスクープ』でも登場する場面があった為、収録日時を表示した。
日本のテレビ界、文学界に功績を残してきた景山だが、晩年の宗教がらみのトラブルや過激なマスコミ批判により彼の功績を取り上げるメディアも現時点では皆無に近い。
[編集] 作品リスト
- 1988年『ONE/FINE/MESS世間はスラプスティック』- デビュー作となったエッセイ集。第二回講談社エッセイ賞を受賞。同時受賞は吉行淳之介。
- 1989年『普通の生活』
- 1990年『極楽TV』 - 放送作家時代に雑誌連載されたエッセイ。同名のテレビ番組はこれからタイトルを取った。
- 1990年『虎口からの脱出』-(第8回吉川英治文学新人賞受賞、日本冒険小説大賞最優秀新人賞受賞、直木賞候補。
- 1990年『イルカの恋、カンガルーの友情』
- 1992年『トラブルバスター』-テレビ局の内幕を描くエンタティンメント作品。 監督・井筒和幸、主演・鹿賀丈史で映画化。
- 1992年『ガラスの遊園地』-自らが関わってきたテレビへの憧れと決別を語っている
- 1992年『遠い海から来たCOO』 -直木賞受賞作。 東映アニメーションで劇場アニメ化されている(脚本は、景山が敬愛する映画監督岡本喜八)。
- 1992年『どんな人生にも雨の日はある』
- 1993年『ボルネオホテル』-初の本格ホラー小説
- 1993年『食わせろ!!』 - エッセイ集。痛快な毒の有る文章を描く
- 1995年『だから僕は旅に出る』- 原題『旅立てジャック』。人生は旅にあるというほど旅行好きであった。
- 1996年『野鼠戦線』- 『虎口からの脱出』に続く冒険活劇。
- 1997年『リバイアサン1999』 - 世紀末をテーマに描く近未来SF
- 1997年『時のエリュシオン』-前世を巡るスピリチャルファンタジー。
- 1998年『オンリー・イエスタディ』 - 「神山公夫」という少年の私立の名門校「大和中学・高校」での日々を描いた作品。自伝的小説。
- 1998年『さよならブラックバード』- 「いじめ」をテーマにしたエンタティンメント作品。
- 1999年『ハッピーエンドじゃなけりゃ意味がない』- 死後刊行された遺作集。
- 『転がる石のように』
- 『ハックルベリーフレンズ』
[編集] 構成を担当した番組
- 『ヤング720』
- 『クイズダービー』
- 『出没!おもしろMAP』
- 『タモリ倶楽部』
- 『11PM』
- 『高橋幸宏のオールナイトニッポン』
- 『極楽TV』
- 『笑ってポン!』
- 『景山民夫の大人気セミナー』(おとなげセミナーと読む。自身も出演。中京テレビ放送)
[編集] 出演したラジオ・テレビ番組
- 『ヤング720』(TBS)
- 『11PM』(日本テレビ)
- 『オレたちひょうきん族』(フジ)
- 『民夫くんと文夫くん』(ニッポン放送)
- 『テレビ・ジョッキー』(TBSラジオ)
- 『世界まるごとハウマッチ』(TBS)
- 『スーパーギャング~ピテカントロプスの逆襲』(TBSラジオ)
- 『TVクリティクス』(フジ)
- 『料理の鉄人』(フジ)
[編集] エピソード
- 身長が185センチもあったのは[7]、大正生まれの父親が176センチと当時としては大柄であり、かつ母親も比較的大きかったためと思われる。身長のためか中学、高校とバスケットをやっていたが進学校ということもあり、スポーツへの情熱はさほどなかったようである。
- ユーモア精神は映画やテレビで小さい頃から培われていたが、小さい頃から父親に寄席に連れて行ってもらっていたせいか落語も好きで、高校では落研にも所属。後年立川談志の立川流に入門、立川八王子を名乗っていた。
- 小学校6年の時に父の転勤で甲府へ。この時UFOを目撃する。これは個人的な体験ではなく、当時新聞にも載った有名な事件だった。もっとも当時はUFOではなく“空飛ぶ円盤”であったが。
