萩原健太
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萩原 健太(はぎわら けんた 1956年2月10日 - )は埼玉県出身の音楽評論家、ディスクジョッキー、プロデューサー、作曲家、ミュージシャン。
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[編集] 来歴・人物
父親は裁判官。早稲田高等学校を経て早稲田大学法学部に進む。在学中は放送研究会に所属。
あらゆるポップ・ミュージック(特にアメリカ音楽)に精通しているが、特にビーチ・ボーイズとエルヴィス・プレスリーのマニアである。
1978年に大学を卒業し、同年、早川書房に入社。敬愛する大瀧詠一にインタヴューを行った際に言われた言葉「君は南海ホークスのままで終わるのか? 読売ジャイアンツになる気はないのか?」がきっかけで、1981年6月に早川書房を退社し、フリーランスとなる。1987年、学生時代から面識があった桑田佳祐のインタビュー集「ロックの子」を講談社から刊行。
1989年から1990年まで、TBS系列「三宅裕司のいかすバンド天国」に審査員として出演。グラムロックバンドマルコシアス・バンプを世に送り出すなどの功績を立てた。このほか、後番組星期六我家的電視・三宅裕司の天下御免ね!の音楽パフォーマンス部門においてWARKを見出すなど、多くのバンド、ミュージシャンを発掘している。
ディスクジョッキーとしても1980年代中盤より活動している。NHK-FMで佐野元春や甲斐よしひろの「サウンド・ストリート」の構成を担当後、自ら後続番組「ミュージック・シティ」のパーソナリティを担当。1996年4月から、NHK-FM「ポップス・グラフィティ」の月曜パーソナリティーを務めたが、2005年3月に番組が終了した。
ミュージシャンとしては、黒沢健一と共にアコースティック・カヴァーユニット"健'z"を結成。さらにサーフインストバンド"ダディ&ザ・サーフビーツ"にギタリストとして参加している。
また、ユースケ・サンタマリアがヴォーカルを務めていたラテンロックバンド「BINGO BONGO」のプロデューサーでもあった。米米CLUB、山崎まさよしなどのプロデュースも行っていた。
夫人は同じく音楽評論家でCRT主催者の能地祐子。
現在は「タモリ倶楽部」で定期的に放送されている「空耳アワード」に審査員として出演している。
[編集] エピソード
- TOKYO FMラジオ日曜の長寿番組・『山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック』で番組が始まった頃、スタッフを担当。この番組は山下自身が所蔵する音源からオールディーズを中心とした曲を流しているが、番組が始まった頃、山下が「どしどしリクエスト下さい。私と萩原健太で揃えられないレコードはありません」と言っていた。萩原も米『ビルボード』誌の歴代トップ100チャートに載ったシングル盤を全て揃えることを目標にしているほどの、有数のオールディーズコレクターである。
[編集] 主な提供曲・プロデュースワーク
- 「CANDY」ココナッツ・ボーイズ(後のC-C-B)(作曲・プロデュース)
- 「フォーチュン・クエスト~いつか叶う夢」笠原留美(作曲)
- 「ボクはパワー」相原勇(プロデュース)
- 「米米CLUB」米米CLUB(プロデュース)
- 『五木』(1992)五木ひろし(編曲・共同プロデュース)
[編集] 著書
- 「ポップス・イン・ジャパン」(新潮文庫)1992年
- 「はっぴいえんど伝説」(シンコー・ミュージック)1992年
- 「ロックの歴史 ロックンロールの時代」(シンコー・ミュージック)1993年
- 「萩原健太のポップス・スクラップブック」(主婦の友社)1994年
[編集] アルバム
- 「健'z」(DDCZ-1041)
[編集] 出演番組
[編集] 過去
- Canon FMワンダーランド(TOKYO FM、『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド~やさしい夜遊び~』の前身、パートナー ちわきまゆみ)
- ワーナー インディーズセレクション(TBSラジオ)