近衞文麿
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近衞 文麿 (このえ ふみまろ) |
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在任期間 | 第1次: 1937年6月4日 - 1939年1月4日 |
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生年月日 | 明治24年(1891年)10月12日 |
出生地 | 東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区) |
出身校 | 京都帝国大学 |
学位・資格・称号 | 公爵 学士(京都帝国大学) |
前職 | 貴族院議長 |
世襲の有無 | 貴族院華族議員 (家族・親族参照) |
選挙区 | 貴族院議員 |
当選回数 | |
党派 | 中間内閣 |
没年月日 | 昭和20年(1945年)12月16日 |
近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年(1891年)10月12日 - 昭和20年(1945年)12月16日)は、日本の政治家。第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣。
爵位は公爵であり、かつ五摂家筆頭である近衛家の当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 生い立ち
近衛文麿は1891年(明治24年)10月12日、公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍の間の長男として、東京市麹町区(現 千代田区)で生まれた。彼は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると天皇家に行き着く。しかし母は文麿が幼いときに病没、篤麿は衍の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった[1]。
父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衛の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。
この苦境を救ったのは、同じ公家出身の政治家・西園寺公望である。西園寺は、篤麿とは政敵とも言える状況にあったが、文麿の聡明さは高く評価して援助を惜しまなかった[2]。 後に第一次世界大戦後のパリ講和会議に日本全権として参加した際にも近衛を秘書として伴っている。こうして文麿は、父のアジア主義よりも、西園寺の欧米型自由主義に感化されることとなったが、自らの後継者を育てたいという西園寺の思惑とは裏腹に、文麿は次第に目先の新しいものに目移りする無定見さを見せ始めるようになる[3]。
学習院中等科を修了後、華族の師弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。在学中の1914年(大正3年)には、第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」として発表した。しかし、これは発売頒布禁止処分となり、近衛は宮内省に呼ばれて厳重注意された。
なお東大時代には、のちに「宮中革新派」などと呼ばれて政界で活躍する木戸幸一(後に内大臣)や原田熊雄(後に西園寺公望秘書)などの華族の子弟と親交を深めている。
[編集] 政界へ
1916年(大正5年)、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。1919年(大正8年)のパリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、見聞を広めた。
その後、1927年(昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸・徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を得るとともに、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。
また五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人にあっては長身であった)に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
1936年(昭和11年)の二・二六事件直後には岡田啓介首相の後継として初めての大命降下があったが、この時は健康問題を理由に辞退している。辞退の真因に関しては各説あるが、近衛が親近感をもっていた陸軍皇道派の勢力が相沢事件とそれに続く二・二六事件により失墜していたことから、政権運営の困難を感じていたのではないかとの説がある。
[編集] 第一次内閣
1937年(昭和12年)6月4日に、元老・西園寺の推薦の下で、各界の期待を背に第1次近衛内閣を組織した。その直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衛は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺は、荒木が唱えだした頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。
7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発。7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにもかかわらず、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表。しかし、その後の国会では「事件不拡大」を言い続けた。7月17日には、1千万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにも拘らず、9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加した。
8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衛と蒋との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衛は杉山元陸相に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。
この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衛は杉山に強い不信感を抱くようになる。
8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日に上海で、蒋介石軍の挑発による上海事変が勃発。それに応じて、8月13日に、二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日には、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表。8月17日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。
9月2日には「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、「支那事変」が日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚。12月13日に南京攻略。