- 武蔵中学に入学が決まっていたために、麹町の祖母の家に下宿する。甲府から戻ってみると、東京のTVチャンネルの多さに驚いた。同時にアメリカのバラエティ番組「ペリー・コモショー」「アンディ・ウィリアムス・ショー」や「パパは何でも知っている」などに夢中になった。この年、渋谷のリキパレスの前で本物の力道山を見る。
- 中1の終わりに小児リューマチにかかり入院し、1週間意識がなく、高熱が4週間も続いた。注射をどんどん打たれたためホルモンの異常をきたし、入院時に38キロ足らずしかなかった体重がわずか2ヶ月で73キロになった。病院を抜け出して蔵前国技館へ行き花道で相撲を見ていたら、やにわに後ろの人が肩をたたき、次に腰をたたいた。振り返ってみると、それは初代の若乃花であった。仕事熱心な親方は、相撲にふさわしい体かどうかを触って確かめたのであった。もちろん、体重は病気が全快すると風船がしぼむようにもとの体重に戻ってしまった。
- この大病の時に臨死体験をする。「僕は病気をして、これこれの体験をして、こういうものを見ました。だから、もう死ぬことが怖くなくなりました」と当時の作文に書いた。
- 14歳の時、八方尾根であるスキー合宿の帰りに、父親の友人が経営している甲府の旅館に一人で泊まった時に、初めて「幽霊」を見る。そのせいで、なかなか眠れず、台所に忍び込んでビールを飲む。
- 中学の時、「ウエストサイド物語」に出演していたタッカー・スミスにあこがれ、前髪を脱色して金髪にしてしまった。当然教師から追及されたが「いえ、僕は生まれてから、ずっとこういう髪の毛です」と言い張った。
- 武蔵中学から武蔵高校に上がる時の成績は151名中147番。
- 武蔵高校で「制服着ない運動」というのをやったら教師に叱られたので、その対抗手段としてアメリカン・ファーマシーで大量に買ったスウェットシャツに〈MUSASHI〉とプリントしたのを着て登校し、それを友だちにも売った。夏場には校章まで入ったTシャツをつくる。学校にしてみれば実にイヤミなガキだった。この頃すでに放送作家になることを決心していた。
- 芸大の油絵学科と慶應の文学部を受験したが、芸大の最終の試験日が重なり、結局慶應の文学部へ進む。日吉で2食付きの下宿生活。すぐにグラフィック・デザインをやる〈商業美術研究会〉に入る。そのクラブで流行のフォークバンドをつくろうということで、ベースを担当することになる。ベースを持たされて3日目にはステージに立っていた。慶應で留年を重ね、1年生を2回繰り返しても進級できず退学処分を受ける(したがって専門課程には上がっていない)。その後、デザイン関係の仕事がしたくなり、武蔵野美術短大デザイン学科に移る。
- 春から武蔵美のキャンパスがロックアウトされアメリカに旅立つ。サンフランシスコ、ニューヨーク、ニューオーリンズなどに滞在。いきなり英語が話せる自分にビックリする。1日の差で歴史的なコンサート「ウッドストック」を見逃した。
- 1日だけサラリーマンを経験する。結婚相手の父親の要望で博報堂に入ったが、とても勤まらないと思い、1日で退職した。武蔵野美術短大の同級生と結婚して飯倉片町のマンションに住む。長女生まれる。
- 妻との行き違いから離婚成立。月々35万の生活費・養育費を15年間払うことを自ら決める。
- 39歳で再婚。文筆業一本に絞ろうと思い、放送作家としての仕事を断り始める。その結果、年収が一挙に半分になる。
(この項、『ハッピーエンドじゃなけりゃ意味がない』の年譜参考)
- 「講談社フライデー全国被害者の会」を結成した際、フライデー事件の当事者であるビートたけしに入会を勧めたが、当のたけしは「オレは『加害者の会』の会員番号1番だから…」とたけし流のジョークでやんわりと断っている。
- フルハム三浦として「ひょうきんプロレス」に出演した際、松本竜助に大根による攻撃を受けて肋骨を骨折した。医者に行ったものの理由があまりにも情けないため「ラクビーしてて骨折しました」と嘘を付いたという。