古野伊之助
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古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年(明治24年)11月13日 - 1966年(昭和41年)4月24日)は、かつて存在した日本の国策通信社「同盟通信社」を運営した通信事業経営者。敗戦後はA級戦犯容疑者として逮捕、拘禁されるが無罪となる。公職追放処分の後も、同盟通信社を分割してできた共同通信社、時事通信社だけでなく日本の通信事業体(電電公社やKDDIの前身)、広告代理店の電通に対しても影響力を持ち続けた。
「ニュースの対外的な自主頒布権の確立」「国家代表通信社(National News Agency)樹立」という日本の声を世界へ響かせる大義を為すため心血を注ぐ一方で、太平洋戦争において思想戦の主導的立場にあり、新聞統制においては黒幕として活動。この事が今日の情報関連サービスに大きな影響を与えている。「策士」(他人を陥れる油断のならない人)または「国士」(国を代表する立派な人物)と呼ばれ没後も毀誉褒貶が激しい人物だが、その権力の源泉は軍人や官僚、政財界との結びつきだけではなく国際社会で勢力を伸展させながらも孤立の道を進む日本の変化を捉えていた点にあり、複雑な面を持つ。
赤沼三郎の「新聞太平記」は独自の信念をもち人を取り込む男と古野を評し、御手洗辰雄の「新聞太平記」では岩永裕吉の高潔性と光永星郎の機略にくらべ、狡猾で残忍な人物として描いている。
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[編集] 植民地状態の日本
19世紀の半ば、電話が登場する以前の電機通信システムである電信は国際的に通信方式が乱立状態にあり、時間やコスト、秘匿性からも問題は多かったという。英国下院特別委員会は、海外の植民地経営のためには他国の事情に左右されないで通信機構を自主的に運用する必要があるとして、独自回線の通信網を敷くべしと提言。ここから海底電信線の構想が走り始める。電信法(1868年)により国内の中枢通信網を国営(現在のBTの前身)として買収しており、電信企業家の手に渡った資金は東方電信会社、東方電信拡張会社(現在のC&Wの前身)という「国策民間電信会社」の資本に充当されている。1902年に世界を一周した電信線は、金融、物流、報道においてイギリス産業に自由かつ安い料金の利用を可能とした。
ロイターは、このイギリス通信網を利用して世界をつなぎ、1870年には、同じく世界規模の情報網を持つフランスのアヴァス、ドイツ(プロシア)のヴォルフと情報関連サービス市場におけるカルテルを結ぶ。これにより、世界地図の上でアメリカを除いた諸邦がまず三分割された。次に世界通信社連盟という御用組合を設立して、この組合に加入しなければニュースの配信をストップするとして圧力をかけている。これにより、欧州通信社の軍門に下った通信社はクライアントへニュースを配信する権利の一部を割譲させられ、国外へニュースを頒布する際には欧州通信社の商品として世界へ販売するとした契約を結ばされている。一種の代理店契約である。
情報を共有する相互主義の観点より見れば明らかに不平等であるが、当時の基幹網である海底電信ケーブルをイギリスが掌握していた事がこの支配を可能とした。海外のニュースはイギリスのフィルターを通してしか世界は入手できないという現象を生んだ当時、ロイターは世界を廻すとする言葉があった。さらに1872年より日本では国際通信分野(キャリア)においてもデンマーク法人の大北電信会社が国際公衆電信の事業者として日本の通信網を管理する立場にあり、この長く続く悪夢は戦後の郵政省さえ悩ませる事になる。
[編集] 経歴
- 1891年(明治24)11月13日:三重県朝明郡富田村(現・四日市市)に織物業を営む古野家の長男として生まれる。5歳で父を亡くすと一家は経済的に逼迫する。
- 1907年(明治40):上京。働きながら学費を稼ぎ、神田の英学校へ通う。
- 1909年(明治42):AP通信東京支局(支局長ジョン・ラッセル・ケネディ)の給仕。終生の友となる根岸寛一と出会う。
- 1911年(明治44):「AP」メルヴィル・E・ストーン(Melville E. Stone)の「国家代表通信社論」を聴く。