翌1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針が決定され、ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、1月14日に和平交渉の打切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。更に、汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。5月5日には、支那事変のためとして、国家総動員法や電力国家管理法を成立させ、経済の戦時体制を導入し、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連の第一次五ヶ年計画の模倣である。3年後の1941年(昭和16年)に制定された国民学校令は、ナチス率いる当時のドイツのフォルクスシューレを模倣した教育制度である。
この頃に近衛は、閑院宮陸軍参謀総長らに根回しをすることで杉山の更迭を成功させた。後任には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、山東省の最前線にいた板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣している。この時期の内閣改造では、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚にと考えていた人たちが主に入閣し、これにより軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。この際に近衛は、宇垣一成を外相に迎えたが、宇垣の和平工作を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衛が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。
8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大日本党の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である。11月3日に「東亜新秩序」声明を発表。1939年(昭和14年)1月5日に内閣総辞職する。
[編集] 新体制の模索
近衛の後を承けたのは前枢密院議長の平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衛内閣から法相(兼逓相)、文相、内相、外相、商工相(兼拓務相)、海相、陸相の七閣僚が留任したうえ、枢密院に転じた近衛自身も班列としてこれに名を連ねたため、あたかも首をすげ替えただけの様相を呈すことになった[4]。
8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という迷言を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツがポーランドに侵攻、これを受けてイギリスやフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始る。
平沼の後は陸軍出身の阿部信行と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当したが、この間の近衛は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)5月26日には、木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成。再度、ソ連共産党やナチ党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。6月24日に「新体制声明」を発表している。
欧州でドイツが破竹の進撃を続けるなか、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇が「海軍の良識派」として知られる米内を特に推して組閣させたという経緯があったのだが、陸軍がそれを好感する道理がなかった。半年も経たない頃から、陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。かわって大命が降下したのは、近衛だった。この際、「最後の元老」であった西園寺は近衛を首班として推薦することを断っている。
新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に望むことになった近衛は、閣僚名簿奉呈直前の7月19日、荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東条英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。
[編集] 第二次内閣
1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、議会制民主主義は死を迎えた。
しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。
また、新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が財界から反発を受け、小林一三商工相は経済新体制要綱の推進者である岸信介次官と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。近衛は革新官僚を「国体の衣を着けたる共産主義者」として敵視し、12月の平沼騏一郎の入閣で、経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らは更に経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた。
9月23日、北部仏印進駐。9月27日に日独伊三国軍事同盟を締結。
1941年(昭和16年)4月13日に日ソ中立条約を締結。近衛らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案がアメリカに送られたが、アメリカは修正案を黙殺した。
6月22日に独ソ戦が勃発、ドイツ・イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡外相は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。
7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外相と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対しては7月28日南部仏印への進駐を行なったが、これはアメリカによる経済制裁を招く結果となる。アメリカでの日本の経済活動がすべてアメリカ政府の管理下に置かれ、そして日本の南部仏印の進駐を確認した上で、石油の対日輸出が全面禁止された。
これらを受けて近衛は7月18日に内閣総辞職した。
[編集] 第三次内閣
