木村太郎 (ジャーナリスト)
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木村 太郎(きむら たろう、1938年2月12日 - )は、逗子・葉山コミュニティ放送株式会社(通称名・湘南ビーチFM)代表。
フジテレビ系「FNNスーパーニュース」のコメンテーターも務める。元NHK記者。
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[編集] 経歴
アメリカ合衆国カリフォルニア州に生まれる。慶應義塾高等学校を放校後(ビリヤードに通いつめたとの弁)、東海高校、慶應義塾大学法学部卒業。3年間、外国に遊学に行っていたため7年で学部を卒業した。当時の慶應義塾大学には木村の型破りな行状を受け入れる素地が薄く「慶應はじまって以来のボンクラ」と陰口をきかれたこともあったという。[要出典]就職活動もままならず、ゼミナールの指導教員だった生田正輝の紹介でNHKを受験。
NHK就職後、報道記者として活動。
初任地はNHK徳島放送局。以後NHK神戸放送局社会部記者を経て、外信部へ移り、ベイルート、ジュネーブ、ワシントンと海外支局特派員を経験する。
1982年からは同局の総合テレビでの看板ニュース「ニュースセンター9時」のメインキャスターを務め人気を博し、1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故では記者会見を差し置いて、乗客名簿の読み上げを優先させるようにするなど、記者時代の感覚でニュースの重要度を判断した。
1988年の番組終了時に上司から管理職の打診があり、生涯現場を希望していた木村は熟慮の末、NHKを退社してフリージャーナリストとなり、その年のアメリカ大統領選挙をフジテレビの現地キャスターとして取材した。
1989年4月からはフジテレビ「FNN DATE LINE」のメインキャスターに就任。1990年4月からは「FNN NEWSCOM」のメインキャスターを務め、エンディングの駄洒落が話題となった。
1994年4月からの「ニュースJAPAN」ではコメンテーターとして出演、2000年4月からは「FNNスーパーニュース」のコメンテーターとなる。
2001年7月3日の「スーパーニュース」の放送中に沖縄米兵婦女暴行事件について「日本側の交渉に幸いとなる事件かも知れない」と失言し、視聴者から非難が殺到し(特に沖縄県では凄かった)、一時降板。ほとぼりが冷めた頃に復帰。その後も、たびたび失言するが番組上で謝罪するに留まっている。最近では高野連の特待生処分に対して擁護する発言を行い、批判を浴びている。
1993年開局の神奈川県のコミュニティFM(湘南ビーチFM)の代表を務めている。 2007年10月4日 株式会社ドリーム・トレイン・インターネット(DTI) 社外取締役に就任
[編集] エピソード
インターネットを黎明期から使用している。出会いはアメリカでの記者生活のとき、新聞の早刷りをインターネットを通じて知りえたことという。「ニュースJAPAN」のころは自分で回線を繋ぎ、パソコンに内蔵の百科事典と共に愛用していた。
意外にもiPodのユーザーらしく、孫に「iPod shuffle」を買ってあげたらしい。2005年7月24日に25時間テレビ内で朝に放送された「FNNスーパーこどもニュース」では観客である子どもたちの中にその孫がいた。これがきっかけなのかはさておいて、ポッドキャスティングには湘南ビーチFMも参加している。また、IT関連のニュースについても比較的明るい一面を持つ。
パートナーを組む安藤優子にコメントを求められるとき、安藤の見方とは違う論点を発言するよう努めている。コメンテーターとしての地位が確立されているが、折に触れ国政選挙や台風中継を現場でリポートしている。また、阪神・淡路大震災ではNHK時代の初任地、徳島から取材を開始した。
[編集] その他
[編集] 出演番組
テレビ
- ニュースセンター9時(NHK) - 1982年4月~1988年3月
- FNN DATE LINE(フジテレビ) - 1989年4月~1990年3月
- FNN NEWSCOM(フジテレビ) - 1990年4月~1994年3月
- LIVE'94~2000 ニュースJAPAN FNN(フジテレビ) - 1994年4月~2000年3月
- FNNスーパーニュース(フジテレビ) - 2000年4月~
ラジオ
- クマヒラ・木村太郎のワンダーランド(TBSラジオ・JRN) - 1989年10月~1990年3月、1990年10月~1991年3月。初回(第1週)ゲストは『NEWS23』メインキャスター・筑紫哲也。報道・ニュース系の裏番組同士のキャスター出演は話題にもなった。
また、「吉田照美のやる気MANMAN!」(文化放送)にゲストとして呼ばれて、文化放送まで来ていたものの、番組の内容がくだらないという理由で番組出演の前に帰ってしまったことがある。