- 1912年(大正元):「AP」正社員(-1913年)。
- 1913年(大正2):早稲田大学専門部政治経済科を中退。東中野で養鶏所経営。
- 1914年(大正3):合資会社「国際通信社」(代表社員樺山愛輔)に入社。
- 1920年(大正9):「国際」北京支局に赴任(-1923年)。土肥原賢二、鈴木貞一、板垣征四郎と縁を深める。
- 1923年(大正12):外務省へ「通信自主権の確立」に関する論文を提出。「国際」の専務理事に岩永裕吉を推す。
- 1924年(大正14):「国際」ロンドン支局に赴任(-1926年)。
- 1926年(大正15):新聞組合「日本新聞聯合社」(専務理事岩永裕吉)に入社。東部管区支配人(-1931年)。
- 1929年(昭和4):「聯合」内信局長兼任(-1931年)。
- 1931年(昭和6):「聯合」総支配人(-1936年)。
- 1932年(昭和7):奉天に赴き関東軍首脳部に会う。
- 1933年(昭和8):米国大使館の「AP」支配人、「UP」社長の歓迎式典に出席。
- 1936年(昭和11):「昭和研究会」理事。財団法人「同盟通信社」(社長岩永裕吉)に入社。専務理事;-1939年)。
- 1938年(昭和13):近衛文麿の使者として爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に赴く。
- 1939年(昭和14):「同盟」社長(-1945年)。
- 1941年(昭和16):「日本新聞聯盟」理事。新聞統制の主導的立場に立ち、東條英機の文化統制の諮問に預かる。
- 1942年(昭和17):「日本新聞会」を創設。
- 1945年(昭和20):貴族院議員に勅撰される。「同盟」解散。A級戦犯容疑者として逮捕。巣鴨刑務所に収容される。
- 1946年(昭和21):不起訴。釈放される。公職追放の対象となる(-1951年)。京王多摩川駅近くに隠棲。
以降、一線を退くが通信界に隠然たる勢力を有する。公職としては日本新聞調査会会長、日比谷会館社長、東京タイムズ取締役、時事通信社取締役、共同通信社理事、国際電信電話株式会社の監査役、日本電信電話公社の経営委員会委員長が知られる。
- 1963年(昭和38):日本新聞文化賞を授与される。
- 1965年(昭和40):勲二等旭日重光章を授与される。
- 1966年(昭和41)4月24日:心筋梗塞にて死去。築地本願寺にて葬儀がとりおこなわれる。(葬儀委員長松本重治)
[編集] 人物
1909年にAP通信の給仕として通信社の世界に入るが、入社動機は「外人と働けば外国語が上達するだろう」というものであった。若き日の古野は特権階級が専横する日本に絶望し、米国への農民移民を希望していたが、彼を日本に引き止めたのは1911年に来日したメルヴィル・E・ストーンの「アジアをして白人の専横から解放できるのは日本人だけである」とするアジテーションに魂を揺さぶられた為とされる。
資本の論理以前に「国の為に尽くす公正な通信社」設立に己の人生の目標を見た古野は、階層社会では己1人で世間に認められない点を知り尽くしており、名門出身の岩永裕吉を担ぎ通信社の時代を作った。
満州国を専横した「二キ三スケ」(東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)と比べて、後藤隆之助、橋本清之助と並べ浪人タイプの「三ノスケ」と呼ぶ向きもある。「聯合」時代の社員は古野を「支配人」と呼ばずに古野さんと呼んでおり、後に至るまで人格的な器や未来を見通す目は伝説を生み尊敬の的となった。人間の心理を読み尽くし時期を待つ懐の深さを持つ古野は、無線電信という20世紀の科学発展の恩恵に浴している。
[編集] 満州事変と古野
1931年の満州事変が古野の転換点のひとつである事は間違いがない。当時、岩永と古野のコンビが率いた新聞聨合が奉天(現在の瀋陽)においていた支局のチーフは佐藤義雄という東北人であった。東亜同文書院の3期生でジャーナリストとして25年以上の経歴を持つ佐藤は「支那通」と呼ばれる要路の動向に詳しい人物であった。9月18日、20時30分。奉天駅前のカフェーで酒宴を催していた聨合局員たちは、突如、軍用列車が出動する駅構内の騒ぎに驚き取材を始めると10分前の20時20分に柳条湖近郊で南満州鉄道の線路が爆破された事を知る。