1941年(昭和16年)7月18日に、第3次近衛内閣を組織。これは、アメリカの要求を飲んだかのように見せかけたもので、実際はもう既に足枷でしかなかった松岡洋右を更迭しただけで、殆ど変わっていないのが実情であった。代わって外相には、南進論の豊田貞次郎海軍大将を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を奪い、7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城。しかしこれに対するアメリカの対日石油全面輸出禁止により日本は窮地に立たされることとなった。
9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。アメリカ、イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ、オランダ、イギリスに対する開戦方針が定めらた。
御前会議の終わった9月6日の夜、近衛はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部(陸軍管轄)は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛は豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東条英機陸相は総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求し、両者は東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致し、10月16日に内閣は投げ出され、10月18日に総辞職した。ただし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東条が次期首相となった。近衛は東条首相を推薦した重臣会議を欠席しているが、当時91歳の清浦奎吾が出席していたのと対比されて後世の近衛批判の一因となった。
[編集] 終戦工作
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年(昭和17年)のシンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衛をスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衛も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衛に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
1943年(昭和18年)から、近衛とそのグループは、やがて「近衛上奏文」につながる軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始める。発端は皇道派軍人の真崎甚三郎や小畑敏四郎たちであった。殖田俊吉もこれに共感し、吉田に近衛と会うべきと言われていた殖田は、小畑と共に近衛にこれを説いた。以降、近衛は、彼らグループの中心として、親ソ的な現在の陸軍首脳部を追うことで終戦を目指すようになる。
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、その際には「このまま東条に政権を担当させておくほうが良い。戦局は、誰に代わっても好転することはないのだから、最後まで全責任を負わせるようにしたらよい」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくする様に考えていた。
1945年(昭和20年)2月14日に、近衛は昭和天皇に対して、早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上した。
戦局が悪化するにつれ、近衛は独自の終戦工作を展開した。それは、スイス、スウェーデン、バチカンなどの中立国を仲介とするものではなく、ソ連による和平仲介だった。しかし、近衛のモスクワ派遣は、スターリンに事実上拒否された。近衛の交渉案は、全ての海外の領土、琉球諸島、小笠原諸島、北千島を放棄し、労働力として日本軍将兵を提供するものだった。
[編集] 戦犯容疑
1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結すると東久邇宮内閣で近衛は国務大臣を務めた。10月4日に、近衛は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪ね、持論の軍部赤化論を説いて、開戦時には天皇を中心とした封建勢力や財閥はブレーキの役割を果たした、と主張し、皇室と財閥を除けば日本はたちまち赤化すると説いた。マッカーサー、サザーランド参謀長およびアチソンGHQ政治顧問はこれに肯き、近衛に憲法改定を託した[要出典]。
しかし、国内外の新聞では、戦時体制を敷いた近衛の責任問題の追及が激しくなり、白洲次郎たちは近衛がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衛を助けようと試みた。しかし、メディアの反応を恐れたマッカーサーは、11月1日に、近衛の憲法改定にはGHQは関与しないとして、近衛を切り捨てた[要出典]。また近衛の責任追及も行われるようになり、砲艦に呼び出され軍部と政府の関係について質問があった。
近衛は、すでに1921年の演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、その後それは現実となったのだが、このような状況はアメリカ側には理解し難い内容であった。しかし、昭和天皇への責任追及を避けるために、統帥権という語は口にできなかった。近衛は、何も答えられなくなった。
近衛は『世界文化』に、「手記~平和への努力」を発表し、日中戦争の泥沼化と、太平洋戦争の開戦の全責任を軍部に転嫁し、自分は軍部の独走を阻止できなかったことが遺憾であると釈明した。1945年12月6日に、GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知った。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。昭和天皇に戦争責任が及ばないようにという、皇室の藩籬として、そして五摂家筆頭としての自覚[5]が促した、苦渋の選択だったという[要出典]。
自殺の前日、次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と言い残した[6]。
葬儀は1945年12月21日に行なわれた。 墓は京都市の大徳寺にある。
[編集] 荻外荘
杉並区荻窪の「荻外荘」(てきがいそう)は、元は大正天皇の侍医頭だった入澤達吉が所有していた郊外の別荘だった。近衛は南に斜面をもった高台に立地し、近くは善福寺川から遠くは富士山までの景勝を一望のもとに見渡せるこの別荘に惚れ込んで、入澤を口説き落としてこれを買い受けている。
名称の「荻外荘」は額面通りの「荻窪の外」で、特に故事成句に因むような深遠な意味はないということになっている。しかし近衛に頼まれてこれを撰名したのは有職故実の奥義に通じた西園寺公望なので、実のところはどうなのかはよくわからない。
近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻窪の方はあくまでも別邸なのだが、近衛はこの荻外荘がことのほか気に入った様子で、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった。