佐藤は現地の報道機関としての第一報を日本へ送ったが、東三省の中国軍の動静が穏やかだったことから「正体不明の匪賊」による来襲とした記事であった。軍の検閲により届かなかった事から関東軍の真意を悟った佐藤は手を引き、後任に佐々木健児が登場する。佐々木は関東軍とも知己が多く参謀の松井久太郎大佐より「国際世論に対しての日本の立場」を主張したいとする相談をうけるのが11月。あくまで両者とも事件の後始末でしか想定はしていなかったが古野は佐々木からの連絡を受けると翌12月19日に新聞聯合の岩永裕吉の名前で「満蒙通信社論」を文書で送る。
これが満州国通信社を作らせた「岩永論文」である。論文の骨子は乱立する報道機関を統制するために情報を一元管理する通信社を設立させ、この機関には、
という「満州の目と耳と口となる通信社」の設立を進言している。翌年、陸軍の鈴木貞一と外務省の白鳥敏夫の二大巨頭が手を組むことで「情報局」への道が進められ、非公式の連絡機関「情報委員会」では「国家代表通信社」に関する議題が取り上げられる。
[編集] 新聞統制と古野
新聞統制の主導的立場に立った点から敵視する者も多い。大手新聞の社史も様々な要因から明確には伝えていないが、「古野悪者説」がほぼ一般的ではある。但、統制以前に中小新聞社が合併していた事、「1県1新聞」が地方紙の運営安定化の基盤となった事、全国紙の地方進出を、一時ではあったが挫折させた点は公平に見る必要がある。
正力松太郎との反目の基本には、新聞社(資本)が宿命として抱える拡大の論理、市場の占有への抵抗の意思も見て取れる。電電公社の経営委員会での発言でもあるように「受益者負担」、働いた分だけは働いた者が得る、使った分だけは使った者が費用を負担するという指針が彼の行動には貫かれているが、この点はロジックというよりは情緒の面、土方や博徒の親分のそれに類似しているといえなくもない。
戦後も、佐藤栄作の説得により電電公社の経営トップにいた古野は運命のいたずらで、再び正力マイクロ波事件においてこの巨魁と向かい合い、日本の世論が正力に向かい風となったこともあり勝利を収める。最後まで対立したままだった両雄だが、古野没後に通夜に参列した戦前の新聞経営人はこの宿敵だけだったという。
[編集] その他
外務省では白鳥敏夫、陸軍の高官とも密接な関係を保つ。後に電通三代目社長となる上田碩三は終生のライバルと目された。1939年の岩永没後に同盟2代目社長として活躍。一方で検閲指導の下、虚偽の日本軍戦果のニュースを流す。占領地域の宣撫工作においては同盟情報網を駆使して協力しておりこれは批判の的となっている。日比谷公園での散策を好み、度々、時間が空くと市政会館(後の日比谷会館)の同盟本社を抜け出していたという。
少年時代に社会の底辺で辛酸を舐めたため、同盟育成会を電通の光永星郎社長らの協力で設立している。最新鋭の通信機器利用こそが通信社の命運を握るという信念があり、同盟では写真電送機(現在のファクシミリの原型)を開発。後にこの開発セクションは松下電器の通信機器部門に合流する。
敗戦後は巣鴨プリズンに送られたが無罪となる。同盟を解散させていた事や検閲下での被害者を主張した事が理由とされる。隠棲中は畑仕事を楽しんでいたが、1948年には競輪学校の用地買収の折衝の仲介をしている。これ以降もマスコミや政界から袋叩きにあったこの時代の競輪界に淡々と(『競輪50年史』)協力する。
この日本屈指の策士と面会する機会を得た若き日の中曽根康弘は、「村夫子のような人物」と意外に地味な印象にがっかりしている。国家通信主権時代の代表的人物と、電電公社民営化をすすめて市場中心のキャリア概念を日本で作った首相は、一瞬だけすれ違ったという事になる。
長く病んでいたが己を含めて通信社の時代を作った人間や団体の歴史を綴った大著「通信社史」を出版。前書では戦前同様に資本の論理を押し通そうとする大新聞の姿に警鐘を鳴らしている。
通信社史刊行会の資料となった報告書や手紙の書類の研究が進めば、新たな「古野像」が見つかるかも知れない。
[編集] 参考図書
- 『通信社史』(1958年:通信社史刊行会)
- 『古野伊之助』(1970年:古野伊之助伝記編集委員会)
- 中公新書『ニュース・エージェンシー―同盟通信社の興亡』里見 脩【著】中央公論新社 (2000-10-25出版)ISBN 4121015576