官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衛は政治の場としても活用した。「東亜新秩序」の建設を確認した昭和15年7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応についてを協議した昭和16年10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。昭和16年9月末に近衛から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官の山本五十六が、「是非やれと言われれば初めの半年や一年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、二年、三年となれば、全く確信は持てません」という有名な回答で近衛を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。
こうした変則的な政治手法から「荻外荘」の三文字が新聞の紙面に踊る日は多く、この私邸の名称は日本の隅々にまで知れ渡るようになった。後には吉田茂の「目黒の公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角榮の「目白御殿」などがやはり同じように第二の官邸のような機能をもつが、その先例はこの荻外荘に求めることができる[7]。
荻窪一帯は空襲を免れたため、荻外荘は現在でも近衛が自らの命を絶った日とさほど変らない姿をこの地に留めている。現在でも近衛家の私有地なので内部の見学はできないが、歴史の重みに満ちたその片鱗は塀の外からでも十分に垣間見ることができる。
- 荻外荘:
- 杉並区荻窪 2-43
- JR/丸の内線 荻窪駅 南口徒歩10分
[編集] 近衛一族
[編集] 系譜
- 近衛氏
- 本姓は藤原氏[8]。藤原忠通の子基実を始祖とする。江戸時代初期に嗣子を欠いたため、後陽成天皇の第四皇子が母方の叔父・信尹の養子となり信尋として近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫にあたり、その血統は当時は大勢いた皇族よりもずっと天皇家に近かった[9]。「昭和天皇に拝謁した後の近衛が座っていた椅子の背もたれだけはいつも暖かかった」というのは、文麿が天皇に対して抱いていた親近感を示す有名なエピソードである。
忠通─基実──基通─家実─兼経─基平─家基─経平─基嗣─道嗣─兼嗣─忠嗣─房嗣─政家─尚通─稙家─┐ │ │ ┌───────────────────────────────────────────────┘ │ │ └─前久─┬信尹===┌信尋─尚嗣─基熈─家久─内前─経熈─基前─忠熈─忠房─篤麿─┬文麿─┬─文隆===┌忠煇 └前子 │ └武子 ├─昭子 │ ┠────┴後水尾天皇 ┃ ├─温子 │ 後陽成天皇 大山巌──柏 │ ┠────┴護熙 │ 細川護貞 │ └─通隆
[編集] 家族
妻の千代子とは、公爵という身分には珍しい恋愛結婚だった。華族女学校で一番の美女だったという千代子を一高の学生だった文麿が見初めた一方的な一目惚れだったという。結婚当時は京都帝大在学中だったが、その生活は「学生結婚」という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだった[10]。結婚生活は円満だったが、当時の大身の例にもれず数人の妾を囲い、隠し子もいた[11]。
次女の温子(よしこ)は1937年(昭和12年) 4月、当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚した。その直後に父は総理となり、夫は総理秘書官となる。三年後の昭和15年(1940年)8月、父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった。この温子と護貞の短い結婚生活のなかで恵まれたのが、後に総理となる長男の護熙と、近衛家の養子となった次男の忠煇である。
不仲だった継母の貞は戦時中京都の別邸(現・陽明文庫所在地)に単独で疎開、そこで栄養失調により死去。1945年8月15日のことだった。
- 実家
- 自家
[編集] 系譜
後陽成天皇―信尋―尚嗣―基熈―家凞―家久―内前―経熙―基前―忠煕―忠房―篤麿―文麿
[編集] 文献
[編集] 自著
- 『平和への努力 ― 近衛文麿手記』(日本電報通信社, 1946年)
- 『失はれし政治 ― 近衛文麿公の手記』(朝日新聞社編, 朝日新聞社, 1946年)
- また、近衛が開設した陽明文庫には近衛の関連資料が所蔵されている。
[編集] 評伝
- 内容を圧縮したものとして同『近衛文麿』(時事通信社, 1958年/新装版, 1986年)がある。
- 岡義武『近衛文麿 ―「運命」の政治家』(岩波書店[岩波新書], 1972年)
- 杉森久英『近衛文麿』(河出書房新社, 1986年/河出文庫(上・下), 1990年)
- 中川八洋『大東亜戦争と「開戦責任」― 近衛文麿と山本五十六』(弓立社, 2000年)
[編集] その他
[編集] 関連項目
[編集] 注釈
- ^ 貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」(『近衛文麿公清談録』)。このことが文麿の性格形成に与えた影響はあまりにも大きかった。
- ^ 後に近衛は、西園寺のもとを初めて訪れたとき、西園寺が家格が上の近衛を上座に据えて「閣下」と呼ぶので、子供心に非常に居心地が悪かったと回想している。
- ^ このころ近衛は『英米本位の平和主義を排す』という論文を書いて英米覇権主義を批判、西園寺を困惑させている。
- ^ 週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。「交流」とは、今で言う「合流」「合体」といった意味。
- ^ 奇しくも先祖藤原鎌足が中大兄皇子と大化の改新を始めたのがちょうどこの1300年前のことだった。
- ^ この遺書は翌日にGHQにより没収されている。
- ^ 吉田茂は、近衛の死後この荻外荘を一時近衛家から借りて私邸代わりにしていたことがある。あるとき来客から「なぜまたこちらに」と聞かれた吉田は、「ここにぼくが寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と言ってのけたという。
- ^ 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏総括
- ^ 明治維新後に創設された宮家はほとんどが伏見宮家の系統で、その伏見宮は遠く南北朝時代の崇光天皇の第一皇子・榮仁親王 (1351−1416) を祖としている。
- ^ 以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九毎日新聞社編。京都の新居には女中もいれば書生も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は宗忠神社の事務所として現存している。
- ^ 『宰相近衛文麿の生涯』有馬頼義 著。
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歴代内閣総理大臣 | |||||
第33代 林銑十郎 |
第34代 1937年 - 1939年 |
第35代 平沼騏一郎 |
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第37代 米内光政 |
第38・39代 1940年 - 1941年 |
第40代 東條英機 |
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羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
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